裏社会のジョーカー、現代ダンジョンで成り上がる ~世界最大の賭場に人生を賭ける~ 作:パラレル・ゲーマー
神崎隼人が、西新宿の古びた賃貸アパートの自室へと帰り着いたのは、日付が変わってさらに二時間が経過した頃だった。
薄暗い玄関で靴を脱ぐ動作すら、ひどく億劫に感じる。黒を基調とした安物のシャツとジャケットには、微かにタバコの煙と、地下特有の淀んだ空気の匂いが染み付いていた。
ネクタイを乱暴に引き剥がし、ジャケットごとハンガーに掛けることもせずパイプベッドの上へ放り投げる。
今日の仕事は、十二時間に及んだ。
都内の某所、窓のない地下室で行われた大勝負。そこに自分の席はなく、ただ依頼主の代わりにカードを引き、チップを積むためだけに呼ばれた代打ちの仕事だった。
テーブルの上を飛び交った賭け金の総額は、開始数時間で数えるのをやめた。それは隼人の金ではないし、隼人自身の勝負ですらない。ただ、勝つために呼ばれ、勝つための最善手を打ち続け、そして事実として今日も勝った。それだけの夜だ。
洗面所で手を洗う。石鹸で汚れを落としても、指先にはまだ、分厚いプラスチックのチップを弾いた時の重みと、トランプの滑らかな感触がこびりついているようだった。
キッチンへ向かい、モーター音のうるさい小さな冷蔵庫を開ける。中には数本のミネラルウォーターと、賞味期限の切れた調味料しかない。ペットボトルを取り出し、冷たい水を喉に流し込む。
家賃数万円の、生活感の薄い狭い部屋。家具は必要最低限。しかし、数時間前まで隼人が動かしていた金は、このアパートごと買い取ってもまだお釣りが来るほどの額だった。
その落差が、今の隼人の立ち位置を如実に表している。
ポケットの中で、スマートフォンが短く震えた。
画面を点灯させると、銀行アプリからの入金通知が表示されていた。
『振込:10,000,000円』
八桁の数字。
それを見ても、隼人の表情は微動だにしなかった。
「……入ったか」
独り言のように短く呟き、通知をスワイプして消す。彼にとって百万、千万という単位の金は、もはや驚くべき対象ではない。ただの記号であり、勝負の結果を示す数字でしかなかった。
通知を消した直後、入れ替わるように画面が着信を知らせた。
登録名はない。ただの羅列された電話番号。隼人は一瞬だけその番号を見つめ、無表情のまま通話ボタンを押して耳に当てた。
『大勝負の代打ち、ご苦労だったな』
スピーカーの向こうから、ひどく上機嫌な、それでいてどこか腹の底を見せない男の声が響いた。
『今回の取り分、一千万。さっき振り込んどいたぞ。確認したか?』
「確認した」
隼人は短く返す。声のトーンは、冷水を飲んだ直後よりもさらに冷え切っていた。
『相変わらず愛想のねえ野郎だな。もう少し喜べよ。一千万だぞ? その辺のサラリーマンが何年働いて稼ぐ額だと思ってんだ』
「仕事の報酬だろ。勝ったんだ、当然の対価だ」
隼人は金額に舞い上がるような人間ではない。それを知っているはずの男は、スピーカーの奥で愉快そうに喉を鳴らした。
『まあ、そうだな。だが、その大金もどうせ妹さんの治療費で右から左へ消えるんだろうけどな』
ピタリと、隼人の動きが止まった。
握ったペットボトルが、微かに軋む。
「……黙れ」
低く、押し殺した声。
男は少し笑った。隼人のその反応を、まるで酒の肴にでもしているかのように。
『おっと。俺に向かってそんな口を利いていいのか? お前が首が回らなくなった時、最初に金を貸してやったのは誰だったかな』
恩着せがましい言葉の裏にあるのは、絶対的な優位性だ。男の言う通り、隼人には莫大な借金がある。妹の命を繋ぐために、最後には裏社会の人間から借りるしかなかった金。
