彼女達の未来のために 作:おっさんとチルドレン
ランドセルの肩紐を両手で引きながら鏡の前に立つと、二年前より手足が伸びたはずなのに、背中の鞄だけが妙に大きく見えた。
能力者として登録され、リミッターを身につけるようになってから季節を二度巡ったが、六歳になった今では装着を確認する動作も靴を履くのと変わらない習慣になっている。
定期的な確認と軽い制御練習を続けても公称の超度は四のままで、公園の景石を動かした日以来、本来の上限を探るような真似も一度としていなかった。
「……似合わねー」
鏡に映る自分を眺めながら薫が呟くと、後ろを通りかかった好美が足を止め、何を言っているのか分からないという顔で妹を見た。
「一年生なんだから、そんなもんでしょ。みんな最初はランドセル大きいよ」
「知ってるけどよ、なんか背負われてるみてーじゃん」
「そのうち薫の方が大きくなるって。それより忘れ物したら最初から恥ずかしいよ?」
そこから好美は、給食を残すとどうなるだの、先生へ名前を覚えられるまでは大人しくした方がいいだの、頼んでもいない助言まで次々と始めた。
学校生活そのものなら前の人生でも十分に経験しているが、今の時代の六條院小学校へ一年生として入るのは当然ながら初めてであり、全部知っていると言い切れるほど薫も傲慢ではない。
「上履き持った? ハンカチは?」
「持った」
「鉛筆ちゃんと入れた?」
「入れたって」
「名前――」
「全部書いてある!」
好美の質問を遮ったところで、今度は台所から秋江が現れ、ランドセルの中身と提出物をもう一度確かめようと手を伸ばしてきた。
母と姉の両方から同じような確認を受ける状況へ、薫は呆れながらも、本気で嫌がって振り払おうとは思わなかった。
「ママまでやんのかよ」
「初日なんだからいいでしょ。あとリミッター、変な感じしない?」
「しない。昨日も確認したし、今朝も見た」
「学校で何かあったら、無理しないで先生に言うんだよ」
「分かってるって」
秋江の方が自分より緊張しているのではないかと思いながら、その細かな確認を眺めていると、前の人生の入学式前にも似たような朝があった気がした。
子どもの服を直し、持ち物を何度も確認し、本人が大丈夫だと言っているのに忘れ物がないか気になってしまう感覚を、薫は送り出す側として確かに知っている。
今日は逆だった。
ランドセルを背負っているのは自分で、玄関に立って見送られるのも自分なのだと考えると、何年経っても立場がひっくり返った感覚だけは少し可笑しい。
もっとも、その可笑しさを口に出して説明するわけにもいかず、薫は靴を履き終えると、先に外へ出た秋江を追って玄関を飛び出した。
学校へ近づくにつれて、同じような新品のランドセルを背負った子どもと、その隣を歩く保護者の姿が目立つようになった。
嬉しそうに走って叱られている子もいれば、母親の手を握ったまま不安そうに校門を見上げている子もおり、薫は無意識のうちに一人ずつ目で追っていた。
歩道の車道側へ寄りすぎている子。
ランドセルの留め具が外れかけている子。
半泣きで母親へしがみついている子。
気づけば自分の入学より周囲の子どもの方ばかり見ており、隣を歩く秋江が途中で不思議そうに顔を覗き込んできた。
「薫、さっきから他の子ばっかり見てない?」
「……別に」
「今日は薫も一年生なんだからね?」
「分かってるよ」
そう答えながらも、薫は自分でも少し苦笑したくなった。
守る側へ回る癖は、身体が六歳になってもそう簡単には消えてくれないらしい。
ただし今は、周囲を気にする自分を否定するより、自分だって同じように母親から送り出される子どもなのだと認める方がずっと自然になっていた。
六條院小学校へ入ると、入学前に必要な情報が共有されているためか、担任は薫のリミッターを見ても特別な反応を示さなかった。
秋江とは体調が悪くなった場合の連絡方法だけ簡単に確認し、薫本人へは、困ったことがあれば何でも先生へ言うよう普通の新入生と同じ調子で声をかけてくれた。
