メジロマックイーンの華麗なる現実ライフ。甘味を添えて。 作:灯火011
若手警察官が血相を変えて飛び出していってから十数分後。
交番の前に、サイレンを鳴らさずに一台のパトカーが静かに滑り込んできた。
自動ドアが開き、夜の冷たい空気と共に、恰幅の良いスーツ姿の男が入ってくる。眉間に深い皺を刻んだ、いかにも現場の叩き上げといった風貌の警部だった。その背後には、先ほどの若手警察官がおどおどとした様子で続いている。
「……で。人間の耳がないコスプレイヤーだと?」
「そーなんすって、事件っすよ本当に!」
「馬鹿馬鹿しい。どうせ特殊メイクか何か――」
苛立たしげに吐き捨てながら交番の中を見渡した警部の言葉は、パイプ椅子に座るマックイーンの姿を捉えた瞬間、ピタリと止まった。
「初めまして。夜分遅くにお騒がせしてしまい、申し訳ありませんわ」
マックイーンは静かに立ち上がると、両手を前で上品に重ね、非の打ち所がない美しいカーテシーをして見せた。
「……これは、ご丁寧に。私は佐竹と申します」
その洗練された所作もさることながら、警部の目は彼女の頭頂部でピンと立つウマ耳と、先ほどから微かに揺れている見事な芦毛のしっぽに釘付けになっていた。特殊メイクの類いには見えない。本能的に「生き物」だとわかる、圧倒的な生命感がそこにあった。
「それで、報告を受けたんだが、……君、すまないがちょっと、その耳のあたりを見せてくれないだろうか?」
「ええ。構いませんわ」
マックイーンは手慣れた様子で、自ら白銀の髪をはらりと掻き揚げた。そこにあるべき人間の耳がない、滑らかな側頭部。
「…………こいつは。申し訳ない、上の耳、触ってもよろしいですか?」
「もちろんですわ」
そして、警部の手が、頭頂部から生える微細な筋肉の動きを伴った『本物の耳』に触れる。
「……こ、こいつは……」
数多の修羅場をくぐり抜けてきたであろう警部でさえ、その常識外れの光景を前に完全に言葉を失った。目を見開き、口をパクパクと動かすことしかできない。
「け、警部……。どうします?」
若手警察官が、恐る恐る指示を仰ぐ。警部はハッと我に返り、頭を抱えるようにして唸り声を上げた。
「いや、うーん……。犯罪者ってわけでもないし、ただの迷子の少女として扱うには……いや、しかし……。どこかの研究所から逃げ出した新種の……いやいや、そんな馬鹿な……」
日本の法律は、人間の姿をしながら人間の耳を持たず、馬の耳と尻尾を持つ少女の扱いなど定めていない。
保護すべき未成年なのか、それとも未知の生物として別の機関に連絡すべきなのか。
警察官としての責任感と、一人の人間としてのパニックが、警部の頭の中で激しく衝突していた。
■
一方のマックイーンは、冷や汗を流して葛藤する大人たちを、静かに、そして冷静に見守っていた。
(ここでわたくしが取り乱しても、事態は悪化するだけ。それに……ここが本当に別の世界なのだとしたら、まずは公的機関である彼らの庇護下に入るのが、最も安全で確実な情報収集の手段ですわ)
メジロの令嬢としての教養と、レースで培った勝負勘。
彼女は今自分が置かれている綱渡りのような状況を正確に把握し、最善の手を打つべく、あえて「無害でお淑やかな少女」として振る舞い続けていた。
やがて、長い沈黙の末。警部は大きく息を吐き出し、腹を決めたようにマックイーンへ向き直った。
「……ひとまず、警察署の方で詳しい事情を伺います。ここで話せる内容ではなさそうですしね。よろしいですか?」
その声には、未知のものに対する微かな警戒と、迷子の少女に対する配慮が入り混じっていた。マックイーンは一切の動揺を見せず、ふわりと優雅な笑みを浮かべる。
「承知いたしました。わたくしでお役に立てるのでしたら、何なりとお話しいたしますわ。よろしくお願いいたします」
あまりにも堂々とした、大物感すら漂う返答に、警部と二人の警察官は毒気を抜かれたように顔を見合わせた。
「……それでは、車のほうへ」
「はい。お手数をおかけいたします」
促されるまま、マックイーンは交番の外へ出た。
夜の府中の街はすっかり暗くなり、パトカーの赤い回転灯だけが周囲の景色を規則正しく照らし出している。
警部が後部座席のドアを開ける。
マックイーンはシートに乗り込むと、自らの立派なしっぽがドアに挟まらないよう、そしてシートに癖がつかないよう、丁寧に抱きかかえながら姿勢良く座った。
パタン、と重い音を立ててドアが閉まる。
(……お祖母様。メジロの名に懸けて、わたくしは必ずこの世界を生き抜き、帰る道を見つけ出してみせますわ)
防犯用の鉄格子がはめられたパトカーの窓ガラス越しに、流れていく見知らぬ街のネオンを見つめながら。
メジロマックイーンの、果てしなく優雅で前途多難な「異世界サバイバル」が、今まさに本格的な幕を開けようとしていた。