裏社会のジョーカー、現代ダンジョンで成り上がる ~世界最大の賭場に人生を賭ける~ 作:パラレル・ゲーマー
「……面白くなってきた」
その呟きは、暗く湿った洞窟の奥へと吸い込まれ、誰の耳にも届くことなく消えていった。
神崎隼人は、ほんの数分前に【戦士(Warrior)】というクラスを得たばかりの己の肉体を確かめるように、ゆっくりと手を握り、そして開いた。
レベル2へ上がり、クラスを獲得したことによる変化は、劇的な別人に生まれ変わるようなものではない。しかし、手にした量産品のロングソードが、先ほどよりもわずかに軽く、そして手に馴染むように感じられる。筋肉の繊維一本一本に、戦うための微かな張りが生まれていた。
(これが、配られた新しいカードの感触か)
視界の隅には、相変わらずARコンタクトによる情報が表示されている。
【HP:173/173】
【MP:53/53】
【Lv2:EXP 12%】
通常攻撃を振るうだけでも、【万象の守り《パンデモニウム・ガード》】の攻撃速度+15%という恩恵は十二分に感じられた。ならば、ここに専用の攻撃スキルである『スキルジェム』を組み込めば、どれほどのシナジーを生むのか。ギャンブラーとしての好奇心が、隼人の足をさらに洞窟の深奥へと向かわせていた。
隼人は慎重に足音を殺しながら、緩やかに下っていく坑道を進む。
ここから先、わざわざ寄り道して通常ゴブリンを探し回るつもりはなかった。手持ちの武器の感覚はすでに掴んだし、敵の単調なモーションも見切っている。今は同じ相手を狩り続けるより、このダンジョンのさらに奥に何があるのかを確かめる方が優先だった。
歩を進めるにつれて、洞窟内の様相が明確に変化し始めていた。
これまではただの自然の浸食による岩穴だったものが、足元を見れば、数え切れないほどのゴブリンたちが踏み荒らした痕跡が、泥の上の足跡として無数に残されている。
岩壁には、粗末な赤い塗料――おそらくは獣の血や木の実を潰したもの――で描かれた、呪術的で意味不明な紋様がいくつも浮かび上がっていた。
通路の端には、ゴブリンたちが食い散らかしたと思われる正体不明の小さな骨や、火を焚いた痕跡である黒焦げた跡が散見される。
(……明らかに雰囲気が変わったな。奥へ行くほど、人工的というか、生活の痕跡みたいなものが濃くなっている)
隼人が歩みを少し遅くし、ロングソードをいつでも振れる位置に構え直した時、ARコンタクトの視界端でコメント欄が動いた。
ベテラン探索者:そろそろ奥だな
名無し:壁の模様キモッ
名無し:いよいよか?
配信の視聴者数は、先ほどの国宝級アイテムドロップの騒ぎから徐々に増え続けているようだが、隼人は具体的な数字をあえて表示させていなかった。数字に踊らされてペースを乱すのは三流のやることだ。今は目の前の盤面に集中する。
「ボスが近いってことか?」
隼人が誰にともなく問いかけると、コメント欄の経験者が短く返してきた。
ベテラン探索者:まあ、行けば分かるさ
名無し:初見の反応が楽しみだw
視聴者たちは過剰なネタバレを控え、あえて隼人の反応を楽しもうとしているらしい。隼人としても、攻略ナビゲーションのように手取り足取り教えられるよりは、その方が好ましかった。ギャンブルにおいて、ディーラーの手札を横から耳打ちされるような真似は興ざめだからだ。
さらに数分、慎重に奥へと進む。
やがて、長く続いた暗い坑道の先に、今までにはなかった異質なものが視界に飛び込んできた。
(光……?)