「何か変な感じがしたら、我慢しないで教えてね」
「うん」
それだけで会話が終わったことに、薫は思っていた以上の安心を覚えた。
能力者だからと教室の前で説明されることもなく、超度4という数字を周囲へわざわざ紹介されることもない。
必要な大人だけが必要な情報を知り、そのうえで普通の児童として扱われることが、二年前にリミッターを受け入れた時に欲しかったものだった。
教室へ向かうところで秋江が立ち止まり、ここからは一人で大丈夫だろうと薫の背中を軽く押した。
「じゃあ、いってらっしゃい」
「おう。行ってきます」
薫は軽く手を上げて歩き出したが、数歩進んでから何となく後ろを振り返ると、秋江はまだ同じ場所からこちらを見ていた。
目が合うと笑って手を振られ、少し気恥ずかしくなった薫はすぐに前へ向き直り、そのまま廊下の角を曲がった。
そこで姿が完全に見えなくなった瞬間、胸の奥へ小さな寂しさが落ちてきた。
仕事へ一人で行った経験も、家庭を持った経験もあり、自分の子どもを学校へ送り出した記憶さえあるのに、母親の姿が見えなくなるだけで心細くなる。
以前の薫なら、その感覚を前の人生の自分と矛盾するものとして考え込んだかもしれないが、今はそこまで難しく捉えなくなっていた。
六歳なんだから、寂しい時くらいあるだろ。
それで終わりだった。
教室へ入った瞬間、最初に感じたのは想像していた以上の騒がしさで、すでに何人もの子どもが席を立って周囲へ話しかけていた。
小さな机と椅子、名前の書かれた札、新しい教科書の匂い、まだ使い込まれていない文房具が並び、そのどれもが何でもない学校の風景を作っている。
特別な訓練器具はない。
能力を測る装置もない。
B.A.B.E.L.の職員もいない。
ただ子どもたちがいて、これから毎日座る机があるだけなのに、その普通さを目にした薫の胸には、思っていたより強い喜びが広がった。
これが欲しかったのかもしれない。
未来を変えるための手がかりでもなければ、誰かへ近づくための場所でもない。
ただ朝になれば学校へ来て、同級生と話し、授業を受けて帰るという生活が、自分にも最初から用意されていることそのものが嬉しかった。
自分の名前が置かれた席を見つけて座ると、近くには当然ながら知らない顔しかなく、薫はそこで初めて妙な問題へ気づいた。
大人として初対面の相手と話すなら、仕事や天気、共通の知人など無難な話題はいくらでも思いつくが、小学一年生同士の最初の会話に使えるものはほとんどない。
今日はいい天気ですね。
なんて言えるか。
何しゃべりゃいいんだよ。
前の人生で培ったはずの会話経験が、六歳児の教室ではほとんど役に立たない事実へ困っていると、薫より先に隣の女の子がこちらを見た。
「ねえ、それってリミッター?」
予想していなかった言葉へ、薫は思わず相手の顔をまじまじと見た。
髪を整えた大人しそうな女の子で、珍しい装飾品を見つけて騒いでいるというより、本当にそれが何なのか知っている目をしている。
この年齢の同級生から最初の一言で正体を言い当てられるとは思っていなかったため、薫は少し警戒しながら問い返した。
「なんで知ってんの?」
女の子は一瞬だけ答えるか迷ったあと、周囲に聞かれて困る話でもないと思ったのか、自分の胸元を軽く指さした。
「私もエスパーだから。花井千里っていうの」
名前を聞いた瞬間、薫の中に古い記憶が引っかかったが、それを顔へ出すことはせず、目の前の少女を改めて観察した。
前の人生で知っていた名前ではあっても、今ここで話している千里は、記憶の中にある誰かではなく、初めて会った六歳の同級生でしかない。
「明石薫。あたしは念動力」
「どのくらい?」
「超度4」
千里は「へえ」と素直に頷いただけで、数字の高さへ大げさな反応を示すこともなく、自分はテレパシーだと簡単に教えてくれた。
