とある麗華様ファンの憂鬱 作:panic! core Dump
国内のエネルギー・テクノロジーの全てを経済の底層から牽引し、実質的な国家予算規模の巨額資金力を誇る巨大複合企業「帝国エネルギー開発」。その技術的権威の象徴たる中央研究所の最深部には、全研究員から『不夜城』、あるいは生半可な知識では近寄ることすら許されない『絶対聖域』として畏怖される一角が存在していた。
第3開発ブロック――特殊強化ガラスと重厚な網膜・生体認証セキュリティドアに守られたその部屋の主こそが、弱冠30歳という異例の若さで首席・主任研究員に抜擢された彼女だった。
「彼女の組み立てるエネルギー数式には、電子一個、クォーク一個の単位に至るまで、一切の無駄という名のバグが存在しない」
それが、経営陣から末端の現場技術者に至るまで、研究所内の誰もが口を揃える彼女への絶対的な評価だった。三度の飯を食うことすら忘れ、数式のバグチェックと理論のデバッグだけに全神経を没頭させ、24時間365日の連続稼働すら平然とこなす圧倒的な演算能力。効率的なエネルギー変換を可能にする彼女のプログラムや術式コードは、他のベテラン研究員たちが一週間総出で徹夜して頭を抱えても解けなかったシステムエラーを、まるで呼吸をするように一瞬で、あるいは完璧に最適化してしまう。そのあまりにも非の打ち所がない仕事ぶりと、常に他者を寄せ付けない冷徹なまでの作業効率から、周囲は彼女を「白衣を纏った冷徹な天才演算機械」「利権に決して媚びない、氷の知性の化身」だと信じて疑わなかった。
――だが、彼女を公私ともに支えていた数少ない先輩研究員の香坂(こうさか)や、同じ開発チームに所属する天才肌ながらも要領が良く世渡り上手な後輩・東雲(しののめ)の2人だけは、彼女の「本当の仕様(本質)」を痛いほどによく知っていた。
「主任、お疲れ様です。また役員会議用の提出書類、全部一人でチェックし直したんですか? 東雲の奴がまた重要なデバッグを丸投げして先に合コン行っちゃったからって、主任が全部肩代わりする必要なんてないんですよ。これじゃ完全に白衣を着た社畜のデスマーチじゃないですか。少しは怒ってください」
香坂が自販機で買った淹れたての缶コーヒー(笑)をデスクに置きながら、呆れたように、しかし本当に心配そうに声をかける。すると、それまで完璧な姿勢でモニターに向かっていた彼女は、ビクゥッ! と大裟裟なほどに細い肩を跳ねさせ、白衣の袖をぎゅっと握りしめて振り返った。その瞳にはみるみるうちに涙が浮かび、顔を真っ赤にしながら、小刻みに震える声で香坂に訴えかけた。
「こ、香坂さん……。私、本当は、その……東雲くんに『自分で最後までデバッグしてください』って、そう言いたかったんです……! でも、彼の顔を見たら、なんだかすごく不機嫌そうで、もしここで私が余計な指摘をしてチームの空気がギスギスしたらどうしようって思ったら、急に喉が詰まって言葉が出なくなっちゃって……。他人に意見を主張して断られるくらいなら、自分で全部徹夜残業して処理する方が何倍も心が楽なんですぅ……!」
彼女の本当の仕様――それは、病的と言えるほどに内気で、ビビりで、極度の対人恐怖症。自分の意見を主張するのが絶望的に苦手で、偉い大人たちや同僚の顔色を窺っては、いつもオドオドと縮こまっているだけの、ただの気弱な独身女性だった。周囲が畏怖していたあの恐るべき作業量と深夜残業は、天才ゆえの燃え盛る情熱などでは断じてない。気弱すぎるがゆえに、上層部や周囲からの理不尽な無茶振りを「断れません!」とすべて引き受けてしまい、一人で抱え込んで炎上した案件を、夜な夜な涙目で徹夜処理していた結果に過ぎなかったのだ。
しかし、彼女のその「周囲の空気を読みすぎて、完璧に相手の期待に応えようとする」という悲しき社畜習性と、元来の異常な頭脳のスペックが、皮肉にも世界を揺るがす本物の奇跡を納品させてしまう。
世界のエネルギー地図を根底から塗り替え、あらゆる既存のインフラ利権を過去の遺物へと変える「次世代クリーンエネルギー理論」と、その高効率変換システムの構築。彼女が数千枚の仕様書を徹夜で精査し、理論バグを1ミリも残さずデバッグしきったその絶対的な新エネルギーの基礎理論が、ついに完璧な形で完成の日の目を見たのだ。
研究所全体が歓喜に沸き返り、プロジェクトの最高責任者である役員たちからの賞賛が彼女に降り注いだ。長年の地獄のようなデスマーチが報われ、ようやく彼女が心から望んでいた「他人の顔色を窺わずに、定時退社ができる平穏な日常」が手に入る、まさにその絶頂期の夜だった。
「おい、まさか次世代クリーンエネルギーの発表を本当に行う気か? 我々既存の化石燃料、あるいは原子力インフラ企業の息の根を止めるつもりか!」
