猟犬は透き通る空の夢を見る 作:ピンカル
トキの「戦闘、開始します」という声を聞いてから、私は通信のマイクを切った。
モニターの中で、アビ・エシュフを纏ったトキがC&Cに突撃して、ネルを吹き飛ばすのが見えた。
あれを使う以上、たとえC&Cが総出でかかってきても、勝敗はもう決まっている。
ふと、視線が装置の方へ落ちた。
アリスは、装置につながれたまま眠っていた。検査の疲れが出たのか、それとも泣き疲れたのか、いつの間にか目を閉じていた。
……よかった、と思うべきなのかもしれない。
心優しいこの子が、先生たちが傷つくところを見ずにすんだのは、せめてもの救いになるのだろうか。
そんなことを考えた自分に気づいて、私はモニターに目を戻した。
トキを映す画面では、トキがC&Cの四人を相手に、一歩も引かずに押し続けている。演算による行動予測は、問題なく機能していた。
そして、もう一つの画面。
シホが、ゲーム開発部の三人を、ほとんど一瞬で地面に転がしていた。
蹴りで一人。射撃で一人。グレネードの弾を空中で撃ち落として、殴って最後の一人。迷いも、ためらいもなかった。
その足が、先生の方へ向かう。
『殺すのは……一応、だめだから。死なない程度に痛めつければ、しばらくは攻めてこない』
さっき、この部屋で聞いた言葉がよみがえった。
あのときも、私は何も言い返せなかった。
彼女の過去は聞いていた。惑星を一つ焼いたことも、そこに至るまでのことも。
聞いて、理解したつもりになっていた。
でも、理解していたのは、事実だけだったのだと思う。
選択肢の中に、たやすく殺害が入ってくる価値観。
そして、それを合理的だと判断した瞬間に、実行に移せてしまう胆力。
どちらも、私は持ち合わせていない。
私だって、好き好んで争いたいわけではない。誰かを傷つけたいと思ったことも、一度だってない。
けれど、これから私がやろうとしていることは、つまり、そういうことだ。
『リオにとって、私は先輩みたいなものだから』
あの子は、そう言っていた。
聞いたときは、意味を測りかねていた。けれど今なら、言い得て妙だと思う。
シホの蹴りが、先生の足をねらって振り抜かれる。
けれど、それは先生には届かなかった。石畳の段差に当たって、先生が尻もちをつき、蹴りはその上を通りすぎていった。続けて向けられた銃も、なぜか弾が出ない。
……偶然と呼ぶには、できすぎている。
やはり、あの人には私の計算に乗らない何かがある。
それでも、シホは止まらなかった。銃を下ろし、今度は素手で、先生に手を伸ばす。
思わず、目をそむけたくなった。
それでも、私はモニターから目をそらさなかった。これを許したのは、私だから。
その指が先生の服に届く寸前、画面の端で、散弾がシホの頭のあった場所を通りすぎた。
ヒマリの後輩であり、予想外の変数。和泉元エイミ。
「……そう。そこに出てくるのね」
ヒマリを連れ出したあと、二人の行方はつかめていなかった。
けれど、今そこにいるのはエイミ一人だけだ。なら、ヒマリは、どこか別の場所からこちらを見ているはずだ。
画面の中で、シホとエイミが撃ち合いを始める。
それを見ながら、私は、もう一つのことに気づいてしまった。
合理的な目的のためなら、手段を選ばない。
それが、私が今まで取ってきた行動であり、私の生き方だった。
なら、それを突きつめた先にあるのが、あの姿なのだとしたら。
私は、あれを正しいと思えるのだろうか。
世界を守るためなら、敵対する者は殺してもいいのか。
……違う。
私の目的は、キヴォトスを、ひいてはミレニアムの生徒たちを守ることだ。守るために傷つけていては、本末転倒になる。
けれど、たとえ正しくなかったとしても、アリスとシホのヘイローを破壊しなければ、キヴォトスが危機に陥る。それは、変わらない事実だ。
だとしたら、今の選択は正しいと思わなければならない。
少なくとも、それを実行しようとしている私だけは、そう思っていなければだめなのだ。
そう、自分に言い聞かせたときだった。
背後で、かすかに衣擦れの音がした。
振り返ると、アリスが装置の中で、上体を起こしていた。
ケーブルにつながれたまま、まっすぐにモニターを見ている。今まで一度も見たことのない、温度のない表情で。
「……目が覚めたのかしら? 貴女は、見ないほうがいいわ」
できるだけ静かに、そう言った。
アリスは、ゆっくりとこちらを向いただけで、何も言わなかった。
その違和感の正体に、私は、アリスの目を見て気づいた。
