メジロマックイーンの華麗なる現実ライフ。甘味を添えて。 作:灯火011
『圏外』という冷酷な文字を見つめたまま、マックイーンはどれくらいそうしていただろうか。
遠くで鳴るパトカーのサイレンが、彼女の意識を強引に現実へと引き戻した。
「……落ち着きなさい、わたくし。メジロの者は、いかなる時も冷静でなくては」
小さく震える手を握り込み、ふう、と長く細い息を吐き出す。
焦っても事態は好転しない。まずは先ほどの路地裏へ戻り、元来た道を辿るのが先決だ。マックイーンは身を翻し、再び大通りへと足を踏み出した。
歩き出してすぐ、彼女は足元にある「決定的な違和感」に気がついた。
(……ウマ娘用のレーンが、ありませんわ)
先ほどは無意識に人間と同じようなジョギングペースで歩道を走っていたため、全く気がつかなかった。
本来、ウマ娘が暮らす世界の主要な道路には、歩行者用とは別に、ウマ娘が安全に走行するための特殊舗装された専用レーンが設けられている。しかし、今彼女が歩いている府中の歩道は狭く、アスファルトは硬く、ただ「人間」が歩くためだけの無機質な道が続いているだけだった。
(どういうことですの……? 工事中? いいえ、そもそもレーンがあった痕跡すら……)
ぞわり、と背筋を冷たいものが駆け上がる。
ウマ娘用レーンが存在しない街など、この日本にはあり得ない。それは呼吸をするのと同じくらい、彼女の常識だった。
■
胸の奥で警鐘が鳴り響くのを抑え込みながら、マックイーンは小走りで道を戻った。
やがて、先ほど通り抜けたはずのビルとビルの間の細い隙間――、薄暗い路地裏を見つけ出す。
「……ありましたわ!」
パァッと表情を輝かせ、マックイーンは躊躇なくその暗がりへと飛び込んだ。
ここを抜ければ。あの見慣れた夕暮れの府中へと、愛しい学園へと戻れるはず。
タッタッタッ、と軽い足音が壁に反響する。
しかし――。
「え……?」
わずか十秒足らず。彼女はあっけなく路地の反対側へと突き抜けてしまった。目の前に広がっていたのは、見慣れたトレセン学園へと続く道ではなく、やはり見知らぬマンションやコンビニが立ち並ぶ、見知らぬ「こちら側」の街並みだった。
「嘘……」
慌てて踵を返し、再び路地へと駆け込む。
十秒後、また元の場所に戻る。
もう一度。
さらに、もう一度。
何度往復しても、薄暗い路地はただの「近道」としての機能しか果たさなかった。あの奇妙な空気の断層のようなものは、跡形もなく消え去っていた。
「どうして……っ、どうして戻れませんの!?」
完全に退路を断たれた。その事実が重くのしかかり、ついにマックイーンの冷静さにヒビが入る。
「トレーナーさん……っ!」
震える指でウマホを取り出し、履歴から専属トレーナーの番号をタップする。発信音すら鳴らない。無情にも通話終了の画面が虚しく表示されるだけだ。
「誰か……お祖母様! ライアン! テイオー! サトノダイヤモンドさん……っ!」
画面をスクロールし、手当たり次第に発信するが、結果は同じだった。孤独と恐怖が、夕闇と共に彼女を包み込んでいく。
「――ゴールドシップさん!!」
すがるような思いで、いつもなら絶対に呼ばないような大声で、破天荒なルームメイトの名を叫んだ。
―――どこからともなくドロップキックと共に現れて、
「何ウジウジしてんだよマックイーン!」
と笑い飛ばしてくれるのではないか。そんな淡い期待を込めて。
しかし、叫び声は無情にも薄暗い路地にこだまし、やがて虚しく溶けて消えた。
返ってきたのは、大通りを行き交う車の排気音だけだった。
「……っ」
ギュッと唇を噛み締め、マックイーンは壁に手をついて俯いた。目尻に滲みそうになる涙を、誇り高きメジロの意地で必死に堪える。
「……これは、どういうことなのでしょうか。夢……にしては、あまりにも匂いも、風の冷たさもリアルすぎますわ」
深呼吸を繰り返し、少しずつ心拍数を落ち着かせていく。
パニックに陥っても道は開けない。まずは現状の把握だ。彼女は身につけているウェストポーチを探り、ひとまずの持ち物を路地裏のブロック塀の上に並べてみた。
・電波の繋がらないウマホ。
・メジロ家の紋章があしらわれた、学生寮のルームキー。
・生徒手帳と、最低限の身分証。
・財布、中には数万円の現金と、ブラックのクレジットカード。
「……不幸中の幸いと言うべきでしょうか。最低限の資金はありますわね。ただ、この現金とカードが『この世界』で使えるかどうかは分かりませんが……」
クレジットカードの券面を指で撫でながら、マックイーンは思考を巡らせる。ウマホの電波がない以上、自力で情報を集めるしかない。
「ひとまずは……現状をもう一度、自分の目で確かめませんと」
大きく、深く息を吸い込む。
ひんやりとした空気が肺を満たし、少しだけ頭がクリアになった。ポーチに荷物をしまい、マックイーンは再び大通りへと出た。そして、重い足取りで「トレセン学園があるはずの場所」へと向かう。
■
数分後。
交差点の角に立ち、彼女は目の前の光景を改めて見上げた。
「……やはり、ありませんわね」
そこにあるのは、煌々と明かりを灯す巨大なショッピングモール。
正門も、ターフも、寮もない。
自分が生きてきた世界が、根こそぎ奪い取られてしまったような喪失感がマックイーンを襲う。
(わたくしは、本当に一人ぼっちになってしまったの……?)
ぐらり、と。
視界が歪み、足元の地面が泥沼のように頼りなく感じられた。強烈な不安と孤独が巨大な波となって、マックイーンを飲み込もうとする。膝の力が抜けそうになった、その時だった。
交差点の向こう側。
視界の端に、赤いランプと、白地に黒で書かれた見慣れた二文字が飛び込んできた。
「……あ。そうですわ、交番……!」
沈みかけていた心に、一筋の光が差し込む。
迷子になったのなら、道に迷ったのなら、警察に聞くのが最も理にかなっている。いくら街の様子が違おうと、あそこに行けば何かわかるかもしれない。
マックイーンは両手で自身の両頬を「パンッ!」と軽く叩き、気合を入れ直した。
「メジロの名に恥じぬよう、堂々と振る舞うのです。……ええ、ただ道を尋ねるだけですわ」
姿勢を正し、ウマ耳をピンと立てて。
マックイーンはかすかな希望を胸に、赤いランプが回る交番へと真っ直ぐに歩き出した。
……その先で、彼女の「お嬢様」としての常識がさらなる試練に晒されることになるとは、まだ知る由もなかった。