光源だ。
これまでの洞窟には、微かに発光する苔以外に、人工的な照明と呼べるものは存在しなかった。しかし、前方の曲がり角の先からは、明らかに炎によるものと思われる、赤橙色の揺らめく光が漏れ出している。
隼人はすぐに飛び込むような愚行はせず、ピタリと足を止めた。
壁際に背中を預け、足音を完全に殺して、光源のある空間の入り口へと忍び寄る。
岩の陰から、片目だけで内部の様子を窺った。
そこは、これまでの狭い坑道とは比較にならないほど広大な空間だった。
横幅は約十五メートル。奥行きは二十メートルほど。天井の高さも五メートル近くある、自然のドーム状の洞穴だ。
入り口側から奥へ向かって、地形が緩やかな上り坂になっており、一番奥の壁際には、周囲の岩を粗末に積み上げて作られた『祭壇』のようなものが鎮座している。
その祭壇の脇に立てられた木の棒の先で、赤い石のようなものが松明のように燃え盛っており、それがこの部屋全体を照らす光源となっていた。
隼人の視線は、部屋の構造を一瞬で把握した後、そこに配置された『駒』へと向けられた。
部屋の中央付近に散らばるようにして、今まで戦ってきたのと同じ、木製の棍棒を持った通常ゴブリンが六体。
そして、部屋の最奥。祭壇の上に立つ、異質な一体の姿。
通常ゴブリンよりも一回りほど小柄な体格。だが、濁った緑色の肌に纏っているものは、ただの腰布ではなく、鳥の羽根や獣の骨、そして血に染まったような薄汚い布切れを複雑に編み込んだ呪術的な装飾品だった。
手には、身の丈ほどのねじ曲がった木製の杖を握りしめている。その杖の先端には、祭壇の脇で燃えているのと同じような、不気味に赤く発光する石がめり込んでいた。
何より異質なのは、その『目』だ。
通常ゴブリンの、ただ獲物を引き裂くことしか考えていない血走った本能の目とは違う。こちら(まだ入り口の陰にいる隼人の存在には気づいていないが)の気配を探り、空間全体を把握しようとするような、明確な『知性』の光が宿っていた。
隼人はARコンタクトの鑑定機能を、その最奥の一体へと向けた。
====================================
【ゴブリン・シャーマン】
Lv:3
分類:F級ボス
====================================
詳細なステータスや能力一覧は表示されない。だが、その名前と『ボス』という分類だけで十分だった。
「あれがボスか」
隼人は極めて冷静に、事実だけを口にした。
名無し:シャーマン出た!
名無し:ボス部屋到達おめ
名無し:取り巻き六体か。多いな
ベテラン探索者:ソロだと面倒な数だな。まず様子見ろよ。いきなり突っ込むなよ
「言われなくても、そのつもりだ」
隼人は小さく息を吐き、壁の陰から部屋全体の『盤面』を分析し始めた。
これがJOKERの戦い方だ。手札を見る前にチップを積むような真似はしない。
(通常ゴブリンが六体。それぞれが一定の距離を保ちつつ、最奥のシャーマンを守るような配置になっている。俺が入り口から踏み込めば、間違いなく一斉にヘイトが向く)
隼人の脳裏に、先ほどの坑道での戦闘がフラッシュバックする。
あの時は、二体のゴブリンに対して、あえて細い坑道へ下がることで『一対一』の状況を強制的に作り出した。
だが、今回は違う。
ボスであるシャーマンは部屋の最奥に位置している。こちらからこの広いボス部屋の中へ踏み込んでいかなければ、隼人の持つ短いロングソードはシャーマンの喉元には絶対に届かない。
そして、部屋へ踏み込めば、広い空間を活かして六体の通常ゴブリンが四方八方から包囲網を敷いてくるだろう。入り口の狭い通路へ誘い込もうとすれば、知恵のあるシャーマンは追いかけてこず、遠距離から何かを仕掛けてくる可能性が高い。
つまり、以前使った地形戦法がそのままでは通用しない。
(こっちから奥まで行かなきゃ、ボスには剣が届かない、か)
状況は圧倒的に不利。だが、隼人はまだ撤退を決断しなかった。
相手がどんなカードを持っているのか。それを見極めないことには、降りるべきかどうかの期待値計算すらできないからだ。
隼人は、意を決して、入り口の陰から『一歩』だけ、ボス部屋の空間側へと足を踏み出した。
その一歩が、不可視の境界線を越えた。
「ギャッ!?」
部屋の中央でたむろしていた通常ゴブリンの何体かが、侵入者の足音と気配に反応し、一斉に振り返った。血走った瞳が隼人を捉える。
それとほぼ同時だった。
最奥の祭壇に立つゴブリン・シャーマンが、侵入者の存在を完璧に感知し、手に持ったねじ曲がった杖を高く掲げた。
(何をする?)
