猟犬は透き通る空の夢を見る 作:ピンカル
前回の話には、たくさんの感想をいただきました。感想はすべて読ませていただいています。
いただいた感想の多くが、シホと先生の対立や、責任の所在、先生のスタンスについて触れてくださっていました。それだけ二人のやりとりを真剣に受け止めていただけたのだと思い、とても嬉しく思っています。
本来は本編で語るべきことですが、先に少しだけ作者としての考えを伝えさせてください。
シホと先生は、どちらかが正しいわけではありません。二人ともに良くないところがあって、だからこそすれ違ってしまいました。
この先、二人がそれをどう乗り越えていくのかを、しっかり書いていきたいと思っています。
また、ルビコンでのコーラルに対する責任問題についても、解決するための方法というわけではありませんが、私の中に一つの持論があります。
それも踏まえて、この先の物語がどうなっていくのか、楽しみにしていただけると幸いです。
ここからは原作の「時計じかけの花のパヴァーヌ」第2章に入ります。
引き続き、シホたちの行く末を見守っていただけると嬉しいです。
三十八話:閉ざされた扉
先生とケンカしてから、何日経ったんだろう。
あれ以来、私はほとんど部屋から出なかった。
最初のころはヒマリもエイミも気を使ってくれていたけど、そうさせるのが悪い気がして、余計に部屋から出なくなってしまった。
今では食事の時間になると、扉の前にゼリー飲料が置いてあるようになった。たぶん、ヒマリかエイミが置いていってくれているんだと思う。
最初に飲んだ時はあんなにおいしいと感じたのに、今は飲んだり飲めなかったりする。
飲めなかった分は、そのまま部室の冷蔵庫に戻しにいった。
携帯端末には、モモトークの通知が一件来ていた。
通知の上には、先生の名前が出ている。ケンカした後に、先生が送ってきたものだ。
私は、それを開けなかった。開けたら、何か言わないといけなくなる気がした。
ベッドに横になって、天井を見る。
ウォルターのこと。エアのこと。先生のこと。
考えても、考えても、同じところに戻ってくる。
耳鳴りは、あの夢を見た日から一度も聞こえていない。
扉の向こうで、ヒマリとエイミが何か話しているのが聞こえることがあった。
何を話しているのかは、聞こうとしなかった。
◆
―――さて。どうしたものでしょうね。
部室の机に頬杖をついて、私は何度目かわからないため息をついた。
モニターには、ここ数日で集めた資料が並んでいる。けれど、今の私が見ているのはそれではなかった。シホの部屋の扉の前に置いた、ゼリー飲料の減り方だ。
今朝置いた一つは、手つかずのまま残っていた。
シホが自分の部屋に閉じこもってから、今日で三日になる。
先生から連絡を受けたのは、あの日の昼過ぎだった。
シホが、前の世界の話をしてくれたこと。そこで言い合いになって、喧嘩してしまったこと。
先生が私に伝えたのは、その二つだけだった。話の中身については、『シホが自分で話したいと思ったときに、シホから聞いてあげてほしい』と。
先生らしい、と思う。
けれど、その『らしさ』が、今の私には非常にもどかしく感じる。
あの子が何を話し、何に傷ついたのか。それがわからない以上、どんな言葉をかければいいのかもわからない。
戻ってきたときのシホの顔を、私は忘れられない。無表情な子だけれど、あの日の顔は、無表情とは違っていた。何かが、すっかり抜け落ちてしまったような顔だった。
ゲーム開発部に頼んで、ユズさんに再戦を申し込んでもらうのはどうだろう。エンジニア部に、あの子が欲しがっていたチェーンソーを急いで作ってもらうのは。
いっそ、この超天才清楚系病弱美少女ハッカーが、とびきり面白い冗談で扉を開けさせる、という手も―――
……いろいろ考えてみても、どれもあの子の気持ちを晴らせない気がした。
私はもう一度ため息をついて、目の前の資料に目を落とす。
そこには、シホに関する廃墟での調査資料が並んでいた。
シホについての私の調査も、止まったままだ。
シホがなぜあの廃墟で目覚めたのか。あの子の中にいるかもしれない『何か』は、何なのか。手がかりは少しずつ集まっているのに、確かなことは何一つ言えない。
わかっていれば、何かが変わっただろうか。
そのとき、端末が小さく鳴った。
暗号化された、見覚えのある回線からのメッセージだった。
『調月リオ:アリスとシホの件で、会談がしたいわ。今夜、セミナーの執務室に来てちょうだい。この会談は、記録に残さない』
差出人の名前を見て、私は思わず眉を寄せた。
シホがここに来てから、リオが自分から私に連絡してきたことはほとんどない。シホの学籍の件では、拍子抜けするほどあっさり引き下がった。それでいて、シホがミレニアムの外に出ることだけは、頑なに許さなかった。
まるで、何かを待っているような。それとも、何かの準備をしているような態度。
そして今、このタイミングで、記録に残らない密会を私に提案してきた。
