彼女達の未来のために 作:おっさんとチルドレン
六條院小学校での生活は、入学したばかりの頃に感じていた特別さが薄れ、薫も朝になれば何も考えずランドセルを背負うようになっていた。
授業を受け、休み時間には千里や東野とくだらないことで言い合い、ときには本気で校庭を走り回る毎日は、未来のことばかり考えていた幼い頃より、現在の自分を強く感じさせてくれる。
「明石、今日こそ勝負な!」
休み時間が始まるなり東野が声をかけてきたため、薫は読んでいた本を閉じながら、面倒そうな顔を作って相手を見上げた。
昨日の鬼ごっこで途中から別の子に追われ、勝負が曖昧になったことをまだ納得していないらしく、その顔には今日こそ決着をつけるという無駄な気合いが満ちている。
「今日あたし用事あんだよ。放課後は無理」
「じゃあ今やろうぜ!」
「休み時間全部お前に使うのかよ!」
「負けんの怖いんだろ?」
「上等だ、表出ろ!」
売り言葉に買い言葉で立ち上がったところ、隣で聞いていた千里が「ほんと仲いいよね」と笑い、薫と東野はほとんど同時に否定した。
六歳児相手に何を本気になっているのかと考えることは今でもあるが、それより先に腹が立ち、負ければ悔しいと感じる今の自分を、以前ほど不自然だとは思わなくなっている。
放課後になると秋江と合流し、いつものようにB.A.B.E.L.の関連施設へ向かったが、今日は歩きながら前回会った少女のことを少しだけ思い出していた。
梅枝ナオミとは能力について一度まともに話しただけで、友達と呼ぶにはまだ距離があるものの、自分以外のサイコキノと感覚を言葉にして共有できた経験は、思っていた以上に新鮮だった。
施設へ入り、訓練区域へ向かう途中で、薫は何気ないふりをしながら前回ナオミが使っていた部屋へ視線を向けた。
窓の向こうに姿がないと分かった瞬間、わずかに肩透かしを食らった自分へ気づき、別に会いに来たわけではないと、誰に聞かせるでもなく心の中で言い訳する。
「薫ちゃん」
背後から聞き覚えのある声が飛んできたため振り返ると、飲み物を片手にしたナオミがこちらへ歩いてくるところだった。
前回より声をかけることに迷いがなく、薫の方も自然に名前を返せたことで、ほんの少しだけ二人の距離が縮まっていることが分かる。
「おう、ナオミ」
「今日も来てたんだね」
「そりゃ訓練の日だからな」
「私ね、前のやつちょっと上手くなったよ」
「自分で言うのかよ」
「だって本当に上手くなったもん」
十二歳くらいの少女らしい得意げな表情へ、薫は思わず笑い、準備を済ませたあと短い時間だけ訓練を見せてもらうことになった。
前回は指定位置の直前まで速度を保ち、最後に強く制動する癖があったものの、今日は早い段階から速度を落とし、細かな修正も一度に大きく戻さなくなっている。
「お、ちゃんと上手くなってんじゃん」
「ほんと?」
「前みたいに右行ったり左行ったりしてねーし、止まる時も揺れてない」
「薫ちゃんに教えてもらったから」
「最後に調整したのはナオミだろ。あたしは言っただけだって」
前回と同じ答えを返すと、ナオミは少し嬉しそうに笑い、もう一度だけ訓練物を滑らかに指定位置へ停止させた。
薫もその動きを眺めながら、自分の言葉をそのまま真似するのではなく、本人の感覚へ馴染ませていることに素直な感心を覚えていた。
そこへ、廊下側から聞き覚えのある男性の声が近づいてきた。
「ナオミ、今日も調子は良さそうだね」
薫が振り向くと、落ち着いた服装をした男性がこちらへ歩いてきており、その姿を見たナオミの肩がほんの少しだけ固くなった。
前回は遠くから声と名前を聞いただけだったため、この人物が谷崎なのだろうと察しながらも、薫は古い知識だけで評価を決めず、目の前のやり取りを見ることにする。
「はい、今日は安定してます」
「そうか。水分は取った? 学校の疲れもあるだろうし、無理しちゃ駄目だよ」
「取りました」
「髪が少し乱れてるな。訓練中に邪魔になるだろ」
谷崎が自然な仕草でナオミの髪へ手を伸ばそうとすると、ナオミは身体を少し引き、自分の手で乱れた部分を直した。
拒絶と呼ぶほど強い動きではなかったため谷崎は深く気に留めず、手元の予定表を開くと、今度は次の訓練内容について話し始めた。
「このあと少し休んだら、もう一段階難しい課題をやろう。今の安定度なら十分いけると思う」
「あの、今日は学校の宿題もあるので、少し早めに終わりたいんですけど」
「それなら大丈夫。宿題の時間も取れるよう僕が調整しておくから、せっかく調子がいい日に伸ばさないともったいないよ」