高い超度の能力者ばかりを未来の重要人物として意識してきた薫にとって、普通の教室へ通いながら生活している低超度の能力者が隣にいることは、当たり前なのに少し新鮮だった。
能力者は。
葵や紫穂や、自分のような強い力を持つ者だけではない。
小さな力と付き合いながら、普通に学校へ来ている子どもだっている。
そんなことは頭では知っていたはずなのに、千里が新品の筆箱を机へ置きながら笑っている姿を見ると、その現実がようやく自分の中へ落ちた気がした。
「エスパーなの?」
近くで話を聞いていた別の子が声を上げると、それをきっかけに周囲の子どもが何人か薫の席へ集まってきた。
物を浮かせられるのか、机も動くのか、自分も空へ飛ばせるのかと次々に質問され、薫は想像以上に遠慮のない好奇心へ少しだけ面食らった。
「物は動かせるけど、学校じゃ勝手に使わねーよ」
「えー、やってみてよ!」
「ダメ。使うなって言われてるから」
「ちょっとだけ!」
「ちょっとでもダメなもんはダメ!」
能力を秘密にするためではなく、学校では勝手に使わないという決まりがあるから断っているだけなので、薫の声に後ろめたさはなかった。
さらに何度か頼まれたものの、見せてくれないと分かると子どもたちは驚くほど早く興味を失い、今度は誰のランドセルが何色だという話へ移っていった。
薫はその変化を少し呆然と眺めた。
もっと。
何かあると思っていた。
能力者だと知られれば距離を取られたり、逆に珍しいものを見るよう囲まれたり、そのどちらかが長く続くのではないかと身構えていた。
けれど実際の同級生たちにとって、薫がエスパーであることは最初の話題の一つに過ぎず、遊びや文房具の話より優先されるほど重大ではないらしい。
それが。
嬉しかった。
「千里、また人の考えてること読んでねーだろうな」
少し離れたところから飛んできた声に千里が振り向き、薫も同じ方向を見ると、元気そうな男の子がこちらへ歩いてくるところだった。
千里の顔に浮かんだ遠慮のなさから、二人が今日初めて会った間柄ではないことくらいはすぐ分かった。
「読んでないってば!」
「ほんとかよ」
「本当だよ! 勝手に使わないって言われてるもん!」
「前に分かったじゃん」
「だから、あれは勝手に聞こえたの!」
言い合う二人の名前を聞くまでもなく、薫には男の子が東野将だと察しがついたが、知っている素振りは見せなかった。
目の前の二人にはすでに幼なじみらしい距離感があり、千里の能力をめぐって小さな行き違いもあるようだったが、初対面の自分が勝手に踏み込む話ではない。
それでも、千里が明らかに嫌がっているのに東野がしつこく疑うのを見ているうち、薫の口が先に動いた。
「嫌だって言ってんだから、その辺にしとけば?」
東野の目がすぐ薫へ向いた。
「なんでお前に言われんだよ」
「隣で聞いてりゃ分かるだろ」
「エスパーだからって偉そうにすんなよ」
「してねーよ!」
分かっている。
相手は六歳。
初対面。
ここで本気になって言い返すような話ではない。
頭の中では全部分かっているのに、東野の言い方が妙に腹へ引っかかり、気づけば薫も椅子から少し身を乗り出していた。
「じゃあ口出すなよ!」
「うるせー! お前がしつこいからだろ!」
「はあ!?」
「なんだよ!」
「二人とも、もうやめなよ」
千里に止められたところで担任が教室へ入り、周囲の子どもたちも慌てて自分の席へ戻り始めた。
薫も渋々座り直しながら、数秒前まで本気で東野へ言い返していた自分を思い返し、机の上へ視線を落とした。
何やってんだ、あたし。
小一相手に。
そこまで考えてから。
あたしも小一だった。
自分で出した結論へ何とも言えない気分になっていると、隣の千里がまだ少し笑いを堪えているのが見えた。
「何笑ってんだよ」
「だって、さっきまで大人っぽかったのに」
「どこがだよ」
「将と同じだった」
「一緒にすんな!」
前の席から東野が振り返りかけたため、薫はそれ以上言わず、担任の方へ向き直った。
