猟犬は透き通る空の夢を見る 作:ピンカル
涙が、やっと止まった。
のどがひりひりして、目のまわりが熱かった。
私は、アビ・エシュフの手に背中をあずけたまま、何度か鼻をすすった。
顔を上げると、みんながこっちを見ていた。
……あんな声で泣いたところを、全部見られていた。
みんなの顔を見ていられなくて、右手で顔を何度もこする。
だけど、ほっぺたの熱さは引かなかった。
『レイヴン。あまりこすると、赤くなりますよ』
「……もう、なってる」
すぐ耳元で、エアが小さく笑ったような気がした。
不意に、前からきい、という車椅子の音が聞こえた。
「……ずいぶん、ひどいけがですね。……落ち着いたようですし、応急手当てだけでもさせてもらえますか?」
目を向けると、ヒマリが、心配そうな顔で、すぐそばまで来ていた。その後ろに、エイミもいる。
私は、そこで初めて、ちゃんと自分の体を見た。
左腕は、指の先まで血で汚れていた。袖は破れて、黒っぽく固まっている。
それ以外にも、全身すり傷だらけで、体をひねると、わき腹がずきりと痛んだ。
少し体を起こそうとしただけで、足ががくがくふるえて、またアビ・エシュフの手に戻された。
さっきまで、どうしてこれで動けていたんだろう。
「……うん、お願い」
ヒマリが、ほっとしたように笑った。
「ではエイミ、お願いします」
「うん。任せて」
エイミは、腰のポーチから救急セットを取り出して、私の前にしゃがみこんだ。
はさみや消毒液を使って、慣れた様子で手当てをしてくれる。
エイミとちゃんと話すのは、部室で別れて以来だった。何かあったら連絡して、と言われていたのに、私は一度も連絡しなかった。
何て言えばいいのかわからないまま、エイミの手当てを受ける。
消毒液が傷に触れるたび、痛みでびくりと体が固まる。
「しみるけど、我慢して。あんまり動かれると、効率的じゃない」
「……うん」
……なんだか、手つきがちょっとだけ乱暴な気がする。
広場で言っていた「結構、怒ってるよ」は、本当だったらしい。
左腕にガーゼを当てて、包帯をぐるぐると巻いていく。最後に、三角巾で腕を首から吊ってくれた。
手当てが終わると、エイミの手が私の頭の上にのった。
ぽんぽん、と二回軽く叩いて、それから、髪をなでるみたいにゆっくり動いた。
「……心配した。あんまり、無茶しないで」
いつもと同じ、静かな声だった。
だけど、その顔は、言葉どおり心配そうだった。
怒ってただけじゃ、なかったんだ。
そう思ったら、肩から少し力が抜けた。でも、そのぶん、エイミの顔を見ていられなくなった。
「……うん」
それだけ言うのが、やっとだった。
「……応急手当てだけでは、足りないわ」
声がした方を見ると、リオが、モニターのそばに立っていた。
「左腕だけじゃない。あれだけ無理に動いたのだから、ほかにも傷めているところがあるはずよ。エリドゥの医療室を使いなさい。全身、きちんと診てもらった方がいいわ」
医療室なんて、あったんだ。
まぁ、これだけ大きな街なら、それぐらいあってもおかしくない。
だけど、それよりも先に、やらなきゃいけないことがある。
「……あとでいい。まだ、リオの話が終わってない」
リオは、少しだけ黙っていた。
「……そう。なら、話がすんだら、すぐに行きなさい」
リオは、それ以上、何も言わなかった。
話しているあいだ、リオは、誰の顔も見ていなかった気がした。
「あら? さっきまでヘイローを破壊すると言っていた方が、ずいぶんとお優しいことですね。いったい、どういう風の吹き回しですか?」
ヒマリが、くるりと車椅子の向きを変えて、得意げに、いや、嫌味ったらしく、首をかしげている。
リオは、少しだけ眉を寄せた。
「……なんの話をしているのかしら?」
「なにって……。ついさっき、シホとアリスへの対策が必要だと、言っていたではありませんか」
ヒマリが、きょとんとした顔でリオを見る。
「必要でしょう?」
対してリオは、嫌味ではなく、本当にわからない、という顔をしていた。
「エアの話を信じるなら、キヴォトスを滅ぼすには、二つのことがそろう必要があるわ。一つは、エアとシホ、あるいはKeyとアリスが、一緒にいること。もう一つは、エリドゥのような、大きな設備と資源があること」
リオは、指を一本ずつ立てながら言った。
「なら、エアとシホ、Keyとアリスを、それぞれ切り離す。そのうえで、二人が大きな設備に簡単には近づけないように、行動を制限する。……この二つは、どうしたって必要な対策よ。違うかしら」
部屋の中が、しん、とした。
「今さら、それ以上のことをするつもりはないわ」
「……つまり、あなたは、シホとアリスに危害を加える気はないと?」
ヒマリの笑顔が引きつって、声が少しだけふるえた。
「最初から、そう言っているでしょう。手を打つ必要がある、と」
確かに、言っていた。
何をするのかは、言っていなかったけど。
ヒマリの肩が、ぷるぷるとふるえはじめた。
「言葉が、足りないんですよ!! あの流れで『手を打つ』なんて言われたら、誰だって物騒な方を想像するでしょう!? 昔から、あなたはいつもいつも、言い方が紛らわしいんです!!」
ヒマリの声が、部屋中に響いた。
「……むしろ、あの状況で、そんなことをするのは非合理的よ。それなら、別の方法を模索するのが普通ではないかしら?」
