暑い日差しはまだ残るものの、時折店内に流れ込んでくる涼しい風に、確かな季節の移り変わりを感じる夏の終わりかけ。
午前中の『ひだまり庵』には、いつも通りの穏やかで心地のいい時間が流れていた。
カウンターの奥でグラスを丁寧に拭いていたるいは、ピカピカ磨き上げられた窓ガラスを眺めながら、ふふっと楽しそうに笑い声を漏らした。ガラス越しに見える人間の里の景色は、昨日までとは見違えるほど澄んで見えている。
「律さん、昨日の霊夢さんと魔理沙さん、本当に凄かったですね。汗だくになって床を磨いてくれて……」
その言葉に、厨房で珈琲豆の準備をしていた律が手元を止め、苦笑いを浮かべながらカウンター越しに応じる。
「はは、まさかここまでやってくれると思ってなかったよ」
昨日のことである。魔理沙の分の会計まで見栄を張って払おうとした博麗神社の巫女は、結局お代が足りず、二人揃ってお代の代わりに店内の大掃除を全力で手伝う羽目になったのだ。
最後の方は二人とも生まれたての小鹿のように手足をプルプルと震わせていたが、その泥臭い頑張りのおかげで、今のひだまり庵は床も窓も新築のように輝いている。
「あはは! でも、そのおかげでお店がピカピカになって気持ちいいです。あ、そういえば律さん、夏の終わりかけの新作パスタって、もう考えてるんですか?」
るいがエプロンの裾を軽く揺らしながら、興味津々といった様子でカウンター越しに身を乗り出した。
料理人としての腕の見せ所を問われた律は、少し楽しそうに顎に手を当てて微笑む。
「そうだね、まだお昼は暑い日もあるから、大葉とささみの和風パスタなんてどうかなって考えてるよ」
「わぁ、美味しそう! 大葉の爽やかな香りが、この季節にぴったりですね!」
るいが目を輝かせ、二人の間で新しい料理のイメージが膨らんだ、まさにその時。
からん、ころん、と、ひだまり庵の引き戸がいつもより軽やかな音を立てて開け放たれた。店内に流れ込んできたのは、山の豊かな土と、どこか甘い実りの匂い。
「ごめんくださいなー! あら? あなたが噂の『外の世界』のるいちゃん?」
元気いっぱいの声とともに、大きなカゴを抱えた見慣れない二人の少女――いや、この里の周辺の山を司る神様たちが姿を現した。
不意に名前を呼ばれ、驚きで小さく肩を跳ね上げたるいだったが、持ち前の丁寧さですぐに姿勢を正す。
「はい、水瀬るいです。あの、どちら様ですか……?」
初めて出会う神様の放つ不思議なオーラに、るいは少し戸惑いながらも、小首を傾げて尋ねた。すると、手前にいた少し大人びた雰囲気の少女が、困ったように眉を下げて一歩前に出る。
「いきなりごめんなさいね。私は秋静葉で、こっちが妹の穣子。私たちは秋を司る神様なの、一応ね」
「か、神様……!?(やっぱり幻想郷ってすごいところだな……)」
心の中でそっと呟き、改めて幻想郷の常識外れな日常に目を丸くするるい。しかし、妹の穣子はそんなるいの緊張など気にする様子もなく、グイグイと距離を詰めてカウンターを覗き込んできた。
「神様だからってそんなに緊張しなくていいわよ! それよりるいちゃん、外の世界から来たなら聞きたいんだけど、外の世界って私の季節の味覚、どんな風に食べてるの!?」
「えっ、ええと……」
穣子の溢れんばかりのお芋やカボチャへの熱意に圧倒されつつも、るいは外の世界の懐かしい光景を思い浮かべながら、一生懸命に言葉を紡いだ。
「カボチャスープとか……あとはサツマイモのタルトとか、女の子たちに凄く人気なんですよ!」
「カボチャスープにタルト!? なにそれ、外の世界の人ってば、めちゃくちゃ秋の味覚をリスペクトしてるじゃない! 気が合いそうだわ!」
穣子は両手を叩いて大喜びし、るいとの「美味しいもの談義」にすっかり夢中になっている。
そんな初対面の二人の微笑ましいやり取りを、律は厨房の奥から温かい目で見守るのだった。
「外の世界のスープも気になるけど、まずは俺の新作パスタを食べてみてよ」
るいと穣子の外の世界のスイーツ談義が一段落したところで、律が厨房から楽しそうに声をかけた。その手には、すでに下ごしらえを終えた瑞々しい大葉と、丁寧に筋を取ったささみが用意されている。
