メジロマックイーンの華麗なる現実ライフ。甘味を添えて。 作:灯火011
翌朝。
スイートルームの厚い遮光カーテンが開けられ、眩しい朝日がリビングに差し込んでも、マックイーンの顔色はひどく青ざめたままだった。
テーブルの上には、ホテル特製の豪奢な朝食セット――ふっくらと焼き上がったパンケーキや、色鮮やかなフルーツの盛り合わせ――、が並べられていたが、彼女はそれに一切手をつけようとしなかった。
「……申し訳ありません、佐藤様。温かい紅茶はいただけるのですが……どうしても、喉を通らなくて」
「ううん、気にしないで。いきなりあんなこと知っちゃったら、無理もないよ」
マックイーンは細く震える両手でティーカップを包み込み、少しだけ口をつける。アールグレイの芳醇な香りと温かさだけが、辛うじて今の彼女と現実を繋ぎ止めていた。
■
ソファーの向かい側に座った佐藤は、心配そうにマックイーンを見つめていた。
昨夜、スマホの検索結果を見て卒倒してしまった彼女をベッドに運び込んだ後、佐藤は交代の時間を過ぎても帰らず、自分のスマホで『ウマ娘』について徹夜で調べ上げていたのだ。
「……わたくしは」
ティーカップを見つめたまま、マックイーンがぽつりとこぼす。
「わたくしの誇りも、記憶も……すべては、この世界の人間が作り上げた『架空の存在』だったのですね。この耳も、しっぽも……ただのデザインでしかなかったなんて」
「…………」
「こんなことなら、いっそ目が覚めなければよかったですわ。わたくしにはもう、メジロを名乗る資格すら……」
今にも消え入ってしまいそうな、痛切な自嘲。しかし、それを聞いた佐藤は、静かに、しかしはっきりとした口調で首を横に振った。
「……それは、ちょっと違うかな」
「え……?」
顔を上げたマックイーンに、佐藤は優しく微笑みかけた。
「昨日、あなたが倒れた後、私なりに『ウマ娘』のこと、いっぱい調べてみたんだ。公式サイトも読んだし、アニメの設定資料みたいなのもネットで漁ってみた」
「……佐藤、様……?」
「そこでね、一番最初に書いてあった言葉があるの。マックイーンちゃんたちの世界では、ウマ娘は『別世界の名馬の名前と魂を受け継いで走る』っていう設定……というか、言い伝えがあるんでしょ?」
マックイーンの耳が、ピクリと動いた。
「……はい。我々ウマ娘は皆、はるか昔からそういう存在であった、教えられてきましたわ。異世界にある『輝かしい名前』と『魂』を背負って生まれてくるのだと」
「そう。メジロマックイーンは、メジロマックイーンという名馬の、異世界の魂を背負っている」
「……やはり、それじゃあ、わたくしはただの写し身で……」
「違う違う。よく聞いて、マックイーンちゃん」
佐藤は身を乗り出し、マックイーンの震える両手を、ティーカップごとそっと包み込んだ。その手は小さいながらも、警察官としての力強く、温かい手だった。
「その『異世界』って……どこの世界から見て、異世界のことを言ってるのかな?」
「……え?」
「ほら。考えてもみなよ。私たちがいるこの世界から見れば、あなたのいた世界が『異世界』だよね。でも、あなたの世界から見れば、この世界が『異世界』になるじゃない」
「それは……確かに、そうですが」
佐藤は真っ直ぐに、マックイーンのアメジスト色の瞳を見つめ込んだ。
「あなたが、この世界の『メジロマックイーン』っていう馬の魂を受け継いで生まれてきたのは事実かもしれない。でもさ、もしかしたら……この世界の馬も、異世界にいる『あなた』の魂を受け継いで走っていたんじゃないかな」
「わたくしの……魂を?」
「そうだよ。どっちが先で、どっちがオリジナルかなんて、誰にも分からない。ただ一つ言えるのは、この世界のメジロマックイーンっていうお馬さんは、ものすごく強くて、気高くて、たくさんの人に愛された名馬だったってこと」
佐藤の言葉が、冷え切っていたマックイーンの胸の奥に、少しずつ温かい火を灯していく。
「あなたの魂を背負って走っていたものが、私たちの世界の『馬』であって……馬の魂を背負って走っているのが、マックイーンちゃん。時空を超えて、世界を超えてさ。二つの世界で一つの魂を分け合ってる。……そうは言えないかな?」
「二つの世界で……一つの、魂……」
マックイーンの脳裏に、昨夜スマホの画面で見たあの『芦毛の馬』の姿がフラッシュバックした。
力強くターフを蹴り上げる逞しい脚。
どこまでも前を見据える、気高く澄んだ瞳。
たしかに、冷静に考えてみれば、決してただの「動物」などではないのかもしれない。どちらかと言うとあれは、アスリートとしての確かな闘志に近い。
あれが、自分。
自分が、あれ。
(……わたくしは、架空の作り物なのではない。あの方が、わたくしなのだとしたら……)
「それにね」
佐藤が、少しだけイタズラっぽく笑った。
「架空の存在なんて、悲しいこと言わないでよ。だって今、私の目の前で、私の淹れた紅茶をおいしそうに飲んでくれてるのは、正真正銘、生きてるマックイーンちゃんじゃない」
その言葉に、マックイーンの瞳から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……っ、佐藤様……っ」
「よしよし。いっぱい泣いて、お茶飲んで。落ち着いたら、少しでもいいからご飯食べよ? 腹が減っては戦はできないって言うしね」
「……はいっ、はい……っ!」
マックイーンは佐藤の手を握り返し、子供のように声を上げて泣いた。それは、すべてを失った絶望の涙ではなく、自分を取り戻した安堵の涙だった。
――設定でも、架空でもない。自分は今、ここに存在し、血の通った温かい心で悲しみ、そして喜んでいる。メジロの名に懸けて走り抜いてきた日々の熱も、汗も、決して作り物なんかじゃない。
冷めかけていたアールグレイの香りが、少しだけ甘く、優しく感じられた。
窓の外に広がる府中の街の景色が、昨日までの「無機質な異世界」から、少しだけ違ったものに見え始めていた。