勇者ヒンメルと竜の墓場の話   作:龍改二

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第6話 信じられた伝説

 

地平を覆い尽くすほどの砂塵を裂き、山脈そのものが立ち上がったかのような超巨大竜が、砂漠の空へと咆哮を轟かせている。

 

その威容は、人間が認識しうる「生物」の範疇を完全に逸脱していた。漆黒と深紅が混ざり合う外殻。その竜鱗は一枚一枚が城壁のような厚みを持ち、うねる首の太さは石造りの巨塔すら小さく見せる。ただ呼吸を繰り返すだけで、砂嵐が渦を巻き、大気の圧力が狂ったように四人の鼓膜を圧迫した。

 

「……ッ!」

 

先陣を切ったのはフェルンだった。

わずかな躊躇も挟まず、木製の杖を両手で構える。周囲の大気を巻き込むように魔力を練り上げ、彼女の代名詞とも言える超高速のゾルトラークを連続展開した。

 

常人であれば視認することすら叶わない速度で放たれた無数の『魔族を殺す魔法(ゾルトラーク)』が、白紫の光線となって超巨大竜の首筋へと殺到した。岩山をも瞬時に削り落とす魔力弾の集中砲火。

 

だが――。

着弾の直後、金属が擦れ合うような、甲高い不快な破砕音が大気に響く。ただ、それだけだった。

 

ゾルトラークは鋼鉄を遥かに超える硬度の竜鱗に弾かれ、微かな白煙と焦げ跡を残すのみ。致命傷どころか、表皮をわずかに削り取ることすらできない。それはまるで、大樹の幹に向かって小さな縫い針を何本も投げつけているような、絶望的な規模の隔たりだった。

 

「……ゾルトラークが、鱗の一枚すら貫通できません。ただ分厚いだけではなく、莫大な魔力が体表を覆っている……。質量、魔力量ともに桁が違いすぎます」

 

フェルンの額に冷たい汗が滲む。

ゾルトラークがいかに貫通型の攻撃魔法として洗練されていようと、生物としての絶対的な質量差と、神話の時代に地上を支配した巨竜の魔力の外殻を前に、それは針の一突きほどの意味も持たなかった。

 

超巨大竜の黄金の双眸が、足元で蠢く羽虫のような四人を再び捉えた。

 

怪物が口腔を大きく開く。喉奥の暗黒から、圧縮された太陽のような超高熱の白熱光が収束を始めた。ジリジリと空気の焦げ付く音が鳴り響き、そして止まる。

 

「来るよ」

 

フリーレンの短く鋭い警告と同時に、竜の大顎から天地を両断するほどの極太の閃光ブレスが撃ち放たれた。

突き穿つような熱線が迸り、その進路上の砂が一瞬にしてドロドロに溶解していく。

 

フリーレンとフェルンが重ねるように杖を前方へ突き出した。

二本の杖の先から放たれた膨大な魔力が瞬時に幾何学的な構造を編み上げ、淡い翠と青の光を帯びた無数の六角形が組み合わさり、巨大な防壁となって展開される。

 

直後、世界が白に染まった。

直撃した超高熱の魔力の奔流が、六角形の障壁の表面で激しい火花と衝撃波を撒き散らす。

大気が軋み、地面の岩盤が凄まじい反動によって後方へと捲れ上がっていく。

 

「……ッ!」

「うあ……っ!」

 

フリーレンとフェルンの足が、砂を深く削りながらズルズルと後方へ押し込まれる。防壁そのものは割れずとも、直撃する物理的エネルギーと魔力の質量は、二人の身体を防御魔法ごと吹き飛ばすのに十分すぎる威力を孕んでいた。

 

その時、二人の背中に力強い衝撃が加わった。

 

「うおおおおおっ! 踏ん張れぇぇぇッ!!」

 

シュタルクがフェルンの背後へと滑り込み、両足を深く砂漠の岩盤へと打ち込んで、分厚い肩を彼女の背中に当てて押し支えた。隆起する筋肉が悲鳴を上げ、足の血管が張り裂けんばかりに浮き上がる。

 

そしてフリーレンの小さな背中には、ヒンメルの左手がそっと、しかし揺るぎない力強さで添えられていた。

 

「大丈夫かい、フリーレン」

 

耳元で響くその声には、山が崩落したような轟音の渦中にあっても、微塵の恐怖も焦りも混ざっていなかった。ヒンメルは右足を踏ん張り、かつて幾千の戦場を共に潜り抜けた時と同じ、絶対的な信頼をその手のひらに込めていた。