最初の授業というほど堅いものではなく、担任の説明と一人ずつの簡単な自己紹介から学校生活は始まった。
名前と好きなものを言うよう促され、自分の番が近づくにつれて、薫は少しだけ何を答えるべきか迷った。
前の人生で好きだったもの。
今の自分が好きなもの。
そんなふうに分けて考える癖は、以前よりかなり薄くなっている。
今楽しいと思うものを言えばいい。
それだけだった。
「明石薫。外で遊ぶのと、漫画読むのが好き。よろしく」
能力については何も言わなかったが、担任も付け足すことはせず、そのまま次の子へ順番を回した。
自分の紹介に超度もB.A.B.E.L.も必要ないことが、朝から感じていた安心をさらに強くしてくれた。
それから数日が過ぎると、初日にあれほど新品ばかりだった教室にも、少しずつ子どもたちの使った跡が増えていった。
教科書の置き場所を間違える子がいて、休み時間には机の間を走って叱られ、誰が誰と遊ぶのかという小さな関係も少しずつ出来上がっていく。
薫のリミッターを気にする子も、最初の二、三日は時々いた。
しかし、触ってはいけないものだと分かり、能力を見せてくれるわけでもないと知れば、いつまでも話題にする子はいなくなった。
一週間も経つ頃には、薫自身も教室へいる間ずっとリミッターを意識することはなくなり、身につけている状態の方が普通になっていた。
千里とは席が近いこともあって自然に話す時間が増えた。
同じ能力者という共通点は最初のきっかけに過ぎず、話してみれば千里は普通に笑い、遊びの話をし、時々東野への文句も言う。
能力のせいで相手の気持ちが意図せず伝わる時があることだけは、まだ幼い千里なりに困っているようだった。
「聞きたくないのに、分かる時あるんだ」
ある休み時間、千里が小さな声でそう言った時、薫は何を返すべきか少し考えた。
自分の念動力なら。
使わなければ物は動かない。
暴発への不安はあっても、他人の心が勝手に入り込んでくることとは種類が違う。
超度が高い。
低い。
それだけで大変さを比べられるものではない。
「嫌だろうな、それ」
薫がそう答えると、千里は少し驚いたようにこちらを見た。
「怖くないの?」
「何が?」
「私が分かっちゃうかもしれないの」
薫はそこで、前の人生の記憶や、本当の能力まで読まれる可能性をほんの一瞬だけ考えた。
ただ、目の前の千里へその恐怖をそのままぶつけることと、自分の境界を伝えることは別なので、少し考えてから普通に答えた。
「勝手に読むのはやめてほしいけど、千里が怖いわけじゃねーよ」
「……そっか」
「聞こえちゃったのまで怒ってもしょうがねーだろ。でも、わざとはナシな」
「うん」
千里が安心したように笑ったのを見て、薫もそれ以上は何も言わなかった。
能力を怖がらない。
でも。
何をされても受け入れるわけではない。
そこを分けて考えることは、念動力でもテレパシーでも同じなのだろうと思った。
その日の休み時間、教室で使っていた軽い遊び道具が棚の上へ引っかかり、何人かの子どもが椅子を持ってこようとして先生に止められた。
薫ならリミッターを着けたままでも簡単に取れる高さだったため、当然のように誰かがこちらへ顔を向けた。
「薫、取れるじゃん!」
「取れるけど」
「じゃあ取ってよ」
薫は棚の上を見た。
意識を向ければ。
届く。
少し引くだけで落とせる。
一秒もかからない。
それでも、学校では勝手に能力を使わないという約束を思い出し、薫は棚から視線を外した。
「先生に取ってもらえばいいだろ」
「使えば早いのに」
東野が横から口を挟む。
「早けりゃいいってもんじゃねーだろ」
「変なの。できるなら使えばいいじゃん」
「じゃあお前、走れるから廊下ずっと走ってんのかよ」
「それと違うだろ!」
「同じだろ!」
また言い合いになりかけたところで千里が笑い、薫は最近この流れが増えていることへ気づいた。
東野は少し無遠慮で、薫は妙にその言い方へ引っかかる。
