猟犬は透き通る空の夢を見る 作:ピンカル
ヒマリの部屋は、私がいた部屋とは全然違った。
やわらかそうなベッドに、ソファと机。小さな台の上には、ティーセットが置いてあった。
ヒマリがティーセットの前に車椅子を寄せて、私に紅茶の作り方を教えた。
葉っぱにお湯を注ぐだけだと思っていたのに、お湯の温度とか、待つ時間とか、決まりがたくさんあって、淹れるのに少し手間取ってしまった。
出来上がった紅茶をカップに注いで出すと、ヒマリは一口飲んで、小さく笑った。
「……ふふっ。おいしいです。上手にできていますよ」
それから、机の上に乗っていたお菓子を小さなお皿に乗せて、私の方に押した。
「はい、どうぞ。紅茶を飲むときは、お茶菓子も一緒に食べるのが決まりなのですよ」
本当かどうかわからなかったけど、おいしそうなにおいがするお菓子につられて、一つ取って口に入れた。
甘くて、さくっとしてて、口の中ですぐに溶けて消えた。
……おいしかった。
もう少し食べたいと思ってしまって、紅茶と一緒に、ヒマリがくれたお菓子を食べ続けた。
それからしばらく、二人とも何も言わなかった。
私がお菓子を食べる音と、カップを置く小さな音だけが、部屋の中に響いていた。
「シホ。少し、話をしてもいいですか?」
ヒマリが紅茶を飲み終えて、カップを置きながら真剣な表情で私を見た。
「……うん」
「……今回の件ですが、あなたが死ぬ必要はありません」
ヒマリの声は、とても静かだった。
でも、いつもの冗談を言うときの声じゃなかった。
「あなたがミレニアムに来てから、今日まで、何も問題は起きていませんでした。そして、私とリオがあれだけ調べても、危険な兆候は何一つ現れなかった。それなのに、いきなり死ぬというのは……結論を急ぎすぎです」
「まずは、みんなで協力して、そうならないための方法を探すべきです。私はもちろん、エイミや先生だって、必ず力を貸してくれます」
たぶんヒマリは、このことを私に伝えるために、わざわざ一緒の部屋にするようリオに頼んだんだと思う。
私を安心させようとしているのか、柔らかい声で私を説得してくる。
「それに……あなたがいなくなったら、悲しむ人がたくさんいます。私も、エイミも、先生も。ゲーム開発部……あなたが一緒に遊んだ、あの子たちもです」
私は、少しだけ息を吸って、カップの中の紅茶に目を落とした。
ヒマリの言っていることは、わかる。
私がいなくなったら、悲しむ人がいるのも、たぶん本当なんだと思う。
「……だけど、いま大丈夫だから、っていうのは、理由にならない」
ヒマリが、もどかしそうな顔で私を見た。
「世界を滅ぼせる兵器を、今は大丈夫だからって、放っておくことはできない。いつ大丈夫じゃなくなるか、誰にもわからないから。壊せるときに、壊しておくのが一番いい」
ルビコンでも、そうだった。
ウォルターは、コーラルが増える前に何とかしようとしてたけど、私たちが見つけたときは、もう取り返しがつかないぐらいコーラルが増えていた。……一番よかったのは、その時にコーラルを燃やしておくことだったのかもしれない。
だから、危ないものは、危なくなる前に片付けるのがいい。
「もし、放っておいて。いつか私が、キヴォトスを滅ぼすことになったとき―――」
夢で見た、燃えているミレニアムが頭に浮かんだ。
「誰も、私を止められなかったら」
私は、顔を上げてヒマリの目を見た。
「私は、その選択が正しかったって思えない」
「……シホ」
「それに、ルビコンでコーラルを燃やそうとした私を、誰も、止められなかった」
私はそう言って、ヒマリから目をそらした。
ヒマリは、何か言おうとしてたけど、何も言葉は出てこなかった。
膝の上で重ねていたヒマリの手が、ぎゅっと握られているのが見える。
そのまま、二人ともしばらく動かなかった。部屋の中には、空調の音だけが響いている。
それから、ヒマリはゆっくりと息を吐いた。
顔を上げたときには、いつもの顔に戻っていた。……戻っていた、と思う。
