The Amazing Spider-Man 3: Shadow of the Kingpin 作:八二一
リバティ島の夜。
建設用の足場に覆われた自由の女神像の周囲を、一人のスパイダーマンが飛び回っている。だが、そこにいるのは彼一人ではなかった。
見たこともないゴブリン、身体を砂へと変える男、機械のアームを操る男。そして、自分と同じピーター・パーカーという名前を持つ二人のスパイダーマン。
互いに励まし合い、背中を預けて戦ったリバティ島でのあの夜は、今では夢のように遠い記憶になっていた。
――ジリリリリリッ!!
突然、けたたましい目覚まし時計の音が鳴り響き、ピーターは勢いよく飛び起きた。
「……やばい!」
時計を見る。完全に寝坊している。
狭いワンルームの部屋には、彼の生活がそのまま表れていた。机の上には分解されたウェブシューターや工具、数式で埋め尽くされたノート、飲みかけのコーヒーが置かれ、床には脱ぎっぱなしの服や本が散乱している。玄関のポストには、家賃の督促状が何通も差し込まれたままだった。
ピーターはメイおばさんの家を出て、一人暮らしを始めていた。現在はESU――エンパイア・ステート大学――の大学院博士課程に在籍し、研究補助員として働きながら生活費を稼いでいる。空いた時間には企業からの技術相談や小規模な受託開発、自作ガジェットの販売なども行っているが、それでも生活は決して楽ではない。
慌ただしくネクタイを締めて部屋を飛び出したピーターは、そのまま自転車へ飛び乗る。地下鉄代すら惜しい彼にとって、自転車は今や欠かせない移動手段だった。
今日も必死にペダルを漕ぎながら、朝のニューヨークを駆け抜けていく。
やがて、デイリー・ビューグル本社の前を通り過ぎる。ビルの壁面に設置された巨大ビジョンでは、J・ジョナ・ジェイムソンが朝から声を張り上げていた。
「聞いてくれ、市民諸君! スパイダーマンはヒーローなんかじゃない! あれはニューヨークに巣食う害虫だ!」
道行く人々の中には笑いながら見ている者もいれば、まるで興味がない様子で通り過ぎていく者もいる。
ピーターは大型ビジョンを横目で見ながら、小さく苦笑した。
(……やっぱり就職しなくて正解だったな。)
そんなことを考えながら走っていると、遠くから車の急ブレーキと人々の悲鳴が聞こえてきた。
ピーターは自転車を止め、小さくため息をつく。
「朝からか……」
人気のない路地裏へ駆け込むと、リュックを放り投げ、シャツのボタンを外す。次の瞬間には、赤と青のスーツを身にまとったスパイダーマンがニューヨークの空へ飛び出していた。
暴走するセダンを追いかけながら、ビルからビルへとウェブを繋いでいく。トランクへウェブを撃ち込み、車を止めようとしたその時、スマートフォンから着信音が鳴った。
画面には「ESU 研究室」の文字。
「あっ。」
そのまま通話を繋ぐ。
「パーカー? もう全員集まってるぞ。」
スパイダーマンは片手でウェブを撃ちながら答えた。
「あぁ、すいません!」
その間にも、暴走車は交差点へ向かって突っ込んでいく。
「今ちょっと立て込んでて!」
「またか? 今日は教授も――」
「あと五分! 本当に五分だけ!」
その瞬間、暴走車の進路上へ小さな男の子が飛び出した。
「しまった!」
スパイダーマンは即座に通話を切る。
「ごめんなさい!」
スマートフォンをしまう暇もなく男の子へ飛び込み、ギリギリのところで抱きかかえる。そのまま道路を転がった直後、暴走車は街路樹へ激突した。
「大丈夫?」
腕の中の男の子は、目を丸くしながら頷く。
「う、うん……。」
「よかった。」