 

「……うん。助かる」

 

戦士と勇者の強固な支えを得て、魔法使いたちの足元がぴたりと固定される。六角形の障壁は一点の亀裂も生じさせることなく、荒れ狂う神話の息吹を完全に受け流し、両脇の砂漠へと霧散させていった。

 

やがてブレスが途切れ、周囲には赤熱した砂煙と焦土の静寂が残された。超巨大竜は肺腑を休めるように、わずかに首を低く揺らしている。

 

硝煙が立ち込める中、ヒンメルはフリーレンの背中から手を離し、白銀の剣を掲げ直した。その青い瞳は、遥か天を衝く竜の体内――心臓内部に輝くであろう、ゲテヒトニスの魔力核を正確に見据えていた。

 

「フェルン、シュタルク。陽動を頼む」

 

ヒンメルは二人に向かって短く、けれど淀みのない声音で指示を飛ばした。

 

「地上からあの竜の注意を惹きつけてくれ。視界を遮り……わずかでもいい、顎を跳ね上げさせるんだ」

 

「り、了解だ……! 任せろ!」

 

「……承知いたしました」

 

シュタルクが大斧を握り直して地を蹴り、フェルンが即座に牽制のための多重射撃の準備に入る。

そしてヒンメルは、隣に立つエルフの魔法使いへと振り返り、悪戯っぽく、けれど何よりも眩しい笑みを向けた。

 

「フリーレン、僕を持ち上げて、あの巨大竜の頭上から落としてくれ。……今の君は、“空を飛べる”んだろ?」

 

「……いいよ。地上からジャンプできる高さじゃないからね。でもヒンメル、いくら君でも、千メートルもある竜を斬るなんて――」

 

「できるさ」

 

フリーレンの淡々とした懸念を遮るように、ヒンメルはふっと誇らしげに胸を張った。

 

左目の下に泣きぼくろを持たない、村の銅像と伝説から生まれた青年は、砂漠の風に青い髪をなびかせながら、どこまでも澄み切った声で告げた。

 

「今の僕は、村の人たちのイメージの存在なんだろう? なら僕は、千メートルの大蛇だって討ち倒せる」

 

ヒンメルの言葉に、フリーレンは翡翠の瞳を見開いた。

 

魔法はイメージの世界だ。

そして今、この地に具現化しているヒンメルは、単なる過去の幻影ではない。八十余年もの間、ボーネ村の人々が祈り、語り継ぎ、信じ抜いてきた「千メートルの怪物をも一刀両断にする、無敵の英雄」という、途方もない信仰とイメージの結晶そのものなのだ。

 

「それが彼らの信じる、『勇者ヒンメル』だからね」

 

自信に満ちたその笑顔には、一切の揺らぎがなかった。

 

フリーレンはふっと息を吐き、口元にかすかな笑みを浮かべた。理屈ではない。魔法の根源にある「信じる力」を、この男は誰よりも自然にその身に宿している。

 

「……そうだね。ヒンメルなら、きっとそう言う」

 

フリーレンは赤い杖を軽く握り、ヒンメルの身体にそっと手を触れた。二人の足元から、ふわりと重力を解き放つ淡い魔力の光が立ち昇り始める。

 

「行こう、ヒンメル。千メートルの竜を倒して、また君のカッコいい伝説を増やしてあげる」

 

淡い翠の魔力光が二人の足元を包み込み、重力の枷が解き放たれる。

 

「しっかり掴まっててね」

 

「ああ」

 

フリーレンはふわりと浮き上がると、ヒンメルの肩を抱え、迷いなく飛び上がった。

次の瞬間、二人の身体は垂直に空を駆け上がり、吹き荒れる砂煙を突き抜けて一気に天へと舞い上がっていく。地上から吹き上げる熱風が冷涼な上空の大気へと変わり、眼下に広がる広大な砂漠が急速にミニチュアの箱庭のように縮んでいく。

 

初めて体感する人類の飛行魔法に、ヒンメルは青い髪を風に激しくなびかせながら、少年のように目を丸くした。

 

「……すごいな。本当に空を飛んでいる。風の音がこんなに近くに聞こえるなんて思わなかったよ」

 

「景色を楽しんでる暇はないよ。すぐ落とすからね」

 

「手荒いな。でも、最高の眺めだ」

 

遥か直下では、すでに二人の若者が動き出していた。

 