「……そうですか」
ヒマリは、少しだけ残念そうにしてたけど、すぐにほほえんだ。
「でも、私はあきらめませんよ、シホ」
何を、とまでは言わなかった。私も、何も言わなかった。
言っても、たぶんヒマリは聞かないと思ったから。
「では、そろそろお休みしましょうか」
紅茶を飲み終わって寝る準備をした後、ヒマリはベッドの近くに車椅子を停めて、そのまま横になった。
私は、ソファの方に向かった。
「シホ? どこへ行くのですか?」
「ソファ。ここで寝る」
「何を言っているのですか。ベッドは広いのですから、一緒に寝ればいいでしょう」
「いい。ここで十分」
ベッドで眠れるならそれが良かったけど、横になれるならどこでも良かった。
何より、ヒマリと一緒に寝る気にはなれなかった。
「あら。では、夜中にこの病弱な美少女が、ベッドから落ちてしまったらどうするのです?」
「……落ちないと思う」
「わかりませんよ? 私の体はとても繊細ですから、ベッドから落ちてしまえば、それはそれは大変なことに……。それに、あなたは私の世話係なのでしょう。世話係が、主人のそばにいなくてどうするのですか」
ヒマリは、ベッドの端をぽんぽんとたたいた。
「ほら。早くいらっしゃい」
よくわからない理屈だったし、たぶん、一緒に寝るための適当な言い訳だと思う。
でも、ヒマリは私のほうを見て、ずっとニコニコ笑って待ってた。
このままだとソファで寝る私に対してずっと何か言ってきそうだったから、あきらめてベッドに上がった。
それでも、ヒマリに背中を向けて、端っこのほうで横になる。
「ふふ。それでは、電気を消しますね」
ヒマリが機嫌良さそうに電気を消して、部屋が真っ暗になった。
そのすぐ後に、背中にヒマリがくっついてきた。
「シホは抱き心地が良いですね。このまま私の抱き枕になりませんか?」
「……ならない」
「あら。それは残念です」
暑いと言って振りほどこうかと思ったけど、なぜだかそんな気にはなれなかった。
そのまましばらく、ヒマリは私の頭や耳を撫でたり、ぎゅっと抱きしめたりして楽しそうにしてた。
だけど、段々動きがゆっくりになってきて、やがて、私の頭に手を置いたまま、寝息がすぐ後ろから聞こえてきた。
……よく考えたら、誰かと一緒に眠るのは初めてかもしれない。
ルビコンでは一緒に寝るなんてできなかったし、こっちに来てからも、いつも一人で寝てた。
人の体温が、こんなに温かいなんて、知らなかった。
だから、余計に思った。
背中にある、この温かさを、燃やしたくない。
私の中にあるものが、いつかこれを燃やしてしまうかもしれないなら。
やっぱり、私はいなくなった方がいい。
◆
背中が温かくて、目が覚めた。
眠たい目をこすって後ろを振り向くと、すぐそこに、私と同じように眠そうな顔をしたヒマリがいた。
ヒマリの手は、まだ私の頭の上に乗っている。
「あら。おはようございます、シホ。よく眠れましたか?」
「……ぅん」
寝ぼけた頭で返事をしたけど、本当によく眠れた。前みたいな夢も、見なかった。
ヒマリは、昨日の夜のことなんて何もなかったみたいに、いつもの顔で笑っていた。
起き上がって、ヒマリが車椅子に移るのを手伝って、朝の支度をする。
抱えたヒマリの体は、思っていたよりずっと軽かった。
「では、朝の紅茶をお願いできますか? 昨日の復習です」
「わかった」
ポットを温めて、葉っぱを量って、お湯を注いで、待つ。
昨日教わった順番を、一つずつ思い出しながら手を動かした。
カップに注いで出すと、ヒマリは一口飲んで、目を細めた。
「……ふふっ。昨日より、ずっと上手ですよ」
「そう」
教わったとおりにやっただけだ。
でも、ヒマリはうれしそうだった。
《―――――》
耳の奥で、小さな音がした。
私は、聞こえないふりをして、自分の分の紅茶を飲んだ。
しばらくすると、部屋の扉が開いた。
そこに立っていたのは、トキじゃなくて、リオが使っているAMASだった。