隼人はロングソードを構えながら、シャーマンの動きを注視する。
杖の先端に埋め込まれた赤い石から、パチパチと火花のようなものが散り始めた。周辺の空気が陽炎のように揺らぎ、魔素が急速に一点へと収束していくのが分かる。
次の瞬間、杖の先から直径二十から三十センチほどの、燃え盛る『火球』が形成された。
(魔法か)
ファンタジーの代名詞。物理法則を無視した超常の力。
シャーマンが短く叫びながら杖を振り下ろすと、空中に留まっていた火球が、隼人目掛けて一直線に射出された。
その速度は、音速や弾丸のような絶対的な速さではない。飛んでくる軌道を見てから、脳で認識し、身体を動かそうとする猶予は十分にある。
しかし、レベル2の剣術素人である隼人が、余裕を持って完全に躱しきれるほど遅くもなかった。
隼人は反射的に左へステップを踏み、身体を捻って回避を試みた。
だが、火球の熱を帯びた軌道は隼人の予測をわずかに上回り、完全に避けきることはできなかった。
「チッ!」
飛来した火球が、隼人の左肩から胸付近にかけて、まともに直撃する。
名無し:うわっ
名無し:直撃!
名無し:やばい!
コメント欄が悲鳴を上げる。物理的な打撃とは違う、炎による直接的な焼却。初心者であれば致命傷になりかねない一撃だ。
しかし。
火球が隼人の着ている安物のシャツごと、その身体へ触れるほんのコンマ数秒前。
左腕に装備された黒銀のガントレット――《万象の守り》が、淡く、しかし力強く明滅した。
ガントレットから発生した不可視の魔素が、一瞬にして隼人の上半身と衣服をまとめて覆う透明な『膜』を形成する。
直撃した火球は、その透明な膜に衝突した瞬間、隼人の身体へ届くことなく、行き場を失って空中で大きく炎を散らした。
「っ……!」
隼人は反射的に右腕で顔を庇い、炎の炸裂に耐えようとする。
顔の表面を舐めるような熱風は確かに感じた。
炸裂した炎によって、一瞬だけ視界が完全に赤く塞がれた。
しかし。
(……痛みが、ない?)
顔を撫でた熱風こそ感じたが、皮膚が焼けるような痛みは一切ない。
炎が急速に収束して消え去った後、隼人は恐る恐る自分の左肩へ視線を落とした。
シャツにも、その下にある皮膚にも、焦げ跡や火傷は一つも残っていなかった。
ARコンタクトのステータス表示を確認する。
【HP:173/173】
減少は、ゼロ。
1ダメージすら受けていない。
「……ん?」
隼人は思わず間の抜けた声を漏らした。
裏社会で常にポーカーフェイスを貫いてきた男にしては、珍しいほど素の反応だった。
彼はすぐに《万象の守り》の性能を頭の中で反芻する。
最大HP +100。
攻撃速度 +15%。
そして――『火属性耐性 +25%』。
「火耐性は、二十五パーセントだったはずだが?」
隼人の口から、疑問の言葉がこぼれ落ちる。
彼の一般的なゲーム知識、あるいは常識的な計算からすれば、『耐性25%』とは、火属性のダメージを『25%分だけ軽減して、残り75%のダメージを受ける』という仕様だと思い込んでいた。
ところが、現実には完全無傷の0ダメージである。
その疑問に対し、視界の端のコメント欄が即座に反応を示した。
名無し:あ、そこ知らないのか
名無し:まあ、初見だと普通のゲームの感覚でそう思うよな
ベテラン探索者:この世界の低レベル帯の属性攻撃はな、こっちの『耐性』が十分な数値あると、システムが自動防御として働いて完全に弾けるんだよ
名無し:え、25%しかないのに全部防げるの?