「――いきますッ!」

 

地上に立つフェルンが、木製の杖を両手で構え、その全身から膨大な魔力を爆発させた。彼女の背後に展開された無数の魔法陣が、まるで星雲のように空を埋め尽くす。

 

瞬時に放たれた超高密度のゾルトラークの弾幕が、流星のような閃光となって超巨大竜の頭部へと殺到した。

貫くことは叶わずとも、視界を焼き尽くすほどの光と連続の衝撃波が、巨竜の視覚と意識を完全に地上へと釘付けにする。

 

竜が鬱陶しそうに巨大な前肢を振り上げ、芥子粒のように小さい地上の少女を踏み潰そうとした――その瞬間。

 

「うおおおおおおおおっ!!」

 

砂煙を切り裂き、赤髪の青年が地を這うような超低重心の疾走で竜の足元へと潜り込んでいた。

 

咄嗟にフェルンがシュタルクの足元の砂を魔力で固める。シュタルクは魔力で固められた地面へと両足を打ち込み、アイゼンから叩き込まれた重心移動を完璧になぞる。全身の筋肉が軋みを上げ、背負っていた大斧を地面すれすれの極限まで引き絞った。

 

恐怖は消えていた。ただ仲間を信じ、師の誇りを宿した一撃を放つことだけに、すべての意識を研ぎ澄ます。

 

「『光天斬』ッ――!!」

 

下から上へ、大気を切り裂きながら渾身の力で斬り上げられた大斧。

放たれた不可視の斬撃波が、超巨大竜の硬い下顎を捉えた。

 

ガギィィンッ!と。

大地を揺るがす凄まじい衝撃音が響き渡り、山脈のように巨大な竜の頭が、天へ向かってカチ上げられた。無防備に晒される眉間と喉元。完璧な隙が、そこに生まれた。

 

「――今だ、フリーレン!」

 

ヒンメルの合図を受け、上空で機を待っていたフリーレンは短く息を吸い、抱えていた手を離した。

 

「いってらっしゃい、ヒンメル」

 

重力に従い、ヒンメルが垂直に落下していく。

吹き上げる突風の中、青年は一切の乱れを見せず、空中で体勢を整えた。腰の鞘から白銀の剣が引き抜かれ、白光の切っ先が下顎を跳ね上げられた竜の顔面を捉える。

 

魔法は、イメージの世界だ。

 

いま目の前にいるのは、神話の時代に君臨した全長千メートルの超巨大竜。

そして自分は、八十余年もの間、この地の村人たちが語り継ぎ、祈り、信じ続けてきた『千メートルの大蛇をも討ち倒した無敵の英雄』の具現。

 

子どもたちが憧れた紙芝居。

村人たちが磨き続けた銅像。

彼らが心から信じた勇者の強さは、この瞬間、世界のいかなる理をも凌駕する絶対的な現実となって、青年の細身の剣に宿っていた。

 

「――僕の名は、勇者ヒンメル」

 

落下速度が最高速へと達する。

青い瞳に宿る冷徹なまでの静謐さと、世界を愛する優しい微笑みが重なり合った。

 

「平和を脅かす怪物を斬り伏せるのは……僕の役目だ!」

 

閃光が、世界を両断した。

 

ヒンメルが振り下ろした白銀の一閃は、空を引き裂く一条の光となって、超巨大竜の頭頂部から尾先までを真っ直ぐに突き抜けた。鋼鉄の竜鱗も、魔力の外殻も、その切っ先の前には一片の抵抗すら許されない。

 

心臓部に埋没していた『追憶の悪魔(ゲテヒトニス)』の結晶核が、剣撃の余波によって粉々に砕け散る。

 

両断された超巨大竜の巨躯が左右へと割れ、莫大な魔力の光粒となって、砂漠の風の中へと静かに霧散していった。

 

* * *

 

ストンッ、と軽い着地音を立てて砂の上に降り立ったヒンメルは、静かに剣を鞘へと納めた。

 

上空からゆっくりと降りてきたフリーレン、そして駆け寄ってきたフェルンとシュタルクが、静寂に包まれた砂漠でヒンメルを取り囲む。

 

「……すげえ」

 

シュタルクが呆然と呟き、持っていた斧を取り落としそうになる。

フェルンもまた、杖を握り締めたまま息を呑み、静かにその背中を見つめていた。

 

