猟犬は透き通る空の夢を見る 作:ピンカル
モモイが倒れてから、二日が経った。
アリスが暴走したあの日、ヴェリタスの部室で起きた騒ぎに巻き込まれて、モモイは意識を失った。
私たちですぐにシャーレの医務室へ運んだけれど、今もまだ目を覚まさない。
そして、アリスの暴走と共に動き出した、正体不明のロボットたち。
駆けつけてくれたC&Cのおかげで騒ぎは収まったものの、あの事件は数々の疑問と傷痕を残していった。
ハレは、『アリスがおかしくなったのは、あのロボットと「接触」したせいだろう』と。
ミドリは、『アリスの雰囲気が変わったあのとき、アリスの目が赤く光っていた』と言った。
その言葉を聞いたとき、私は、ある日のことを思い出していた。
ゲーム開発部で、シホが急に倒れた日のことだ。
電源の入っていないゲーム機が勝手に動き出して、真っ赤な画面に『Divi:Sion』という文字が浮かんでいた。後から聞いた話だと、うずくまるシホを見下ろしていたアリスの目も、赤く染まっていたらしい。
あのあと、ヒマリが一日かけてシホを調べてくれたけれど、何も見つからなかった。私の立ち会いで二人をもう一度会わせたときも、何も起きなかった。
今思い返してみれば、あの日も、もしかしたら同じようにアリスが暴走する寸前だったのではないか。
―――名もなき神の遺産。
ヒマリから聞いたその言葉が、ずっと頭の中で回っている。シホも、アリスも、戦うために作られたのだと。
私はそのとき、そんなことは関係なく、二人とも私のかわいい生徒だと答えた。
その気持ちは、今も変わっていない。
変わっていないからこそ、こうなってしまったことが、ひどく重かった。
ヒマリにも、その日のうちに知らせを送ったけれど、返事は返ってきていなかった。
シホのことで手が離せないのかもしれない。それでも、ヒマリが返事すらよこさないのは気がかりだった。
シホのことも、頭から離れなかった。
公園で別れてから、シホとは一度も話せていない。その日の夜に送ったモモトークにも、まだ既読はつかないままだ。
そのとき、端末に着信が入った。画面にはミドリの名前が表示されている。
この二日、ミドリから連絡が来るのは、決まってモモイかアリスのことだった。私はすぐに通話に出た。
『先生……アリスちゃんが……』
ミドリの声は震えていて、今にも泣きだしそうなものだった。
"アリスがどうしたの?"
『私たちじゃ、もうどうしようもなくて……来てもらえますか……?』
"わかった、すぐに行くよ"
ミドリとの通話を終えて、素早く身支度を済ませてからゲーム開発部の部室に向かった。
◆
部室の前には、ミドリとユズが立っていた。
私に気がついたミドリが、ほっとしたような、泣きそうな顔をする。
「あ……先生……」
"おまたせ。アリスは?"
「……まだ、部室から出てこないんです。何度も声をかけたんですけど、ご飯も食べてくれなくて……」
「ど、どうすればいいのか、わからなくて……」
ユズが、スカートの裾をぎゅっと握りしめていた。
"大丈夫。ここは私に任せて"
私は二人にそう言って、部室のドアの前に立った。
一度だけ深く息を吸いこみ、ドアをノックする。
"アリス、ちょっと入ってもいいかな?"
返事はない。
ドアノブに手をかけてみると、鍵は掛かっていなかった。
振り返ると、ミドリとユズが、祈るような顔で頷いた。
"入るよ"
部屋の中は、明かりもついていなかった。
いつもならゲームの音でにぎやかなこの部屋が、しんと静まり返っている。テレビも、ゲーム機も、全部消えたままだ。
その部屋の隅で、アリスが膝に顔を埋めたまま座っていた。
"アリス、大丈夫?"
「…………」
私が声をかけると、アリスの肩が小さく跳ねた。
"ご飯も食べないで、ずっとこもってるって聞いたよ"
「せ、先生……」
顔を上げたアリスの目は、赤くなかった。いつもの青い目だ。
けれど、いつもの明るさはどこにもなかった。
"みんな心配してるよ。行こう……?"
「……アリスには、できません」
"……どうしてかな?"
