彼女達の未来のために 作:おっさんとチルドレン
「だから、走りながら飲むなって言っただろ」
そんなことを言った気がする。
テーブルの向こうで、子どもが笑っていた。何かをこぼしたらしく、慌てて手を伸ばしたところへ別の小さな手まで加わって、余計にひどくなった。呆れながら布巾を取り、まだ笑っている二人へ小言を言う。何度繰り返したか分からない、代わり映えのしない朝だった。
特別な日ではなかった。
だからこそ、その光景が消えたあとに残ったものが、ひどく空虚だった。
目を開ける。
白い天井が見えた。
しばらく、動かなかった。
息を吸う。吐く。胸が動く。頭痛はない。視界もぼやけてはいない。右手の指を一本ずつ曲げ、続いて左手。足首を動かし、首をゆっくり左右へ振る。身体に痛みはなく、少なくとも目を覚ました直後に確認できる範囲では異常らしい異常はなかった。
そこまで確かめてから、布団の上へ持ち上げた自分の手を見た。
「…………いや、あるじゃん」
声が高かった。
それ以前に、手が小さい。
掌だけではない。指が短く、手首も細い。寝間着から伸びる腕にも、長年働いてきた人間の身体らしいものは何ひとつなかった。握ってみれば、力の入り方まで記憶しているものと違う。
上体を起こす。
部屋を見回した瞬間、妙な感覚に襲われた。
知らない。
――いや、知っている。
壁際の棚に何が入っているか分かる。窓を開ければどんな景色が見えるかも、ベッドの下へ転がった玩具が何なのかも知っていた。なのに、この部屋で何十年も暮らした覚えなど当然ない。
それでも、ここが自分の部屋だという感覚だけは疑いようがなかった。
「……なんだ、これ」
呟いてからベッドの縁へ寄る。
いつもの感覚で足を床へ下ろそうとして、止まった。
遠い。
わずかな距離のはずなのに妙に高く見える。試しに身体をずらして足を伸ばすと、爪先が床へ届くより先に尻が縁から落ちた。
「うわっ」
ぺたん、と間抜けな音を立てて着地する。
転びこそしなかったものの、膝が揺れた。反射的にベッドへ手をつき、それから自分の脚とベッドを交互に眺める。
「……ちっさ」
どうやら手だけではなかった。
視線が低い。家具が大きい。ドアノブの位置まで高い。頭では分かっているのに身体の感覚が追いつかず、数歩歩くだけで歩幅の違いに戸惑った。
それでも奇妙なことに、二歩、三歩と進めば身体はすぐ順応した。
ドアを開け、廊下へ出る。
どこへ行けばいいのか考える前に、足が右へ向いた。
洗面所。
理由を考えながら歩いていたはずなのに、迷いもしない。そこへ着くと、今度は洗面台の下から小さな踏み台を引き出した。
踏み台へ乗ってから、動きを止める。
「……これも知ってんのか」
誰かに教えられた記憶を探そうとする。
すると、ある。
昨日もこれを使った。歯を磨いた。顔を洗った。誰かに急かされて、口の周りを泡だらけにしたまま廊下へ飛び出した。
そんな記憶がある。
同時に、別の洗面台も思い出せた。
もっと高い鏡。髭を剃るための道具。眠そうな顔で身支度をする自分。その横から歯ブラシを持った子どもが割り込んできて、邪魔だと言いながら少し場所を空けた。
どちらも、自分の記憶だった。
鏡を見る。
赤みのある髪の、小さな女の子がいた。
寝起きで髪が跳ね、丸い頬に布団の跡が残っている。目を丸くしてこちらを見ている表情まで、自分の動きと寸分違わず重なった。
当たり前だ。
鏡なのだから。
なのに、ひどく現実味がなかった。
頬をつまむ。
鏡の少女も頬をつまむ。
痛い。
「……女、だよな」
言うまでもない。
この身体で過ごしてきた記憶を意識すれば、そんな確認そのものがおかしく思えるくらいだった。自分は最初からこうだった、と身体の奥では知っている。
けれど別の記憶では、明らかに違う。
長く男として生きていた。
結婚した。
子どもが二人いた。
抱き上げた。叱った。笑った。熱を出せば心配して、学校で何かあれば話を聞いた。上手くできたかどうかはともかく、自分なりに父親をやってきた。
そこまで思い出してから、鏡を見たまま口を開く。
「俺は……」
ぞわ、とした。
思わず口を閉じる。
意味が違うわけではない。
自分が自分をそう呼んでいたことも確かだ。それなのに、鏡の中の幼い少女が高い声で「俺」と言った瞬間、借り物の服を無理やり着せられたような落ち着かなさが走った。
