The Amazing Spider-Man 4: Rage of the Taken 作:たきび/まもる
夜のオズコープ・タワー。昼間の喧騒は消え、研究フロアの多くは照明が落ちている。淡く光る非常灯とガラス張りの研究室が並ぶ人気のない廊下を、帽子を深く被り、目立たない服装をしたオットー・オクタビアスが静かに進んでいた。
かつては毎日のように歩いていた場所だが、今ではここにいるだけで不法侵入になる。
オットーは一度足を止め、廊下の先の壁に光るオズコープのロゴをしばらく見つめる。それから再び歩き出し、途中にある案内表示の前で立ち止まった。
研究区画の配置は以前とは変わっている。それでも、いくつかの廊下やエレベーターの位置、研究棟へ続く連絡通路など、記憶に残っているものもあった。オットーは周囲を確かめながら、時折迷いつつも少しずつ奥へ進んでいく。
やがて無人の端末室へ入り、ひとつの端末の前に座る。画面を起動したオットーは少し迷ったあと、検索欄へ自分の名前を入力した。
OTTO OCTAVIUS
検索結果が表示されるまでしばらく待つと、大量の研究記録が画面に並ぶ。
オットーの表情が止まった。
そこに残されていたのは、論文、実験記録、神経信号解析、機械制御、分散処理など、自分がオズコープに在籍していた頃に残した研究だった。何年も前のデータであるにもかかわらず、今もそのまま保存されている。
オットーはゆっくりと画面をスクロールしていく。
しかし、そこにあるのは自分の研究だけではなかった。退職後に後任の研究者たちが行った追試や改良、応用研究の記録が続き、その先には軍事技術への転用を示す資料まで残されている。
オットーの手が止まる。
「……やはり。」
小さくそう呟き、画面を睨む。
自分はもうここへ戻ることも、自分の研究へ触れることもできない。それでもオズコープは、自分を追い出したあともその研究を使い続けていた。
オットーはさらに奥の研究区画へ進み、ガラス張りの保管室へたどり着く。認証端末の向こうには温度管理されたケースがいくつも並んでおり、その一角には複数の試験管が整然と収められていた。
ラベルを確認したオットーの足が止まる。
ナノマシン。
神経系への投与試験用で、一本につき被験者一人分と記載されている。
オットーはしばらくガラス越しにそれを見つめたあと、保管ケースを開けて一本だけ手に取る。透明な試験管の中には、ほとんど無色に見える液体が入っていた。
照明へかざし、ラベルを確かめる。
「……これが。」
何週間も探し続け、正規の方法ではどうしても手に入れられなかったものが、今は自分の手の中にある。
その時、廊下の向こうから足音が聞こえた。
オットーの表情が変わる。
「誰かいるのか?」
警備員の声とともに足音が近づいてくる。
オットーは反射的に振り返り、試験管を握ったまま周囲を見る。保管ケースへ戻す時間はない。
急いで保管室を出て角を曲がった直後、警備員が研究区画へ入ってくる。
「おい!」
オットーはその声を聞くと反射的に走り出した。
その手には、まだ試験管が握られていた。
深夜の倉庫。
戻ってきたオットーは椅子へ腰掛け、荒い呼吸を整えていた。
しばらくして上着のポケットへ手を入れると、指先に硬いものが触れる。
取り出したのは、オズコープから持ち出したナノマシンの試験管だった。
オットーは呆然とそれを見る。
「持ってきてしまった……。」
試験管を作業台の上へ置く。
その向こうには、四本のアームが並んでいる。
オットーは試験管とアームを見比べた。
これさえあれば。
一瞬そんな考えが浮かぶが、すぐに首を振る。
「駄目だ。これは私のものじゃない。」
そう口にしながらも、オットーの視線は試験管から離れなかった。
翌朝。オズコープ・タワーの警備部門では、昨夜の侵入記録が複数のモニターに表示されていた。
担当者が端末を操作しながら、研究区画の入退室記録や保管庫の状況を確認する。
「侵入者は研究区画の奥まで入っています。」
責任者が画面を見る。
「保管庫は?」
「開けられています。」
別の記録が表示される。
「神経系投与試験用のナノマシンが一本、不足しています。」
責任者の表情が険しくなる。
「一本?」
「はい。被験者一人分です。」
短い沈黙のあと、責任者が尋ねる。
「警察には?」
「不法侵入として通報済みです。」
「盗難については?」
「伝えていません。」
責任者は短く頷いた。
「そのままでいい。ナノマシンについては社外に出すな。」