だが、討伐の歓声が上がることはなかった。

元凶であったゲテヒトニスが完全に破壊されたことで、この地に発動していた「土地の記憶の具現化」の魔法が、急速にその効力を失いつつあったからだ。

 

ヒンメルの爪先から、淡く温かな光の粒子が立ち昇り始めていた。

輪郭がゆっくりと透き通っていき、彼がこの世界に留まれる時間が残りわずかであることを無言のうちに告げている。

 

「ヒンメル様……」

 

フェルンが悲痛そうに眉を寄せると、ヒンメルは振り返り、いつものように柔らかな眼差しを向けた。

 

「フェルン、シュタルク。見事な連携だったよ。……君たちのような素晴らしい後継者がフリーレンの隣にいてくれて、本当によかった。どうか、これからもあいつのことをよろしく頼むよ」

 

「……はい」

 

「任せてくれよ、ヒンメル」

 

二人が深く頷くのを見届け、ヒンメルは最後に、目の前に立つエルフの魔法使いへと視線を戻した。

 

光の粒子はすでに彼の腰元まで広がり、白いマントを風のように溶かしていく。

けれども、その青い瞳には一切の未練も、寂しさもなかった。ただ未来を歩む仲間たちと再び出会えたことへの、純粋な充足感だけが満ちている。

 

ヒンメルは自らの左目の下に指先を触れ、悪戯っぽく、可笑しそうに笑った。

 

「それにしても、僕の銅像には泣きぼくろがなかったのか。……やっぱり彫刻家には、もっと細かく注文をつけておくべきだったな」

 

おどけたその軽口に、フリーレンは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。

八十年前も、三十一年前の旅立ちの時も、この男はいつだってそうやって笑っていたのだ。

 

光に溶け、薄れゆく青年の姿を見つめながら、フリーレンは静かに、けれど確かな温もりを込めて告げた。

 

「じゃあ、またね。ヒンメル」

 

「ああ、またな。フリーレン」

 

最後の光の粒子が、澄み切った北部の風に乗って空へと舞い上がり、静かに消えていった。

 

残された砂漠には、沈み始めた穏やかな陽光だけが射し込んでいた。

 

* * *

 

砂漠を吹き抜ける熱風を背に受け、三人は再びボーネ村の小高い丘へと戻ってきた。神話の怪物が消滅したことで、大地を覆っていた重苦しい魔力圧は綺麗さっぱりと霧散し、草木を揺らす風もいつもの穏やかな冷涼さを取り戻している。

 

丘の上に建つ村長の家を訪ね、フリーレンは事の顛末を淡々と報告した。机を挟んで腰掛ける老いた村長は、皺の刻まれた両手で温かい茶の入ったコップを包み込みながら、驚きと深い感慨の入り混じった溜息を漏らした。

 

「……なるほど。『竜の墓場』に眠っていた神話時代の魔導具が、この地に残る記憶を形にしておったと。道理で、あり得ぬはずの光景が広がっていたわけじゃな」

 

先ほどまでこの部屋にいたはずの先代村長――若々しかった祖父の姿は、すでにどこにもない。だが、老村長の表情に悲壮感はなく、その濁った瞳にはどこか幼子のような無垢な温もりが宿っていた。手元には、古びた羊皮紙に震える筆跡で書き留められたばかりのメモが置かれている。

 

「爺様は、光となって消えてしまわれました。……じゃがな、消える間際、昔わしが幼い頃に母がよく作ってくれた、あの懐かしい野草のポタージュのレシピを教えてくださったのですよ。ずっと母にも聞き出せず、味の記憶だけが残っておったものでしてな。……不思議なこともあるものじゃ。まるで、夢を見ていたかのようじゃが……爺様に、もう一度会えて本当によかった」

 

しわがれた声で微笑む老人に、フェルンは静かに会釈を返した。たとえ魔導具が引き起こした一時的な幻影の奇跡であったとしても、旅立った者が抱いたままだった温かな記憶は、確かにこうして、未来へと手渡されたのだ。

 

三人は村長の家を出て、村の中央にある「祈りの広場」へと足を運ぶ。そこに聳え立っていたあの荘厳な石造りの教会は、跡形もなく消え去っていた。

 

かつての土台の敷石が広がる広場の中央には、何事もなかったかのように、手入れの行き届いた勇者ヒンメルの銅像が再び夕空の下に佇んでいる。腰の鞘に手を添え、晴れやかな眼差しで遠くを見据える英雄の彫像。フリーレンは立ち止まり、その整った横顔をじっと見上げた。