ベテラン探索者:表示されてる25%って数値が、そのまま『必ず25%だけ軽減します』って意味じゃないんだよ。一種の防御力の閾値みたいなもんだ
中級クラフター:F級シャーマンの放つしょぼい火球程度の低出力なら、火耐性25%もあれば、その自動防御の壁を抜けないってことさ
名無し:マジか。じゃああのJOKER、実質『火無効』じゃん
中級クラフター:まあ、今の階層、今の相手ならな。上に行ってもっと高出力の魔法を食らえば、普通に自動防御の壁は抜かれる
ベテラン探索者:壁を抜かれた後は、その耐性値の割合で実ダメージが軽減される計算になる。だから耐性は後半の階層に行くほど生命線になるんだ
中級クラフター:そういう意味でも、Lv1〜2の段階で火・冷気・雷の三属性を25%ずつ稼いでるあのガントレットは、完全に規格外なんだよ
(なるほど)
コメント欄の有識者たちの解説を流し読みし、隼人はひとまず仕組みの概要を理解した。
攻撃側の出力が低ければ、一定の耐性値を持つだけで完全にシャットアウトできる。
「25%以上なら何でも完全防御」という単純なものではなく、相手の攻撃力との相対的な計算式が存在するのだろうが、今はそんな細かい計算式を知る必要はない。
重要な事実はただ一つ。
『現状、ボスの放つ主力の火球は、自分には一切通用しない』ということだ。
「ほう」
隼人は左腕の《万象の守り》を軽く見下ろした。
先ほどの通常ゴブリン戦では、物理攻撃に対する属性耐性は完全に腐っていた。
だが、魔法を主体とするボスを相手にした途端、この装備は極めて強烈な『メタ(対策)』として機能し始めたのだ。
「なるほどな。そういうことか」
隼人の口角が、少しだけ上がる。
ボスの主砲がノーダメージ。これはギャンブルにおいて、相手のエースカードが最初から機能不全に陥っているのと同じ状態だ。
名無し:おお!?これボス余裕じゃね?
名無し:火球無効ならもう勝っただろw
名無し:いけいけ!JOKER!
視聴者たちも、この圧倒的な相性の良さに気づき、イケイケの雰囲気を醸し出し始める。火球が通じない以上、このまま国宝級装備の力で押し切れる――そんな空気がコメント欄に広がっていた。
だが、隼人は違った。
彼はボスであるシャーマン『だけ』を見てはいなかった。
(……火球が効かないから勝てる? 馬鹿な)
隼人の視線の先では、シャーマンが忌々しげに杖を振り直し、再び赤い光を収束させて二発目の火球を準備し始めていた。
それと同時に。
部屋の中央にいた六体の通常ゴブリンたちが、侵入者を排除すべく、一斉に陣形を広げながらこちらへ向かって走り出していたのだ。
隼人はすぐさま数歩後退し、部屋の入り口付近の安全マージンを確保しながら、現在の盤面を極めて論理的に、冷徹に整理し始めた。
(シャーマンの火球は通らない。これは確定だ。自動防御の膜が破られない限り、魔法ダメージは無視できる)
(だが、前に迫ってくる六体。こいつらの持っている棍棒は純粋な『物理攻撃』だ)
先ほど脇腹を叩かれた経験から、三属性耐性が物理攻撃に対しては何の役にも立たないことは実体験として学んでいる。一発6ダメージ。囲まれて何度も棍棒を叩き込まれれば、HP173あっても安全とは言えない。
さらに、今の自分の『手札』を正確に数え上げる。
現在、スキルジェムは一つも持っていない。
つまり、広範囲をまとめて薙ぎ払うような『範囲攻撃』の手段がない。
行えるのは、ロングソードによる一対一の単体通常攻撃のみ。
回復用の『フラスコ』も未所持。自動回復のパッシブスキルもない。
レベルアップで得たパッシブポイントは1あるが、まだ割り振っていない。
