勇者ヒンメルと竜の墓場の話   作:龍改二

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第2話 泣きぼくろの無い勇者

 

大蛇の討伐を終え、岩山の獣道を下ってボーネ村へと戻ってきたフリーレンたちの足が、村の入り口で唐突に止まった。

 

冷涼な風が吹き抜ける村の景色は、わずか数刻前とは決定的に異なっていた。

 

「……フリーレン様、あれは」

 

フェルンが杖を握る手にわずかに力を込め、鋭い視線を村の中央へと向ける。

老朽化によって解体され、広々とした「祈りの広場」になっていたはずのその場所に、かつて存在していた荘厳な石造りの教会が、何事もなかったかのように元通り聳え立っていたのだ。白く風化した石壁も、ステンドグラスが嵌め込まれた高い尖塔も、八十余年前にフリーレンが見たあの威容そのものだった。広場の中央にあったはずのヒンメルの銅像は、どこにも見当たらない。

 

「おいおい……どうなってんだ? 教会なんて、さっきまで跡形もなかっただろ……」

 

シュタルクが呆然と口を開き、背負った大斧の位置を直す。

異変は建物だけにとどまらなかった。教会の前にはざわめく人だかりができており、奇妙な困惑と動揺が村全体を包み込んでいる。

 

人垣の中心では、二人の男性が互いを見つめ合い、激しく混乱した様子で言葉を交わしていた。

一人は、先ほど大蛇の討伐をフリーレンたちに依頼した、腰の曲がった現在の村長。

 

そしてもう一人は――八十余年前、勇者一行がこの村を救った際に村長を務めていた、がっしりとした体躯の初老の男だった。

 

「お、お前は一体誰なんじゃ……? なぜわしの名を知っておる……」

 

「爺様……本当に、爺様なのか……!? 馬鹿な、爺様は何十年も前に亡くなられたはずじゃ……!」

 

「何を戯言を言っておる! わしの孫はまだ生まれたばかりの赤ん坊じゃぞ! お前のような年寄りの孫がおってたまるか!」

 

死んだはずの初老の先代村長と、その孫である老いた村長。本来ならば同じ時代に同じ背丈で並び立つはずのない二人が、互いの顔を見合わせながら青ざめている。

 

「……時間の感覚が、狂っている?」

 

フェルンが小声で呟き、周囲の魔力の流れを探るように目を凝らした。

だが、フリーレンの視線は二人の村長の問答には向いていなかった。彼女の翡翠の瞳は、教会の階段の脇、陽だまりの中で子どもたちに囲まれている一人の青年へと、吸い寄せられるように固定されていた。

 

鮮やかな青い髪が風に揺れている。

見慣れた勇者の服に白いマントを羽織り、腰には使い込まれた剣を一振り携えていた。

 

「――そうだよ。僕は勇者だからね。みんなの平和を守るのが仕事さ。それに、こんなにカッコいい僕が負けるわけがないだろう?」

 

悪戯っぽく笑いながら、子どもたちの頭を優しく撫でるその声。

軽やかで、どこまでも自信に満ちていて、それでいて芯の通った温もりを帯びた響き。

 

かつて十年の時を共に旅し、そして三十一年前に自らの目で看取ったはずの男――勇者ヒンメルが、かつての若々しい姿のまま、そこにいた。

 

フリーレンは一歩も動かず、その佇まいをただ静かに見つめている。

 

陽だまりの中、子どもたちの頭を撫でていた青年の姿に、一行は息を呑んだ。

 

「……な、なぁ、フリーレン……」

 

シュタルクが引き攣った声を漏らし、背中の大斧の柄を無意識に握り締める。

 

「あれ、お前がいつも言ってる……勇者ヒンメル、だよな? なんで若い姿で生きてんだよ……!? 俺、幽霊とかマジで無理なんだけど……!」

 

「落ち着いてください、シュタルク様」

 

フェルンが木製の杖を胸元で構え、鋭い視線で魔力の流れを凝視する。かつて討伐した幻影の魔物――死者の幻を見せて人を誘い込む『アインザーム』の記憶が脳裏をかすめたからだ。

だが、フェルンはわずかに眉を寄せ、困惑を露わにした。

 

「……幻影魔法の波長ではありません。魔力の揺らぎに偽装や不自然な歪みもない……。完全に質量を伴った『実体』が存在しています」

 

幻影を見せたり、変身する魔物の類ではない。

そして何より、佇むその気配そのものが、フリーレンの記憶の中にある彼と寸分違わず重なっていた。

 

フリーレンが呆然と立ち尽くしていると、青い髪の青年がふと視線を上げ、こちらを捉えた。その瞬間、青く澄んだ瞳がパッと花が咲いたように輝く。

 

「あ、フリーレン!」

 

ヒンメルは子どもたちに軽く手を振ると、軽快な足取りで人垣をすり抜け、こちらへと駆け寄ってきた。白いマントが風に翻り、腰の剣がカチャリと心地よい金属音を立てる。

 

「探したよ、フリーレン! 急にいなくなるから心配したじゃないか。……ん? その子たちは誰だい? 新しい仲間? それに……ハイターとアイゼンはいないのか? まだ宿屋で二日酔いで寝ているのかい?」

 

悪戯っぽく微笑みながら屈託なく話しかけてくるその声は、どこまでも温かく、記憶の底にある響きそのものだった。青年の放つ体温や衣服の擦れる気配までもが、あまりにも鮮明に現実としてそこにあった。

 

「……ここでは話ができないね。中に入ろう」

 

