猟犬は透き通る空の夢を見る 作:ピンカル
「……エイミ!ちょっとエイミ!……ああもう、本当に行ってしまいました」
誰もいなくなった部室に、私の溜息がむなしく響く。
超天才清楚系病弱美少女ハッカーである私との別れを、こうもあっさりと切り捨てられるとは。後輩のドライな態度にぷんぷんと腹を立てながら、私は車椅子のホログラムキーボードを叩き始めた。
そもそも、私がシホのお買い物に同行できないのには理由がある。
早急に彼女の学籍と口座の手配を進めなければならないというのも事実だが、最大の要因は、間もなくこの部屋に招かれざる客がやってくるからだ。
「ええ、ええ。それもこれも、あの女が急に連絡なんてよこすからです。全く、相変わらず無粋で陰気で……」
八つ当たり気味にコンソールを強く叩いた、その時だった。
『プシュッ』と自動ドアが開き、コツコツと規則正しい足音が部室に入ってくる。
「……おや、お早い到着ですね。わざわざビッグシスター自らがここまで足を運ぶなんて、そんなに暇なのだとは知りませんでしたよ」
車椅子を回転させてにっこりと笑いながら話しかけると、そこにはセミナーの会長、調月リオが立っていた。彼女は私の嫌味を涼しい顔でスルーし、淡々とした口調で本題を切り出した。
「暇ではないわ。なぜならこれから、あなたが報告してきた廃墟で保護したという正体不明の存在について話をするからよ」
「相変わらず皮肉の一つも通じませんね……それに、正体不明の存在ですか」
「ええ。どこの誰かもわからない、記録にもない。それが廃墟の奥から現れたというのなら、『名もなき神』の遺産、もしくは『デカグラマトン』に関する存在と仮定するのが最も合理的よ。単刀直入に言うわ。まだそれの存在がミレニアムに広まっていないうちに監視下に置き、徹底的な検査と隔離を行うべきよ」
リオの言葉に、私は思わず鼻で笑ってしまった。
「相変わらずのマキャヴェリストですね。彼女の正体など、まだ何一つ分かっていないでしょう?」
「正体が何であろうとも、あれが見つかった場所とタイミングから見て、危険な存在である可能性は極めて高いわ」
「……アリスの時といい、人のことを何とも思わないような物言いは改めた方が良いですよ?
彼女は『六津井シホ』。私が名付けた、ミレニアムの一生徒になる予定の可愛らしい少女です」
私が自信満々に告げると、リオは呆れ顔でため息を吐く。
「残念ながら、そんなわけも分からない存在をこれ以上入学させるわけにはいかないわ。あなたこそ、感情でリスクに目を瞑るなんて非合理的よ。あれが私たちの探しているモノに関する情報を持っているということは、あなたも分かっているでしょう?」
「『あれ』ではなく、シホです。……いいですか、リオ。彼女はキヴォトスの外から来た存在で間違いありません。これは感情ではなく、私が直接話して確信した事実です。彼女の居た世界では、見返りを求めない施しにすら警戒心を抱かねばならないほど、過酷な環境だったのです。そんな傷ついた少女を自分の都合だけで扱おうだなんて、いったいどのような言い訳をするつもりなのですか?」
私が強い口調で睨みつけると、リオはわずかに言葉を詰まらせた。口ではああ言っているものの、彼女にも思うところはあるようだ。
彼女のそういう不器用なところを、私はよく知っている。冷徹な合理主義者の仮面を被ってはいるが、その根底にあるのはミレニアムを守りたいという狂気的なまでの正義感だ。
リオはふっと目を伏せ、小さく息を吐いた。
「……力ずくで引き離せば、あなたが反発して情報が秘匿される。あるいは、対象が未知の脅威を顕在化させるリスクもある。……強硬手段は非合理的ね」
仕方ないといった具合で呟いたリオは、真っ直ぐに私の目を見た。
「わかったわ。対象……六津井シホの管轄は、特異現象捜査部に一任する。ただし、直ちに彼女の身体検査を含む精密検査を実施し、データを共有すること。そして、彼女の状態が確認でき次第、廃墟の調査に協力してもらう。……これでどうかしら」