……すこし、準備をしてから行く必要がありそうだと感じた。
「エイミ。少しいいですか?」
私は部室のソファに座っているエイミに向き直った。
エイミは、以前にシホの武器と一緒にエンジニア部からもらったハンディファンを顔に当てながら、こちらを振り向いた。
シホを探して走り回ったあの日から、エイミは用がなくても部室にいることが多くなった。口には出さないけれど、あの子なりに心配しているのだろう。
「なに、部長」
「これから、リオに会いに行ってきます」
ハンディファンを動かしていたエイミの手が、ぴたりと止まった。
「……珍しいね」
「ええ。珍しく、向こうからお誘いがあったので」
私は心の内を読まれないように、できるだけいつもどおりの調子で続けた。
「それで、ですね。もし私がリオに会いに行った後、24時間経っても戻って来なかったら……冷蔵庫にあるプリンを、食べてもいいですよ」
エイミは、私の意図が読めない発言の裏を探るように、じっと私の顔を見た。
ジト目、というには、少しだけ真剣な目だった。
「……それ、戻ってこないかもしれないってこと?」
「ふふっ。まさか。この超天才清楚系病弱美少女ハッカーが、リオを相手に後れを取るとでも?」
「じゃあ、なんで言ったの」
「プリンの賞味期限が切れたら、もったいないじゃないですか」
エイミは、明らかに怪しんでいる様子を見せながら、しばらく黙っていた。
それから、何かに納得したかのように、小さくうなずいた。
「……わかった。プリンは、ちゃんと待ってから食べる」
「ええ。それと……」
私は、奥の部屋の扉に目を向けた。
「シホのことを、お願いしますね」
「うん。それは、言われなくても」
いつもの淡々とした声だった。けれど、その返事がこれほど頼もしく聞こえたのは、初めてかもしれない。
◆
出かける前に、私はシホと話ができないかと思い、彼女の部屋の扉の前で車椅子を止めた。
扉の前のゼリー飲料は、まだ置いてあった。
「シホ、起きてますか?」
返事は無い。
けれど、扉の向こうにあの子がいることは、わかっていた。
「私はこれから、少し出かけてきますね」
できるだけ、柔らかい声で言った。
「帰ってきたら……一緒にファミレスに行きましょう。包み焼きハンバーグ、また食べたいでしょう? あなたが食べたいだけ、頼んでいいですから」
そう声をかけて、シホからの返事を期待してしばらく待った。
しかし、扉の向こうからは何も聞こえてこなかった。
「……では、行ってきます」
私は後ろ髪をひかれる思いで車椅子を回して、部室を後にした。
◆
リオに招かれたセミナーの執務室は、真っ暗だった。
照明は一つもついていない。明かりといえば、部屋の奥で光る何枚ものモニターだけ。その青白い光の中に、背の高い人影が浮かんでいた。
「あら……この超天才清楚系病弱美少女の来訪を、電気もつけずにお迎えするなんて。おもてなしの心が見事に欠けているところは、実にあなたらしいですけれど」
私は車椅子を進めながら、いつもの調子を崩さないように言った。
「暗い部屋でモニターばかり見ていると、目を悪くしますよ? ……リオ」
「万全を期しているだけよ」
リオはモニターから目を離さないまま、振り返ることなく答えた。
「この訪問は、どこのデータベースにも残らない。記録の上では、私たちは今日、会ってすらいないことになっている」
「相変わらず、真面目ですこと。人目がそんなに気になるなら、場所を選べばよかったのでは?」
私は、あえて煽るように首をかしげてみせた。
「たとえば……誰かさんが、ミレニアムの予算の陰でこっそり作っている、あの悪趣味な隠れ家とか」
「……」
リオは、核心を突かれたかのようにピクリと身体を揺らした。
「……本題に入りましょう」
「あらあら。ふふっ、構いませんよ」
明らかなごまかしを隠そうともせず、リオはようやくこちらに向き直った。
「アリスの件で、私たちは一度手を組んだ。あの子の正体について、あなたも結論は出ているはずね」
「ええ。無名の司祭たちが崇める、『名もなき神々の王女』。……違いますか?」
「同じ解釈よ」
リオは、私に同意して小さくうなずき、それから、まっすぐに私を見た。
「それと、もう一つ―――『レイヴン』について」
『レイヴン』。シホが目覚めたときに名乗っていた名前であり―――私が廃墟の記録から見つけた、あの子の識別名。
その名前をリオの口から聞いた瞬間、私の心臓がわずかに跳ねた。
「名もなき神の遺産。アリスより前に作られた、戦闘用の試作機。キヴォトスの外から呼び寄せた、『暴力』の神秘を宿している。目覚めることなく廃棄され、なぜか今になって、廃墟で目を覚ました」
リオは、淡々とシホに関する情報を並べていった。
私が先生とエイミにだけ話し―――リオへの報告を、あえて先延ばしにしてきた情報を。
「……いつから、ご存じだったんです?」
「私にも、私の調べる手段があるわ。あなたがあえて報告を遅らせていたことも、知っていた」