『次の卓が決まったら、また連絡する』
「いつだ」
『知らねえよ。来週かもしれねえし、二ヶ月先かもしれねえ。俺たちが席を用意した時が、お前の仕事の時間だ』
「……」
『呼んだ時は来い。お前は高いんだからな、ジョーカー』
一方的に通話が切れる。ツーツーという無機質な音が耳に響いた。
裏の賭場において、神崎隼人を本名で呼ぶ者は少ない。彼らは皆、隼人のことを《JOKER》という異名で呼ぶ。切り札であり、何をしてくるか分からないジョーカー。
その名を付けたのが誰だったのか、隼人自身ももう覚えていない。
スマホをテーブルに放り投げ、隼人は深く息を吐いた。
一千万。普通に生きている人間からすれば、人生の軌道を変えるには十分すぎる大金だ。
しかし、隼人の場合は違う。
妹・美咲の今月分の入院費と、特殊な治療にかかる費用。それだけで約三百万。
残った金から、男たちへの借金の返済と利息が差し引かれる。
三年前。美咲が病に倒れた頃、隼人には今ほどの値札はついていなかった。貯金を使い果たし、まともな金融機関から借りられる金も尽き、それでも翌月には新しい治療費が必要になる。足りない分を借り、稼いでは返し、病状が悪化すればまた借りる。その繰り返しだった。
数百万だった借金は千万を超え、億を超え、今では残債だけで四億近い。
一千万という金が少ないのではない。これまで三年間に積み重なった負債が、それ以上に大きすぎるのだ。
画面をタップし、メッセージアプリを開く。
一番上のトーク履歴には、美咲からの未読メッセージが溜まっていた。
『お兄ちゃん、今日も仕事?』
『ちゃんと寝てね。無理しちゃだめだよ』
『この前言ってた絵、もうちょっとで完成しそう。今度病院に来た時、見せるね』
画面越しの妹の言葉は、いつも通り明るく、兄を気遣う優しさに溢れている。
美咲は、兄が「少し危ない仕事」をして稼いでいることまでは察しているようだが、それが非合法な地下賭場の代打ちであることまでは知らない。
隼人はフリック入力で短く返す。
『今帰った』
『お前こそ早く寝ろ』
『絵は完成したら見せろ。楽しみにしてる』
送信ボタンを押す。
直後、メールアプリに新着通知が入った。病院からの今月分の請求書データだ。
合計金額、約三百万。
美咲が三年前に発症した病の名は、《環境魔素不適合症》。
十年前、世界各地にダンジョンが出現して以降、ごく稀に確認されるようになった難病だ。大気中に存在するようになった微量の魔素に身体が適応できず、免疫系や臓器に異常を引き起こす。
大多数の人間にとって魔素は無害だ。探索者にとっては、むしろ力の源ですらある。
だが、ごく一部の人間にとっては違う。
美咲は、そのごく一部だった。
基本的な入院や検査には公的な支援がある。それでも、美咲の症状を抑えるために使われている新薬や、ダンジョン由来の希少素材を用いた治療の多くは、いまだ保険適用外だ。治療法そのものも確立されておらず、今はただ病状の進行を抑え続けるしかない。
隼人は、美咲への返信を打っていた時の微かな柔らかさを消し、無言でその通知を閉じた。
(……詰んでるな)
金を稼ぐ手段がないわけではない。
だが、主導権を完全に握られている。
隼人には、大勝負のたった一晩で一千万を稼ぎ出せるだけの技術と度胸がある。だが、三年かけてそこまで上り詰めても、状況は一向に好転しない。
理由は明確だ。仕事が不定期であり、胴元を自分で選べない。妹の存在という最大の弱みを握られている以上、理不尽な要求も簡単には断れない。勝ちすぎれば、裏の人間たちから別の形で目をつけられる危険もある。
何より致命的なのは、収入の天井を自分で決められないことだ。
(一千万。大金だ。それでも、四億を返すには何十回必要になる?)
