The Amazing Spider-Man 3: Shadow of the Kingpin 作:八二一
フィスクタワー最上階、社長室フロア。
壁一面がガラス張りになった広大な空間には、昼のニューヨークが広がっている。黒い大理石の床の中央には、重厚なマホガニーのデスクが一台だけ置かれ、その向こうでウィルソン・フィスクが静かに椅子へ腰掛けていた。
窓の下では、何台もの警察車両がフィスクタワーを取り囲んでいる。
やがて、天井付近から赤と青の影がゆっくりと降りてきた。
スパイダーマンが床へ降り立つ。
「やあ。」
キングピンはすぐには顔を上げなかった。机の上に広げていた書類を一枚閉じ、それからようやく口を開く。
「ようこそ。招待した覚えはないが。」
スパイダーマンは肩をすくめる。
「受付が忙しそうだったからね。」
キングピンはそこで初めて視線を上げた。
「オットーはどうした。」
「警察が保護したよ。」
「そうか。」
それだけだった。
表情にも声にも、動揺した様子はまるでない。
スパイダーマンは一歩前へ出る。
「もう終わりだ、キングピン。証人もいる。警察も来てる。君は逃げられない。」
キングピンは静かに笑った。
「終わり……か。」
ゆっくりと椅子から立ち上がる。
「スパイダーマン。お前は、まだ私を知らない。」
スパイダーマンは警戒して身構える。
「知る気もないよ。刑務所でする自己紹介でも――」
その言葉の途中で、キングピンが両手をデスクへ掛けた。
ゴゴッ……!
巨大なマホガニーのデスクが床から持ち上がる。
「嘘だろ!?」
キングピンは何の躊躇もなく、そのままデスクを投げつけた。
ドォォン!!
スパイダーマンは咄嗟に右へ跳ぶ。
「そんなの当たら――」
最後まで言い切る前に、キングピンはすでに目の前まで踏み込んでいた。
デスクを投げること自体が攻撃の本命ではない。スパイダーマンが回避する方向を読んだうえで、その先へ回り込んでいた。
「避けることは分かっていた。」
低い声と同時に、巨大な拳が振り抜かれる。
「しまっ――」
ドゴォォォンッ!!
拳がスパイダーマンの脇腹へ深くめり込んだ。
肺の中の空気が一気に押し出される。
「がっ……!」
身体が宙へ浮き、そのまま社長室を一直線に吹き飛ばされる。何枚ものガラス製パーテーションを突き破り、最後は壁へ激突したあと、大理石の床を何度も転がってようやく止まった。
一瞬、社長室が静まり返る。
キングピンはゆっくりと歩いてくる。
呼吸はまったく乱れていない。
スパイダーマンは咳き込みながら身体を起こした。
「っ……!」
呼吸が浅い。
脇腹を押さえると、肋骨の感覚がおかしい。何本か折れていても不思議ではなかった。
「……嘘。」
苦しそうに笑う。
「ショッカーより……重い。」
立ち上がろうとするが、膝がわずかに震える。
「トラックに轢かれたみたいだ……。」
キングピンは淡々と言った。
「ガントレットなど必要ない。」
拳を軽く握る。
「武器とは、弱い者が使う物だからな。」
スパイダーマンは慎重に距離を取る。
「真正面はダメだ……。」
すぐにウェブを撃った。
バシュッ!
ウェブがキングピンの胸へ命中する。
「捕まえ――」
キングピンは胸元のウェブを見下ろすと、無言でそれを掴んだ。
「!」
スパイダーマンの表情が変わる。
「え、ちょっ――」
次の瞬間、キングピンが力任せにウェブを引いた。
「うわぁっ!」
スパイダーマンの身体が一気に引き寄せられる。
空中で体勢を立て直そうとするが、キングピンはすでに拳を振りかぶっていた。
「しまっ――」
ドゴォン!!
