猟犬は透き通る空の夢を見る 作:ピンカル
やらなきゃいけないことなら、いくらでも並べられた。
でも、どれも全部、誰かのため、何かのためだった。
"……答えは、今すぐ出なくていいよ。……先に、私のやりたいことを言うね"
先生は、膝をついたまま、困ったみたいに笑った。
"シホに、生きててほしい。……それで、シホのやりたいことを、一緒に見つけたい"
すぐには、意味がわからなかった。
そんなことを言われるなんて、思ってもいなかった。
「……それが、先生の、やりたいこと」
"うん。私のわがまま"
先生はそれを、恥ずかしがりもせずに言った。
おなかの奥が、また熱くなった。
さっき、モモイに向けたのと同じ熱さだった。
「……勝手」
"うん。勝手だね"
「先生に、何がわかるの」
言ってから、ひどいことを言ったと思った。
でも、取り消す気にはなれなかった。
「先生は、ルビコンにいなかった。ウォルターにも、会ったことない。私のやってきたことだって、何にも知らない」
声が、だんだん大きくなっていく。
みんなが聞いているのは、わかっていた。
"……うん。わからない。だから、教えてほしいんだ"
先生は、目をそらさなかった。
言い返そうとしたけど、言葉が見つからなかった。
さっきまで熱かったおなかの奥が、少しずつ冷えていった。
部屋の中の誰も、動かなかった。
「……おい、チビ」
その静けさを破ったのは、ネルだった。
壁にもたれて、そっぽを向いたまま言った。
「あたしが広場で足払ったとき。お前、負けたやつの顔してなかったぞ」
「……どういう、意味」
「知らねーよ。安心したみてーな顔してたって言ってんだ」
エイミが、驚いた顔をしてネルの方を見た。
ネルは、ふん、と鼻を鳴らしただけだった。
違う、と言おうとした。
でも、口を開けても、その言葉が出てこなかった。
ネルに足を払われて、背中から地面に落ちたとき。
瓦礫のすき間から、空が見えた。やけに遠い空だった。
アビ・エシュフの中で、体が動かせなかったとき。
もう、戦えない。だから、戦わなくていい。
そう思ったのは、ほんの一瞬だった。すぐに、アリスのことを考えて、塗りつぶした。
悔しいって気持ちで、上から何度も。
でも、一瞬は、あった。
「……そんなわけ、ない」
だけど、それを認めるわけにはいかなかった。
「私は、負けたら、だめで」
負けてよかったなんて、そんなの、許されるわけがない。
「負けたら、エアを殺さなくてよくて。でも、負けたら、世界が滅ぶかもしれなくて……だから、負けたら、だめなのに……」
頭の中で、全部がぐちゃぐちゃにぶつかっていた。
負けたら、エアを殺さなくてよかった。
ルビコンで、私が負けていたら。
「……殺したく、なかった」
口にしてから、それが本当だとわかった。
「エアは、私の、最初の、友達だったのに。ずっと、一緒にいてくれたのに。……殺したいわけ、なかった」
部屋の中が、しんとした。
アリスが、両手で口をおさえていた。モモイは、もう怒った顔をしていなかった。
なのに、私は殺した。
エアのことも、裏切った。
壁のモニターの赤い目を、見ることができなかった。
『……レイヴン』
ずっと黙っていたエアが、口を開いた。
『正直に言うと……私は、とても悲しかったです。あのとき、あなたが私の手を取ってくれなかったことが』
やっぱり、責められている。
私は、右手をぎゅっと握った。爪が、手のひらに食いこんだ。
『でも……キヴォトスで、あなたがおいしそうにご飯を食べたり、誰かとゲームをして悔しがったりするのを見ているうちに、少しずつ、その気持ちは変わっていきました』
エアの声は、責める声じゃなかった。
『レイヴン。一つ、聞かせてください。ルビコンで私と戦ったとき、あなたは、なぜ、わざと隙を見せたのですか?』
心臓が、どくんと鳴った。
なんで今さら、そんなことを。
「それは……エアの、隙を作るため」
『そうですね。私も、ずっと罠だと思っていました』