「アリスの、せいで……モモイが、怪我をしました……」
事実を確かめるように、ゆっくりとしゃべるアリスの声は震えていた。
「全部、アリスが……やったことです。でも、どうしてそうなったのか……アリスにも、わかりません」
アリスは、自分の中を覗き込むように、手のひらを見つめた。
「あのとき、まるでアリスの中に、アリスの知らない『セーブデータ』があるみたいでした。覚えていないのに、何度も遊んだことのあるゲームみたいに、体が勝手に動いたんです」
セーブデータというのは、アリスらしい言い方だった。
だけど、その言葉が何を指しているのか、私には聞き返すことができなかった。
「何をしたのかは、思い出せません。……でも、一つだけ、確かなのは」
アリスの手が、ぎゅっと握られる。
顔はまた膝に埋められ、震えは全身に広がっていく。
「アリスが、モモイを……!」
"アリス、落ち着いて……!"
「先生……アリスは、一体どうすれば……!」
私がアリスの肩に手を伸ばした、そのときだった。
「――ええ。貴女が傷つけた。それは、逃れようのない事実よ」
背後から知らない声がした。
"誰……!?"
振り返ると、部室の入り口に背の高い子が立っていた。
長い黒髪に、黒い服。冷たい赤い目が、まっすぐに私とアリスを見ている。
「先生!」
「か、会長が……!」
その後ろから、ミドリとユズが慌てた様子で部室に入ってくる。
二人は私とアリスの近くに来ると、一緒に彼女の方を向いた。
「やはり……危惧していたとおりになってしまったようね」
黒髪の生徒は、ため息まじりにそう言うと、私の方に目を移した。
「貴方が、シャーレの先生ね。……こういう形での出会いになったのは、残念だわ。私の名は調月リオ。ミレニアムの生徒会、セミナーの会長よ」
調月リオ。
特異現象捜査部の調査の際、ヒマリの話に何度か出てきた名前だった。
その名前を口にするとき、ヒマリの声はいつも少しだけとげとげしくなっていた。
「今日は、貴方と、彼女たちに……『真実』を伝えにきたの」
"『真実』というのは、一体?"
「単刀直入に言えば、貴方たちがアリスと名付けたソレは、『
「アリスは……アリスには、理解できません……」
ヒマリから聞いていた話と、ほとんど同じだった。
今のアリスが、こんな形で知らされるのはとても心苦しかった。
「そ、そんなの、会長の勝手な設定じゃないですか! アリスちゃんに、変な設定を押しつけないでください!」
私の横に立っていたミドリが、アリスをかばうように前に出た。
「……ごめんなさい。私の配慮が足りなかったわね」
リオは、少しも表情を変えずに言った。
「貴女たちの好きなゲームで例えましょう。アリス、貴女はこの世界を滅ぼすために生まれた『魔王』なのよ」
アリスの肩が、びくりと震えた。
ゲームが大好きなアリスにとって、それは一番わかりやすくて、一番残酷な言葉だった。
「いい加減にしてください……どうしてそんなことを言うんですか!?」
「むしろ、逆に聞きたいのだけど……貴女たちは『
「そ、それは……」
"『
「その通り。本来、ミレニアムに入り込まないように、C&CとAMASを通じて追跡していたつもりだったのだけれど……監視網を掻い潜った個体がいたのは、完全に私の不手際によるもの。謝罪をここに」
「えっ? 謝罪? 会長が!?」
その謝罪に、嘘はないように見えた。
だからこそ、その先に続く言葉が怖かった。
「でも、そのおかげで、私の仮説は証明された。貴方たちが接触したソレは、廃墟から溢れ出した、キヴォトス全土に終焉をもたらす『災禍』。今回は、運よく壊れかけの個体と接触するに留まったけれど……次はこんなものでは済まないでしょうね」
"…………"
その言葉に言い返せるだけのものを、今の私は持っていなかった。
「この脅威を解決する方法は、一つだけ。……アリス、貴女のヘイローを破壊することよ」
「……!?」
ミドリとユズが、大きく目を見開いて息をのんだ。
「もっとも、今すぐではないわ。安全に破壊するための手順を確かめるために、まずは検査をする。……爆弾は、安全な場所で解体すればいいだけだもの」
"リオ。それ以上の言葉は、許せないよ"
自分の声が、思っていたよりも低く出た。
たとえ生徒だとしても、それだけは越えてはいけない一線だ。
「……私の言動が不愉快ならば、謝罪するわ。けれど、事実から目をそらすのは、思いやりなどではないわ」
リオは、私の言葉に少し申し訳なさそうにした後、淡々と続けた。
「それに、これはアリス一人の話でもないの」
"……どういうこと?"