「……トキさんは、まだアリスのところにいるようですね」
ヒマリが、少しだけ寂しそうに言った。
AMASに案内されて、昨日と同じ部屋に向かう。
私が車椅子を押して、ヒマリはその上で、ずっと何かを考えているみたいだった。
モニターだらけの部屋に入ると、リオはもう装置の前に立っていた。
昨日と同じ服で、昨日と同じ場所に立っている。もしかしたら、ずっとここにいたのかもしれない。
「来たわね。早速だけど、今日は昨日の続きを進めていくわ」
リオは、私とヒマリを順番に見て、それだけ言った。
「段階を踏んで、ですよ」
「分かっているわ」
私は、昨日と同じように、くぼみの中に横になった。
冷たいのにも、もう慣れていた。
そうして、二人は私の調査を始めた。
起動、停止、記録、起動……
昨日と同じことの繰り返しだった。
リオとヒマリは、モニターの前でずっと何かを話している。
知らない言葉ばかりで、何の話なのかはわからなかった。
私は、そんな二人を目の端でぼんやり見ながら、天井を見ていた。
昨日の夜、ヒマリが言っていたことを思い出す。
私が死ぬ必要はない。悲しむ人がたくさんいる。……あきらめない。
ヒマリは、今もモニターの前で、リオと話している。
私を壊すための調査なのに、ヒマリはそれに協力しながら、私を壊さないための調査にしようとしている。
背中に、昨日の夜の温かさが少しだけ残っている気がした。
「……駄目ですね。解析できない、用途も分からないデータが多すぎます」
ヒマリが、めずらしく弱った声で言った。
「……予測はしていたけれど、既存の技術体系での解析は難しいわね。一つずつ調べていたら、いつになるかも分からない」
「私としては、調査に時間が掛かること自体は願ったり叶ったりなのですが……」
「許可できないわ。それに、いつまでも分からないことに時間を割くのは、非合理的よ」
「……ですが、急いで乱暴に扱えば、何が起きるか分かりません。先ほども言ったはずですよ」
「分かっているわ。……でも、それにも限度がある、という意味よ」
リオは、モニターをにらんだまま黙りこんだ。
ヒマリも、口元に手を当てて、何かを考えている。
難しい言葉が多くて、二人の話は全部はわからない。
でも、うまくいっていないことだけは、私にもわかった。
二人が調査を続けているうちにお昼になったのか、AMASが食事を運んできた。
今日は、ヒマリがリオにもちゃんと食べさせていた。リオは嫌そうな顔をしていたけど、最後まで残さずに食べていた。
食事が終わっても、二人の調査は止まることなく続いた。
何度目かわからないくらい装置を止めたあと、リオが手を止めた。
しばらく、モニターを見たまま、何かを考えているみたいだった。
それから、何かを決めたみたいに、ヒマリの方を振り向いた。
「……これから、エリドゥのリソースを本格的に使って、彼女の解析を行うわ」
「もう、ですか……」
「貴女だって、これ以上の調査は時間を無駄にするだけだと、理解しているはずよ。異論があるなら、結果を出してちょうだい」
ヒマリは、言い返せずに黙りこんだ。
どうやら、次の調査に進むらしい。
時間を稼ごうとしていたヒマリからしたら、あまりうれしくないことなんだと思う。
ヒマリが何も言わないのを見て、リオはこっちに向き直った。
「六津井シホ。ここから先は、もう少し深く調べるわ。目を閉じて、楽にしていなさい」
「わかった」
私は言われたとおりに目を閉じて、眠るときと同じように力を抜いた。
「……ちゃんと、戻ってこられるのでしょうね」
ヒマリが、疑うようにリオに話しかける。その声は、いつもより少しだけ硬かった。
「……当然よ。まだ、壊すわけじゃないわ」
リオは、少し言葉に詰まっていたようだけど、それ以上は何も言わなかった。
リオの言葉の後、体の感覚が少しずつ遠くなっていくように感じた。
くぼみの冷たさも、ケーブルの感じも、だんだんわからなくなっていく。
そして、体から引き離されるような感覚と一緒に、私の意識は闇に落ちた。