猟犬は透き通る空の夢を見る 作:ピンカル
身支度といっても、やることはあまりなかった。
顔を洗って、髪を整えて、着替えるだけ。私の分はすぐに終わるから、残りの時間はヒマリの手伝いをする。
ヒマリの髪は長いから、とかすのに時間がかかる。
いつもなら、とかしている間もヒマリはずっと何か話している。今日の紅茶の葉っぱのこととか、エリドゥの部屋の趣味が悪いこととか。
今日は、あまり話さなかった。
「シホ」
「なに」
「……いえ。何でもありません」
鏡の中のヒマリは、少しだけ笑って、また前を向いた。
身支度が終わったころ、扉が開いてAMASが入ってきた。
私はヒマリの車椅子を押して、部屋を出た。
迎えに来たAMASについていき、装置のある部屋に向かう。
部屋に着くと、リオと、その近くに水着みたいな格好をしたトキが立っていた。
リオがこっちに気づいて、顔を上げた。
「おはよう。……来たわね」
トキもこっちを向いて、小さく一礼する。部屋には、まだアリスの姿はなかった。
「さっきの検査では、アリスに異常は見られなかったわ。直接会わせても、問題はないはずよ」
リオはそう言って、ちらりとトキの方を見た。
「でも、何が起きるかはわからない。念のため、トキを待機させているわ。貴女たちも、気をつけておいてちょうだい」
それから、リオはヒマリの方を見た。
「約束どおり、貴女にも立ち会ってもらうわ。安全かどうか、自分の目で確かめなさい」
「……ええ。そうさせてもらいます」
ヒマリは、他に何も言うことなく、ただそれだけ答えた。
リオが手元の端末を操作すると、反対側の扉が開いた。
その奥から、AMASに囲まれたアリスが入ってくる。
アリスは、私を見つけると足を止めた。
私は、思わず身構えた。
アリスとの距離は、十歩くらい。前にゲーム開発部でアリスの様子が変わったときは、もっと近かった。
今のアリスの目は、青いままだった。頭も痛くならないし、耳の奥も静かなままだ。
リオの前のモニターに、細かい数字や線がいくつも流れている。リオはそれをしばらく見てから、小さくうなずいた。
「……問題ないわ。近づいても構わない」
それを聞いて、私とアリスの肩から力が抜けた。
アリスは、ゆっくりこっちに歩いてくる。私の前で止まって、それから、車椅子のヒマリにぺこりと頭を下げた。
「ヒマリ先輩も、こんにちは」
「ええ。……こんにちは、アリス」
ヒマリは、やさしい声で答えた。
ただ、その表情は明るいものではなかった。
アリスはもう一度、私の方を向いた。
「シホ。さっきの続きを、聞かせてくれますか」
私は、確かめるようにリオの方を見た。
「検査の準備に、少し時間がかかるわ。……その間なら、構わない」
リオはそう言って、モニターの方を向いた。
それから私は、先生に話したときや、ヒマリとリオに話したときと、同じことを話した。
三回目だから、もう声はふるえなかった。
でも、言い終わってから、いつの間にか手をぎゅっと握っていたことに気づいた。
最初のほうは、アリスも楽しそうに聞いていた。でも、話が進むにつれて、だんだん顔が暗くなって、最後のほうは、今にも泣きだしそうな顔になっていた。
「そんなことが……あったんですね……」
「そう。だから、私はここに来た」
全部話し終わってから、私はアリスの最初の質問に答えた。
「私は、もうルビコンを燃やした。キヴォトスも、燃やすかもしれない。だから、そうなる前に、壊してもらう」
アリスは、うつむいたまましばらく黙っていた。
それから、小さな声で聞いた。
「……シホは、怖くないのですか?」
通信のときと、同じ質問だった。
あのときは、すぐに答えが出てこなかった。
今までさんざん殺してきたくせに、殺される側の気持ちを考えたことなんてなかった。
ヘイローを壊されるのは、どんな感じなんだろう。
痛くて苦しいのかもしれないし、思ったより何も感じないのかもしれない。
だけど、一つだけわかっていることがある。
「……壊されるより、滅ぼす方が、怖い」
口を開いたら、思っていたよりすんなり出てきた。
車椅子の肘かけに乗っていたヒマリの手が、少しだけ動いた。
アリスは、私の答えをゆっくり考えているみたいだった。
「……シホの言うことは、アリスにもわかります」
アリスは、顔を上げて、胸の前で両手を握った。
「でも……それは、本当に正しい選択肢なのですか?」
「正しい」
迷っているアリスを切り捨てるように、私はすぐに答えた。
アリスの顔が、くしゃっとゆがんだ。
泣きそうで、どこかが痛むような顔。大切なものが壊れたときみたいな顔だった。
どうして、アリスがそんな顔をするのか、私にはわからなかった。
「アリスも、正しいと思ったから、来たんでしょ」
アリスの顔がこわばって、そのままぴたりと止まった。
何か言おうとして、またうつむいてしまう。
モニターの音だけが、部屋に響いていた。
「……その選択肢が、正しいのなら。ミドリとユズが、泣いていたのも……正しいのですか?」