誰もいなくなった深夜の管制室で、薄暗いモニターの光に照らされながら、歪んだ笑みを浮かべていた男がいた。開発チームの内通者であり、既存の世界的エネルギー利権団体から送り込まれた工作員としての顔を持つ研究員・阿久津(あくつ)だった。阿久津の目的は、新エネルギーの基礎理論そのものを、それを生み出した頭脳ごとこの世から完全に抹消することだった。
「天才主任……お前の命も、その傲慢な数式も、すべてこの爆発の中で炭化しろ」
阿久津の手により、実験室の安全制御システムが完全に書き換えられ、意図的な臨界突破による大爆発のシミュレーションが確定していく。耳を劈くような警報音が研究所内にけたたましく鳴り響き、同時にすべての自動隔壁が完全に閉鎖された。
「システムチェック……! おかしい、制御コードが外部からハッキングされて……っ!? 嘘、臨界爆発まであと3分なんて……! 嫌だ、死にたくない、死にたくないよおおう!」
異常値に気づき、深夜の研究室で一人、彼女の指先が恐怖で凍りついた。パニックで頭が真っ白になり、涙がボロボロと溢れ出す。しかし、極限状態の中で、彼女の悲しき「お人好しな責任感の強さ」が最悪の方向に身体を動かした。
「香坂さん、東雲くん……みんなが明日チェックするはずだった大切なデータが……っ! バックアップの物理サーバーだけは、絶対に死守して消させない……っ!!」
ガタガタと震える手で、彼女は研究成果のすべてが詰まったメインハードディスクを、崩落する天井の瓦礫から庇うように、小さな身体でぎゅっと抱きしめた。
ドォォォォォォン!!!
次の瞬間、すべてを焼き尽くす凄絶な業火と、空間を圧殺するほどの衝撃波が中央研究所を包み込んだ。彼女の意識は、恐怖を感じる暇すらなく、圧倒的な熱量の中に溶けて消えた。自らの天才的な頭脳がもたらしたあまりにも巨大な利権。その闇の渦に巻き込まれ、平穏を望みながらもすべてを奪われた非道な暗殺。それが、彼女の30年の人生のあまりにも理不尽な終着点――最悪の仕様変更(強制終了)であった。
神の次元:30歳女性研究者の魂の視点
(え? なにこれ。真っ白な空間? 冗談でしょ、利権の陰謀で事故を装って暗殺されるなんて、科学サスペンス小説の読みすぎじゃないんですか私の人生!? せっかく今回の大きな案件を納品して、悲願の定時退社を手に入れて、家で大好きなネット小説の『謙虚、堅実をモットーに生きております』を読んで、吉祥院麗華様の「おほほ」な悪役令嬢ライフに癒やされたかっただけの、内気な一介の研究員ですよーーー!!)
突然、何もない純白の次元に放り出され、目の前に現れた言語を絶する白光の存在――この世界のすべての「仕様」を司る神様を前に、彼女の魂は激しく動揺し、理不尽な強制終了にワンワンと涙を流していた。しかし、神様は彼女の魂の輝きを、とても優しく、愛おしそうに見つめていた。
『理不尽な世界の闇に潰されながらも、最後まで世界の調和と未来を願い、自らの身を盾にして研究成果を守った優しき魂よ。君のその謙虚で堅実な生き様と、類まれなる知性を、私は心から哀れみ、そして深く賞賛しよう。君の望む平穏を、私は次の世界で必ず叶えてあげたい。君が愛したその新エネルギーの記憶を、さらに宇宙の真理へと近づけた高出力・高効率なものへと「上位カスタマイズ」して授けよう……。君が二度と、利権の闇ごときに怯えなくて済むようにね』
神様は極めて真摯に、彼女を祝福するために転生術式のコードを編み込んでいた。これほどの美しい頭脳が、二度と悪意のインシデントによって潰されぬよう、絶対的な安全マージンを確保しようと、神様は熱が入るあまり、『おっと……指先がほんの少しだけ滑ってしまった。あまりに君を頑丈に、誰にも干渉されないようにしようとしたら、世界の構成情報を書き換えて完全消滅をもたらす「反物質対消滅」と、光速という世界の法すらハッキングする「光速因果律超越テレポート」というバグまで、最上位の最高出力でシステムにデプロイされてしまったが……まあ、これなら絶対に物理的に暗殺もテロも無効化できるからいいか! じゃ、行ってらっしゃい!』
(ちょっと待って!! 神様いま真面目な顔して『手が滑った』って言いました!? 開発環境のデバッグ漏れみたいなノリで宇宙消滅レベルの戦略級破壊兵器を私の魂に実装しないでええええ!! 私はただの気弱な研究員! 仕様書を見せてーーー!!)
彼女の絶叫は次元の隙間に吸い込まれ、意識は宇宙の因果を超えて急速に反転していった。
西暦2078年4月24日。彼女は日本の財界を統括する影の政府「御三家」の筆頭・仁科家(にしなけ)の令嬢、仁科麗華(にしな れいか)として、新たな生を受けたのである。
次回で転生した世界がわかります。