「でも……」
「心配しなくていい。ナオミならできるから」
励ましていることも、本人の力を信じていることも、おそらく嘘ではないのだろうと薫にも分かった。
それでも、ナオミが早く帰りたいと言った理由を最後まで確認する前に、谷崎が善意だけで予定を進めてしまったことへ、小さな違和感が残る。
「それで、君が明石薫ちゃんかな?」
突然話を向けられ、薫はナオミから谷崎へ視線を戻した。
「そうだけど」
「ナオミから聞いたよ。この前の訓練でいい助言をしてくれたんだって?」
「ちょっと話しただけだよ」
「それでも助かった。ありがとう。ナオミは真面目だから、一度気になると納得するまでやり続けるところがあるんだ」
その言葉自体に悪意はなく、むしろ長くナオミを見てきた人間らしい親しさと心配が感じられた。
だからこそ薫は、谷崎本人を嫌な大人だと決めつけるより、すぐ隣にいるナオミがその言葉をどう受け取っているのかを注意深く見る。
「この子は放っておくと無理するから、こちらでちゃんと止めてやらないといけないんだよ」
「私、最近はちゃんと休んでます」
「もちろん分かってるよ。でもナオミは遠慮するからね。僕が見ていた方が安心だ」
「別に遠慮してるわけじゃ……」
「分かってる分かってる。君は昔からそういう子だから」
谷崎はナオミの言葉そのものを聞いているのに、その意味を現在の本人から受け取る前に、自分が知っているナオミ像へ当てはめてしまっている。
「違う」という否定さえも、遠慮する性格だからという説明の材料へ変わっており、本人をよく知っているという自信が、逆に今の声を聞き取りにくくさせているように見えた。
薫はそこで何も言わなかった。
谷崎とはほぼ初対面で、ナオミから事情を聞いたわけでもない以上、数分の会話だけを材料に大人へ口を挟むのは明らかに早すぎる。
前の人生で知っていた情報を使えば言いたいことはいくつも出てきそうだったが、それを現在の人物評価へ持ち込むことこそ、薫が避けようとしてきたことだった。
「じゃあナオミ、あとでまた来るから」
谷崎が別の業務へ向かい、廊下の角へ姿を消したところで、ナオミは誰にも聞こえない程度の小さな息を吐いた。
ため息と呼ぶほど大きなものではなかったが、先ほどから何度か見えていた疲れのような感情が、ほんの一瞬だけ表へ出たように感じられる。
「じゃ、あたしも訓練行ってくる」
薫はそれだけ言い、その場では何も尋ねず自分の訓練室へ向かった。
今日の課題は、前回までと同じように超度4の範囲で軽い物体を移動させ、指定された場所へ正確に止める基礎的なものが中心だった。
薫はもう制御の巧さまで無理に隠そうとはせず、出力と対象数だけを意識して抑えながら、一つの物体を安全に動かすという公開上の能力像を崩さず訓練していく。
課題をこなしながらも、先ほどの谷崎とナオミのやり取りは何度か頭へ戻ってきた。
世話を焼くことも、予定を管理することも、無理をさせないよう様子を見ることも、それだけなら大切な相手へ向ける行動として特別おかしいものではない。
前の人生の自分だって、子どものためだと思えば先に予定を組み、危ないことは止め、本人が平気だと言っても様子を見た経験くらい何度もある。
それだけに、谷崎の行動を外から簡単に笑う気にはなれなかった。
問題があるとすれば善意そのものではなく、その善意が本人の返事を待たずに先へ進み、相手が何を望んでいるのか確認する余地まで奪い始めているところなのだろう。
そう考えた瞬間、自分にも同じ方向へ進む危険がないとは言えないことへ気づき、薫は訓練物を止めながらほんの少し眉を寄せた。
訓練を終えて休憩スペースへ戻ると、ナオミも少し遅れてやってきて、前回と同じように薫から少し離れた席へ腰を下ろした。
最初は能力の話をしていたものの、今日はどこか上の空で、何度か口を開きかけては止めるため、薫も三度目には見て見ぬふりを続ける方が不自然だと判断した。
「なんかあんの?」
「え?」
「さっきから何回も言いかけてやめてんじゃん。話したくねーなら別にいいけど」
「……分かる?」
「三回もやりゃ分かるだろ」
ナオミは少し迷ったあと、膝の上で両手を組みながら、薫の方へ身体を向けた。
「薫ちゃんって、谷崎主任どう思った?」
質問を受けても薫はすぐには答えず、前の人生で知っていた人物像と、今日実際に見た言動を頭の中で分けてから、今の自分が言える範囲だけを選んだ。
ナオミの相談へ答えるために未来の知識を使うのではなく、今日会った谷崎と、今ここで話しているナオミだけを材料にしたかった。