エアは、そこで少し黙った。
『……ですが、さっきのネルの言葉を聞いて、思ったのです。あのときのあなたも、止めてほしかったのではないかと。……私が、そう思いたいだけかもしれませんが』
「……そんなわけ、ない!」
気づいたら、顔を上げていた。
「私は、ウォルターの頼みを果たすために戦ってた! 負けるわけにはいかなかった! あそこで私が負けたら、全部が無駄になるのに……!」
『……はい。そうですね』
エアは、言い返さなかった。
『それでも、私は、悔しかったのです。あなたに選ばれなかったことよりも……あなたを止められなかったことが』
悔しかった。
エアも、悔しかったんだ。
言い返したかった。でも、あのときのことが、勝手に頭に浮かんでいた。
攻撃を受けたあと、目の前いっぱいに迫ってくる、エアの機体。
わざと、隙を見せた。勝つためだった。そのはずだった。
なのに、あのとき、怖くなかった。
今日も、同じだった。
アビ・エシュフの中で、もう、戦わなくていいと思った。
「負けて……」
のどが、ひりひりした。
言ったら、ウォルターを裏切ることになる気がした。
それでも、もう、うそはつけなかった。
「……ほっと、した」
言ってしまった。
言ってしまったら、もう、なかったことにはできなかった。
「でも……ほっとしちゃ、だめなのに。負けたら、ウォルターの遺志は、どうなるの……」
目の奥が、熱くなった。
先生の顔も、エアの画面も、少しだけにじんで見えた。
自分で言ったことなのに、自分の声じゃないみたいだった。
私は、にじんだ赤い色を、ぼんやりと見ていた。
『……レイヴン』
画面の中のエアは、何かを言いかけて、口を閉じた。
それから、もう一度、口を開いた。
『先に、謝らせてください。……あのとき、あなたを止めてあげられなくて、ごめんなさい』
一瞬、何を言われたのか、わからなかった。
なんで、エアが謝るの。
責められるなら、わかる。それだけのことを、私はした。
人殺しって言われても、裏切り者って言われても、全部そのとおりだから、黙って聞いていられた。
でも、謝られたら、どうすればいいのかわからない。
星を燃やしたのは、私なのに。友達を殺したのは、私なのに。
殺された側のエアが、謝っている。
「……違う!」
首を、何度も横に振った。
「エアは、悪くないっ!」
首を振るたびに、左腕から落ちた血が、床に小さな点を増やしていった。
「悪いのは私だ! 私が選んで、私がエアを殺した! ラスティも殺して、コーラルも燃やした! ルビコンも、全部、全部、燃やした! 私がっ! 私、が――」
必死に叫んだ。
なのに、言葉がだんだん声にならなくなって。息が、できなくなった。
吸おうとしても、吸えない。のどの奥で、ひっ、と変な音がした。
頭がしびれて、周りがぼやけてくる。
何とか立っていた足からも、力が抜けて、膝が床にぶつかった。
ほっぺたを、熱いものがつたった。
手で押さえようとしても、左手は上がらなかった。右手で押さえても、止まらなかった。
私が、悪い。
私が悪者じゃなきゃ、だめなんだ。
そうじゃなきゃ、死んだ人たちに、顔向けできない。
「シホ……っ!」
ヒマリの声がした。
車椅子が、こっちに動きかけて、止まる音がした。
エイミが、一歩前に出たのがわかった。
でも、エイミもそこで止まった。二人とも、それ以上は近づいてこなかった。
"シホ"
先生の手が、前に倒れかけた私の肩を支えた。
先生も、床に両膝をついて、すぐそばにいた。
"選んだのは、シホだった。それは本当だし、シホが背負おうとしていることも、うそじゃない"
否定、されなかった。
そのことに、少しだけ、息が吸えた。
"でもね。誰か一人を悪者にしても、起きたことは変わらないんだ。……その一人が、シホでもね"
先生は、それ以上、なぐさめの言葉を言わなかった。
私の息が落ち着くのを、ただ待っていた。
"それに……ウォルターさんは、シホに「全部一人で背負ってくれ」なんて、言ってたのかな?"