強烈な振り下ろしが直撃し、スパイダーマンはそのまま床へ叩きつけられた。
黒い大理石に亀裂が走り、身体がわずかに床へめり込む。
キングピンは手元に残ったウェブを見つめ、ゆっくりと力を込めて引きちぎった。
「便利な道具だ。」
千切れたウェブを床へ捨てる。
「ブラックマーケットなら、さぞ高く売れるだろう。」
スパイダーマンは痛みに顔をしかめながら起き上がる。
「……悪いけど、非売品なんだ。」
キングピンは淡々と続けた。
「金になる物には、すべて価値がある。人も、技術も、道具も。」
スパイダーマンを真っ直ぐ見る。
「お前も例外ではない。」
そこからは、まともに拳を受けないための戦いになった。
スパイダーマンはキングピンの攻撃を紙一重でかわしながら、ウェブで距離を取り、壁を蹴り、天井へ飛び移って攻撃方向を散らしていく。
一方のキングピンは、逃げ回るスパイダーマンを追うたびに柱を砕き、壁を打ち抜いた。
拳が外れるたび、社長室のどこかが壊れていく。
戦いが続くにつれ、整然としていた空間は少しずつ廃墟のような姿へ変わっていった。
キングピンが低く呟く。
「しぶといな。」
スパイダーマンは息を切らしながら笑う。
「それ、褒め言葉?」
次の瞬間、スパイダーマンは天井の照明へウェブを撃ち込み、一気に引いた。
巨大なシャンデリアが支えを失い、そのままキングピンの頭上へ落下する。
ドォン!!
床が大きく揺れ、破片と埃が周囲へ舞い上がった。
スパイダーマンは煙の向こうを見つめる。
「やったか――」
その瞬間、煙の中から拳が飛んできた。
「うわっ!」
スパイダーマンは身体を反らし、間一髪でかわす。
煙の中から姿を現したキングピンも無傷ではなかった。頬からは血が流れ、シャツは裂け、ジャケットも傷だらけになっている。
二人はしばらく距離を取り、互いを見た。
社長室には荒い呼吸だけが響く。
キングピンは何も言わず、ゆっくりとジャケットを脱いだ。
そのまま床へ落とす。
続いてネクタイをほどき、それも捨てた。
スパイダーマンは構えを崩さないまま苦笑する。
「やっとあったまってきた?」
キングピンは答えない。
両手でシャツの袖を掴む。
ビリィッ!!
力任せに引きちぎると、その布を右拳へ巻き始める。
続いて左拳。
一周、二周と固く締め上げ、まるでリングへ上がるボクサーのように両拳を布で覆っていく。
最後に一度だけ拳を握った。
ギシッ。
スパイダーマンの笑みが消える。
「……今まで本気じゃなかったの?」
キングピンは静かに顔を上げた。
「残念だったな。」
拳を構える。
「今までのは、ウォーミングアップだ。」
スパイダーマンも構え直す。
「奇遇だね。」
わずかに腰を落とす。
「僕も同じこと考えてた。」
二人が同時に床を蹴った。
ドンッ!!
正面から一気に距離が縮まる。
キングピンが右拳を振り抜く。
だが、スパイダーマンは避けるのではなく、その懐へ真正面から飛び込んだ。
「今だ!」
腰からウェブボムを取り出し、そのままキングピンの右拳へ押し付ける。
「プレゼント!」
パシュンッ!!
反射的にキングピンが拳を握った。
その瞬間、ウェブボムが炸裂する。
圧縮されたウェブが一気に広がり、握り込まれた拳を包み込んでいく。指と指の間から手首、さらに前腕までが一瞬で固められた。
キングピンは自分の右拳を見下ろす。
力を込める。
ウェブが軋む。
だが、拳は開かない。
スパイダーマンは距離を取りながら笑った。
「知ってる? 人間って、握る力より開く力の方が弱いんだ。」
キングピンは答えない。
右手が使えないまま、左拳だけでスパイダーマンへ殴りかかる。
「うわっ!」
スパイダーマンがかわすと、拳はそのまま柱へめり込んだ。
ドォン!!
柱に大きな亀裂が走る。
キングピンは構わず追撃を続けた。
床を踏み抜き、別の柱を砕き、さらに壁まで打ち抜いていく。
社長室フロア全体が、度重なる破壊に耐えきれなくなっていた。
天井からコンクリート片が落ち、窓ガラスには次々と亀裂が走る。
スパイダーマンは戦いながら周囲へ目を走らせた。
「……。」
建物全体から嫌な振動が伝わってくる。
「来る。」
それでもキングピンは止まらない。
スパイダーマンへ向かって突進する。
「終わりだ!」
残った左拳を振り下ろす。
ドゴォォン!!