しかも、次の仕事がいつ来るかも分からない。来たところで、条件を決めるのは隼人ではない。
卓を用意するのも、レートを決めるのも、取り分を決めるのも、全部向こうだ。
このまま何年も勝ち続ければ、いつかは借金を返せるかもしれない。
問題は、それまで同じ卓に座り続けること自体が、あまりにも馬鹿げた賭けだということだった。
「……割に合わねえな」
暗い部屋に、誰に宛てたわけでもない独り言が落ちた。
気分を変えようと、隼人はスマホのニュースアプリを開いた。
トップニュースのバナーが、やけに派手な色彩で目に飛び込んでくる。
『日本トップ探索者“雷帝”神宮寺猛、A級ダンジョンのボスをソロ討伐!』
画面をタップすると、動画配信のアーカイブが再生された。
今の世の中において、ダンジョンと、それを探索する人間たちの動向は、最大級のエンターテインメントであると同時に、巨大な経済圏を形成している。
画面の中では、雷を纏った男が巨大なモンスターを薙ぎ払い、文字通り粉砕していた。討伐の瞬間、モンスターの体が光の粒子となって消え、後には巨大な魔石と、いくつかのドロップアイテムが残される。
画面の端を流れていく視聴者のコメント。
『うっま』
『やっぱ雷帝つええ』
『A級ソロでこれかよ、化け物か』
『魔石デカすぎだろ』
『今回当たりじゃね?』
『雷帝きたあああ!』
熱狂するコメント欄を横目に、隼人の視線は、神宮寺の放った必殺技の威力でも、モンスターの恐ろしさでもなく、その後に表示されたキャプションに釘付けになった。
『専門家によると、今回のドロップ品だけでも、数千万円規模の価値になると見られています』
加えて、配信画面の隅に表示されている投げ銭の累計額。それだけでも数千万、あるいは億に届こうかという金が動いているのが分かる。
「……数千万?」
隼人は画面を一時停止し、巻き戻した。
倒されたモンスターが残したドロップ品。それだけで、自分が今夜十二時間を費やして稼いだ一千万を軽く超えるというのか。
隼人はニュースアプリを閉じ、ブラウザを立ち上げて検索窓に文字を打ち込んだ。
『ダンジョン 探索者 仕組み』
『魔石 換金』
『ダンジョン 死亡率』
次々とページを開き、必要な部分だけを拾っていく。
F級という最低ランクなら、登録したその日から誰でも入れる。
持ち帰った魔石は、公的な換金所で現金化される。
ドロップ品は探索者本人の所有物となり、オークション等で売買可能。
探索の配信も認められており、人気が出れば探索そのものとは別の収入も得られる。
死亡事故は珍しくない。ダンジョン内で死亡すれば、蘇生する手段はない。
ただし、《ポータルの巻物》というアイテムを使えば、いつでも外部へ脱出できる。
そして、ダンジョンは基本的に何度でも繰り返し探索できる。
隼人の指が止まった。
次に調べたのは、各ランクの収益だった。
F級。
E級。
D級。
C級。
B級。
そしてA級。
もちろん個人差は大きい。パーティ人数や探索時間、ドロップ運によっても収益は変わる。
それでも、公開されている統計から大まかな目安は読み取れる。
C級まで上がれば、美咲の毎月の治療費を安定して賄える。
B級なら、治療費を払いながら借金の元本を削っていける。
そしてA級。
安定して活動している探索者なら、一日の収益が百万円を超えることも珍しくない。
隼人はスマートフォンの電卓を開いた。
残債、約四億。
毎月の治療費、約三百万。
そこへ装備への再投資や、不測の出費も多めに見積もる。
それでも、A級に到達して収入を安定させられれば、数年で今の状況をひっくり返せる計算になった。
今のように、いつ来るかも分からない地下賭場の仕事を待ち続けるより、遥かに現実的だ。
(――ここだな)
目標が決まった。
A級探索者。
そこまで上がれば、美咲の治療費も、四億近い借金も、自分の力だけでどうにかできる。
そして、それはあくまで安定収入だけで計算した場合の話だった。
画面をさらにスクロールする。
数千万。
一億。
三億。
十億。
滅多に出ない希少なドロップ品が、オークションで現実離れした価格をつけた記録がいくつも残っている。
運さえ良ければ、一度の探索で人生そのものが変わる。
四億という借金すら、たった一つのドロップで消し飛ばせる可能性がある。
隼人の目は、画面をスクロールするたびに、少しずつ熱を帯びていった。
死亡率。
平均収益。
ランクアップによる収入の上昇。
そして、レアドロップという巨大な上振れ。
情報の断片を繋ぎ合わせ、隼人の頭の中で、ダンジョンという場所の見え方が変わっていく。
このゲームには、自分を陥れようとする悪意を持った胴元がいない。
モンスターは、決められたルールの中で襲ってくる。
ドロップには確率がある。
危険だと判断すれば、自分の意志で降りることができる。
それでも欲をかいて進み続ければ、命を失う。
だが、勝ち続けた者には、さらに上のレートへ挑む権利が与えられる。
隼人には、それが世間で持て囃されているような、胸躍る冒険には見えなかった。
人類を守る英雄の仕事にも見えなかった。
もっと単純で、もっと分かりやすいものだった。
命を賭ける。