警察署の屋上。
ジョージ・ヒルは資料を手にし、給水塔の上にしゃがみ込んでいるスパイダーマンへ事件について説明していた。
「オズコープ?」
「ああ。昨夜、研究区画に侵入者が入った。」
ヒルは資料へ目を落とす。
「警備員が見つけて追ったが、逃げられたらしい。」
スパイダーマンが首を傾げる。
「何か盗まれた?」
「オズコープ側は、何も盗まれてないと言ってる。」
「じゃあ不法侵入だけ?」
「今のところはな。」
ヒルは少し怪訝そうな顔をする。
「ただ、妙なんだよ。」
「何が?」
「研究区画まで入り込んで、何も盗らずに逃げた。酔っ払いが迷い込めるような場所でもない。」
スパイダーマンもその話を聞きながら考えていると、スマートフォンが振動した。
取り出して確認すると、メッセージが一件届いている。送信者はフェリシア・ハーディで、ファイルがひとつ添付されていた。
スパイダーマンはヒルから画面が見えないようにして、ファイルを開く。
映っていたのは、昨夜のオズコープ社内の監視映像だった。
研究区画を歩く一人の男。
スパイダーマンの表情が変わる。
オットー。
映像を進めると、保管庫の中で試験管を手に取る姿、その直後に現れる警備員、そして逃げていくオットーまで残されている。
スパイダーマンは画面を見つめたまま動かなくなる。
ヒルが見上げる。
「どうした?」
スパイダーマンは反射的にスマートフォンを伏せた。
「え?」
「今、何か来ただろ。」
「いや、別に。」
ヒルはじっとスパイダーマンを見る。
「……おまえ、隠し事が下手だな。」
「え?」
スパイダーマンが一瞬固まる。
画面を見られたのか。反応に出たのか。それとも声か。
「そういうところだ。」
ヒルは呆れたように息を吐く。
「カマをかけてみたらこれだからな。」
スパイダーマンは何も言えない。
ヒルはそれ以上追及せず、「まあいい」とだけ言う。
スパイダーマンはもう一度スマートフォンへ目を落とした。
画面には、試験管を手にしたオットーが映っている。
オズコープ・タワーでは、フェリシア・ハーディが自分の席でパソコンを閉じていた。手元のスマートフォンには、ピーターへ送った監視映像の送信済み表示が出ている。
その背後では、オズコープの監視システムから昨夜の研究区画の映像だけが欠落していた。
フェリシアは何事もなかったように立ち上がり、コーヒーを手に取ると、そのままいつもの仕事へ戻っていった。
オットーの倉庫。
ピーターは作業台の前に立ち、少し離れた椅子に腰掛けているオットーへスマートフォンの画面を見せる。
「オズコープに入ったの?」
オットーは画面を見たあと、少しだけ間を置く。
「ああ。」
言い訳する様子はない。
ピーターは続ける。
「何しに?」
オットーは机の上へ視線を落とした。
「ナノマシンが欲しかった。」
ピーターの表情が少し険しくなる。
「君と話した方法を試すには、どうしても必要だった。だが……。」
オットーは一度言葉を切る。
「正規の方法では、手に入らなかった。」
ピーターの視線が机の上へ移る。
そこには企業への問い合わせ、見積書、研究用途での提供申請、却下された回答などが乱雑に広げられている。パソコンの画面にも複数のメールが開かれており、販売対象外、個人への提供不可、研究機関との契約が必要といった回答や、高額な見積もり、返事すらない問い合わせが並んでいた。
ピーターは黙ってそれを見る。
オットーは少し疲れたように笑う。
「オズコープだけじゃない。考えられるところには、ほとんど当たった。買えるものは高すぎる。安いものでは精度が足りないし、そもそも、個人には売らない。」
ピーターは机の上の書類を見たまま聞く。
「……それで、オズコープに?」
「ああ。」
短く答えるオットーを見て、ピーターは少し迷ったあと、もうひとつ尋ねる。
「オズコープで、何を見たの?」
オットーの表情が変わる。
しばらく黙ったあと、ゆっくりと口を開く。
「私の研究だ。」
ピーターが顔を上げる。
「まだ残っていた。昔、私が作った理論も、実験記録も、神経信号の解析も、機械制御の基礎も。全部だ。」
オットーは少し笑う。
しかし、その笑みに喜びはない。
「私は二度と触れることもできないのにな。」
ピーターは黙って聞いている。
「それだけじゃない。」
オットーの声が少し低くなる。
「私が辞めた後も、研究は続けられていた。改良されて、発展して。そして……軍事利用されていた。」