「今日初めてまともに話しただけだから、まだ分かんねーよ」
ナオミが少し意外そうに目を丸くした。
「そうなんだ」
「数分話しただけで人間全部分かったら怖えーだろ。良さそうなとこもあったし、変だなって思ったとこもあったけど、それだけ」
最初から谷崎を悪く言われることを警戒していたのか、逆に自分の不満を否定されることが怖かったのかは分からない。
ただ、薫が良い人とも悪い人とも決めなかったことで、ナオミの肩から少しだけ力が抜け、そこからゆっくりと言葉が続き始めた。
「主任ね、小さい頃からずっと私のこと見てくれてるの」
「うん」
「能力の使い方も教えてくれたし、失敗した時も助けてくれたし、私が困らないように色々考えてくれてる」
「うん」
「悪い人じゃないんだよ」
そこまで言ったナオミは一度言葉を止め、自分でも次に続ける内容を口へ出していいのか迷っているようだった。
薫は先を急かすことなく待ち、ナオミがようやく困ったように笑ってから口を開くまで、飲み物へ手を伸ばすだけに留める。
「でも、ちょっと世話焼きすぎるっていうか、自分でできることまでやろうとするの」
そこから出てきた話は、どれも一つだけ切り取れば大事件と呼ぶようなものではなかった。
本人ができる準備まで先に済ませ、予定を確認する前に決め、訓練内容について意見を言っても「君のためだから」と押し切り、髪や服装まで必要以上に気にして世話を焼こうとする。
「嫌なら言えばいいじゃん」
薫が素直にそう返すと、ナオミは予想していたように困った顔をした。
「でも、小さい頃からすごくお世話になってるし、私のこと心配してくれてるのも分かってるから」
「それはさっき聞いた」
「だから、主任に悪気はないと思うんだ」
そこで薫の中に、ナオミが何に迷っているのかがようやく一本の形になった。
「悪気がないのと、迷惑じゃないのは別だろ」
ナオミが黙り込み、薫の顔をじっと見つめた。
「わざと嫌なことされんのと、良かれと思って嫌なことされんのは違うけどさ。ナオミが嫌だと思ってんのは、どっちだろうが変わらねーじゃん」
「でも、それって主任が悪い人ってことになるの?」
「なんでそうなんだよ。世話になってんのも、心配してくれてんのも本当なんだろ?」
「うん」
「だったらそこはありがたいでいいじゃん。でも嫌なことまで、世話になったからありがたがらなきゃいけないって話にはならねーだろ」
ナオミは何も言わず、自分の膝へ視線を落としたまま、薫の言葉を一つずつ確かめるように指を組み直していた。
薫にはその迷いが少し分かり、相手へ感謝しているなら不満を持ってはいけないという感覚は、大人同士の関係でも家族の間でも珍しいものではなかった。
「主任のこと、嫌いじゃないよ」
「じゃあ嫌いじゃなくていいじゃん」
「でも、嫌なことはある」
「それもそのままでいいだろ。人間なんて、好きなとこあって嫌なとこあって普通じゃん」
口にしたあとで、また六歳児にしては妙に落ち着いたことを言っていると自分でも思ったものの、相談された途端に意味のない子どもっぽさを演じる方がよほど不自然だった。
何より目の前のナオミは、自分を六歳だからと軽く流さず話してくれているのだから、薫も分かっていることを誤魔化さず返したかった。
「私、わがままなのかなって思ってた」
「その程度でわがままなら、世の中わがままだらけだろ」
即座に返すと、ナオミはようやく少し笑った。
「別に主任と喧嘩しろとか、嫌いになれって話じゃねーぞ。嫌なことだけ、嫌って言えばいいじゃん」
「嫌なことだけ?」
「髪触られんの嫌なら『触らないで』、予定勝手に決められんの嫌なら『先に聞いて』って、それだけでいいだろ」
「怒られないかな」
その質問に薫は少し考え、絶対大丈夫だと根拠もなく言うことは避けた。
「ちゃんとした大人なら、言われたら少しは考えるだろ。それで直してくれなかったら、その時またどうするか考えりゃいいじゃん」
「その時でいいの?」
「全部今日決めなきゃいけない理由あんのかよ。言ってみて、相手がどうするか見て、それから次考えればいいだろ」
ナオミはまた少し長く薫の顔を見つめ、その視線の意味を察した薫が先に嫌そうな顔を作った。
「薫ちゃん、本当に一年生?」
「またそれかよ! 今日で何回目だよ!」
「だって、私より大人みたいなこと言うんだもん」
「そんなん知らねーよ。相談してきたのナオミだろ!」
声を上げた薫へナオミが笑い、さっきまで固かった空気がようやく少し崩れた。