勝てば持ち帰る。
負ければ死ぬ。
そして、勝ち続けた者には上限がない。
「……なんだ」
スマホの青白い光に照らされた隼人の口元が、わずかに上がった。
「ちゃんとした賭場があるじゃねえか」
世界最大にして、最も公平な賭場。
誰かの機嫌を取る必要もなく、誰かの都合で取り分を決められることもない。
ただ自分の力量と判断、そして運だけで勝負できる。
隼人は、美咲の治療費を稼ぐためにダンジョンという選択肢にたどり着いた。それは紛れもない事実だ。
だが、この瞬間、死亡率やレアドロップの確率を眺めている彼自身の内側で、ギャンブラーとしての血が沸き立っているのもまた事実だった。
(……俺、笑ってるな)
自分の口元に浮かんだ笑みに気づき、隼人は自嘲気味に息を吐いた。
罪悪感はない。
妹を救える可能性がある。
しかも、自分が心底飢えていた、本当の意味での「ヒリつく勝負」ができる場所でもある。
これ以上の条件があるだろうか。
頭の中で、これまでの地下賭場と、これから挑むダンジョンを比較する。
地下賭場には、逆らえない胴元がいる。仕事は選べず、報酬も勝手に決められ、弱みを握られ、勝ちすぎれば別の危険まで増える。次の仕事がいつ来るかも分からない。
対してダンジョンは、参加するかどうかを自分で決められる。撤退のタイミングも自分で決められる。拾ったものは自分のものになり、勝てば勝つほど上のランクへ進める。
負ければ死ぬ。
その一点だけは、これまで座ってきたどんな卓よりも重い。
だが、それさえ承知の上なら――。
「条件は悪くねえ」
隼人はそう結論づけた。
再び検索窓に戻り、今度は具体的なアクションを起こすための情報を探す。
『探索者 登録 東京』
最寄りの登録施設。
必要なのは身分証明書。
登録できるのは十八歳以上。二十二歳の隼人なら問題ない。
わずかな登録費用。
そして、登録手続きの最後に「ユニークスキル」が判明するという情報。
「スキル、ね」
隼人は画面をスクロールしながら、小さく呟いた。
世間的には、探索者としての適性や未来を左右するとも言われている天賦の力。
だが、今の隼人にはそれがどれほど重要なものなのか、まだ実感がない。
良い札が配られるに越したことはない。
だが、配られる前から期待しても仕方がない。
手札を見てから、勝ち筋を考えればいい。
隼人は銀行アプリを再び開き、今夜手にした一千万の使い道を計算し始めた。
美咲の治療費と、男たちへの当面の返済分。これは絶対に手を付けてはならない金だ。
それを除外して、自分が初期投資として自由に動かせる金額を弾き出す。
数十万円程度。
一千万が振り込まれたからといって、そのすべてを新しい勝負に突っ込むほど、隼人は賭け事を舐めていない。
必要なのは、最悪失っても致命傷にならない範囲での初期投資だ。
初心者用の、身の丈に合った最低限の装備。
まずはそれで十分だった。
夜が明けようとしていた。
結局、隼人は一睡もできないまま朝を迎えた。
スマホから銀行アプリを操作し、病院への振込と、指定された口座への借金返済を済ませる。
残高の桁が、あっという間に削り取られていく。
だが、今までの朝のような、底なし沼に沈み込むような閉塞感はなかった。
スマホの画面には、昨夜調べた『関東探索者統括管理センター』の地図が表示されている。
ベッドに放り投げていたジャケットを拾い上げ、袖を通す。
玄関に向かって歩き出した時、スマホが短く鳴った。美咲からだ。
『おはよう。昨日ちゃんと寝た?』
隼人は歩きながら片手でフリックする。
『まあな』
嘘だ。続けてメッセージが来る。
『今日は仕事?』
隼人は玄関のドアノブに手をかけたまま、少しだけ指を止めた。
これから行く場所は、彼女が想像するような普通の職場ではない。
だが、金を稼ぐために勝負へ向かうという意味では、それほど間違ってもいない。
『似たようなもんだ』
送信し、スマホをポケットにしまう。
それで十分だった。
新宿、都庁周辺。
平日の朝だというのに、『関東探索者統括管理センター』の周辺には大勢の人間が集まっていた。
夢を追う若者、人生の一発逆転を狙うくたびれた会社員、すでに立派な装備を身にまとった先輩探索者たち。
熱気と野心、そしてほんの少しの緊張が入り混じったような特異な空気が、その場を満たしている。
隼人は、巨大な施設の入り口に掲げられた看板の前で、少しだけ立ち止まった。
昨夜の、地下賭場の男との電話を思い出す。
『呼んだ時は来い。お前は高いんだからな』
あの不快な声も、這い寄るような圧力も、ここにはない。
自動ドアが開く。
冷房の効いた涼しい空気と、数え切れないほどの人間が発するざわめきが、波のように外へと流れ出してきた。
神崎隼人は、その中へ静かに足を踏み入れる。
昨日までの、息の詰まるような賭場とは違う。
ここでは、誰かに呼ばれるのを待つ必要はない。
自分の意志で、自分から席に着けばいい。
「さて」
隼人は、無数の人間が行き交うロビーの真ん中で、小さく笑った。
「次は、自分の金で勝負するか」
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!