本人の剣術経験は、今日ダンジョンに入ってから一時間未満の素人。
(こっちの攻撃手段は、この短い剣一本だけ。まとめて六体を薙ぎ払う技もない。ダメージを受けたら回復する手段もない)
これが、今の神崎隼人が持っているすべてのカードだ。
どう見ても、テーブルの上に積まれた状況をひっくり返せるほどの役は揃っていない。
「ギャァアア!」
シャーマンの杖から、二発目の火球が放たれた。
今度は軌道が完全に読めている。だが隼人は大きく回避しようとはせず、迫ってくる六体の通常ゴブリンから視線を外さなかった。
一発目で火球そのものが通らないことは確認している。ここで避けるために大きく動き、前衛の位置を見失う方が危険だと判断したのだ。
二発目の火球が真正面から飛び込み、再び《万象の守り》の透明な膜へ激突する。
【HP:173/173】
炎は膜の表面で弾け、やはりダメージはない。一発目だけが偶然防げたわけではなく、現状において火球は完全に無効化できていることが再確認できた。
だが。
炎が目の前で炸裂した瞬間、視界が強烈な赤とオレンジの光に一瞬だけ塞がれた。
(……チッ)
ダメージはゼロでも、戦術的に無意味ではない。
余計なスタンや特殊なデバフ効果があるわけではないが、単純に『強力な目くらまし』として機能してしまうのだ。
そのほんの一瞬の視界の空白を突いて、最も足の速い通常ゴブリンの一体が、隼人のすぐ数メートル手前まで肉薄していた。
「ギギッ!」
先頭のゴブリンが、濁った目を見開いて棍棒を振り上げる。
隼人はそれをロングソードで受け止めようとはしなかった。剣で受ければ、力負けするか、体勢を崩される。
彼は軽やかに真横へとステップを踏み、棍棒の振り下ろしを完全に回避した。
ゴブリンの体勢が崩れる。
これまでの道中であれば、ここで隼人はすかさず反撃の斬撃を叩き込み、確実に一体を屠っていただろう。
だが、隼人は剣を振らなかった。斬らずに、さらに後ろへ下がる。
理由は単純明快だった。
この一体へ攻撃モーションを起こしている間に、背後から迫る残り『五体』のゴブリンが、完全に隼人を包囲する距離まで詰めてくるからだ。
隼人は反撃よりも、まず周囲の位置関係を把握することを優先した。
一体目の、崩れた右肩。
その後ろから迫る二体目の、振り上げられた棍棒。
左側に大きく迂回し、退路を断とうとする三体目。
さらにその後方に控える三体。
そして、部屋の最奥で、三発目の火球の準備を始めるシャーマン。
(……一つ一つの動きは、見える)
それぞれの予備動作は単調で、読むのは容易い。
(だが、見えることと、そのすべてに同時に対処できることは、全くの別問題だ)
六体の動きをすべて読めたとしても、隼人の身体は一つしかなく、振れる剣も一本しかない。
物理的な手数が圧倒的に足りていないのだ。
(坑道まで引けば、一列にはできる)
だが、そこで問題が消えるわけではない。
狭い坑道へ戻れば、六体を正面から一体ずつ相手にはできる。その代わり、今度はこちらも横へ大きく避ける空間を失う。
シャーマン自身は広間の奥に残ったまま、こちらへ火球を撃ち続けられる。ダメージは通らなくても、正面で爆炎が弾けるたびに視界は潰れる。その状態で六体を一体ずつ削り続ければ、いずれ棍棒をもらう可能性は確実に上がる。
しかも、今の隼人には回復手段がない。
(勝てないとは限らない。だが、今ここでやる意味がない)
隼人はさらに三歩、坑道側へと後退した。
入り口の境界線を越え、ボス部屋の空間から完全に抜け出す。
そこで、決断を下した。
「……いや」
小さく、だがはっきりとした声で呟く。
名無し:ん?