ピーターの眉が動く。
「軍事?」
「ああ。」
オットーは頷く。
「私が拒んだ使い方だ。」
オットーは、自分が目指していた研究について改めて話す。
「人間を助けるための技術だった。失われた機能を補う。人間だけではできないことを、機械が支える。私は、そのために研究していた。」
その視線が四本のアームへ向く。
「だが、オズコープは違った。私を追い出して、研究だけ残して、今も自分たちの好きなように使っている。」
ピーターはすぐには何も言えなかった。
オットーも、それ以上は話さない。
倉庫の中には静かな機械音だけが残る。
その頃、倉庫の外にある人気のない道路へ、黒い車両が数台静かに停まっていた。ヘッドライトは消されている。
ドアが開くと、黒い装備に身を包んだ男たちが次々と降り、ほとんど声を出さず、手振りだけで倉庫の正面、裏口、側面へ散開して周囲を囲む。
配置についた一人が無線で短く告げる。
「配置完了。」
「了解。」
別の車両から、一人の男が降りる。
他の隊員たちとは違って重装備ではなく、ダークスーツに黒い手袋を着け、首元にはオズコープの身分証を下げている。
男は倉庫を見上げたあと、ゆっくりと正面入口へ向かった。
倉庫の中では、まだピーターとオットーの会話が続いている。
その時、入口の扉が開いた。
二人が振り返ると、見知らぬ男が立っている。
男は倉庫の中を一度見回し、四本のアーム、作業台、パソコン、そしてオットーへ順番に目を向ける。
ピーターは男の身なりと、入口の向こうにいる人影を一瞬だけ確認すると、すぐにポケットからマスクを取り出して被る。
「オットー・オクタビアス博士ですね。」
オットーの表情がわずかに強張る。
「……誰だ。」
男は懐から身分証を取り出す。
「オズコープ、資産回収部門です。」
その頃には、ピーターはすでにスパイダーマンとしてオットーの少し後ろに立っている。
男はスパイダーマンを一瞥するが、特に驚いた様子もなく続ける。
「昨夜、当社研究施設から持ち出された物品について、回収に来ました。」
オットーは少し黙り、作業台の上の試験管へ目を向ける。
「……ナノマシンか。」
「はい。」
オットーは試験管を手に取る。
「返すつもりだった。」
男は淡々と答える。
「それは結構。」
試験管を受け取り、ケースへ収める。
「では。」
男は袖口へ手を当てる。
「対象物を確認。回収する。」
短い無線のやり取りから数秒後、倉庫の外から複数の足音が響き、黒い装備の隊員たちが次々と中へ入ってくる。
オットーが目を見開く。
「……何だ?」
隊員たちはそのまま倉庫の中へ散開し、一人はパソコンへ、別の一人は研究ノートへ、さらに別の隊員は四本のアームへ近づいていく。
オットーは慌てて立ち上がる。
「待て! 何をしている!」
しかし、隊員たちは止まらない。
一人がパソコンのケーブルへ手を伸ばした。
「それは関係ないだろう!」
別の隊員は設計図をまとめ始める。
「おい! 待てと言っている!」
オットーは資産回収部門の男を見る。
「ナノマシンは返した! それで終わりのはずだ!」
男は変わらない口調で答える。
「関連研究資料および機材も回収対象です。」
「何だと?」
オットーの顔に明らかな動揺が浮かぶ。
「そんな話は聞いていない!」
隊員の一人が研究ノートを持ち上げ、その横では別の隊員がアームの固定部へ手をかける。
「やめろ! それに触るな!」
オットーの声が倉庫に響く。
「それは私のものだ! 私が作った!」
研究ノートを持つ隊員へ詰め寄った直後、別の隊員がパソコン本体へ手をかける。
オットーはそちらを振り向く。
「触るな! それもだ! 私の金で! 私の手で!」
それでも隊員たちは止まらない。
資産回収部門の男だけが、変わらない口調で告げる。
「当社技術との関連性が確認されるまで、すべて保全対象です。」
その言葉を聞いた瞬間、オットーの表情が変わる。
目の前の倉庫ではなく、もっと昔の何かを見ているような顔だった。
「……またか。」
スパイダーマンがオットーを見る。
「オットー?」
オットーの呼吸が荒くなっていく。
「また奪うのか……?」
男がわずかに眉を動かす。
「博士、落ち着いてください。」
「一度では足りないのか!?」
オットーの怒声が倉庫に響いた。
その瞬間、四本のアームが一斉に動く。
隊員の一人が驚いて振り返った直後、一本のアームが研究ノートを奪い返し、別の一本がパソコンへ伸びていた隊員の腕を払いのける。さらに別のアームが自分へ触れていた男を突き飛ばし、隊員は床を滑っていく。