「六津井シホ。彼女も、アリスと同じ、『名もなき神』の遺産よ」
ミドリとユズが、私の方を振り向いた。
「シ、シホちゃんが……?」
「六津井シホは、もう私のところにいるわ。自分が何者なのかを聞いたうえで、自分のヘイローが破壊されることを受け入れた」
「シホも……?」
アリスが、かすれた声でつぶやいた。
頭の中が、一瞬真っ白になった。
シホが自分から、そんなことを受け入れただなんて、信じたくなかった。
けれど、公園のベンチで、ゼリー飲料を握りしめていたシホの顔が浮かんだ。
あれから、私はシホに何も伝えられていない。
背中を向けて一人で歩いていった姿を思い出すと、彼女がどんな思いでそれを受け入れたのか、考えずにはいられない。
"……シホに、何をしたの"
「何も。呼び出したら来て、事情を説明したら、納得してくれた。それだけよ」
"……そんなこと、ヒマリが黙っているはずがない"
リオの目が、一瞬だけアリスの方へ動いた。
「ええ。明星ヒマリも貴方と同じで、ヘイローの破壊に反対だった。だから、彼女にも私のところで、おとなしくしてもらっているわ」
私は、ヒマリからの返事がない理由に納得がいった。
彼女も、シホのことでリオに話をしに行ったのか、あるいはリオが来たのか。
「……そして、先生。貴方には、聞きたいことがあるの」
リオの声が、少しだけ硬くなった。
「ヒマリから聞いたわ。シホとアリスが初めて会った日、二人に異変が起きたこと。そして、その後、貴方の立ち会いで二人をもう一度会わせたこと。貴方は、二人の正体を知っていたのでしょう。知っていて、何の手も打たなかった。二人を、何も知らない生徒たちの中に置き続けた」
リオの赤い目が、まっすぐに私を見ていた。
「冷静に、感情に流されずに状況を判断できる。大人というのは、そういうものではないのかしら。こういう事態のときに、真っ先に動くべきだったのは、貴方ではなくて? 責任を取るのが大人の役目だと言うのなら、聞かせてちょうだい。今回の結果は、誰の責任かしら」
部屋の中が、静まり返った。
ミドリも、ユズも、何も言えずに私を見ている。
モモイの顔が浮かんだ。医務室のベッドで、今も目を閉じたままの顔。
リオの言葉の一つ一つが、胸の奥に重く沈んでいく。
私は、ゆっくりと息を吐いた。
"……モモイのことは、私の責任だよ"
アリスが、はっとしたように顔を上げた。
"二人のことを知っていて、大丈夫だと思っていた。それで、モモイに怪我をさせた。それは、私の判断が招いたことだし、言い訳はしない。……だからこそ、リオ。まずは、みんなで話し合いたい"
リオの眉が、わずかに動いた。
"アリスのことも、シホのことも。危ないところがあるなら、それを消してなかったことにするんじゃなくて、どうやって向き合っていくのかを、みんなで考えたい。アリスも、シホも、ゲーム開発部のみんなも、ヒマリも、リオも。全員が納得できる形を探したいんだ"
私は、はっきりと告げるために、リオの目を見つめる。
"そのために生まれる責任は、私が負う"
「……話し合い?」
リオが、小さく首を振った。
「その間に、次が起きたらどうするの。今度は、才羽モモイの怪我では済まないかもしれない。キヴォトスのすべての生徒と、アリスやシホを秤にかけて、それでも貴方は、話し合いを選ぶのかしら。それに、勘違いしないでちょうだい。『アレ』らは、生命体、では――」
リオの言葉が、一瞬だけ途切れた。
ほんのわずかな間だったけれど、赤い目がかすかに揺れた。
「――ないの。貴方が背負うべき、生徒ではないわ。もし、そう感じるのだとしたら、それはただのエライザ効果よ」
リオは、すぐに先ほどの調子に戻っていた。
「話は終わりよ。……ネル」
リオが、後ろを振り返った。
すると、部室の扉から難しい顔をしたネルが現れた。