青かったはずの瞳が、赤く染まっていた。
ヴェリタスの部室で暴走したときの報告にあった――
次の瞬間、部屋中のモニターが、一斉に紫色に染まった。
広場の映像も、トキの状態表示も、エリドゥの地図も、すべてが塗りつぶされる。
そして、その真ん中に、大きく文字が浮かび上がった。
『Divi:Sion』
「現在、『王女』の表層人格は、内部データベースの深層部に隔離されています」
アリスの声だった。
けれど、アリスの話し方ではなかった。抑揚のない、機械の読み上げのような声。
「私の個体名は〈Key〉。王女を助ける無名の司祭たちが残した修行者であり、彼女が戴冠する玉座を継ぐ『鍵』〈Key〉です」
「Key……」
聞いたことのない名前だった。
私の調べたどの記録にも、そんなものは残っていなかった。
「まさか……『名もなき神々の王女』は、アリスだけではなかった……!?」
「……王女は、ただ一人なのですが。わざわざ説明する必要もないでしょう。今、レイヴンと、あなたの主戦力である兵装が、私のもとから離れたことを確認しました」
レイヴン。シホを、その名前で呼んだ。Keyは、シホのことを知っている。
そして、シホとトキがこの部屋を離れるのを、待っていたのだ。今この場に、Keyを力ずくで止められる者は、一人も残っていない。
「只今よりエラーを修正し、本来あるべき玉座に『王女』を導かせていただきます。AL-1Sに接続された利用可能リソースを確保するため、全体検索を実行。リソース領域の拡大」
手元の端末に、警告が次々と流れ始めた。
エリドゥの演算領域が、内側から食い荒らされるように、私の手を離れていく。
「……現時刻をもって、プロトコルATRAHASIS稼動。コード名『アトラ・ハシースの箱舟』、起動プロセスを開始します」
「アトラ・ハシース……!?」
その名前だけは、見たことがあった。
名もなき神々の遺した記録の、ほんの断片の中に。
「プロセスサポートのため、追従者Divi:Sionを呼び出します」
私は、手元の端末を操作して状況を確認した。
エリドゥ各地の監視網が、次々と同じ反応を返してくる。
「……エリドゥ各地で、追従者Divi:Sionの出現……? いえ、そんなはずが……」
全個体を追跡していた。ミレニアムに入れないよう、監視網を張っていた。
エリドゥの中にあれが入りこむ余地なんて、なかったはずだ。
「私の計算は……でも……!」
「箱舟の製作に必要なリソース、確保率十三パーセント」
アリスの口が、淡々と数字を告げる。
端末の隅に、新しい表示が出た。
アビ・エシュフ、支援システム、応答なし。
演算を奪われたことで、アビ・エシュフの行動予測が正常に機能しなくなったのだ。
今ごろ広場では、トキがネルに押しこまれているはずだ。
この都市は、私が作った。
『名もなき神』の遺産であるアリスとシホを、確実に、安全に破壊するための場所として。
その都市が、目の前の『鍵』によって、王女のための玉座に作り変えられようとしている。
私は、震える指で通信をつないだ。
「トキ、シホ! 聞こえる!?」
自分のものとは思えないほど、声が上ずっていた。
「エリドゥが……エリドゥのシステムが、乗っ取られようとしているわ……!」
◆
『このままでは、この都市が、終わりの始まりになってしまう』
通信機から、リオの声が続いた。
いつもの落ち着いた声じゃなかった。早口で、ところどころ声がかすれていた。
『トキ、シホ。貴女たちは、先生たちを連れて、メインタワーからできるだけ離れてちょうだい!』
"離れろって……リオ、いったい何を"
先生が、通信に答えた。
エイミも、モモイもミドリも、銃を構えたまま動きを止めていた。向こうでは、ネルとトキも撃ち合いをやめていた。
『アリスの中にいた、もう一つの人格が目を覚ましたの。……Keyと、名乗ったわ』
もう一つの人格という言葉に、先生たちがざわめいた。
こんなことになるなんて、リオも、先生たちも、考えていなかったんだと思う。
『今から、この都市そのものが作り変えられる。「箱舟」という、まったく別のものに。そうなったら……このキヴォトスは……』
リオの声が、そこで途切れた。
次に聞こえてきたのは、失敗して、怒られるのを待っている子どもみたいな、小さな声だった。
『……私のせいよ。私が、この都市を作らなかったら。最初から、こんなことにはならなかったのに……。私が……私のせいで……。だから、私が止めないと』
「アリスが、暴走したの?」
