猟犬は透き通る空の夢を見る   作:ピンカル

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六十話:してほしかったこと

やらなきゃいけないことなら、いくらでも並べられた。

でも、どれも全部、誰かのため、何かのためだった。

 

"……答えは、今すぐ出なくていいよ。……先に、私のやりたいことを言うね"

 

先生は、膝をついたまま、困ったみたいに笑った。

 

"シホに、生きててほしい。……それで、シホのやりたいことを、一緒に見つけたい"

 

すぐには、意味がわからなかった。

そんなことを言われるなんて、思ってもいなかった。

 

「……それが、先生の、やりたいこと」

 

"うん。私のわがまま"

 

先生はそれを、恥ずかしがりもせずに言った。

おなかの奥が、また熱くなった。

さっき、モモイに向けたのと同じ熱さだった。

 

「……勝手」

 

"うん。勝手だね"

 

「先生に、何がわかるの」

 

言ってから、ひどいことを言ったと思った。

でも、取り消す気にはなれなかった。

 

「先生は、ルビコンにいなかった。ウォルターにも、会ったことない。私のやってきたことだって、何にも知らない」

 

声が、だんだん大きくなっていく。

みんなが聞いているのは、わかっていた。

 

"……うん。わからない。だから、教えてほしいんだ"

 

先生は、目をそらさなかった。

言い返そうとしたけど、言葉が見つからなかった。

さっきまで熱かったおなかの奥が、少しずつ冷えていった。

 

部屋の中の誰も、動かなかった。

 

「……おい、チビ」

 

その静けさを破ったのは、ネルだった。

壁にもたれて、そっぽを向いたまま言った。

 

「あたしが広場で足払ったとき。お前、負けたやつの顔してなかったぞ」

 

「……どういう、意味」

 

「知らねーよ。安心したみてーな顔してたって言ってんだ」

 

エイミが、驚いた顔をしてネルの方を見た。

ネルは、ふん、と鼻を鳴らしただけだった。

 

違う、と言おうとした。

でも、口を開けても、その言葉が出てこなかった。

 

ネルに足を払われて、背中から地面に落ちたとき。

瓦礫のすき間から、空が見えた。やけに遠い空だった。

 

アビ・エシュフの中で、体が動かせなかったとき。

 

もう、戦えない。だから、戦わなくていい。

そう思ったのは、ほんの一瞬だった。すぐに、アリスのことを考えて、塗りつぶした。

悔しいって気持ちで、上から何度も。

 

でも、一瞬は、あった。

 

「……そんなわけ、ない」

 

だけど、それを認めるわけにはいかなかった。

 

「私は、負けたら、だめで」

 

負けてよかったなんて、そんなの、許されるわけがない。

 

「負けたら、エアを殺さなくてよくて。でも、負けたら、世界が滅ぶかもしれなくて……だから、負けたら、だめなのに……」

 

頭の中で、全部がぐちゃぐちゃにぶつかっていた。

 

負けたら、エアを殺さなくてよかった。

ルビコンで、私が負けていたら。

 

「……殺したく、なかった」

 

口にしてから、それが本当だとわかった。

 

「エアは、私の、最初の、友達だったのに。ずっと、一緒にいてくれたのに。……殺したいわけ、なかった」

 

部屋の中が、しんとした。

 

アリスが、両手で口をおさえていた。モモイは、もう怒った顔をしていなかった。

 

なのに、私は殺した。

エアのことも、裏切った。

 

壁のモニターの赤い目を、見ることができなかった。

 

『……レイヴン』

 

ずっと黙っていたエアが、口を開いた。

 

『正直に言うと……私は、とても悲しかったです。あのとき、あなたが私の手を取ってくれなかったことが』

 

やっぱり、責められている。

私は、右手をぎゅっと握った。爪が、手のひらに食いこんだ。

 

『でも……キヴォトスで、あなたがおいしそうにご飯を食べたり、誰かとゲームをして悔しがったりするのを見ているうちに、少しずつ、その気持ちは変わっていきました』

 

エアの声は、責める声じゃなかった。

 

『レイヴン。一つ、聞かせてください。ルビコンで私と戦ったとき、あなたは、なぜ、わざと隙を見せたのですか?』

 

心臓が、どくんと鳴った。

なんで今さら、そんなことを。

 

「それは……エアの、隙を作るため」

 

『そうですね。私も、ずっと罠だと思っていました』

 

エアは、そこで少し黙った。

 