眉を寄せ、今度は少し考えてから口を開く。
「あたし……」
こちらは、するりと出た。
「……こっちの方がマシだな」
何がどうなっているかは分からない。
だからといって、わざわざ今の自分に合わないものへしがみつく理由もなかった。前にどう呼んでいたかと、今どう呼ぶかは別の話だ。
そう考えたところで、廊下から声が飛んできた。
「薫ー? 起きてるー?」
身体が先に反応した。
「起きてるー!」
大きな声で返してから、薫は口を押さえた。
今、考えなかった。
誰に呼ばれたのか分かっていた。自分が返事をするべきだとも知っていた。そして何より――呼ばれた名前に、何の迷いもなく反応した。
足音が近づき、洗面所の入口から女性が顔を覗かせる。
「起きてるなら早く着替えなさい。ご飯冷めちゃうでしょ」
その顔を見た瞬間、また記憶が重なった。
知っている。
明石秋江。
母親。
忙しいと声が少し早口になること。怒っているように聞こえても、本当に怒っているときは逆に声が低くなること。出かける前は何度も鏡を見るくせに、家では案外ずぼらなところがあること。
全部知っていた。
けれど、その女性を母親として見上げる感覚は、今までの自分にはなかったはずだった。
薫は黙ったまま秋江を見る。
「なに?」
「……なんでもない」
「だったら早くしなさい」
「わかってるって」
口から出た言葉は、自分でも驚くほど自然だった。
秋江が呆れたように息をつき、洗面所へ入ってくる。薫の寝癖を見つけると「もう」と言いながら手を伸ばし、そのまま身体を軽々と抱き上げた。
心臓が跳ねた。
反射的に肩へ力が入る。
「ん? どうしたの?」
「……別に」
人に抱き上げられる。
そんな経験が、ひどく久しぶりに思えた。
前の記憶では、逆だった。
眠ってしまった子どもを車から降ろしたことがある。熱を出した小さな身体を抱えて病院へ駆け込んだことも、泣いている子を抱き寄せて背中を撫でたこともある。
抱く側だった。
ずっと。
それが今は、片腕で持ち上げられるほど小さい。
秋江の肩へ回された自分の腕が、あまりにも短い。
「本当にどうしたの、薫?」
「……なんでもないって言ってんじゃん」
少し強めに答えると、秋江は「はいはい」と笑った。
その笑い方に、なぜか胸が詰まる。
離れようと思えば離れられた。抱っこなんて恥ずかしい、と今までの自分なら思ったかもしれない。
けれど、小さな腕は秋江の肩から離れなかった。
それがこの身体に残った習慣なのか、今の自分がそうしたかったのかは、まだ分からなかった。
朝食の席にはもう一人いた。
「薫、遅ーい」
姉の好美がパンを齧りながら言う。
姉。
その言葉も自然に浮かぶ。
薫は椅子へよじ登り、自分の皿へ手を伸ばした。そこに乗っていたものをひとつ取ろうとした瞬間、横から伸びてきた好美の手が先にさらっていく。
「あーっ!」
考えるより先に声が出た。
「それあたしの!」
「一個くらいいいじゃん」
「よくない! 返せ!」
「もう食べちゃったもーん」
「このっ……!」
椅子から身を乗り出しかけて、秋江に額を軽く小突かれた。
「朝から騒がない」
「だって好美が!」
「薫のそれ美味しそうだったんだもん」
「自分の食えよ!」
好美が笑う。
薫は頬を膨らませ、自分の皿を守るように両腕で囲った。
しばらくしてから、その姿勢のまま気づいた。
普通に腹が立っていた。
前の人生がどうとか、今の身体がどうとか、そんなことを一秒も考えずに姉へ怒っていた。
明石薫として積み重ねてきた時間が、消えていない。
知らない誰かの身体へ入り込んだ――そう考えるには、ここにある感情はあまりにも自分のものだった。
「……変なの」
「何が?」
「なんでもない!」
好美へ言い返し、牛乳へ手を伸ばす。
秋江が時計を気にしながら立ち上がり、好美も何か言い返す。朝の慌ただしさの中で二人の言葉が少しぶつかり始めた。
薫はパンを齧りながら聞いていたが、次第に眉間へしわが寄った。
「朝からケンカすんなよ。忙しいときにイライラしたって余計疲れるだけだろ」
静かになった。
薫も止まった。
好美が瞬きをする。
秋江も同じ顔をしていた。
「……薫?」
「な、なんだよ」
「今の誰の真似?」
「え」
四歳児が言うには、妙に所帯じみていた。
薫は数秒考え、
「……テレビ」
「何の番組?」
「忘れた!」
勢いで押し切った。