彼女が出してきた妥協案は、偶然にも私が本来行おうとしていた内容とほとんど同じだった。
異論自体は全くないが、彼女と同意見であるということ自体に生理的な嫌悪感を抱いてしまう。
「……おや、奇遇ですが私が行おうとしていた内容とほとんど同じですね。相変わらず上から目線なのが気に入りませんが。まあ、
リオが素直に引き下がったことで、私の毒気も少し抜けてしまった。
本当に、この女は融通が利かず不器用なくせに、自分が納得したことについては、とことん物分かりがいい。
珍しくあっさりと引き下がった彼女の態度に、私は少しだけ機嫌を良くしつつも、同時に疑念を抱いた。
「……それにしてもずいぶんと素直ですね。逆に、裏で何を企んでいるのかと勘繰りたくなりますよ」
「企んでなどいないわ」
リオは即座に否定し、僅かに眉をひそめた。
「ただ、ミレニアムを取り巻く脅威が増え続けている。早急に対応する必要があるだけよ。……ヒマリ、彼女の調査はできるだけ早く進めてちょうだい」
その口調には、いつもの冷徹な響きの中に、隠しきれない焦りが滲んでいた。
「……言いたいことは分かりますが、焦りは禁物です。私が話した限り、シホはアリスと同じく、自らミレニアムに牙を剥くような脅威には見えませんでした」
私は少しだけ語気を和らげて諭すように言った。
「それに、彼女はキヴォトスに来たばかりで、精神的にも不安定な状態です。調査をするにしても、彼女のペースに合わせて、慎重に行うべきです」
しかし、リオは一瞬の迷いもなく首を横に振った。
「非合理的ね。彼女一人の事情に気を使って調査を遅らせ、万が一の事態が起きてミレニアムに被害が出る可能性があるなら、そのような方法は取るべきではないわ」
「……リオ」
「他の多数の生徒の安全より、たった一人の都合を優先するわけにはいかないのよ」
揺るぎない彼女の主張は、ミレニアムの責任者としては極めて合理的だ。データの上だけで語るのであれば、彼女に間違いはないだろう。
だが、そこには相変わらず、人としての思いやりが一切抜け落ちている。
私は、分かり合えない彼女の不器用すぎる生き方に、深い落胆を覚えた。
「……今更あなたに期待などありませんでしたが、相変わらず下に進むのだけは上手なようで安心しました」
私は深いため息を吐いて、これ以上は顔も見たくないと言わんばかりに後ろに向き直った。
「……用が済んだならさっさと帰ってもらえますか?澄みきった純正なミネラルウォーターのような存在であるこの私の部室が、悪辣な下水の空気に汚染されてしまいます」
「……この部屋に下水は漏れていないようだけど?」
「ええ、そうでした。比喩すら通じない、自分のことすら客観視できないような方に言うだけ無駄でしたね。私はこれから、シホの検査の手続きを進めないといけないのですから、忙しくてあなたの相手はしてあげられませんよ」
そういって手元のコンソールを操作し始めた私を、リオは少しだけ一瞥して、それ以上は何も言わずに部室を出ていった。
「やれやれ……相変わらず腐った水たまりのような考えですが、なんとか想定通りに進められそうですね」
私はコンソールの操作をいったん止め、車椅子の背もたれに深く体を預ける。先ほどリオにはああ言い返したものの、シホの正体がまったくわからないこともまた事実だ。
アリスの時と同じように、彼女が安全であるという客観的な保証を見つける必要があるだろう。
もっとも、まだわずかな時間しか触れ合っていないが、彼女が自らキヴォトスを害するような存在ではないだろうと、私は確信している。
「ああ、それともう一つ……」
ふと、重要な人物に連絡していなかったことを思い出し、手元の端末でモモトークを開く。
「今回の調査にも関係してきますし、早めに報告しておかないといけませんね」
そう独りごちて、先日から『デカグラマトン』の調査に協力してもらっている、シャーレの先生宛てにメッセージを打ち込んだ。
――先生。廃墟で、一人の少女を保護しました。