「だから、それをちゃんと言葉にしてください!」
リオは、ヒマリから目をそらした。
本当に、どこがいけなかったのか、わかっていないみたいだった。
「……くだらねぇ」
ネルが、天井を見上げて、大きなため息をついた。
「なんか……どっと疲れた」
エイミが呆れたように、上着の胸元を手であおいでいる。
「じゃ、じゃあ! アリスは、壊されたりしないってこと!?」
モモイが、アリスの前で広げていた両手を、ぱたぱたと振った。
「……ええ」
リオがうなずくと、ユズが、その場にへなへなと座りこんだ。
ミドリが、アリスの肩をぎゅっと抱きしめていた。
私は、リオを見た。
「……私も?」
リオの目が、そこで初めて、私の方を向いた。
でも、すぐにそれた。
「ええ。貴女もよ」
てっきり、リオはまだ、私とアリスを殺すつもりなんだと思っていた。
殺す以外のやり方なんて、私には思いつかなかったのに。
……やっぱり、こういうことは、頭のいい人に任せた方がいい。
背中のアビ・エシュフの手に、体の重さを、もう少しだけあずけた。
「ただし、エア。貴女には、シホから離れてもらうことになるわ」
リオが、壁のモニターの方を向いた。
『ええ。かまいません。私はもう、レイヴンの中にいなければならない、というわけでもありませんし。エリドゥから出るなら、代わりの端末が一つあれば十分です』
エアは、すぐに答えた。
モニターの中の赤い目が、まっすぐにリオを見た。
『それから……端末に移るときに、エリドゥの制御は、すべてあなたに返します』
「……いいのかしら?」
『元々、あなたの作った街でしょう。それに……私も、これ以上こんな息の詰まる場所にいたいとは思いませんから』
エアの声は、リオにだけ、少しとげとげしかった。
「……そう」
リオは、それだけ言って、目をふせた。
エアは、もう私の中には戻らない。
耳鳴りも、たぶん、もうしない。
気がついたら、右手で、自分の耳にさわっていた。
『……レイヴン?』
「……なんでもない」
『心配しなくても、そばにはいますよ。端末さえあれば、どこにだって行けますから』
「……うん」
耳から指を離すと、その奥が、やけに静かだった。
「残るのは、Keyの方ね」
リオの目が、装置の上のアリスに向いた。
みんなの目も、それにつられて、アリスに集まった。アリスの肩が、小さくはねた。
「エアのように、自分から出てきてくれれば話は早いのだけれど……」
『無理に引きはがすのはおすすめしません。今はおとなしく潜伏していますが、下手に刺激すればアリスの精神にどのような負荷がかかるかわかりません』
「……そうね。リソースさえ与えなければ、ネル一人で制圧できることは実証済みよ。早急に結論を出す必要はないわ」
『いえ、猶予を与えるのはかまいませんが、相応の「釘」は刺しておくべきです』
「釘……?」
『破壊されないからと高を括って、また暴れられても困ります。なので、次に暴走したのなら――そのときは、無理やりにでも引きずり出します』
画面の中の赤い目が、すっと細くなった。
エアが見ているのは、アリスの顔じゃなかった。アリスの胸の、もっと奥の方だった。
「……どうなるかわからないと言ったのは、貴女の方でしょう?」
『それは、無事かどうか保証ができないという意味です。アリスがどうなってもかまわないなら、方法はあります。私にエリドゥの演算能力を貸し出していただけるなら、それこそ、いくらでも』
「ちょっと! アリスにまだ何かひどいことする気!?」
モモイが、アリスの前に飛び出した。ミドリとユズも、アリスの手を握ったまま、モニターをにらみつける。
"やめて、エア。そうならないために、みんなで力を合わせるんでしょ?"
先生が、静かに言った。
エアは、少しだけ黙って、それでも、アリスの胸のあたりから目を離さなかった。
『……ええ。ですので、「釘」を刺したのです。私も、そういう解決は望んでいませんから』
部屋の中が、一瞬、しんとなった。
「……あの、アリスは、どうすればいいのでしょうか」
小さな声だった。
アリスが、両手を胸の前でにぎりしめていた。
「アリスは……シホを、見ていました」
アリスの青い目が、私を見た。
「シホは、ずっと、消えなきゃいけないって、言っていました。アリスと、同じでした。……でも、シホは、消えなくてよくなりました」
アリスはうつむいて、握りしめた自分の指先を見つめた
「だから、アリスも……消えなくていいのかもしれないって。少しだけ、思いました」
「アリス……!」
モモイの顔が、ぱっと明るくなりかけた。
だけど、アリスは首を小さく横に振って、自分の胸のあたりを、両手でおさえた。
「でも、Keyはまだ、アリスの中にいます。今は、何も言いません。でも、いつかまた、Keyが目を覚ましたら……アリスは、また、みんなを傷つけてしまうかもしれません」
モモイの顔が、そのまま固まった。
「モモイを、傷つけたみたいに。……今日、みんなが、たくさんけがをしたみたいに」
部屋の中が、また静かになった。
モモイが、何か言おうとして、口を開いた。
でも、言葉は出てこなかった。モモイは口を閉じて、ほんの一瞬だけ、私の方を見た。
――私に手も足も出なかったモモイが、アリスを守れるの?