好美が怪しそうに見る。
薫は目を逸らし、牛乳を飲んだ。
――危ねえ。
そう思った瞬間、また引っかかる。
危ねえ。
今の頭の中の言葉は、昔の自分に近かった。
口に出さなければ別にいいか、と考え直す。何から何まで無理に変える必要はない。ただ、今の自分が自然に使える言葉で喋った方が楽だ。
視線を落とす。
テーブルの脇に、小さな鞄が置いてあった。
名札がついている。
何気なく読んだ。
明石 薫。
指が止まった。
「……明石、薫」
声に出す。
知っている。
当然だ。
自分の名前なのだから。
それなのに、胸の奥で別の何かが小さく引っかかった。
この名前を、前にも知っていたような気がする。
今の人生より前に。
どこかで。
「なに、自分の名前忘れたの?」
好美が笑う。
薫は反射的に顔を上げた。
「んなわけないだろ!」
「じゃあなんで見てんの?」
「見てたっていいじゃん!」
言い返しながらも、指先は名札から離れなかった。
明石薫。
どこだ。
何で知っている。
人の名前だったか。
テレビに出ていたか。
漫画だったか。
考えようとすると、頭の中に大量の記憶が押し寄せる。
仕事。
家。
車。
買い物。
休日。
子どもたち。
昔読んだもの、見たもの、忘れたもの。
何十年分もの細かな記憶の中から、たったひとつの名前を探すのは簡単ではなかった。
「……まあいいか」
小さく呟く。
分からないものを、分からないまま無理やり決めても仕方がない。
まず情報だ。
その考えに至ると、少し落ち着いた。
朝食を終えたあと、薫は家の中を見て回った。
もちろん、四歳児が急に家宅捜索を始めれば怪しまれる。だから遊ぶふりをしながら、カレンダーの日付を確認し、届いていた郵便物を眺め、テレビの番組表に目を走らせる。窓の外も見た。
町並みに極端な違和感はない。
車も走っている。
家電も知っているものばかり。
少なくとも石器時代や宇宙時代へ放り出されたわけではなさそうだ。
それ以上は分からない。
インターネットを使えば何か調べられるかもしれなかったが、自由に端末を使わせてもらえる年齢ではない。そもそも何を検索するべきなのかすら、まだ定まっていなかった。
明石薫。
その名前だけが引っかかっている。
「情報不足だな」
独り言が妙に大人びたものになり、薫は口を曲げた。
「……やっぱ変だな、これ」
自分の言葉に自分で突っ込む。
こういうところは、そのうち直した方がいいのかもしれない。
午後。
部屋へ戻り、玩具を適当にいじっていたときだった。
棚の奥から転がり出てきた、小さなプラスチックのコップ。
それを拾った瞬間、記憶が開いた。
別の小さなコップ。
食卓。
まだ幼かった子どもの手。
飲み物をこぼして泣きそうになった顔。
『大丈夫だって。拭けばいいだけだろ』
自分の声。
もう一人が横から笑う。
『笑うな。お前も昨日やっただろ』
ありふれた記憶だった。
何でもない。
何でもなかったからこそ、胸の奥へ深く刺さった。
薫はコップを持ったまま動けなくなった。
あの子たちは。
今、どうしている。
自分がいなくなったあと、ちゃんと飯を食っているだろうか。
学校へ行けているだろうか。
泣いただろうか。
二人で支え合えているだろうか。
――大丈夫かな。
声に出た。
「……大丈夫かな」
自分のことではなかった。
この身体になった理由でもない。
どうしてこんな場所にいるのかでもない。
残してきた二人のことだった。
胸が痛い。
けれど、何もできない。
立ち上がることも、電話をかけることも、帰ることもできない。そもそも帰る場所がどこにあるのかすら分からない。
なら泣いたって仕方がない。
そう思った。
何十年も生きていれば、どうにもならないものがあることくらい知っている。自分が取り乱したところで状況は変わらない。できることを探し、ないなら待つ。それだけだ。
そう思ったのに。
視界が滲んだ。
「……は?」
頬を何かが伝う。
指で触れば濡れている。
もう一滴。
「おいおい……」
鼻まで痛くなってくる。
抑えようとすると、余計に涙が溜まった。
薫は乱暴に目元を拭う。
「子どもの体って、めんどくせーな……」
声が震えた。
言い訳だ。
分かっていた。
身体だけのせいではない。
「薫?」
肩が跳ねる。
いつの間にか、入口に秋江が立っていた。
薫は慌てて背中を向け、顔を袖で擦った。