床へ拳が叩き込まれた。
その衝撃で、すでに限界へ達していた大理石の床に巨大な亀裂が走る。
亀裂は一気に広がり、周囲の柱や梁へまで達した。
「!」
スパイダーマンが異変に気づく。
「しまっ!」
次の瞬間、社長室フロアの一部が耐えきれず崩落した。
二人の足元が消える。
スパイダーマンとキングピンは、砕けた大理石や鉄骨と共に下階へ向かって落下していく。
キングピンは空中でもなおスパイダーマンへ拳を振るおうとするが、足場がないため思うように身体を動かせない。
スパイダーマンは落下しながら一瞬だけ目を閉じる。
「ごめん。」
次の瞬間、両手からウェブを撃ち始めた。
一本、二本と次々に撃ち込み、崩れ残った柱や梁、外壁、露出した鉄骨へウェブを繋いでいく。
同時にキングピンの身体にも何本ものウェブを絡ませる。
撃ち込まれたウェブは互いに交差しながら張力を分散し、崩落したフロアの空間に巨大な蜘蛛の巣を作り上げていった。
キングピンの巨体が、その中心で止まる。
宙吊りになったキングピンは一度だけ全身へ力を込めた。
ウェブが大きく軋む。
何本かは今にも切れそうになる。
スパイダーマンは、崩れ残った鉄骨へ張り付きながら静かにその様子を見つめた。
「引きちぎれるよ。君なら。」
少し間を置く。
「でも……。」
キングピンも下を見る。
遥か下方には、フィスクタワーのエントランスホールが見える。
警察隊の姿すら豆粒ほどの大きさにしか見えない。
ここでウェブを引きちぎれば、そのまま何十階もの高さを落下する。
さすがのキングピンでも助からない。
しばらく沈黙が続いた。
やがて、キングピンはゆっくりと拳から力を抜いた。
抵抗をやめる。
スパイダーマンも小さく息を吐いた。
「ありがとう。」
キングピンは巨大な蜘蛛の巣の中心で身動きを封じられている。
少し離れた場所では、スパイダーマンが突き出した鉄骨の上へ移り、荒い呼吸を整えていた。
「終わりだね、キングピン。」
キングピンはしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑う。
「……終わり?」
笑い声は少しずつ大きくなっていく。
「ハハ……。」
やがて、はっきりとした笑い声へ変わった。
「ハハハハハッ!」
スパイダーマンは眉をひそめる。
「何がおかしい。」
キングピンはウェブに拘束されたまま顔を上げた。
「勝ったと思ったか。私を捕まえられると?」
スパイダーマンは黙って聞く。
「サーバーのデータなど、すでに消去済みだ。」
キングピンは勝ち誇ったように続ける。
「警察が押収する頃には、何一つ残ってはいない。証人一人の証言だけで、私を裁けると思うな。」
笑みを浮かべる。
「戦いには負けた。だが、私は勝負に勝った。」
スパイダーマンを見上げる。
「残念だったな、スパイダーマン。」
スパイダーマンは何も答えない。
その時、スマートフォンから電子音が鳴った。
ピッ。
警察無線からの通信だった。
スパイダーマンは端末を取り出し、スピーカーモードへ切り替える。
「……OTTO?」
落ち着いた声が返ってきた。
「ウィル。負けたのは、君の方だ。」
キングピンの笑みが止まる。
「……オットー。」
オットーの声は穏やかだった。
「サーバーの情報は、すべて私がコピーを取っている。」
キングピンの表情が初めて変わる。
「君には秘密にしていたが、研究者は実験データを一つの場所には置かない。」
少し間を置く。
「事故は必ず起きる。だから、私はバックアップを作っていた。」
スパイダーマンは思わず笑う。
「さすが。」
オットーは続ける。
「君が消したのは本体だけだ。資金の流れ、密売ルート、顧客リスト。すべて警察へ提出した。」
さらに静かに言い切る。
「私の証言と合わせれば、もう言い逃れはできない。」
長い沈黙が流れる。
キングピンは初めて目を閉じた。
そして、小さく呟く。
「……いつからだ。」
オットーは静かに答えた。
「最初からだ。」
少しだけ間が空く。
「私は君を尊敬していた。」
そして、最後の一言を続ける。
「だが、信用はしなかった。」
通信が切れる。
静寂が戻る。
キングピンはもう笑わなかった。
スパイダーマンがゆっくりと近づく。
「今度こそ、終わりだ。」
キングピンは何も答えず、もう抵抗もしない。
遠くからヘリコプターの音が近づいてくる。
その音を聞きながら、キングピンは静かに目を閉じた。