しとしとと、静かな雨が人間の里を濡らしていた。
昨日の博麗神社での大騒ぎが嘘のように、『ひだまり庵』の店内には落ち着いた時間が流れている。
カウンター席では、約束通り一番乗りでやってきたアリスが、小さなフォークを持った上海人形を隣に座らせ、上品に珈琲を口に運んでいた。
「本当に不思議な味ね。魔理沙が目の色を変えて通いつめるのも、少しだけ分かったわ」
「はは、アリスにそう言ってもらえると自信になるよ」
律がふっと笑みをこぼした、その時だった。ガラガラ……と、いつもの小鈴たちの元気な足音とは違う、酷く怯えたような、弱々しい音を立てて店の引き戸が開いた。
冷たい雨の空気と共に滑り込んできたのは、一人の少女だった。
「ひ、ひぃっ……! ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」衣
服は泥と草木でボロボロに汚れ、その身体は恐怖でガタガタと震えている。彼女の胸元には、ここ幻想郷では見かけることのない、液晶の割れた「スマートフォン」がぎゅっと握りしめられていた。外の世界から迷い込んできた人間だ。
アリスがハッとして立ち上がる。
「あなた、まさか……魔法の森の近くで私が助けた……」
「ここはどこなんですか……! 携帯も繋がらないし、変な化け物が襲ってくるし……私、死んじゃうんですか……っ」
少女はカウンターに縋り付き、涙をボロボロと流した。恐怖のあまり、自分の名前を名乗るのすら精一杯のようだ。
「わたし……水瀬 るい(みなせ るい)って言います……。お願いです、助けてください……!」
極限状態のるいの姿を見て、律はすぐに状況を察した。かけるべき言葉よりも先に、料理人として今、彼女に最も必要なものを理解する。律はすぐにるいをストーブの近くの席へ誘導し、温かいおしぼりを手渡した。
「水瀬るいさん、大丈夫だ。ここは人間の里だから、もう妖怪は襲ってこない。まずは、これを飲みな」
律が差し出したのは、じっくり煮込んでおいた温かいコンソメスープだった。湯気と共に広がる、外の世界のスープバーで嗅いだような「知っている匂い」に、るいの呼吸がわずかに落ち着く。
さらに律は、間髪入れずにフライパンを握った。
今、彼女の凍りついた心を溶かせるのは、里の素朴な出汁の味じゃない。彼女が育ってきた、外の世界のあの味だ。
シュバァァァ!と強火でベーコンの弾ける小気味良い音が店内に響く。濃厚な完熟トマトソースの酸味、たっぷりのチーズ、保存の利く大蒜の香ばしい匂いが一気に立ち上った。
「はい、お待ち遠様。うちの看板メニュー、『完熟トマトと厚切りベーコンのパスタ』だ。ゆっくり食べてくれ」
目の前に置かれた、湯気を立てる鮮やかな赤色の皿。
るいは、まさかこんな異世界のような場所で、自分がよく知る、そして今一番食べたかった「本格的なトマトパスタ」が出てくるとは思わず、大きく目を見開いた。
「これ……パスタ……? なんで……」
震える手でフォークを持ち、艶やかな麺をくるくると巻き付けて口に運ぶ。
次の瞬間、るいの身体がビクッと跳ねた。
「――っ! 美味しい……美味しいよぉ……!」
口いっぱいに広がる、旨味が凝縮されたトマトと肉のジューシーな味わい。それは、まぎれもなく外の世界で食べていた、あたたかくて大好きな故郷の味だった。張り詰めていた心の糸が完全に切れ、るいは声を上げて泣きながら、猛スピードでパスタを口に運び始めた。それは、絶望の淵で出会った、確かな「生」の味だった。
「……ぷはぁ、ごちそうさまでした……っ」
るいの前の皿は、トマトソースの一滴すら残らないほど綺麗に空になっていた。お腹が満たされたことで、彼女の青白かった頬には、ようやく健康的な赤みが戻っている。
律はタイミングを見計らい、保温バッグから丁寧に取り出した、ひだまり庵の本命――淹れたての熱い珈琲をるいの前にそっと置いた。
「騒ぎ疲れて、お腹もびっくりしてるだろ。食後の珈琲だ。ブラックが苦手なら、このミルクと砂糖を好きなだけ使ってくれ」
ふわりと店内に広がる深く芳醇な珈琲の香りが、るいの強張っていた肩の力を完全に抜いていく。るいはマグカップを両手で包み込み、そっと一口、温かい液体を喉に滑らせた。
「……あ。苦いのに、なんだかすごく、落ち着きます……。私、外の世界ではいつもコンビニの甘いカフェラテばかり飲んでて。本格的な珈琲なんて、初めてかも……」
るいはふっと、どこか遠くを見るような目で、少しだけはにかんだ。
「わたし、普通の大学生なんです。今日もいつも通り大学の講義が終わって、友達と駅前で別れて、いつもの道を歩いて帰ってたはずなのに……気づいたら、霧の深いおかしな森にいて。スマホを見たら電波が一本も立ってなくて、おまけに画面まで割れちゃって。……本当に、もうお家に帰れないんじゃないかって、生きた心地がしなくて」
ぽつりぽつりと、自分のいた世界のこと、そして迷い込んだ時の恐怖を語るるい。その小さな肩がまた少し震えそうになったのを、隣にいたアリスがそっと、優しい手つきで包み込んだ。
「大丈夫よ。あなたを見つけたのは魔法の森の入り口だったけれど、私がここに連れてきて正解だったわ。この店主の料理、ただ美味しいだけじゃなくて、なんだか少し、不器用な優しさが詰まっているでしょう?」
「ちょっと、アリス。不器用は余計だろ」
律が苦笑しながらエプロンで手を拭うと、アリスはクスクスと上品に笑った。その様子を見ていたるいも、つられたように「ふふっ」と小さく声を立てて笑う。
「……ありがとうございます、アリスさん、律さん。このお店の名前、『ひだまり庵』って言うんですね。本当に、お日様の下にいるみたいに温かい場所です」
るいがマグカップを置き、心からの穏やかな笑顔を見せた。
絶望の淵にいた少女に、いつもの、当たり前の「日常」が戻ってきた瞬間だった。
律は、自分のパスタと珈琲が、誰かの心を救う「灯台」になれたことに、胸の奥が熱くなるのを隠せなかった。よし、落ち着いたら、彼女を外の世界に帰す方法を持つ博麗神社の霊夢のところへ案内してやろう、そう心に決めた。
――しかし。
ひだまり庵に訪れたその温かく静かな時間は、あまりにも唐突に、暴力的な風によって破られることになる。
ガラガラッ!!と、激しく突風が吹き込むように、店の引き戸が勢いよく開け放たれた。
「――おやおや?」
冷たい雨の滴を弾きながら、カメラを小脇に抱え、不敵な笑みを浮かべて暖簾をくぐったのは、鴉天狗の新聞記者。
この平和な空間に、最悪のタイミングで『風の新聞屋』が突撃してきたのだった。
第4話をお読みいただきありがとうございました!
迷い人の水瀬るいをパスタで救い、店名『ひだまり庵』の通り温かい時間が流れたのも束の間……ラストでまさかの天狗・射命丸文が突撃!?
次回の第5話、特ダネを狙う文に律が料理人のプライドを懸けて挑みます。どうぞお楽しみに!