うつむいたまま、アリスが言った。
その言葉を聞いて、アリスがここに来ると言ったとき、ミドリとユズがどんな顔をしていたのか思い浮かべた。
そして、寝る前に聞いたヒマリの言葉も。
「それは……」
正しいと言い切ろうとして、言葉がそこで止まった。
すぐ横で、ヒマリが息を吸う音がした。
ヒマリの方を見ると、ヒマリは口を開きかけていた。
でも、ヒマリは何も言わなかった。
そのまま口を閉じて、私から目をそらした。
私は、アリスの方に向き直った。
「……正しい」
口から出た言葉は、さっきより小さかった。
アリスが、顔を上げる。
「泣けるのは、生きてるから。死んだら、泣くこともできない」
アリスは、私の目をじっと見つめてきた。
その顔は、さっき見たときと同じでくしゃっとゆがんでいた。
「……そう、ですね」
しばらくして、アリスはリオに向き直った。
「……アリスも、検査を受けます」
リオが、こっちを振り返った。
話が終わるのを、待っていたみたいだった。
「……そう。準備ならできているわ」
リオは、私が使っていた装置へとアリスを案内して、そのまま横にさせる。
「うう……思ったより冷たいです……」
「すぐ慣れる」
私がそう言うと、アリスは、少しだけ笑った。
今日、アリスが笑ったのは、たぶん、それが初めてだった。
リオが、手元の端末を動かしはじめる。
それから、少しだけ手を止めて、モニターの横に置いてあった別の端末を手に取った。
「預かっていた端末を返すわ。アリスの検査を、手伝ってちょうだい」
リオは、ヒマリに向けて端末を差し出した。
だけど、ヒマリはそれを受け取ろうとはせず、端末をちらっと見て首を横に振った。
「お断りします」
「……理由は?」
「シホが私のお願いを聞いてくれないので、悲しくて悲しくて、紅茶とクッキーしか喉を通らないんです」
ヒマリは、片手をほっぺたに当ててため息をついた。
「こんな状態では、とても検査のお手伝いなんてできません。部屋で、ゆっくりさせてもらいますね」
お願いというのは、たぶん、寝る前のことだろう。
ヒマリは私に生きてほしいと言っていたけど、そのお願いは聞けなかった。
ヒマリの声は、ちょっと拗ねているみたいだけど、わざとらしい。部室でよく見かけた、いつものヒマリだった。
なんだか変だと思ったけど、私は何も言い返せなかった。
リオは、しばらくヒマリを見ていた。
それから、差し出していた端末を元の場所に戻した。
「……異論があるなら、部屋に戻っておとなしくしていてもらう。そう言ったわね」
「ええ。ですから、そうさせていただきます」
リオが小さくため息をついて手を振ると、AMASが一台、ヒマリの車椅子の後ろについた。
「ヒマリ。私も……」
私が言いかけると、ヒマリは首を横に振った。
「シホは、ここにいてあげてください。アリスも、一人では心細いでしょうから」
装置の中から、アリスがこっちを見ていた。
確かに、少し不安そうな目だった。
「……わかった」
ヒマリは、アリスに小さく手を振って、AMASと一緒に部屋を出ていった。
◆
検査は、私のときと同じように進んだ。
装置の内側から、ケーブルの先がアリスの体にくっついていく。アリスは一瞬びくっとしたけど、すぐにおとなしくなった。
しばらくすると、アリスのまぶたが、ゆっくり下りていった。
私は、装置の横に座ってアリスの顔を見ていた。
アリスは完全に眠っているようで、私と同じように、夢を見ているのかもしれない。
アリスは、どんな夢を見てるんだろう。
リオは、ずっとモニターの前で端末を操作していた。
トキは、リオのそばを離れず、アリスと私を警戒する様子を見せていた。
検査が続いている途中で、AMASがお昼ご飯を運んできた。
私はそれを受け取って食べるけど、リオとトキは手を付けなかった。
「二人とも、食べた方がいい」
「……後で食べるわ。そこに置いてくれるかしら」
「私も、リオ様の調査が終わるまでは、遠慮しておきます」
二人は、モニターを見たまま答えた。
昨日の夜、ヒマリに「食べなさい」と言っていたのは、リオの方だったのに。
私はご飯を食べながら、モニターを流れていく文字を見ていた。
何が書いてあるのかは、ひとつもわからない。でも、リオの顔を見ていると、悪いことは起きていないんだと思う。
アリスの胸が、ゆっくり上下している。
私も、ここに寝ていたとき、こんな顔をしていたんだろうか。
そんなことを考えていると、突然、部屋の明かりが赤く変わった。
それと同時に、耳が痛くなるくらい大きな音が、部屋中に鳴り響く。
私は、とっさに腰に手をやったけど、その手は何も掴まなかった。
そういえば、武器は最初にいた部屋の床に置いたままだった。
私が慌てていると、アリスが装置の中で目を開けた。
「な、何ですか……?」
「動かないで」
リオがアリスに命令するけど、あまり慌てた様子はない。
だけど、さっきとは別のモニターに目を向けて、指を走らせていた。
「リオ様。エリドゥの外周に、侵入者です」