名無し:行かないの?
コメント欄が不思議そうな反応を示す。
隼人は、迫り来る六体の通常ゴブリンと、その奥で火球を準備するシャーマンを冷徹な目で見据えながら言った。
「このまま突っ込めば、袋叩きになるな」
感情的な恐怖からくる言葉ではない。盤面と手札を見比べ、弾き出した極めて客観的な結論だった。
「ここは降りる」
隼人の判断に、迷いはなかった。
勝てる可能性があることと、今ここで賭ける価値があることは、まったく別の話だった。
名無し:撤退かー
名無し:えー、火球ノーダメなら行けそうじゃね?もったいない!
ベテラン探索者:いや、大正解だ
名無し:そうなの?
ベテラン探索者:今のJOKER、単体への通常攻撃しか攻撃手段がないからな。囲まれたら終わりだ
中級クラフター:前衛六体をちまちま単体攻撃で処理してる間、ずっと後ろからシャーマンが視界潰しの火球撃ってくるんだぞ。さっきみたいに一瞬目隠しされた隙に棍棒で殴られる
名無し:でも火球効かないぞ?
ベテラン探索者:火球『だけ』見てどうすんだよ。物理の棍棒は普通にダメージ通るんだぞ
中級クラフター:スキルジェムもフラスコもない、完全な素の状態で今あえて挑む必要がどこにもない
名無し:なるほど……
名無し:確かに、一回センターに帰って準備してから再挑戦する方が賢いか
コメント欄には、撤退を惜しむ声と、今は引くべきだと見る声が入り交じっていた。
それでも経験のある探索者ほど、現在の装備と手札で無理に勝負する必要はないという見方で一致している。
隼人は、視界の端でそのやり取りを確認しながら、小さく頷いた。
「そういうことだ」
そして、腰のポーチへ手を伸ばす。
「勝てないとは言ってない。今ここで、無理に張る理由がないってだけだ」
少し前に口にした、「勝てる方に張る」という信条。
それは裏を返せば、準備が整っておらず、勝率を自ら下げてしまうような無意味な賭けには絶対に乗らないということだ。
怖いから逃げるのではない。絶対勝てないから逃げるのでもない。
期待値が合わないから、降りる。ただそれだけのビジネスライクな判断。
「手札が足りねえな」
隼人はポーチから、丸められた羊皮紙――『ポータルの巻物』を取り出した。
実戦での使用はこれが初めてだ。
巻物を左手に持ち、使用を念じる。
次の瞬間。
パリッ、と乾いた音を立てて、巻物が青白い光の粒子となって崩れ去る。
その粒子が隼人の目の前の空間に渦を巻き、瞬く間に大人一人が通り抜けられるサイズの、光の門――帰還用ポータルを形成した。
「ギャッ!!」
「ギギギッ!」
隼人が逃げようとしていることを察知した通常ゴブリンたちが、速度を上げて坑道へとなだれ込んでこようとする。
最奥のシャーマンの杖からは、三発目の火球が放たれた。
隼人は一切焦ることはなかった。
右手のロングソードを前方に突き出し、不用意に飛び込んでこようとする先頭のゴブリンを鋭く牽制する。
あくまで牽制だ。ここで欲を出して一体でも倒そうとすれば、その隙にポータルに入るタイミングを失うかもしれない。
EXPゲージは12%のまま。敵は一体も倒さない。それでいい。
ポータルの青白い光が安定したのを確認し、隼人は最後にボス部屋の奥を睨みつけた。
(少なくとも、あの火球は問題ない)
(足りないのは、あの六体の前衛を捌くための手段だ)
次に手に入れるべきカードの方向性は、見えていた。
『スキルジェム』。
だが、どんなスキルがあり、何を選べば六体という数へ最も効率よく対処できるのかは、まだ知らない。センターへ戻り、実際にどんなジェムが手に入るのかを確認してから決めればいい。
「ギャアアア!」
シャーマンの放った三発目の火球が、一直線に迫ってくる。