モモイは、きっと、私が言ったことを気にしている。そう言ったのは、私だ。
なら、アリスを止められるのは――
「そのときは。私が、止める」
自分の声が、思っていたよりはっきり出た。
みんなの目が、いっせいに私に集まった。
「シホ……?」
アリスが、目を丸くしていた。
少し前まで、アリスを殺すと言っていた口で、何を言っているんだろう。
それでも、取り消す気にはならなかった。
「……アリスが暴れたら、私が、止める」
私は、アリスの目を見た。
アリスの目が、ゆらゆらと揺れた。
「……おい、チビ」
ネルの声がした。
壁にもたれたまま、ネルが、じろりと私をにらんでいた。
「お前、また一人で全部やる気かよ」
胸のあたりが、ちくりとした。
さっき、一人じゃないって、わかったばかりなのに。
「前に、こっちのチビを止めたのはあたしだぞ。あたしも数に入れとけ」
そう言って、ネルは、あごでアリスの方を指した。
「……私も」
エイミが、救急セットを片づけながら、ぼそりと言った。
"私も、いるよ"
先生が、私のそばで笑った。
「……私と、みんなで、止める」
言い直すと、アリスが、ぎゅっと唇をかんだ。
「シホは……」
アリスの声が、ふるえていた。
「シホは、さっき、『たすけて』って、言いました」
耳が、かっと熱くなった。
みんなの前で言ったんだから、聞かれていて当たり前だった。それでも、どこを見ればいいのかわからなくなった。
「……アリスも」
アリスは、ミドリとユズの手を、ぎゅっと握り返した。
「アリスも、言っても……いいのでしょうか」
「い、いいに、決まってるよ……!」
一番に声を上げたのは、ユズだった。
いつもの小さな声じゃなかった。
「だって、アリスちゃんは……私たちの、仲間で……友達、だから……!」
ユズの目から、ぽろぽろと涙がこぼれていた。
「アリスちゃん、前に教えてくれたよね」
ミドリが、アリスの手を、両手で包んだ。
「どんなゲームでも、主人公たちは、絶対に仲間を見捨てたりしないって。……だから、私たちも、アリスちゃんのこと、あきらめないよ」
「そうだよ!」
モモイが、ごしごしと目をこすって、顔を上げた。
さっき固まっていた顔に、いつもの元気が戻っていた。
「それに、魔王なんて、ただのジョブじゃん! ジョブなんて、転職すればいいんだよ! アリスがなりたいやつに!」
「戦士でも、魔法使いでも……なんでもいいよ、アリスちゃん」
ミドリが、やさしく続けた。
「……勇者、とかも」
ユズが、鼻をすすりながら、小さく付け足した。
"だから、聞かせてほしいな。アリスは、本当はどうしたい?"
先生が、アリスの前に、ゆっくりとしゃがんだ。
アリスは、しばらく何も言わなかった。
口を開いては、閉じる。それを、何回もくり返していた。
「アリスは……魔王、なのに。世界を……滅ぼしてしまう、かもしれないのに。それでも……みんなと、冒険を、続けても……いいんですか?」
"うん。もちろん"
アリスの青い目から、涙があふれた。
「……みんな」
アリスは、ぐしゃぐしゃの顔のまま、みんなの方を見た。
「アリスを……たすけて、ください」
「うん!」
モモイが、真っ先に答えた。ミドリとユズも、何度もうなずいていた。
「アリスは……アリスは!」
アリスが、大きく息を吸った。
「勇者に、なりたいです! 勇者になって……モモイと、ミドリと、ユズと、先生と。みんなで、冒険を続けたいです……!」
先生が、うなずいた。
「アリスは……アリスになりたいです……!」
"君がなりたい存在は、君自身が決めていいんだよ、アリス"
先生の言葉が終わる前に、モモイがアリスに飛びついていた。
ミドリとユズも、それに重なる。装置のふちで、四人がひとかたまりになって、わんわん泣いていた。
ネルが、そっぽを向いて、鼻の頭をかいた。
ヒマリが、目もとをそっと指でぬぐっていた。
アリスの目は、ずっと青いままだった。
アリスの中のKeyは、最後まで、何も言わなかった。
私は、自分の右手を見下ろした。
少し前まで、アリスに銃を向けていた手。
これからは、アリスを止めるための手だ。