「うわっ!」
資産回収部門の男が後退する。
「制圧しろ!」
部隊が一斉に武器へ手を伸ばし、スパイダーマンも咄嗟に動く。
「待って!」
しかし、オットーは止まらない。
「出ていけ!」
アームが作業台を飛び越え、隊員たちを次々と押し返していく。
「ここは私の場所だ! これは私の研究だ! もう二度と――」
一本のアームが隊員を壁際まで追い詰め、そのクローが勢いよく開く。
「オットー!」
スパイダーマンの声が飛ぶ。
オットーが振り向く。
「もういい!」
スパイダーマンはオットーと隊員たちの間へ入る。
「終わった! もう誰も持っていかない!」
その声が倉庫に響き、オットーの動きが止まる。
四本のアームも、その場で静止した。
倉庫にはオットーの荒い呼吸だけが残る。
部隊員たちは互いに目を合わせ、一人が後退すると、それを合図にするように次々と出口へ向かう。誰もオットーを刺激しようとはせず、床に落ちた装備だけを拾って、そのまま倉庫の外へ消えていく。
スパイダーマンはその様子を見送ったあと、ふと、さっきまでいたはずの黒いスーツの男がいないことに気づく。
床へ目を落とすと、回収されたはずのナノマシンケースがその場に残されていた。
男はそれすら置いたまま、先に逃げている。
やがて倉庫の外から車のエンジン音が聞こえ、数台の車両が次々と走り去っていく。
静かになった倉庫の中で、スパイダーマンはオットーを見る。
オットーはまだその場に立ち尽くし、四本のアームも動いていない。
怒りが引いていくにつれて、自分が何をしたのかが少しずつ見えてきたようだった。
スパイダーマンが慎重に声をかける。
「……オットー?」
オットーはすぐには答えない。
少しして、視線を落としたまま静かに口を開く。
「……すまない。」
スパイダーマンは何も言わず続きを待つ。
オットーはゆっくりとヘッドセットを外した。
「今は……誰とも話せない。」
スパイダーマンの表情が曇る。
オットーは彼を見ない。
怒っているわけではなく、自分でもまだ何が起きたのか整理できていないようだった。
「少し、一人にしてくれ。」
スパイダーマンはしばらくオットーを見たあと、小さく頷く。
「……わかった。」
倉庫の外へ出て振り返ると、オットーは入口に立っている。何か言いたそうにも見えたが、結局何も言わず、シャッターへ手をかける。
スパイダーマンがもう一度だけ声をかける。
「オットー。」
オットーの動きが少し止まる。
しかし、スパイダーマンはその先を続けなかった。
オットーも振り返らない。
シャッターがゆっくりと下りていき、やがて二人の間を完全に遮る。
一人残されたスパイダーマンは、しばらく閉じたシャッターを見つめていた。
時間が経つ。
照明を落とした倉庫の中では、作業台の周囲だけが薄く明るく残っている。床には先ほどの騒動で散らかった工具や資料が残され、四本のアームも停止したままだった。
オットーは一人、椅子に座って俯いている。
頭の中では、さっきの光景が何度も繰り返されていた。
研究ノートへ伸びた手。パソコンを持ち去ろうとする隊員。アームへ触れる手。そして、「関連研究資料および機材も回収対象です」という言葉。
オットーは目を閉じる。
オズコープでの過去が蘇る。
自分だけが追い出され、研究だけが残った。
そして今日、また同じことが繰り返された。
オットーはゆっくり顔を上げる。
「……また私が逃げるのか。」
誰に聞かせるでもなく呟く。
ここを捨てるのか。研究を諦めるのか。また別の場所へ行くのか。
それで終わるのか。
オットーの視線が、床に残されたケースへ向く。
回収部隊の男が置いていったナノマシン。
あれはオズコープのものだ。
返さなければならない。
そう思う。
だが、別の考えがすぐに浮かぶ。
そのナノマシン技術にも、その神経制御にも、自分の研究が使われている。
オットーは額を押さえる。
「違う。」
首を振る。
「それとこれは別だ。」
少し間を置く。
しかし、また考えてしまう。
では、何が別なのか。
自分から研究を奪った会社が、その研究を利用し、発展させ、軍事利用までしている。その成果のひとつを、自分が使うことだけが盗みなのか。
オットーはナノマシンケースを見つめ続ける。
怒りも、悔しさも、理屈も、罪悪感も混ざり合い、考えは同じところを何度も回っていく。
静かな倉庫の中で、時計の針だけが進んでいった。