『……ですが、さっきのネルの言葉を聞いて、思ったのです。あのときのあなたも、止めてほしかったのではないかと。……私が、そう思いたいだけかもしれませんが』

 

「……そんなわけ、ない!」

 

気づいたら、顔を上げていた。

 

「私は、ウォルターの頼みを果たすために戦ってた! 負けるわけにはいかなかった! あそこで私が負けたら、全部が無駄になるのに……!」

 

『……はい。そうですね』

 

エアは、言い返さなかった。

 

『それでも、私は、悔しかったのです。あなたに選ばれなかったことよりも……あなたを止められなかったことが』

 

悔しかった。

エアも、悔しかったんだ。

 

言い返したかった。でも、あのときのことが、勝手に頭に浮かんでいた。

攻撃を受けたあと、目の前いっぱいに迫ってくる、エアの機体。

わざと、隙を見せた。勝つためだった。そのはずだった。

 

なのに、あのとき、怖くなかった。

 

今日も、同じだった。

アビ・エシュフの中で、もう、戦わなくていいと思った。

 

「負けて……」

 

のどが、ひりひりした。

言ったら、ウォルターを裏切ることになる気がした。

それでも、もう、うそはつけなかった。

 

「……ほっと、した」

 

言ってしまった。

言ってしまったら、もう、なかったことにはできなかった。

 

「でも……ほっとしちゃ、だめなのに。負けたら、ウォルターの遺志は、どうなるの……」

 

目の奥が、熱くなった。

先生の顔も、エアの画面も、少しだけにじんで見えた。

 

自分で言ったことなのに、自分の声じゃないみたいだった。

私は、にじんだ赤い色を、ぼんやりと見ていた。

 

『……レイヴン』

 

画面の中のエアは、何かを言いかけて、口を閉じた。

それから、もう一度、口を開いた。

 

『先に、謝らせてください。……あのとき、あなたを止めてあげられなくて、ごめんなさい』

 

一瞬、何を言われたのか、わからなかった。

 

なんで、エアが謝るの。

 

責められるなら、わかる。それだけのことを、私はした。

人殺しって言われても、裏切り者って言われても、全部そのとおりだから、黙って聞いていられた。

でも、謝られたら、どうすればいいのかわからない。

 

星を燃やしたのは、私なのに。友達を殺したのは、私なのに。

殺された側のエアが、謝っている。

 

「……違う!」

 

首を、何度も横に振った。

 

「エアは、悪くないっ!」

 

首を振るたびに、左腕から落ちた血が、床に小さな点を増やしていった。

 

「悪いのは私だ! 私が選んで、私がエアを殺した! ラスティも殺して、コーラルも燃やした! ルビコンも、全部、全部、燃やした! 私がっ! 私、が――」

 

必死に叫んだ。

なのに、言葉がだんだん声にならなくなって。息が、できなくなった。

 

吸おうとしても、吸えない。のどの奥で、ひっ、と変な音がした。

頭がしびれて、周りがぼやけてくる。

 

何とか立っていた足からも、力が抜けて、膝が床にぶつかった。

 

ほっぺたを、熱いものがつたった。

手で押さえようとしても、左手は上がらなかった。右手で押さえても、止まらなかった。

 

私が、悪い。

私が悪者じゃなきゃ、だめなんだ。

そうじゃなきゃ、死んだ人たちに、顔向けできない。

 

「シホ……っ!」

 

ヒマリの声がした。

車椅子が、こっちに動きかけて、止まる音がした。

 

エイミが、一歩前に出たのがわかった。

でも、エイミもそこで止まった。二人とも、それ以上は近づいてこなかった。

 

"シホ"

 

先生の手が、前に倒れかけた私の肩を支えた。

先生も、床に両膝をついて、すぐそばにいた。

 

"選んだのは、シホだった。それは本当だし、シホが背負おうとしていることも、うそじゃない"

 

否定、されなかった。

そのことに、少しだけ、息が吸えた。

 

"でもね。誰か一人を悪者にしても、起きたことは変わらないんだ。……その一人が、シホでもね"

 

先生は、それ以上、なぐさめの言葉を言わなかった。

私の息が落ち着くのを、ただ待っていた。

 

"それに……ウォルターさんは、シホに「全部一人で背負ってくれ」なんて、言ってたのかな?"