フリーレンの促しにより、一行はざわめく村人たちを背にして、突如として蘇った教会の重厚な木扉を押し開けた。

 

* * *

 

教会の中は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。高い天井に響く足音、色鮮やかなステンドグラスを通して落ちるプリズムの光、祈りのための木製の長椅子。そのどれもが、八十余年前に四人で訪れた当時の姿を完全に留めている。

 

そして――本来ならば「祈りの広場」の中央に建っていたはずの、精巧なヒンメルの銅像が、教会の祭壇の脇に静かに鎮座していた。

 

「外にあった銅像が、教会の中に……」

 

フェルンが周囲を見回しながら呟く。シュタルクはヒンメルから少し距離を取り、恐る恐るその横顔を伺っていた。

 

「なあ、フリーレン。状況を整理したいんだけど……どういうことなんだ? 師匠やハイターって人がいないって言ってたけど、この勇者ヒンメルは一体……」

 

「…………」

 

フリーレンはシュタルクの問いにすぐには答えず、無言のままヒンメルの前に歩み寄った。

 

至近距離まで詰め寄られ、見上げるように瞳を向けられたヒンメルは、照れくさそうに人差し指で頬を掻き、ふっと得意げな笑みを浮かべた。

 

「なんだいフリーレン? そんなにじっと見つめられると照れるな。……まあ、僕の顔があまりにもイケメンで、見惚れてしまう気持ちも分かるけれどね」

 

いつものナルシズムに満ちた軽口。だが、フリーレンの翡翠の瞳は、彼の顔のある一点を冷徹なまでに見つめていた。

 

(……ない)

 

ヒンメルの左目の下。

本来であれば、そこには彼の柔らかな表情を印象づける、特徴的な小さな泣きぼくろがあるはずだった。

 

だが、目の前にいる青年の滑らかな肌には、そのほくろが一片たりとも存在しない。

 

フリーレンは視線を祭壇脇の銅像へと向けた。

かつてヒンメルが細かく注文を出し、村の職人が腕によりをかけて造り上げ、村人たちが丹念に磨き続けてきた勇者ヒンメルの銅像。威風堂々とした造形は見事なものだが、その表面には細かな泣きぼくろまでは彫り込まれていなかった。

 

フリーレンの中で、すべての破片が一つの線で繋がった。

 

「……やっぱりね」

 

フリーレンは小さく息を吐き出し、静かに口を開いた。

 

「この異変は、時間の逆行や死者の蘇生なんかじゃない。この土地の過去の存在――村人たちの『イメージ』が具現化して蘇っているんだ」

 

フェルンとシュタルクが顔を見合わせる。

 

「イメージ、ですか?」

 

「魔法はイメージの世界だ。この村には、八十年前から受け継がれてきた強い共通認識がある。村人たちが語り継ぎ、恐れ続けてきた『右目の潰れた十メートルの大蛇』。……かつて祈りを捧げ、惜しまれつつ取り壊された『懐かしい教会』。……村を導き発展させたと敬われる『先代村長』」

 

フリーレンは再び青い髪の青年を見つめた。

 

「そして――広場の銅像を前に、何十年もの間、村人たちが祈り、語り継ぎ、愛し続けてきた『勇者ヒンメル』。……だからこのヒンメルには、銅像に彫られていなかった泣きぼくろがない」

 

シュタルクが息を呑み、フェルンは痛ましそうに瞳を伏せた。

 

自分たちが向き合っているのは、本物の魂が戻ってきた奇跡ではない。村の信仰と祈りが形作ってしまった、あまりにも精巧で愛おしい伝説の残照なのだと。

 

重い沈黙が教会を支配する中、ヒンメルはきょとんとした顔で、自らの左目の下に指を触れていた。

 

「……フリーレン。君の言っていることは、少し不思議だな。まるで僕が、本物の僕ではないみたいじゃないか」

 

伝えづらい真実だった。長命なエルフにとっても、この宣告は胸の奥を小さく締め付けるような痛みを伴う。けれど、フリーレンは目を逸らさず、淡々とした、しかし限りなく静謐な声で告げた。

 

「ヒンメル。落ち着いて聞いてね」

 

「ああ」

 

「私たちがこの村を救ったのは、もう八十年ほど前のことだよ」

 

ヒンメルの指先が微かに止まる。

 

「アイゼンは中央諸国で隠居していて、ハイターは数年前に亡くなった。……そして君は、三十一年前に寿命で大往生した。私は君を、この目で見送ったんだよ」

 

教会のステンドグラスを透過した光が、静寂の中に揺れていた。

遠くから、広場で戸惑う村人たちの声がかすかに届く。

 

ヒンメルは一瞬だけ、遠いどこかを見つめるように瞳を細めた。その表情には、すべてを察したような微かな切なさと、時の流れに対する諦観が滲んでいた。自分が成し遂げた旅の終わりと、仲間たちのその後の歩みを受け止めるように、彼はそっと瞼を閉じる。

 

しかし――その切なさは、ほんの一瞬で消え去った。

 

目を開けたヒンメルは、いつものように屈託のない、晴れやかな笑顔を浮かべていた。

 

「そうか……。僕はもう、とっくに死んでしまっていたんだね」

 

何ひとつ疑わず、後悔もせず、すべてを受け入れた青年の笑顔だった。

 

「でも、やっぱり僕のイケメンぶりを銅像にしておいて正解だったな。こうして未来の君たちに、一番カッコいい姿のまま会えたんだから」

 

ヒンメルは腰に手を当て、祭壇の脇に立つ自らの銅像を見上げながら、悪戯っぽく微笑んだ。

 

 

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