勇者ヒンメルの死から三十一年後。
北部高原の厳しい山脈を越えた先に広がる帝国領・ボーネ村は、吹き抜ける冷涼な風の中にも、どこか穏やかな生活の営みが息づいていた。
かつて村の象徴として聳え立っていた厳かな石造りの教会は、歳月の重みに耐えかねて解体され、いまは土台の敷石だけがかつての輪郭を静かに留めている。
その跡地となった「祈りの広場」の中央には、風化を感じさせないほど丹念に磨き上げられた、勇者ヒンメルの銅像が凛と佇んでいた。左手で腰の鞘を軽く押さえ、晴れやかな眼差しで遥か彼方を見据えるその姿は、この村の人々がいかに彼を誇りに思い、慈しんできたかを無言のうちに物語っている。
広場の片隅、木陰に集まった子どもたちの歓声が、からりとした空気に響いていた。年老いた紙芝居屋が拍子木を鳴らし、手描きの絵板を勢いよく引き抜く。
「――山をも丸呑みにせんとする、体長千メートルの漆黒の大蛇! 絶望の淵に沈む村を救ったのは、我らが英雄、勇者ヒンメル様だァッ!」
拍子木が甲高く鳴り響き、歓声が上がる。その熱狂を少し離れた場所から眺めながら、フェルンは整った眉をわずかにひそめ、至極冷静な声音で言った。
「……千メートル。いくら何でも大きすぎではないでしょうか。山どころか、この平野部が丸ごと消し飛ぶ規模です」
「盛るにも限度があるだろ……。それもう大蛇っていうか、ちょっとした天変地異じゃねえか」
シュタルクが背負った大斧の柄に体重を預け、呆れ顔で肩を竦める。二人の視線は、隣でぼんやりと空を眺めていたエルフの魔法使いへと注がれた。
「フリーレン様。実際はどうだったのですか?」
「んー……確かに大きかったけど、せいぜい十メートルくらいだったよ」
「百倍になってんじゃねえか!」
シュタルクの切れ味鋭いツッコミが響く中、フリーレンは遠い記憶の引き出しをゆっくりと開けていた。白いツインテールが風に揺れ、半世紀以上も前の、魔王を討伐した帰り道の情景が鮮やかに蘇る。
◇ ◇ ◇
魔王討伐を終えた勇者ヒンメル一行の帰路。
夕暮れに染まるボーネ村の酒場で、長い旅を終えた四人は腰を落ち着けていた。まだ若々しかったハイターが、酒杯を傾けながら可笑しそうに口を開く。
「村の老人が子どもたちに、勇者ヒンメルが百メートルの大蛇を叩き切ったと言い聞かせていましたよ。そんなことありましたっけ?」
「たしかにこの村で大蛇は退治したが、せいぜい十メートルくらいだったぞ」
アイゼンが干し肉を噛み砕きながら、淡々と記憶の正確さを主張する。すると、隣にいたヒンメルがこれ見よがしに前髪を払い、完璧な笑みを浮かべた。
「いや、二百メートルはあったね」
「嘘はよくないですよ……」
「見栄っ張りめ」
呆れ果てる僧侶と戦士の視線を受け流しながら、ヒンメルは満足げに胸を張る。そのやり取りを横目に、フリーレンは魔導書のページをめくる手を止め、平坦な声で釘を刺した。
「もっと真剣に考えた方がいいと思うけどな。そのうち尾ひれと背びれがくっついて、いつかそっちが真実になってしまう」
何百年、何千年と生きるエルフにとって、人間の言葉がいかに容易く変貌し、真実を塗り替えていくかは身に染みていた。だが、ヒンメルは柔らかく目を細め、夕焼けの差し込む窓の外を見つめながら静かに笑った。
「そうだね。こうしてゆっくりと僕たちの冒険譚は変わっていくんだ。でも、くだらなく楽しい旅を続けて最後には世界を救った。それで十分じゃないか」
◇ ◇ ◇
「……百倍、か」
紙芝居が終わって広場を駆け回る子どもたちの笑い声を聞きながら、フリーレンはふわりと口元を緩めた。
「でも、いいんじゃないかな」
事実がどうあれ、この村の人々がヒンメルを愛し、その勇気に救われ続けている気持ちは紛れもない本物だ。
「ヒンメルもきっと、今頃天国で『千メートルを斬る僕、やっぱりイケメンだな』って自慢してるよ」
淡々とした、けれど温かな響きを帯びたその言葉に、フェルンとシュタルクは顔を見合わせ、やれやれと息を吐きながらも、どこか誇らしげな銅像を見上げて穏やかに微笑んだ。英雄が残した物語は、どれほど形を変えようとも、確かにこの地に生き続けている。
* * *
祈りの広場を抜けた先、小高い丘の上に建つ村長の家は、長い歳月の風雪に耐えてきた古びた木造建築だった。
暖炉の火がパチパチと爆ぜる薄暗い部屋で、深く刻まれた顔の皺を震わせながら、村長は震える手で淹れたてのハーブティーを机に置いた。腰が曲がり、息も絶え絶えな老人は、すがるような濁った瞳をフリーレンたちへと向ける。
「おお、旅の魔法使い様……どうか、どうか村をお救いくだされ。村の北側、鉱山へと続く岩山に魔物が棲みついてしまいましてな。……あれは、かつて勇者ヒンメル様が討ち果たしたと伝わる大蛇の同類に違いありません」
「大蛇ですか。……体長はどれほどでしょうか」
フェルンが静かに問いかけると、村長は両手を精一杯に広げ、恐れおののくように声を震わせた。
「十メートル……いや、それ以上はあるやもしれん。太い胴体は牛を一呑みにするほどで、岩をも砕く尾を持っております……!」
