メジロマックイーンの華麗なる現実ライフ。甘味を添えて。 作:灯火011
茜色に染まる空が、府中の街に長い影を落としていた。
「ふぅ……っ、ふぅ……っ」
等間隔に刻まれるリズミカルな足音と、自身の規則正しい吐息だけが耳に届く。
メジロマックイーンは今日も夕方の自主練に励んでいた。トレセン学園の広大な敷地を抜け出し、府中の街並みを軽く流すのは、彼女にとって心地よいリフレッシュの時間でもある。
(今日の脚の仕上がりも、悪くありませんわね)
秋の気配を含んだ涼やかな風が、彼女の芦毛の髪と艶やかなしっぽを撫でていく。すれ違う人々は、ウマ娘が走る姿などこの街では見慣れたものだからか、温かい視線を送るか、あるいは日常の風景の一部として通り過ぎていく。それがマックイーンにとっては心地よかった。
その時だった。
『――マックイーン』
ふいに、自身の名を呼ぶ声がした。
立ち止まり、ウマ耳をピンと立てて振り返る。しかし、夕暮れの歩道には帰路を急ぐ人々の姿があるだけで、彼女の知る顔――例えば専属トレーナーや、いつもちょっかいをかけてくる破天荒な友人、それに、親しいルームメイトの姿――、はどこにもなかった。
「……気のせいですわね。少し、集中が途切れていたようですわ」
小さくかぶりを振り、再び走り出そうとしたマックイーンの視界の端に、細い路地裏が映った。普段なら絶対に気にも留めないような、ビルとビルの間にぽっかりと空いた薄暗い隙間。
しかしなぜか、その路地が無性に気になった。
まるで、先ほどの声がそこから自分を呼んでいるような、不思議な引力がある。
「……少しだけ、ショートカットしてみましょうか」
好奇心に背中を押されるように、彼女はその薄暗い路地裏へと足を踏み入れた。
■
数分ほど歩いただろうか。路地はやけに長く、ひんやりとした空気が肌を撫でる。
やがて、前方に夕日が差し込む出口が見え、マックイーンは軽い足取りでそこを抜けた。
「――あら?」
路地を抜けた瞬間、マックイーンの優れた嗅覚が微かな違和感を捉えた。
排気ガスの匂いが、少し強い。それに、どこか街の空気が……無機質というか、「ウマ娘」たちが発する活気ある熱量のようなものが、すっぽりと抜け落ちているような気がした。
だが、目の前に広がる景色を見て、彼女は小さく安堵の息を吐く。
そこには、見慣れた「東京レース場」の巨大なスタンドが夕日に照らされてそびえ立っていたからだ。
「まあ。あのような細い路地が、ここに出る近道になっていたのですね。新たな発見ですわ」
上品に微笑みながら、マックイーンは帰路につくことにした。
見慣れた府中の街並み。しかし、歩を進めるごとに、先ほど感じた違和感が足元からじわじわと這い上がってくるのを感じていた。
看板のデザインが違う。
すれ違う人々の服装が、どこか少しだけ違う気がする。
何より――すれ違う人々の視線が、異常なのだ。
普段であれば、
「あ、ウマ娘だ」
「頑張ってね」
といった、親愛や応援のこもった視線が向けられるはず。しかし今、彼女に向けられているのは、もっと直接的で、好奇心に満ちた、まるで『珍しい見世物』を見るような目だった。
(……なんでしょうか、この視線は。わたくし、何かおかしな格好でもしていますかしら?)
ジャージに乱れはないか、無意識のうちに胸元のファスナーに触れて確認する。当然、身だしなみに抜かりはない。髪留めを触ってみる。問題ない、メジロ家の令嬢として、常に完璧を保っている。
嫌な予感を振り払うように足早に歩を進め、やがてトレセン学園の敷地が見えてくるはずの交差点を曲がった。
その時だった。
「…………え?」
マックイーンの足が、ピタリと止まった。大きく見開かれたアメジスト色の瞳が、目の前の光景を信じられないといったように揺れ動く。
―――無い。
あるはずのものが、何一つ無い。
そびえ立つはずの、トレセン学園の威風堂々たる正門。
その奥に広がるはずの、広大なターフやトラック。
そして、自分が帰るべき、美しい装飾が施された学生寮。
それらが存在するはずの広大な土地には、見知らぬ巨大なショッピングモールや、無機質な高層マンションが立ち並んでいた。
「な……なんですか、これは……?」
呆然と立ち尽くすマックイーン。ここは府中のはずだ。レース場はあった。道順も間違えていない。狐につままれたような感覚に陥り、彼女の耳が不安げにペタリと伏せられた。
その時、背後から声が聞こえた。
「えっ、ヤバくない? めっちゃクオリティ高っ」
「ホントだ! ウマ娘のコスプレじゃん。マックイーンだよね?」
振り返ると、スマートフォンを手にした女子高生や、仕事帰りらしき若いサラリーマンたちが、興味津々な顔で彼女を取り囲み始めていた。
(こすぷれ……? なんですの、それは)
マックイーンは困惑した。彼らの言っている意味が全く理解できない。しかし、メジロ家の令嬢として、公衆の面前で取り乱すわけにはいかない。
彼女は一つ咳払いをして姿勢を正し、最も優雅な笑みを浮かべて目の前の若者たちに尋ねた。
「あの……大変失礼ですが。トレセン学園は、どちらの方向にあるのでしょうか? 少し道に迷ってしまいまして」
その言葉を発した瞬間、周囲の空気が爆発した。
「うおおおっ!? スンゲェ!!」
「ヤバいヤバい、声までそっくりじゃん!! 神コスプレイヤーかよ!」
「動画撮っていいですか!? ねぇ、もう一回台詞言ってほしいんだけど!!」
「え……? あ、あの……っ?」
パシャパシャと、無遠慮に向けられるスマートフォンのカメラ。
「声がそっくり」
「ガチ勢だ」
という、的を射ない称賛の言葉。彼らの瞳にあるのはウマ娘への敬意ではなく、架空のキャラクターを現実に見たような、無責任な熱狂だった。
(……おかしい。何かが、決定的に狂っていますわ)
背筋をぞくりと這い上がる、ひどく嫌な予感。
本能が警鐘を鳴らしていた。ここは、自分の知る「府中の街」ではない。何か取り返しのつかない事態に巻き込まれている。
「も、申し訳ありません、急ぎますので……っ!」
半ば逃げるように、彼女は人だかりをすり抜けた。ウマ娘の脚力なら、一瞬で彼らを置き去りにできる。路地裏に駆け込み、人気の無いブロック塀の影に身を潜めたマックイーンは、震える手でポケットから「ウマホ」を取り出した。
(トレーナーさんに……せめて、ゴールドシップさんにでも連絡を……っ!)
すがるような思いで、画面をタップする。しかし、煌々と光る液晶画面の左上には、絶望的な文字が表示されていた。
『 圏外 』
「…………嘘、でしょう……?」
どれだけ画面をタップしても、再起動しても、その無慈悲な二文字が変わることはなかった。静まり返った路地裏。遠くから聞こえる、車のクラクションと人々の喧騒。それらがひどく遠い世界のものに感じられた。
ツーーッと……。
マックイーンの白い頬を、冷たい汗が一滴、ゆっくりと伝い落ちていった。