勇者ヒンメルと竜の墓場の話   作:龍改二

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第4話 竜の墓場

 

フリーレンたちが先刻倒したはずの十メートルの大蛇が、ズルズルと地中から這い出る。

 

二股の舌をチロチロと出し入れし、三本の角を逆立てて威嚇の眼差しを向ける。そしてその顔面の右側には、白濁して潰れた右目――深い十字の古傷が、先ほどと寸分違わず刻まれていた。

 

「また出やがった……! なんでだ、さっき俺たちが完全に消滅させたはずだろ!?」

 

「村人のイメージが具現化している影響ですね。根源を絶たない限り、何度でも再構成されるようです……!」

 

シュタルクが大斧を構え直し、フェルンが杖の先端に魔力を収束させる。戦闘態勢に入ろうとしたその刹那。

 

「下がっていていいよ、二人とも」

 

澄んだ、驚くほど穏やかな声が砂風を裂いた。

 

白いマントを翻し、ヒンメルが一人、大蛇の前へと歩み出る。その足取りには一切の気負いも、恐怖も、あるいは過剰な気合すら感じられない。まるで散歩の途中で路傍の花に歩み寄るかのような、完全な自然体だった。

 

「アイゼンの弟子と、ハイターの娘の前だ。……たまには僕も、本当にカッコいいところを見せておかないとね」

 

シュッ――と、極めて滑らかな金属音が響いた。

腰の鞘から白銀の剣が引き抜かれる。陽光を浴びて煌めくその切っ先には、一切の揺らぎがなかった。

 

大蛇が標的をヒンメル一人へと絞り、巨体を鞭のようにしならせて、超速の噛みつきを繰り出した。大気を引き裂く大牙。並の戦士であれば、反応することすら叶わず上半身ごと喰い千切られる一撃。

 

「ヒンメル様――ッ!!」

 

フェルンが叫んだ。だが、その悲鳴が空気を震わせるよりも早く、ヒンメルの姿が砂の上から消えた。

 

(……速い!)

 

シュタルクの動体視力すら置き去りにする、異次元の初速。

ヒンメルは大蛇の牙が自らの鼻先を掠める紙一重の間合いで身を滑らせ、突進の風圧そのものを足場にするかのように、流麗な跳躍を見せた。

 

大蛇の側面を駆け上がる一瞬の足運び。重力を感じさせない軽やかさでありながら、踏み込む一歩一歩が研ぎ澄まされた刃のように鋭い。

 

大蛇が異変を察知して身体を捻ろうとした瞬間には、ヒンメルはすでにその頭上――唯一残された左目の死角へと到達していた。

 

青い髪が風に舞う。

青い瞳が、獲物を屠る冷徹な剣士の光を宿し、刹那に細められた。

 

閃光が、一筋。

空間そのものを切り取ったかのような、あまりにも美しく無駄のない一閃だった。

 

大蛇の強固な皮膚硬化の魔力ごと、分厚い首筋が両断されていた。

断面から噴き出す魔力の光粒。大蛇は断末魔の叫びを上げる間すら与えられず、巨大な頭部を砂地へと叩き落とされた。

 

砂煙が舞い散る中、ヒンメルはふわりと音もなく砂地へと着地した。

慣れた手つきで剣を円を描くように一振りし、存在しない血糊を払うと、チャキンと小気味よい音を立てて鞘へと納める。崩れ落ちた大蛇の巨体は、先刻と同様に黒い灰となってサラサラと砂漠の風に溶けていった。

 

「ふう……。やっぱり、少し体が鈍っているかな」

 

ヒンメルは前髪を指先で払い、何事もなかったかのように振り返って爽やかに微笑んだ。

 

「どうだいシュタルク、フェルン。僕の剣技も、なかなか捨てたものじゃないだろう?」

 

静寂が支配していた。

吹き抜ける風の音だけが響く中、シュタルクは顎が外れそうなほど口を開けたまま、背中の大斧を取り落としそうになっていた。

 

「な……んだよ、それ……。あんなデカい化け物を……たった一撃で……? 一瞬、何が起きたのか全然見えなかったぞ……」

 