 

やはりその左目の下には、生前の彼にあったはずの小さな泣きぼくろは刻まれていない。

 

銅像を見上げるフリーレンの隣で、シュタルクが背負った大斧のベルトを直しながら、呆然としたような、どこか途方に暮れたような声を漏らした。

 

「……なあ、フリーレン」

 

「ん?」

 

「勇者ヒンメルって、あんなに強かったのか? ……師匠の技を思い出すような、いや、それ以上の凄まじい一撃だった。……正直、俺じゃとてもじゃないけど、一生追いつける気がしないぞ」

 

千メートルの超巨大竜を、ただ一振りの剣で両断してみせたあの神域の太刀筋。戦士として日々鍛錬を重ねるシュタルクにとって、その光景はあまりにも現実離れした圧倒的な高みとして目に焼き付いていた。

 

フリーレンは白いツインテールを風に揺らしながら、平坦な声で首を振った。

 

「流石に、当時のヒンメルでも千メートルの竜を真っ二つにしたりはできなかったよ。やっぱりあれは、この村の人たちの『イメージ』が形作った存在だ」

 

魔法はイメージの世界だ。百倍に誇張された大蛇の伝説を信じ、無敵の英雄として祈りを捧げ続けた村人たちの想いが、あの規格外の力を一時的に青年に与えていたに過ぎない。

 

「……でも、かなりヒンメルだったね」

 

フリーレンはふわりと目を細め、小さく口元を緩めた。

どれほど途方もない強さを纏っていようと、仲間を信じて背中を預け、誰かの笑顔のために完璧なカッコよさを貫こうとするその心根は、八十余年前に共に旅をしたあの青髪の勇者そのものだった。

 

その時、広場の木陰の方から、わっと弾けるような子どもたちの甲高い歓声が風に乗って届いてきた。

 

「聞いたか!? さっき砂漠の方から聞こえたデカい音、蘇った勇者ヒンメルが戦ってたんだって!」

 

「知ってるぜ! 十万メートルもある究極暗黒竜を一刀両断にしたんだろ!?」

 

「十万メートル!? すっげええええッ!」

 

子どもたちが目を輝かせて飛び跳ね、年老いた紙芝居屋が興味深げに耳を傾けている。

 

その会話が耳に入った瞬間、シュタルクの顎が外れんばかりに落ちた。

 

「……じ、十万メートル!?」

 

「十万メートル……。短時間でさらに百倍になっています。もはや雲を遥かに突き抜けて……オーロラでも食べるのでしょうか」

 

フェルンが木製の杖を抱え直し、至極冷ややかな半眼で広場の子どもたちを見つめてため息を吐いた。千メートルから十万メートルへ。子どもたちの誇張表現とはいえ、噂話と伝説の変貌速度には、もはや呆れるほかない。

 

「盛る速度が異常すぎるだろ! さっき倒したばっかりなのに、なんで大陸規模の化け物になってんだよ!?」

 

「ふふ、いいんじゃないかな」

 

頭を抱えるシュタルクの横で、フリーレンは悪戯っぽく笑いながら歩き出した。

 

「ヒンメルならきっと、『十万メートルの竜を斬る僕、最高に絵になるね』って胸を張って喜ぶと思うよ」

 

* * *

 

射し込む朝の陽光が、ボーネ村の緑を照らし出す。

村を後にした三人は、再び帝国領の果てしない街道へと足を踏み出していた。

 

澄み切った青空の下、乾いた風が吹き抜ける一本道を進む中、フリーレンが思い出したようにぽつりと言葉を零す。

 

「そういえばさ、この先の山道を東に二日くらい外れた村に、珍しい魔法の文献が伝わってるらしいんだよね」

 

「……どのような魔法ですか」

 

フェルンが警戒を露わにした声で問い返す。フリーレンは得意げに鼻を鳴らし、人差し指を立てて胸を張った。

 

「『硬いパンをしっとりさせる魔法』だよ」

 

「フリーレン様」

 

フェルンは足を止めると、両頬をふっくらと膨らませて、容赦のないジト目をエルフの師匠へと向けた。

 

「私たちは『魂の眠る地(オレオール)』を目指している途中です。そんなくだらない民間魔法のために、山道を四日間もかけて往復している時間はありません。完全に無駄な寄り道です」

 

「くだらなくないよフェルン。あのガチガチの携帯食のパンが柔らかくなるんだよ? 画期的な魔法だと思うけど」

 