リオのその言葉にも、表情は崩さなかった、と思う。
けれど、予想外の出来事に胸の奥がひやりとした。
あの物分かりの良さは、やはり、そういうことだったのだ。
「それで、レイヴン……いえ、六津井シホは、今どうしているのかしら」
そんなことは些細だと言うように、リオの声は変わらず平坦だった。
「……少し、疲れているだけですよ」
私は、リオがシホに手を出さないように、慎重に言葉を選んだ。
「今は、そっとしておいてあげたいんです。あの子には、時間が必要なので」
「……そう」
リオは、わずかに目を細めた。
「あなたが冗談の一つも挟まずに答えるなんて、珍しいわね」
しまった、と思ったときには、もう遅かった。
平静を取り繕うとするあまり、いつもの調子を崩してしまった。
「つまり、精神的に不安定な状態にある、ということね」
「リオ、それは―――」
「なら、なおさら早く対処すべきね」
リオは、私の言葉にかぶせるように言った。
「不安定な兵器ほど、危険なものはないわ。いつ、何がきっかけで暴発するかわからない。暴発してからでは遅いの。安定しているときより、今の方が、手を打つ理由ははるかに大きい」
それは相変わらず、合理性だけを突き詰めた理屈だった。
だからこそ、私は我慢ができなかった。
「……あなたは今、自分が何を言ったか、わかっていますか」
自分の声が、驚くほど低かった。
彼女の合理が、あの子に向けられることが、これほど耐えがたいとは思わなかった。
「あの子は今、苦しんでいるんです。自分の過去と向き合って、どうしていいかわからなくなって、部屋から出てこられなくなるほどに! その苦しみに付け込むことを、あなたは『合理的』と呼ぶのですか!」
私のそんな叫びを聞いても、リオは表情を変えなかった。
「苦しんでいるかどうかは、危険性とは関係ないわ。感情で判断を曇らせるのは、非合理的よ」
「……やはり、あなたに何かを期待するのは間違いのようですね」
「あなたが、私に何を期待しているのかは分からないけれど、準備はもう整っているわ」
なんの準備なのか、聞くまでもなかった。
彼女のその一言で、私の中で、最後の疑いが確信に変わった。
リオはモニターの光を背に、静かに言った。
「最後に確認するわ、ヒマリ。アリスと、六津井シホ。あの二つの本質は―――」
私とリオの声が、重なった。
「世界を終わらせる、兵器」
「私の、かわいい後輩たち、です」
暗い部屋に、沈黙が落ちた。
「……そう」
先に口を開いたのは、リオだった。
「なら、私たちの同盟は、ここで終わりね」
「ええ。もっとも、同盟ではなく、休戦でしたけれど」
リオの後ろの暗がりで、いくつもの駆動音が一斉に鳴った。
モニターの光に照らされて、奇妙な形の機械が、ゆっくりと姿を現す。
「ああ、これが噂の。最近あなたが熱心に作っているという、おもちゃですね」
「同盟を解いた以上、あなたをこのまま帰すわけにはいかないわ」
「ええ、ええ。あなたなら、そうすると思っていました」
だから、準備をしてきたのだ。私も。
気が付かれないように、薄く展開したホログラムキーボードをたたく。
その瞬間、リオの背後で、モニターの光が一斉に乱れた。
「……っ!? 執務室のシステムが……!」
「ビッグシスターのお部屋は無敵だと、思っていましたか?」
私はそう言いながら、キーボードに最後の一行を打ち込んだ。
照明が、一瞬だけ、目がくらむほど強く点灯した。
次の瞬間、部屋はさっきよりも深い暗闇に沈み、機械の駆動音が一つ残らず止まった。
「AMAS……!? なぜ、止まって―――」
リオの声を背中に聞きながら、私は車椅子を全速で走らせた。
◆
執務室を抜け、暗い廊下を進む。
追ってくる足音や、機械の音もない。
「自分と意見が合わないとわかった途端、ためらいなく手を打つ。……久しぶりに見ましたが、相変わらずですね、リオ」
誰もいない廊下に、つぶやきがこぼれた。
まあ、この超天才清楚系病弱美少女ハッカーの前では、その手もまったくの無意味でしたけれど。
問題は、ここからだ。
リオは、アリスとシホの両方に手を出すつもりでいる。準備はもう整っている、と言った。
急いで戻らなければ。
先生に知らせて、エイミと合流して、それから―――シホを。
次の廊下の角に差し掛かった、その時だった。
突然、横から強烈な衝撃を受けて、車椅子から吹き飛ばされる。
「うあっ!?」
予想外の衝撃に、思わず声を上げながら床に転がる。
暗がりの中に、白と黒のメイド服が浮かんでいる。表情の読めない顔が、まっすぐにこちらを見下ろしていた。
「……っ!? あなたは……誰……?」
そこにはC&Cの服を着た、私が知らない子が立っていた。
「まさか……5番目の、C&C……」
言い終わる前に、私の身体をもう一度強い衝撃が襲った。
視界がぐらりと傾き、瞼が勝手に落ちていく。
薄れていく意識の中で、最後に浮かんだのは、閉ざされたままの扉だった。