「な、なんでもない!」
「なんでもない顔じゃないでしょ」
「目にゴミ入っただけ!」
「両方?」
「……いっぱい入った!」
自分でも無理がある。
秋江は笑わなかった。
静かに部屋へ入り、薫の前へしゃがむ。
「怖い夢でも見た?」
薫は返事に詰まった。
夢。
そう言われれば、あの暮らしの方が夢だったのかもしれない。
朝の食卓も。
二人の子どもも。
父親だった自分も。
全部。
そんなはずはない、と強く思う。
あれは確かに自分の人生だった。
でも証明できるものは、今ここにはひとつもない。
「……変な夢、見ただけ」
結局、そう答えた。
完全な嘘ではなかった。
秋江は「そっか」とだけ言った。
詳しく聞かない。
子どもの身体を抱き寄せ、自分の膝の上へ乗せる。
薫は反射的に身体を引いた。
「大丈夫だって」
「うん」
「ほんとに」
「分かってる」
「だったら――」
「大丈夫でも、こうしてていいでしょ」
言葉が止まった。
秋江の腕が背中へ回る。
髪を撫でられる。
ずっと昔――いや、前の人生で、自分も同じことをした。
子どもが泣いている理由を全部聞き出そうとはしなかった。
話したくなったら話せばいい。
その前に、泣ける場所を作ってやればいい。
そんなことを考えていた。
今、自分がその場所に座っている。
守る側ではなく。
守られる側として。
「……変なの」
「なにが?」
「なんでもない」
薫は秋江の服を少しだけ握った。
前の家族を忘れる気はない。
忘れられるはずがない。
それと、今ここにいる人間の温度を受け取ることは、たぶん別だ。
そう思うことにした。
その日の夕方には、薫はまた好美とくだらないことで言い合っていた。
夕飯の前に菓子を食べようとして秋江に叱られ、納得できないと文句を言い、結局好美と半分ずつ隠れて食べようとして二人まとめて見つかった。
「なんでバレんだよ!」
「薫が袋ガサガサするからでしょ!」
「好美がもっと静かに開ければよかったんじゃん!」
「二人とも反省しなさい!」
「「はーい……」」
肩を並べて怒られながら、薫はおかしくなった。
前の記憶が戻ったからといって、明石薫だった時間が消えたわけではない。
姉に腹が立つ。
母親に叱られればむっとする。
甘いものは食べたい。
眠くなれば頭がぼんやりする。
どうやら何十年分の記憶を持っていても、四歳の身体は四歳なりに好き勝手要求してくるらしい。
それを不快だとは、あまり思わなかった。
夜。
布団へ入る。
今度は朝ほど天井が不気味には見えなかった。
薫は小さな手を布団の上へ出し、指を一本ずつ折った。
自分は子どもになっている。
女の子。
名前は明石薫。
母親は秋江。
姉は好美。
この家で過ごしてきた記憶がある。
それとは別に、男として長く生きた記憶もある。
子どもが二人いた。
どちらの記憶も、夢とは思えない。
ならば。
「……分かんないもんは、しょうがないか」
原因は分からない。
ここがどこなのかも、まだ正確には分からない。
自分がどうしてこうなったのかを、今日中に結論づける必要もない。
昔なら、仕事でも何でもそうしていた。
材料が足りないなら、勝手に答えを作らない。
確認できることから確認する。
明日になれば、新しい情報が入るかもしれない。
薫は目を閉じた。
けれど、眠りに落ちる直前、朝に見た名札がまた頭へ浮かんだ。
明石薫。
やっぱり、何かある。
昔どこかで見た。
誰かの名前。
漫画だったか。
テレビだったか。
それとも――。
「……あー、もう」
考えるのをやめた。
思い出せないものは思い出せない。
焦っても頭が痛くなるだけだ。
「明日でいいや」
小さく息を吐く。
そのとき、廊下の向こうから秋江の声が飛んできた。
「薫ー! いつまで起きてるの! 早く寝なさい!」
「わかってるって!」
反射的に返す。
朝と同じ名前で呼ばれた。
けれど今度は、その音を聞いても胸の奥はざわつかなかった。
前の人生を忘れるつもりはない。
あの家も、二人の子どもも、自分が父親だった時間も、自分から手放すつもりなどなかった。
それでも。
今ここで呼ばれている名前まで、拒む理由はないのかもしれない。
明石薫。
胸の中で、もう一度だけ呼んでみる。
朝よりも少し、自分の名前に聞こえた。
薫は布団へ潜り込み、目を閉じた。
明日になれば、また何か分かるだろう。
今はそれでよかった。