 

ウォルター。

 

最後の、メッセージ。

 

――すまない、そして感謝しよう。

――お前を縛るものはもう何もない。

――これからのお前の選択が……お前自身の可能性を広げることを祈る。

 

聞きなれた声。だけど、いつもよりやわらかかった、ウォルターの声。

あのときウォルターは、私に謝っていた。

 

「……ウォルターも」

 

涙で、声がぐちゃぐちゃになった。

 

「ウォルターも、謝ってた」

 

先生は、何も言わずにうなずいた。

 

「でも……それじゃ、ウォルターが、悪者になっちゃう」

 

ウォルターが悪者になったら。

ウォルターのためにやったことが、全部、まちがいになる。

それだけは、いやだった。

 

「私以外の、誰も……悪者に、したくない」

 

"悪いところがあったことと、悪者になることは、全然違うよ"

 

先生は、まっすぐに私の目を見た。

 

"ウォルターさんにも、エアにも、シホにも、悪いところはあった。だからと言って、誰かが悪者にならなければいけない、なんてことはない。……シホ一人だけが、悪かったわけじゃない"

 

私一人だけが、悪かったわけじゃない。

 

その言葉が、頭の中に、ゆっくりと落ちてきた。

 

『レイヴン』

 

モニターから、エアの声がした。

 

『あなたが私たちを悪者にしたくないように、私も、あなた一人を悪者にしたくないのです。だから……その責任を、私にも持たせてください』

 

「……エアも、持ってくれるの?」

 

『はい。あのときは、私一人だったから、あなたを止められませんでした。……でも、今は違います』

 

私は、ゆっくりと顔を上げた。

 

ネルが、そっぽを向いたまま、わざとらしく大きなため息をついていた。

エイミは、ショットガンを下ろして、こっちを見ている。

車椅子の上で、ぎゅっと握られたままの、ヒマリの手。

モモイも、ミドリも、ユズも、アリスも。C&Cの人たちも。

 

広場で、私に銃を向けていた人たちだった。

 

そうだ。みんな、私を殺すために立っていたんじゃない。

私が『止めてみせて』と言ったとおりに。これ以上、私が自分を壊さないように、止めるために、立っていたんだ。

 

「……エアは」

 

声が、ふるえた。

 

「エアは……頼っても、いいの?」

 

『はい。……最初から、そうしてほしかったんですよ』

 

私は、目の前の先生を見た。

 

一番弱くて、銃も撃てなくて。

なのに、私の前に立ってくれた人。

 

ずっと、言えなかった。

言ったら、全部が崩れてしまう気がして。

 

「エア……先生……」

 

のどの奥から、やっと、声が出た。

 

「……たすけて」

 

先生の目が、わずかに見開かれた。

それから、泣きそうな顔で、笑った。

 

"うん。……ちゃんと、聞こえたよ"

 

その声を聞いたら、もう、だめだった。

 

体から、全部の力が抜けた。

後ろに倒れそうになった私の背中を、大きな機械の手が、そっと支えた。

さっきまで、私を押さえつけていた、アビ・エシュフの手だった。

 

『大丈夫ですよ、レイヴン。……もう、大丈夫です』

 

エアの声が、すぐ耳元でした。

 

また、涙が出た。

さっきとは、違った。息が苦しくなかった。止めなきゃ、とも思わなかった。

 

「……っ、う……」

 

のどの奥から、細い声がもれた。

こらえようとして、こらえられなかった。

 

「う、ああ……あああああ……っ!」

 

自分でも、聞いたことのない声だった。

 

声を上げて泣いたら、止まらなくなると思っていた。

だから、起きているときは、ずっと声を出さなかった。ルビコンでも、キヴォトスに来てからも。

 

背中には、エアの手があった。

もう、止まらなくても、いいんだ。

 

「ああああ……っ、うああああああ……!」

 

子どもみたいに、私は泣き続けた。

 

どれくらい、そうしていたかわからない。

 

やっと声が出せるようになって、私は、機械の手に体をあずけたまま言った。

 

「ぐすっ……エア……」

 

『はい、レイヴン』

 

「さっき、エアは、謝ったけど……。謝らなきゃ、いけないのは……私の、方」

 

あの日から、ずっと言えなかった。

夢の中でも、言わせてもらえなかった。

 

「……ごめん、なさい」

 

背中を支える手に、少しだけ、力がこもった。

 

『……はい。確かに、受け取りました』

 

エアの声も、ふるえていた。

 

『それから……さっき、あなたは、ほっとしちゃだめだと言いましたね』

 

私は、何も言えずに、その声を聞いていた。

 

『ほっとして、いいんですよ。レイヴン』

 

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