スパイダーマンは男の子を母親のもとへ返す。安心したように我が子を抱きしめる母親を見届けてから振り返ると、車から這い出した犯人たちが、ふらつきながら路地へ向かって逃げ出していた。
「あっ、逃げる。」
すぐにウェブを撃ち、一人の足へ絡みつかせる。そのまま勢いよく引っ張ると、三人まとめて宙へ放り投げられた。
「うわぁぁぁ!」
さらに立て続けにウェブを撃ち込み、三人まとめてぐるぐる巻きにすると、そのまま交差点の信号機へ逆さ吊りにする。
「朝から逆さ吊りなんて趣味悪いなぁ。」
犯人たちは必死にもがくが、ウェブはびくともしない。遠くからパトカーのサイレンが近づいてくるのを確認すると、スパイダーマンは空を見上げて小さく息を吐いた。
「じゃ、あとはよろしく。」
ウェブを撃ち、そのままビルの谷間へ飛び去っていく。
数秒後、現場へパトカーが到着する。警察官たちは信号機から逆さ吊りになっている犯人たちを見上げ、揃って苦笑した。
「また
「報告書が楽になるぜ。」
別の警官が辺りを見回す。
「……もういないな。」
ニューヨークの朝は、何事もなかったかのように再び動き始める。
その頃、スパイダーマンはすでにビルの谷間を縫うようにスイングしていた。片手でウェブを撃ちながら、もう片方の手でスマートフォンを確認する。
不在着信、一件。
ESU 研究室。
「まずい……。」
ビルの屋上へ着地すると、人気のない路地へ飛び降りる。慣れた手つきでマスクを脱ぎ、スーツを服の下へ押し込み、置いてあったリュックを背負い直す。最後にスマートフォンの画面を鏡代わりにして髪を整えた。
「よし。」
ピーターは再び自転車へ飛び乗り、ESUへ向かって全力でペダルを踏み込んだ。
ESU。
研究室のドアが勢いよく開く。
「すみません!」
室内の視線が一斉にピーターへ向いた。教授は腕時計を確認してから、小さくため息をつく。
「パーカー。また事件か?」
ピーターは一瞬だけ言葉に詰まった。
「……えぇと、まぁ、そんなところです。」
教授は呆れたようにしながらも、どこか慣れた様子で苦笑する。
「毎回同じ言い訳だな。」
周囲の学生たちからも笑いが漏れた。
「でも。」
教授は机の上に置かれていた資料を手に取る。
「先週提出した解析レポート。アレは非常に良かった。発想も理論も申し分ない。」
ピーターの表情が少し明るくなる。
「もう少し時間を守れるようになれば、完璧なんだが。」
「努力します……。」
苦笑いしながら席へ着くと、隣にいた学生が小声で話しかけてくる。
「相変わらず遅刻魔だな。」
「そうなんだよ。」
「でも教授、お前のこと結構気に入ってるよな。」
「怒られるけどね。」
「能力は認められてるってことだろ。」
ピーターは少し照れくさそうに肩をすくめた。
研究室での一日は、あっという間に過ぎていく。
ピーターは顕微鏡を覗き込み、集めたデータを整理し、教授や学生たちと議論を交わしていく。普段は遅刻ばかりしている少し頼りない青年に見えるが、専門的な話になれば表情は一変する。
そこにいるのは、一人の優秀な研究者だった。
夕方。
研究室を出たピーターは、廊下で軽く背伸びをした。
「終わったぁ……。」
スマートフォンを確認する。
今日の予定は空白だった。
「……ってことは。」
窓の向こうに広がる空を見上げる。
「仕事の時間だ。」
少し後には、赤と青のスーツへ着替えたスパイダーマンが、夕日に染まるニューヨークの空へ飛び出していた。
夕暮れから夜にかけて、スパイダーマンは街中を飛び回った。
ひったくりを止め、ドラッグの売人を捕まえ、コンビニ強盗を取り押さす。時には、木から降りられなくなった猫を助けるような些細な頼み事にも応じる。