まだ十分に距離がある。それを確認した隼人はロングソードを下げ、迷わずポータルの光の中へと一歩を踏み出した。
隼人の身体が青白い光に包まれて消えた直後、誰もいなくなった坑道で火球が炸裂した。
◆
光の奔流が収まると、隼人の周囲の空気は一変していた。
カビ臭く湿ったダンジョンの冷気から、空調の効いた乾燥した空気へ。
赤橙色の不気味な松明の光から、眩しいほどの人工的なLED照明へ。
そして、ゴブリンの奇声の代わりに、大勢の探索者たちが行き交い、談笑し、あるいは取引をする喧騒が耳に飛び込んでくる。
隼人は、『関東探索者統括管理センター』に併設されたF級ダンジョン《ゴブリンの洞窟》の入り口、その安全地帯へと無事に帰還を果たしていた。
大きく息を吐き出し、張り詰めていた神経を少しだけ緩める。
ARコンタクトのステータス表示を確認した。
【HP:173/173】
【MP:53/53】
【Lv2:EXP 12%】
変化なし。
戦闘を途中で放棄し、撤退を選んだからといって、経験値が没収されたり、ステータスにペナルティが課されたりするような理不尽な仕様はない。
消費したのは、数百円程度の『ポータルの巻物』一枚だけ。
完全なノーダメージでの生還だった。
視界の端で、コメント欄が軽い総括を始めている。
名無し:おつー
名無し:初日の初探索で、ボスの顔まで見れたなら十分すぎる成果だろ
名無し:てか、火球0ダメは何度見ても笑うw
中級クラフター:あの手袋、やっぱ低Lv帯だとおかしい性能してるわ。バランスブレイカーだろ
名無し:次はジェムの調達だな
ベテラン探索者:ああ、ちゃんと装備とスキル整えてから再挑戦でいい。命あっての物種だ
名無し:ボス逃げんなよ、待ってろよw
視聴者たちも、この撤退をネガティブには捉えていない。むしろ、次への期待を高めているようだった。
「ああ」
隼人は、左腕に鈍く光る《万象の守り》の黒銀の装甲を指先でなぞった。
「装備一個で、盤面の相性がここまで劇的に変わるのか」
火属性耐性+25%。そのたった一つのMOD(能力値)が、ボスであるゴブリン・シャーマンの主砲を完全に無力化した。
ハックアンドスラッシュにおける、装備の組み合わせによる『ビルド』の持つ圧倒的な影響力。それを身をもって理解した。
「だったら……」
隼人の瞳の奥で、ギャンブラーとしての獰猛な光が揺れる。
「ここに『スキル』まで組み上げたら、一体どうなる?」
手持ちのカードはまだ少ない。だが、次に引くべきカードの目星はついている。
今日はボスを倒せなかった。数千万、数億という大金も手に入れていない。
それでも、ゴブリンの行動パターン、攻撃速度の真の価値、戦士というクラスの恩恵、属性耐性の仕様、ボスの構成、そして何より『現在の自分に決定的に足りないもの』という、莫大な情報を持ち帰ることに成功した。
ギャンブルにおいて、情報は命そのものだ。これだけの情報をノーダメージで引き出せたのなら、今日のテーブルとしては十分すぎる収穫と言えた。
隼人はポータルの巻物の残数を確認し、ロングソードをカチリと音を立てて鞘に納めた。
「まずは、手札を増やすか」
名無し:スキルジェム買いに行こうぜ!
名無し:どんなスキル組むか楽しみだわ
コメント欄の期待に応えるように、隼人は薄く笑う。
「そういうことだ」
隼人は配信の終了ボタンを押し、視界からコメント欄の枠を消し去った。
賑やかな安全地帯の喧騒の中、JOKERは次なるカードを求めて、センターの買取・販売区画へと歩き出した。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!