「十メートル……。先ほどの紙芝居と違って、こちらは盛っていない現実的な数字ですね」
「いやフェルン、現実的っていっても十メートルは普通に化物だからな!? 人間なんて丸呑みどころか一口でペロリだぞ!?」
頭を抱えて取り乱すシュタルクを、フェルンは冷ややかな半眼で見つめ、小さくため息を吐いた。
「シュタルク様。あなたは戦士なのですから、戦う前から情けない声を出すのはやめてください」
「だって怖いもんは怖いだろ! そんなデカい蛇に締め付けられたら、骨が砕けるって!」
「……ふふん、大丈夫だよシュタルク。十メートルくらいなら、昔ヒンメルたちと倒したのと大体同じ大きさだしね」
フリーレンは膝の上で組んだ手をほどき、淡々と立ち上がった。
「引き受けるよ、村長さん。すぐに片付けてくる」
* * *
村の北側にそびえる岩山は、北部高原特有の冷え切った突風が吹き荒れる荒涼とした地相だった。乾いた土煙が舞う中、獣道を進む三人の足元を、突如として激しい地響きが揺らす。
ズズズ……と硬い鱗が岩肌を擦る不気味な重低音とともに、巨大な影が切り立った崖の上から滑り降りてきた。
青黒く鈍い光を放つ無数の鱗。丸太のように太い胴体。二股に分かれた紅い舌をチロチロと出し入れしながら、その大蛇の魔物は鎌首をもたげ、三人を見下ろした。全長はおよそ十メートル。村長の証言通りの威容だった。
「うわっ……! 出たァッ!」
シュタルクが小さく悲鳴を上げつつも、無意識のうちに背中の巨大な斧へと手を伸ばし、身構える。
「フリーレン様、射程範囲に入りました。見たところ、体表を硬質化する魔力を帯びています。ゾルトラークで貫通するには、数発の連続射撃が必要です」
フェルンが木製の杖を構え、即座にシビアな戦闘態勢へと移行する。だが、その隣で杖を軽く握り直したフリーレンは、大蛇の頭部を見上げたまま、わずかに足を止めていた。
(……あれ?)
既視感どころではない。頭部の骨格、青黒い鱗の不揃いな配列、頭頂部に生えた三本の小さな角の角度まで、八十余年前にこの村でヒンメル、ハイター、アイゼンと共に討ち果たした個体と寸分違わず一致していた。
同種の魔物であれば似ていること自体はわかる。子孫か、あるいは同じ巣穴から生まれた兄弟だろうか――そう思考を巡らせたフリーレンだったが、大蛇の顔の右側を捉えた瞬間、彼女の翡翠の瞳は大きく見開かれた。
大蛇の右目は、完全に潰れていた。
まぶたごと引き裂かれ、深く硬化した十字の古傷が、白く濁った眼球を覆い隠している。
それは、先ほど刻まれた傷ではない。何十年も前に負ったかのように完全に塞がった古傷だった。そして何より――八十余年前、ヒンメルたちとこの村で対峙した際も、あの大蛇は最初から右目が潰れていたのだ。
(子孫……? いや、傷跡の形も、深さもまったく同じだ。どうして……?)
思考を深める暇を与える気はないとばかりに、大蛇が長い身体をしならせ、太い尾を一閃させた。空気を切り裂く轟音が迫る。
「危ねえッ!」
シュタルクが反射的に前へと飛び出した。極度のビビリ癖とは裏腹に、その肉体は研ぎ澄まされた戦士の動きを正確になぞる。両手で構えた大斧の腹で、叩きつけられた巨尾の直撃を真正面から受け止めた。
凄まじい衝撃波が岩肌を抉り、火花が散る。シュタルクの足元が深く土に沈み込んだ。
「ぐッ……! 重え……! けど、師匠の拳に比べりゃ、まだ耐えられるッ!」
「シュタルク様、そのまま抑えていてください」
シュタルクの背後から、フェルンの冷徹で淀みのない声が響いた。杖の先端に展開された多重の魔法陣から、白紫の弾幕が一斉に放たれる。
ゾルトラークの連射が大蛇の硬質な皮膚を正確に一点集中で穿ち、青黒い鱗を粉々に粉砕していく。大蛇が苦悶の声を上げて身を捩り、シュタルクへ巻き付こうとした長い身体が解けた。
「ふんッ!」
体勢を立て直したシュタルクが地を蹴り、回転の遠心力を乗せた渾身の横薙ぎを一撃。硬化を剥がされた大蛇の側腹部を深く断ち切り、巨体を大きくよろめかせる。
仕留める隙は、完全に整っていた。
フリーレンは右目の傷に対する疑念を意識の奥へと棚上げし、手にした赤い杖をまっすぐに突き出した。
「『
一切の揺らぎのない、圧倒的な密度の魔力光が夜明けの閃光のように放たれ、大蛇の首元を正確に貫通する。
ズン…ッ!と。
巨大な質量が砂煙を巻き上げながら地面へと崩れ落ち、やがて大蛇は黒い灰のような魔力の残滓となって、ゆっくりと風に溶け始めた。
「はぁ……はぁ……。た、倒した……のか?」
シュタルクが斧を杖代わりに突き、荒い息を吐きながら膝をつく。フェルンは杖を下ろし、乱れたスカートの裾を軽く整えながら、息ひとつ乱さずに告げた。
「お疲れ様でした、シュタルク様。腰が引けていましたが、最初の受け止めは見事でした」
「フェルン、褒めてるのか貶してるのかどっちかにしてくれよ……」
二人がいつものやり取りを交わす傍らで、フリーレンは魔物にゆっくりと歩み寄り、完全に霧散する直前の大蛇の頭部――その傷痕のある右目が消えゆく様を、ただ静かに見つめていた。