頭では放っておけばいいと分かっているのに。
なぜか。
言い返したくなる。
その日も結局、先生が普通に棚から道具を取ってくれ、念動力を使う必要は最初から最後までなかった。
力があるから使うのではなく、必要な時に必要な方法を選ぶという考え方は、リミッターを身につけた二年間で思っていた以上に自分の中へ根づいていた。
ただし。
能力を使わない生活だからといって、大人しく過ごしているわけでもない。
休み時間に東野たちと外へ出れば、鬼ごっこで普通に走り回り、六歳の身体では前の人生の運動経験など大した助けにならないことを思い知らされた。
走り方を知っていても脚の長さも筋力も今の身体相応なので、東野に追いつけず負けた瞬間には、理屈より先に悔しさが込み上げた。
「よっわ!」
「うるせー! もう一回!」
「また負けんじゃね?」
「今度は捕まえる!」
本気で走り出してから数秒後、薫はまた自分が六歳児と張り合っている事実へ気づいたが、今回は以前ほど可笑しいとは思わなかった。
身体に引っ張られて子どもっぽくなっているのではなく、負けたから悔しくて、友達と遊んでいるから楽しいというだけなのだと、今なら素直に受け止められる。
結局二度目も東野を捕まえる前に時間が来てしまい、薫は息を切らせながら教室へ戻った。
悔しい。
でも。
楽しい。
それでいい。
学校生活が始まって一週間ほど経った日の帰り、秋江は玄関へ入ってきた薫へ、最近では恒例になった質問を投げかけた。
「今日、学校どうだった?」
薫は靴を脱ぎながら少し考えた。
授業で当てられた。
千里と話した。
東野とまた言い合った。
鬼ごっこで負けた。
給食は普通だった。
何一つ。
未来を変える手がかりにはならない。
「普通」
「それだけ?」
秋江が笑いながら聞き返したので、薫はランドセルを下ろしながら少し考え、今度は素直に付け足した。
「……楽しかったよ」
その言葉を口にしてから、自分でも少し驚いた。
普通というのは。
何も起きないことではない。
くだらない口喧嘩もある。
負けて悔しいこともある。
能力のことで少し話すこともある。
それでも。
そこには誰かを救わなければならない任務もなく、エスパーとノーマルの未来を背負う必要もなく、ただ明日も続く日常がある。
これまで薫は。
皆本が自分へ銃を向ける未来を避けたいと思っていた。
破壊の女王にはなりたくない。
争いも避けたい。
そう考えてきた。
でも。
今は少し違う。
あの未来を避けたい理由の中へ。
この教室が入っている。
千里と話す時間。
東野と馬鹿みたいに言い合う時間。
授業を受けて。
給食を食べて。
また明日と言って帰る生活。
それを失いたくない。
世界という大きな言葉より。
ずっと分かりやすかった。
翌日の帰り際、千里がランドセルを背負いながら薫へ手を振った。
「薫ちゃん、また明日ね」
「おう、また明日」
たったそれだけのやり取りだったが、校門へ向かって歩き始めた薫は、その言葉をしばらく頭の中で繰り返していた。
また明日が来ることを誰も疑わず、同じ場所へ集まる約束を何気なく交わせる生活は、前の人生でも当たり前すぎて意識したことがなかった。
今なら。
その価値が分かる。
翌朝、薫はいつものようにリミッターを確認し、ランドセルを背負って玄関へ向かった。
二年前には身体を縛るものにも見えた装具は、今では学校へ通う自分の生活へ完全に溶け込み、その存在を理由に足を止めることもなくなっている。
秋江が玄関の向こうから「いってらっしゃい」と声をかけると、薫は昨日より自然に扉を開け、外の朝日へ目を細めた。
「行ってきます!」
学校には特別な任務も、世界の命運も、未来を教える何かも待っていない。
あるのは小さな机と黒板、昨日話した友達と、少し腹の立つ男子と、今日も始まる授業だけだった。
それでも薫は、その何でもない教室へもう一度行きたいと思いながら、ランドセルを揺らして学校への道を歩き出した。