ウォルター。
最後の、メッセージ。
――すまない、そして感謝しよう。
――お前を縛るものはもう何もない。
――これからのお前の選択が……お前自身の可能性を広げることを祈る。
聞きなれた声。だけど、いつもよりやわらかかった、ウォルターの声。
あのときウォルターは、私に謝っていた。
「……ウォルターも」
涙で、声がぐちゃぐちゃになった。
「ウォルターも、謝ってた」
先生は、何も言わずにうなずいた。
「でも……それじゃ、ウォルターが、悪者になっちゃう」
ウォルターが悪者になったら。
ウォルターのためにやったことが、全部、まちがいになる。
それだけは、いやだった。
「私以外の、誰も……悪者に、したくない」
"悪いところがあったことと、悪者になることは、全然違うよ"
先生は、まっすぐに私の目を見た。
"ウォルターさんにも、エアにも、シホにも、悪いところはあった。だからと言って、誰かが悪者にならなければいけない、なんてことはない。……シホ一人だけが、悪かったわけじゃない"
私一人だけが、悪かったわけじゃない。
その言葉が、頭の中に、ゆっくりと落ちてきた。
『レイヴン』
モニターから、エアの声がした。
『あなたが私たちを悪者にしたくないように、私も、あなた一人を悪者にしたくないのです。だから……その責任を、私にも持たせてください』
「……エアも、持ってくれるの?」
『はい。あのときは、私一人だったから、あなたを止められませんでした。……でも、今は違います』
私は、ゆっくりと顔を上げた。
ネルが、そっぽを向いたまま、わざとらしく大きなため息をついていた。
エイミは、ショットガンを下ろして、こっちを見ている。
車椅子の上で、ぎゅっと握られたままの、ヒマリの手。
モモイも、ミドリも、ユズも、アリスも。C&Cの人たちも。
広場で、私に銃を向けていた人たちだった。
そうだ。みんな、私を殺すために立っていたんじゃない。
私が『止めてみせて』と言ったとおりに。これ以上、私が自分を壊さないように、止めるために、立っていたんだ。
「……エアは」
声が、ふるえた。
「エアは……頼っても、いいの?」
『はい。……最初から、そうしてほしかったんですよ』
私は、目の前の先生を見た。
一番弱くて、銃も撃てなくて。
なのに、私の前に立ってくれた人。
ずっと、言えなかった。
言ったら、全部が崩れてしまう気がして。
「エア……先生……」
のどの奥から、やっと、声が出た。
「……たすけて」
先生の目が、わずかに見開かれた。
それから、泣きそうな顔で、笑った。
"うん。……ちゃんと、聞こえたよ"
その声を聞いたら、もう、だめだった。
体から、全部の力が抜けた。
後ろに倒れそうになった私の背中を、大きな機械の手が、そっと支えた。
さっきまで、私を押さえつけていた、アビ・エシュフの手だった。
『大丈夫ですよ、レイヴン。……もう、大丈夫です』
エアの声が、すぐ耳元でした。
また、涙が出た。
さっきとは、違った。息が苦しくなかった。止めなきゃ、とも思わなかった。
「……っ、う……」
のどの奥から、細い声がもれた。
こらえようとして、こらえられなかった。
「う、ああ……あああああ……っ!」
自分でも、聞いたことのない声だった。
声を上げて泣いたら、止まらなくなると思っていた。
だから、起きているときは、ずっと声を出さなかった。ルビコンでも、キヴォトスに来てからも。
背中には、エアの手があった。
もう、止まらなくても、いいんだ。
「ああああ……っ、うああああああ……!」
子どもみたいに、私は泣き続けた。
どれくらい、そうしていたかわからない。
やっと声が出せるようになって、私は、機械の手に体をあずけたまま言った。
「ぐすっ……エア……」
『はい、レイヴン』
「さっき、エアは、謝ったけど……。謝らなきゃ、いけないのは……私の、方」
あの日から、ずっと言えなかった。
夢の中でも、言わせてもらえなかった。
「……ごめん、なさい」
背中を支える手に、少しだけ、力がこもった。
『……はい。確かに、受け取りました』
エアの声も、ふるえていた。
『それから……さっき、あなたは、ほっとしちゃだめだと言いましたね』
私は、何も言えずに、その声を聞いていた。
『ほっとして、いいんですよ。レイヴン』