私は、通信機に向かって聞いた。
リオの話は、よくわからないところも多かった。でも、大事なのはそこだけだと思った。
『……ええ。もう、今からだと、制圧することすら難しいわ。だから、私一人で、システムを止めてみせる。……間に合わなければ、メインタワーごと吹き飛ばすわ』
「リオ様!」
トキが、ネルの前で叫んだ。
アビ・エシュフの腕が、だらんと下がっていた。
"……リオ"
先生が、名前を呼んだ。
それだけだった。でも、先生の顔は、少しだけさびしそうに見えた。
私は、メインタワーを見上げた。
リオがいた部屋は、ここからだとそう遠くはなかった。アリスも、まだそこにいるはず。
「アリスは、まだ装置の中?」
『……ええ。装置につながれたままよ』
「わかった。今行く」
それだけ言って、私は地面を蹴った。
アリスが暴走したなら、アリスを止めればいい。少なくとも、アリス本体を壊せばそれで終わるはず。
私は、もともと壊される予定だったし、巻きこまれても何も問題はない。
「シホ!?」
「え、ちょ、どこ行くの!?」
後ろで、エイミとモモイの声がした。振り返らなかった。
少し遅れて、背中の方で重たい駆動音が鳴った。トキが、ついてきている。
『リオ様、ただいまそちらに向かいます』
『トキ……!? シホも、何をしているの! ここは、もうすぐ破壊されるかもしれないのよ! 早く避難しなさい!』
「断る」
タワーの入り口に飛びこみながら、私は言った。
「それに、自爆するなら、私ごとすればいい。もう一つの脅威も消えて、ちょうどいい」
『それは……!』
リオの声が、一瞬止まった。
『……どちらにしろ、もう、貴女たちでは間に合わないわ! エリドゥが乗っ取られる前に、私が止める……!』
通信の向こうで、キーを叩く音が、ものすごい速さで鳴り始めた。
エレベーターの前を、私は素通りした。
エリドゥが乗っ取られかけているなら、エレベーターなんて、どこで止められるかわからない。階段の方が早いし、確実だ。
階段は、踊り場で折り返しながら上へ続いていた。
私は段には足をかけずに、踊り場から、一つ上の踊り場へ、直接跳び移った。着地したら、向きを変えて、また跳ぶ。くるくると回るみたいに、上へ、上へ。
『リソース確保、三十四パーセント……? これは……?』
通信機から、別の声がした。
アリスの声だった。でも、アリスのしゃべり方じゃなかった。
最初にアリスと会った日、私を見下ろしていた、あの赤い目のアリスを思い出した。
『この期に及んでも、まだそんな強情を張るのですか。ここまでくると、呆れを通り越して、もはや笑いすらこみ上げてきますね』
また、別の声が割りこんできた。
よく知っているその声に、足が少しだけ止まりかけた。
『その声は……!』
「……ヒマリ」
『はい。ミレニアム最高の天才清楚系美少女ハッカーであり、雲の上に咲く一輪の花――明星ヒマリです』
いつもの名乗りだった。
通信機の向こうで、車椅子の音がした。ヒマリは、いつの間にかリオの部屋に入ってきたらしい。
『なぜ、ここに……。貴女は、さっき逃げたはずじゃ……』
『逃げただなんて……なんと寂しいことをおっしゃるのでしょう。この先どうなるのか、ある程度は見当がついておりましたから。閉じこめられていた部屋を抜け出した後、エイミに取り返してもらった端末で、先生たちにこっそり連絡して、ここまで来たのです』
やっぱり、ヒマリは近くにいた。
エイミと一緒に逃げたあと、こっそりとこのタワーの中に来てたんだ。
『それよりも、何をしているの! 貴女も話を聞いていなかったの!? ここは――』
『聞いていたに決まっているではありませんか。私が、何の対策もなしに、こんな薄暗くて淀んだ空気のたまった場所に来るとお思いですか?』
ヒマリは、そこで少しだけ声を張った。
『……先生、お願いします!』
次の瞬間、階段の明かりが消えた。
真っ暗になったのは、ほんの一瞬だった。
すぐに、足元の方から、薄暗い非常用の明かりがぼんやりとついた。
『……メインタワーのメイン電源システム、シャットダウン。リソース確保を中断。復旧作業を開始します』
さっきの、アリスみたいな声が言った。
『これは……一体、どうやって……』
『ふふっ。エイミが私を助けに来てくださったように。私には、頼れる後輩が、たーくさんいるんですよ?』
通信だけじゃ、何が起きたのかはよくわからない。
でも、ヒマリが何かをして、このタワーの電源を落としたらしい。それだけはわかった。