「あ、はい! 穣子さん、静葉さん、律さんの作るパスタ、本当に絶品なんですよ。席に座って楽しみに待っててくださいね!」
るいが我がことのように胸を張り、カウンターの椅子を引いて秋姉妹を案内する。
「ふふん、そこまでハードルを上げるなら、秋の神様として厳しく味見させてもらうわよ!」
「穣子、そう言いながらもうお腹が鳴ってるじゃない……。律さん、お手数をおかけしますね」
静葉が妹の食い意地に呆れつつも、すまないそうに律に微笑んだ。
厨房に入った律は、さっそく手際よく動き始める。
沸騰した鍋に塩を振り、細めのパスタを滑り込ませる。同時に、大葉をまな板の上で細かく刻んでいく。トントントントン、と小気味よい音が店内に響くたびに、大葉のツンとした爽やかで清涼感のある香りが、夏の終わりかけの店内に優しく広がっていった。
茹で上がったささみを絶妙な火加減でほぐし、特製の和風出汁と合わせる。麺が茹で上がる直前、フライパンで出汁とささみを軽く温め、そこに茹でたてのパスタを一気に投入した。
仕上げに刻んだ大葉をたっぷりと天盛りにし、ほんの少しの胡麻を散らす。
「はい、お待たせ。夏の終わりかけにぴったりの新作『大葉とささみの和風パスタ』だよ。熱いうちにどうぞ」
湯気とともに、出汁の優しい香りと大葉の鮮烈な香りが、カウンターを包み込んだ。
「わあ……! 大葉の爽やかな香りが、湯気と一緒にふわっと広がって……、これは食べる前から合格点ね!」
「美味しそう……! それじゃあ、皆さんでいただきまーす!」
るいの音頭で、一同がフォークを動かしてパスタを口へと運んだ。
「……美味しい。ささみがすごく柔らかくて、出汁の効いた優しい和風の味が、少し涼しくなってきたこの季節にじんわり染みるわね」
「本当ね! 大葉がさっぱりしていて、昼間の暑さなんて一気に吹き飛んじゃうわ! 律、やっぱりあなたの腕は本物ね!」
「うん、大葉のアクセントが最高です! 律さん、これならお店の夏の終わりの限定メニューとして大人気になりますよ!」
三人が口々に絶賛し、美味しそうに頬張る姿を見て、律は「よかった」とホッとしたように笑みを浮かべた。少し涼しくなってきたこの時期だからこそ、出汁の温かさと大葉のさっぱり感が胃袋に心地よく収まっていく。
ひだまり庵がそんな温かい幸福感に包まれていた、まさにその時だった。
からん、ころんと、昨日新しく付け替えたばかりのお洒落なドアベルが、悲鳴を上げるような勢いで激しく鳴り響いた。引き戸を勢いよく開け放ち、肩を上下に揺らして立っていたのは、見覚えのある博麗神社の巫女だった。
「……ちょっと律! 昨日あんなに必死に掃除を頑張ったんだから、その美味しそうなの、私にもタダで一口頂戴!!」
「わわっ、霊夢さん!? 昨日あんなに『全身バキバキの筋肉痛よ……』って泣きながら帰ったのに……!」
るいが驚いてグラスを持つ手を止める。昨日の雑巾がけで疲れ果て、今日は神社で丸くなっているはずの霊夢が、なぜか息を切らしてそこに立っていた。
「こんな美味しそうな大葉と出汁の匂いを里まで漂わされて、大人しく神社で寝てられるわけないでしょ……! 這いつくばってでも来るわよ……。あ、魔理沙の分もテイクアウトで頂戴ね……うう、やっぱり腕が痛い……」
両腕をプルプルと震わせ、筋肉痛に耐えながらも、食い意地だけで山を降りてきた霊夢の姿に、律は思わず吹き出してしまった。
「あはは、這いつくばって山を降りてきたんだ。しょうがないなぁ、霊夢の分もすぐ作るから、そこに座って待っててよ」
「もう、霊夢さんったら現金なんだから! でも、昨日お店をピカピカにしてくれたお礼です。ゆっくりしていってくださいね」
るいが苦笑しながら、霊夢の前にお冷のグラスを置いた。
ピカピカに掃除されたひだまり庵には、爽やかな大葉の香りと、いつもの賑やかな笑い声が、夏の終わりの風に乗ってどこまでも響き渡るのだった。
第12話をお読みいただき、ありがとうございました!
次回の第13話もどうぞお楽しみに!