アイゼンという規格外の戦士を師に持つシュタルクだからこそ、目の前の青年の異常性が骨の髄まで理解できた。師匠のような圧倒的な質量と破壊力による粉砕ではない。技術、速度、間合いの把握、そして急所を正確に断ち切る絶対的な技量――人間の限界点に極限まで研ぎ澄まされた、純粋な剣の極致。

 

フェルンもまた、杖を握ったまま息を呑み、微動だにできずにいた。

かつてハイターから「ヒンメルは誰よりも強い勇者でしたよ」と聞かされていたが、これほどまでとは思っていなかった。魔法の防御すら容易く切り裂くであろうその太刀筋は、まさに魔王を討伐した勇者一行のリーダーにふさわしいものだった。

 

そんな二人の驚愕を背に受けながら、フリーレンだけは小さく息を吐き、静かに歩み寄った。

 

「……相変わらず、無駄のない動きだね」

 

「おや、フリーレン。もっと熱烈に褒めてくれてもいいんだよ?」

 

「これでも褒めてるよ。ヒンメルは昔から、剣の腕だけは本当に馬鹿みたいに強かったからね」

 

感情の起伏の少ない声だったが、その翡翠の瞳には、かつて十年間背中を預け合い、幾多の強敵を共に切り伏せてきた無二の仲間への、絶対的な信頼の色が確かに宿っていた。

 

* * *

 

乾燥した砂風が吹き抜ける白けた荒野を北へ進むと、地平線の向こうに突如として異様な巨影が立ち現れた。

 

それは山ではなかった。かつて神話の時代に天を覆い、地上に君臨したという超巨大竜の残骸――気の遠くなるような歳月を経て砂に埋もれた、白骨の化石群である。

 

地表に露出しているのは、その巨躯のごく一部に過ぎない。しかし、天を衝くように砂から斜めに突き出した翼骨が、まるで枯れ果てた巨木のように影を落としていた。そして砂丘に半ば埋もれるように鎮座する頭骨は、城塞一つを丸ごと呑み込めるほどの威容を誇り、その口を開けている。

 

「……これが、『竜の墓場』か」

 

シュタルクが息を呑み、見上げる首を痛めるように固まる。

これまでにも竜を間近に見たことはある。だが、かつて目にしてきたどんな魔物の規模をも遥かに凌駕する光景に、本能的な畏怖が肌を粟立たせていた。

 

「見事なものだね」

 

ヒンメルは青い瞳を輝かせ、マントの端を押さえながら感嘆の息を漏らした。

 

「千メートルと聞いて少し疑っていたけれど……確かにこれなら、僕の討伐した大蛇と同じくらいの迫力がある」

 

「いや、ヒンメルの大蛇は十メートルだったでしょ」

 

フリーレンの平坦なツッコミを背に受けながら、一行は砂丘を登り、大きく開かれた頭骨の顎へと足を踏み入れた。

 

成人男性の背丈を優に超える鋭利な牙の列を潜り抜けると、外の熱風と眩い陽光は一瞬にして遮断された。洞穴の奥から吹き上がってくるのは、何万年もの間、日の光を見ることのなかった鉱物の匂いと湿り気を含んだ冷気である。

 

竜の肉や内臓は遥か昔に朽ち果てて消滅し、その体内は複雑怪奇な空洞――天然の鍾乳洞と白骨が一体化したような、巨大な地下ダンジョンへと変貌を遂げていた。

天井を見上げれば、石灰化した太い脊椎が梁のように連なり、壁面からは鉱脈のような青白い発光苔が淡い光を放っている。その広大な洞窟内には、風が吹き抜けるたびに低く唸るような反響音が響き渡っていた。

 

「足元に気をつけてください。下層への縦穴が点在しています」

 

フェルンが杖の先端に小さな灯火を灯し、淡々と前方を照らす。

その光に反応するように、洞窟の暗がりから無数の魔力の反応が蠢き出した。

 

ギャアッ、と甲高い鳴き声が洞内に反響する。

天井の骨の隙間や岩棚の影から滑空してきたのは、硬質な鱗と鋭い鉤爪を持つ小型の竜種の群れだった。小型とはいえ、体長は三メートル近くあり、並の冒険者であれば数体で壊滅させられるだけの膂力と魔力を宿している。

 

「群れで来ます……! シュタルク様!」

 

「わ、分かってるよッ!」

 