トキの声は、いつもと同じで平らだった。
でも、その体は、いつでも飛び出せるように構えていた。
よく見てみると、リオが見ているモニターには、小さな人影がいくつも動いていた。
どうやらエリドゥの外側の映像みたいで、所々煙が上がっている。
「……やはり、来たのね」
リオは、小さく息を吐いた。
アリスが、装置の中で体を起こそうとして、ケーブルに引っ張られた。
「もしかして……みんな、ですか?」
「ええ。ゲーム開発部に加えて、C&C。それに、エンジニア部と……外部からの通信。これはおそらく、ヴェリタスのメンバーね。……そして、先生も」
先生、という言葉に、肩が少しだけはねた。
私が知る限り、ミレニアムの中でアリスと関わりのあるメンバーが、全員エリドゥに乗り込んできたみたいだった。
私は、赤くなった部屋の中で、映像の中の人影を見ていた。
仲間を取り返したいなら、力ずくで取りに来る。
ルビコンでは、そういうのはよくあることだった。
だからまあ、友達が多いアリスなら、そうなるだろうと思った。
リオは端末の操作をやめて、画面に地図を出した。
「トキ。ポイントAに向かって、C&Cの迎撃をお願いするわ」
「イエス、マム……ほかの戦力への対応は、どうなさいますか?」
「ポイントBには、すでにアバンギャルド君を配置してあるわ。おそらく、相手は貴女を警戒して戦力を分散させるはず。なら、その手に乗ったうえで、想定外の戦力を当ててやればいい」
「承知しました」
トキは、リオの指示を受けてすぐに部屋から出ていった。
アリスは、不安そうな顔でモニターを見つめていた。
「トキがいないと、想定外の事態に対応できないから、迎撃が終わるまでアリスの調査は中断するわ。だけど、侵入者がいる以上、監視下から外すこともできない。悪いけれど、しばらくこのままここにいてもらうわ」
「わかった」
「……はい」
リオはそう言うと、またモニターに向き直って手を動かし始めた。
だけど、さっきリオが言っていたことで、一つ気になることがあった。
「リオ」
「……何かしら?」
「アバンギャルドって、誰?」
ポイントBに配置されているというアバンギャルド君は、こっちに来てから聞いたことのない名前だった。
トキと一緒で、侵入者の迎撃を任せられるぐらいだから、リオからはかなり信頼されているはずなのに。
「……アバンギャルド君は、人ではないわ。私が手掛けた、戦闘用ロボットのことよ」
そう言うと、リオは端末を操作して、画面を切り替えた。
目を向けると、そこには何とも言えない顔をした、四本腕のタンク型ACのようなロボットが映し出されていた。
「心配しなくても、アバンギャルド君の性能は保証するわ。四本の腕にはそれぞれシールドとバズーカ砲、ガトリングガンとアサルトライフルを装備させて、あらゆる状況に対応できるようにしてある。脚部はキャタピラにしてあって、市街地戦に特化した移動性能になっているのよ」
画面を見ながら説明するリオは、気のせいだろうか、どこか楽しそうに見えた。
改めて見てみると、確かにリオの言っていた通りの装備をしていた。
アリスは、画面を見たまま、少し楽しそうに口を開いた。
「これは、なかなかの強敵ですね! レイドボスのように、みんなで協力しないと倒すのに苦労しそう……ですね……」
アリスの声は、だんだん小さくなっていった。
あのロボットが、誰と戦うことになるのか。それに、気づいたみたいだった。
リオはその様子を見て、少し複雑そうな表情を浮かべた。
その表情のまま、今度はこっちに向き直った。
「……そういえば、貴女はアーマード・コアと呼ばれるロボットに乗って戦闘していたそうね。貴女の目から見て、アバンギャルド君はどう映るかしら」
私は、アバンギャルドの装備を見て、自分が乗ったとすればどう戦うのかを考える。
「……武装が四つあるのは、とても便利。キヴォトスでは空を飛ぶためのブースターがない分、タンクにして地面を走るのに向いてるのも、いいと思う」
「……見た目については、どうかしら?」
見た目というのは、たぶん装備のことじゃなくて、ペイントやエンブレムのことだと思う。
格好いいとは言えないけど、見た目で強さが変わるわけじゃないから、そこはリオの好きにすればいい。
「リオがいいと思うなら、それが一番いい。……それより、アセン。下に比べて上が大きいから、ちょっとバランスが悪い。武装を変えないなら、四脚にした方がいい。街の外でも、いろんな場所で戦えると思う」
リオは、少し意外そうな顔をした。
「……なるほど。エリドゥでは不要だったけれど、外での戦闘を考えるなら、今後は多脚型も視野に入れておくべきね」
リオはそう言って、手元の端末を操作した。
ACとは違うから、すぐにアセンを変えられないだろうけど、今後は四脚型のアバンギャルドも配備されるのかもしれない。
ふと横を見ると、アリスはまだ、外の映像が映ったモニターを見つめていた。
装置の縁をつかんだ手に、ぎゅっと力が入っていた。