「水分を含ませたりスープに浸せば済む話です。却下します」

 

「えー……」

 

不満げにアホ毛を揺らすフリーレンと、お母さんのように頑として譲らないフェルン。そのいつもの不毛なやり取りを眺めながら、シュタルクは背負った大斧の位置を直して、やれやれと苦笑いを漏らした。

 

そのとき、街道を歩く三人の頭上を、突如として巨大な闇が覆った。

 

陽光が遮られ、足元に落ちた濃い影は、街道はおろか遠くの山裾までを一瞬にして呑み込んでいく。吹き抜ける風の質が変わり、大気が低く、重厚に震えた。

 

「……なんだ? また魔物か!?」

 

シュタルクが反射的に身構え、背中の大斧に手を伸ばしかける。

だが、木製の杖を抱えたフェルンは攻撃態勢を取ることもなく、ただ静かに、息を呑んで遥かな天を見上げていた。

 

「……違います、シュタルク様。これは――」

 

見上げた空、遥か雲海の彼方を、島一つ分はあろうかという超巨大な影が悠然と泳いでいた。

 

天脈竜。

神話の時代より天空を漂い続け、地上の喧騒にも、魔導具の異変にも一切関知することなく、悠久の時を生き続ける空の巨竜。その広大な背には青々とした森や湖が乗り、巨大な翼が一度羽ばたくたび、巻き起こされた風が巡り巡って地上の木々を揺らす。

 

かつてヒンメルが「いつか背中に乗れるかも」と笑い、そして長い歳月を経て、フリーレンたちが本当にその背に降り立ったあの幻獣だった。

 

「……やっぱり、大きいね」

 

フリーレンは足を止め、白いツインテールを風に揺らしながら、ただ淡々とその巨影を目で追っていた。

 

砂漠で討ち倒した神話の巨竜も、かつてヒンメルが切り伏せた十メートルの大蛇も、そして百倍に膨らみ続けた勇者の伝説も。何万年という悠久の時の中では、すべてこの空を流れる雲のように、小さく愛おしい一幕に過ぎないのかもしれない。

 

天脈竜は、争いの残滓などどこ吹く風とばかりに、北の空の果てへとゆっくりと飛び去っていった。

巨大な影が大地を離れ、遮られていた陽光が再び三人へと降り注ぐ。眩しい光が砂埃を払い、吹き抜ける風を温かく染め直した。

 

「……行っちゃったな」

 

「はい。神話の時代から続く自然の、生きた伝説そのものですね」

 

シュタルクが呆然と呟き、フェルンが静かに頷く。

フリーレンは射し込む陽光に目を細め、胸元のケープを軽く整えると、杖を手に再び前を向いた。

 

「行こう。次の町まで、まだ結構歩くよ」

 

「はい、フリーレン様」

 

「へいへい。それにしても、腹減ったなあ。次の町では肉が食いたいぜ」

 

何気ない言葉を交わしながら、三人の足音が乾いた街道に響く。

くだらない寄り道を重ね、誰かの記憶に触れ、時に誰かを救いながら。

 

かつて勇者一行が駆け抜けた足跡の上を、彼らの意志を継ぐ新しい旅路が、『魂の眠る地(オレオール)』へと静かに続いていく。

 

くだらなく、けれど温かな寄り道をいくつも重ねながら。

三人の旅路は北の果て、遥かなる天脈の空の下へと伸びていった。

 

 

 

 

 

 

 

 




あとがき

これにて「勇者ヒンメルと竜の墓場の話」は完結です。
本作にお付き合いいただきまして、本当にありがとうございます。

お気付きの方も多いとは思いますが、原作13巻のボーネ村で語られた勇者ヒンメルの大蛇討伐の伝説をベースに、話を膨らませてみました。
原作のボーネ村の話は何気ない小話ですが、フリーレンのストーリーでも非常に重要な話ですよね。フランメ像の姿形やヒンメル伝説が正しく伝わっていなかったり、それをフリーレンが肯定的に捉えていたり、と。

今回は勇者ヒンメルさんにご活躍いただきましたが、死者蘇生というのはフリーレン世界にNGだと思ったので、イメージの具現化というカタチでの登場となりました。
お楽しみいただけていれば幸いです。

あと、でっかい化石が動き出すのって、ロマンですよね!

改めまして皆様、読了、本当にありがとうございました。
最後にページ下部より評価や感想を付けていただけると、とてもとても嬉しいです。次回作への励みになります!
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