シュタルクは恐怖で喉を鳴らしながらも、瞬時に地を蹴って前へと飛び出した。

迫り来る先頭の竜が放った鋭い爪撃を、背中から引き抜いた大斧の腹で完璧に受け止める。凄まじい衝撃音が洞窟を揺らし、足元の岩盤が粉々に砕け散った。

 

「ぐっ……らぁッ!」

 

シュタルクは怯むことなく重心を低く沈め、力任せに斧を押し返すと、そのまま流れるような旋回運動で巨斧を振り抜いた。

空気を引き裂く重い轟音。アイゼン仕込みの剛腕から放たれた一撃は、竜の硬質な胸骨ごと分厚い胴体を叩き斬り、一撃で岩壁へと叩き伏せる。

 

「左から二体、高度を取っています」

 

フェルンの声には焦りの色ひとつなかった。

彼女は足を止めることなく、木製の杖を流麗に構える。展開された魔法陣から、閃光のような速射が放たれた。

 

極限まで無駄を削ぎ落とされたゾルトラークの連射が、暗闇を滑空していた二体の竜を正確無比に貫く。撃ち抜かれた竜たちは断末魔の声とともに墜落し、フリーレンの杖から放たれた追撃の光弾によって瞬時に霧散していった。

 

完璧な連携だった。

前衛が揺るぎない壁となり、後衛が最小限の手数で確実に急所を穿つ。

 

その戦いぶりを少し後ろから見守っていたヒンメルは、剣の柄に手を置いたまま、どこか遠い記憶を慈しむように目を細めていた。

 

「……ハイターに似ているね、フェルン」

 

ヒンメルが小さく呟く。フェルンは杖を構えたまま、わずかに首を傾げた。

 

「ハイター様は、私のような攻撃魔法は使えませんでしたが……」

 

「魔法の種類のことじゃないさ」

 

ヒンメルは優しく微笑んだ。

 

「ハイターは普段は酒ばかり飲んでるような奴だったけれど、戦闘になると誰よりも冷静で、決して取り乱さなかった。仲間が傷つかないよう、一歩引いた場所から戦況のすべてを把握して、完璧な支援をしてくれたんだ。……君のその、迷いのない静かな眼差しと、仲間を信じて背中を預ける佇まいは、あの生真面目な僧侶に本当によく似ている」

 

フェルンは少しだけ瞳を揺らし、それから小さく口元を引き締めて「……ありがとうございます」と頭を下げた。

 

ヒンメルは次に、荒い息を吐きながら斧の血糊を払っているシュタルクへと歩み寄った。

 

「シュタルク、君もだ」

 

「えっ、俺? 俺なんて、ビビって指先震えてたぜ……?」

 

「それでも、一歩も退かなかっただろう?」

 

ヒンメルはシュタルクの肩にポンと手を置いた。

 

「意外かもしれないけど、アイゼンはああ見えて怖がりだったんだ。強敵と戦う前はいつも手が震えていたよ。けれど、あいつの足元だけは絶対に揺らがなかった。仲間を守るために恐怖をねじ伏せて、どっしりと大地に根を張る……君の重心の低さと、その重い一撃には、アイゼンが生涯をかけて磨き上げた誇りがそのまま宿っているよ」

 

「……師匠の」

 

シュタルクは自らの掌を見つめ、それから少し照れくさそうに、けれど誇らしげに鼻を擦った。

 

「ふふん。二人とも、ヒンメルに褒められて良かったね」

 

フリーレンが杖を肩に担ぎながら、呑気な足取りで二人の間を通り抜ける。

その横顔を眺めながら、ヒンメルは懐かしさと嬉しさが入り混じった柔らかな声を落とした。

 

「……フリーレン。君は本当に、いい仲間を持ったね」

 

「そうだね。手はかかるけど、二人とも強いよ」

 

淡々としたフリーレンの言葉に、フェルンは「手がかかるのはフリーレン様です」と頬を膨らませ、シュタルクは「俺は巻き込まれてるだけなんだけどな」と苦笑する。

 

白骨の巨洞に響くその軽口のやり取りを、ヒンメルはただ温かい眼差しで見守り続けていた。

一行は再び陣形を整え、青白い苔の光が導く、竜の体内ダンジョンのさらに深き暗がりへと足を進めていった。

 

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