派手な事件ばかりではない。それでも、ニューヨークのどこかで誰かが助けを求めれば、彼はそこへ駆けつける。
夜。
パトロールを終えたスパイダーマンは、エンパイア・ステート・ビルの頂上へ降り立った。
静かな夜風が吹き抜ける。眼下には無数の明かりが広がり、ニューヨークはまだ眠る気配を見せていない。
スパイダーマンはマスクを顎まで少しだけずらして息をつくと、ポケットからスマートフォンを取り出した。夜景へ向けてカメラを構え、シャッターを切る。
カシャ。
撮ったばかりの写真を見返し、小さく笑った。
「ここが、僕の街だ。」
夜のオズコープタワー。
昼間まで多くの社員で賑わっていたオフィスは、すっかり静まり返っていた。
月明かりが窓ガラスへ反射する廊下を、一人の女性社員がヒールの音を響かせながら歩いていく。女性は社員証をかざして電子ロックを解除すると、周囲に誰もいないことを確認し、小さく笑った。
「さて。」
髪をほどき、胸元から細いワイヤーを取り出す。それをセキュリティパネルへ差し込みながら呟く。
「仕事の時間。」
数秒後、電子音とともにロックが解除された。
女性――フェリシア・ハーディは研究室へ足を踏み入れると、机の上へノートPCを置き、オズコープのサーバーへアクセスする。
画面には膨大な研究データが次々と表示されるが、フェリシアは迷うことなく必要なものだけを抜き出していった。
「……相変わらず面白いもの作ってるじゃない。」
転送ボタンを押す。
画面に「送信完了」の表示が現れる。
フェリシアはUSBを抜き取ってPCを閉じると、部屋を出る直前、一度だけ研究室を振り返った。
「こんな物まで売り物になるなんて。」
小さく肩をすくめると、再び何事もなかったかのような社員の顔へ戻り、静かな廊下を歩き去っていった。
別の場所にある、一台のPC。
画面には「受信完了」の文字が表示されている。
その前には、一人の巨漢が座っていた。部屋は暗く、モニターから漏れるわずかな光だけでは、その顔まではっきりと見ることができない。
男は送られてきたデータを一通り確認したが、何も言わない。
やがて静かにモニターの電源を落とすと、椅子からゆっくりと立ち上がった。
重い足音を響かせながら廊下を進み、厳重なセキュリティゲートを抜けて地下へ向かう。指紋認証と虹彩認証を通過すると、分厚い防爆扉が開いた。
その先には巨大な地下ラボが広がり、多くの研究員たちが慌ただしく作業を続けている。
しかし、大男が姿を現した瞬間、ラボ全体が静まり返った。
「主任はいるか。」
その声を聞き、一人の研究者が工具を置いて歩いてくる。
黒人の中年男性で、白衣の袖をまくり、穏やかな表情を浮かべている。
「ウィル。」
研究者は苦笑した。
「そう大きな声を出さないでくれ。」
大男は周囲には目も向けず、端的に尋ねる。
「商品の生産状況は。」
「順調だよ。」
そう答えながらも、研究者の表情にはわずかな疲れが見えていた。
「ただ、最終調整がまだ残っている。」
「見せろ。」
研究者はウィルと呼んだ大男をラボの奥へ案内した。
さまざまな装置の間を進み、一つの作業台の前で足を止める。研究者が上に掛けられていた布をつまみ、ゆっくりと取り払うと、その下から一組の大型ガントレットが姿を現した。
鈍い鉄色をしたガントレットには塗装すら施されておらず、無骨な金属の塊という印象が強い。装甲の継ぎ目からは配線や冷却パイプがむき出しになり、各所には調整用のマーキングがペンで書き込まれている。
完成した兵器というより、まだ試験段階にある工業機械そのものだった。
大男は興味深そうにガントレットを見つめる。
「ほう。」
研究者は少し嬉しそうに説明を始めた。
「これは衝撃波を発生させる機構を――」
しかし、大男は軽く手を上げて言葉を遮った。
「詳しい理屈はいい。売れるのか?」
研究者は露骨には出さないものの、少しだけ不満そうな表情を浮かべた。
「ああ。だが、最終調整が終わっていない。」
「すぐ終わらせろ。買い手が見つかった。」
それだけ告げると、大男は踵を返し、ラボを後にしていく。
その背中を見送りながら、研究者は肩を落とした。
「……これだから。」
小さく息を吐く。
「科学を何だと思ってるんだ。」
その時、ポケットに入れていた個人用のスマートフォンが小さく震えた。
研究者は端末を取り出し、画面に表示された送り主の名前を確認する。その瞬間、表情がわずかに変わった。
地下鉄。
廃棄されたルーズベルト駅。
長年放置された石造りのホームには埃が積もり、人の気配はまったくない。
ピーターが古びた改札機へコインを入れると、小さな電子音が鳴った。
それを合図に線路の一部がゆっくりと変形し、さらに地下から古い地下鉄車両がせり上がってくる。
車両が停止すると、古びたドアが静かに開いた。
しかし、その内部は普通の地下鉄車両とはまるで違っている。座席は取り払われ、代わりに実験台や分析装置、薬品棚が並び、車両そのものが一つの研究室へと改装されていた。
ここは、父リチャード・パーカーが遺した秘密の研究室。
今ではピーターだけが知る秘密基地となっている。
机の上には分解されたウェブシューターが置かれ、ホワイトボードは数式で埋め尽くされている。その隣には、オズコープ製ウェブのデータシートと、ピーター自身が設計した新しいウェブの図面が並んでいた。
ピーターはPCの前に座り、画面に表示された返信を何度も読み返している。
OTTO[その条件なら、触媒の比率ではなく、高分子ポリマー側の構造を見直した方がいい]
「……なるほど。」
ピーターは立ち上がってホワイトボードへ向かい、数式の一部を書き換える。
それを確認しながら薬品を混ぜ合わせ、慎重に攪拌した液体を新しいカートリッジへ注ぎ込んだ。
完成したカートリッジをウェブシューターへ装填し、小さく息を吐く。
「よし。」
ピーターは車両から降り、静まり返ったルーズベルト駅のホームへ出た。
壁に掛けられた時計は何年も前の時刻で止まったままで、ホームの壁や柱には、これまでピーターが実験で撃ち込んだウェブの跡が無数に残っている。
ピーターは一本の柱へ向かってウェブシューターを構えた。
「さて……。」
手首の角度を調整する。
「OTTO理論の初実験。」
一度だけカートリッジへ目を向ける。
「頼むぞ。」
指先に力を込めようとした、その瞬間だった。
ピッ。
静かなホームに電子音が響く。
ピーターは思わず手を止め、腰のスマートフォンへ目を向けた。
警察無線を傍受するためのアプリから、緊急通知が届いている。
『応援要請。マンハッタン第一銀行。武装した男が銀行へ侵入。対象は高出力エネルギー兵器を所持。繰り返す。対象は高出力エネルギー兵器を――』
ピーターはスマートフォンと、装着したばかりのウェブシューターを交互に見た。
「……タイミング悪いな。」
完成したばかりのカートリッジへ目を落とし、少し考える。
「いや……まだ試してない。」
もう一度、ウェブシューターを見る。
「いきなり実戦はマズイかな。」
ピーターは新しいカートリッジを取り外し、作業台へそっと置いた。代わりに、これまで使い慣れてきたオズコープ製ウェブを装填する。
「続きは帰ってから。」
マスクを被る。
次の瞬間にはスパイダーマンとなって廃駅を駆け抜け、そのまま地上へと続くトンネルへウェブを撃ち込み、ニューヨークの街へ向かって飛び出していった。