谷崎との問題そのものは何一つ解決していないが、嫌だと思う自分がおかしいのではないかという迷いだけは、最初より薄くなったように見える。
そんなナオミを眺めながら、薫の胸には相談とは別のところから、小さな引っかかりが生まれていた。
谷崎の行動へ違和感を覚えた時、薫は相手のためだからと本人より先に決めることの危うさを考えたが、それは決して谷崎だけに向けられる言葉ではない。
前の人生では父親として子どもの危険を先に潰し、今の人生でも周囲の子どもを見れば、本人へ聞く前に守ろうとして動きかけることが何度もあった。
自分の方が経験している。
自分の方が危険を知っている。
だから先に決めた方が早い。
そんな理屈を持ち始めれば、自分だって谷崎と同じように、相手のためという言葉で本人の声を聞かなくなる可能性はある。
まだ大きな失敗をしたわけではないものの、その方向へ進みうる自分を否定できないことが、今日のやり取りを見て初めて少し具体的になった。
あたしも気をつけねーとな。
薫はそこまで考え、まだ会ってすらいない葵と紫穂の名前を、ほんの一瞬だけ思い浮かべた。
未来の大筋を知っている自分が二人へ会えば、きっと守らなければならないと考えるだろうが、その時に二人の人生まで自分で決めるようなことだけは避けたかった。
しばらくすると、廊下から谷崎が戻ってきた。
「ナオミ、待たせたね。それじゃ次の訓練だけど――」
いつものように予定表を開きながら話し始めようとしたところで、ナオミは一度だけ小さく息を吸い、自分から声を重ねた。
「主任、ちょっと待ってください」
谷崎の手が止まり、予想していなかった言葉を聞いたようにナオミを見る。
「ん?」
「次の予定、決める前に私にも聞いてください。学校のこともあるし、私がやりたいこともあるから」
声は強くなく、怒っているわけでもなかったが、先ほど薫へ話していた時よりずっとはっきりした言い方だった。
ナオミは一瞬だけ薫の方へ視線を動かしかけたものの、途中で止めて谷崎を見直し、最後まで自分の言葉だけで伝えようとしている。
「今日だけじゃなくて、これからも先に聞いてほしいです。私、自分で決めたい時もあるから」
谷崎はしばらく言葉を返さず、手にしていた予定表とナオミの顔を交互に見ていたが、やがて小さく息を吐いて表情を緩めた。
「ああ……そうだね。ごめん。僕が先に決めすぎてたかな」
ナオミの方が少し驚いた顔をした。
もっと説明しなければならないと思っていたのか、反論される可能性を考えていたのかは分からないが、少なくとも今この場で谷崎は怒らず、予定表を閉じて本人へ問い直した。
「じゃあ、今日はどうしたい?」
ナオミは少しだけ考え、自分の予定を初めて確認してもらえたことへ戸惑うような間を置いてから答えた。
「今日はもう終わりにしたいです。宿題やって、家で少し休みたいので」
「分かった。じゃあ今日はそれで終わりにしよう」
思っていたよりあっさり話が決まり、ナオミは少しだけ肩から力を抜いた。
もちろん一度伝えただけで、谷崎の長年の距離感や先回りする癖がすべて変わるとは薫も思っていない。
本人を大切に思う気持ちと、自分が一番よく分かっているという思い込みが絡んだ行動は、一度注意された程度で完全に消えるほど単純ではないだろう。
それでも今日だけは、ナオミが自分の希望を言葉へして、谷崎が聞き、その内容に合わせて予定を変えた。
最初の一歩としては十分だった。
谷崎が少し離れた場所で手続きを始めると、ナオミはようやく薫の方へ顔を向けた。
薫は何かを言って褒める代わりに、ほんの少し顎を引いて頷くだけに留め、ナオミもそれを見て小さく笑った。
「明石薫ちゃんだったね」
手続きを終えた谷崎が戻り、改めて薫へ声をかけてきた。
「ナオミと仲良くしてくれてありがとう」
「別に。あたしも話してんの楽しいし」
「そうか、それならよかった。ナオミは年下の子と話す機会があまりないから、これからもよろしく頼むよ」
その返答を聞く限り、少なくとも今日の谷崎は、ナオミへ近づく人間を遠ざけたり、自分だけで囲い込もうとするような態度は見せていない。
だから薫も、古い記憶だけから善悪を決めるのではなく、今の谷崎を「ナオミを大切にはしているが、本人より先へ走りすぎる人」くらいに留めておくことにした。
帰る支度を終え、谷崎が別の職員と話している間に、ナオミがもう一度薫の近くへ寄ってきた。
「薫ちゃん、ありがとう」
「だから、あたし何もしてねーって。主任に言ったのナオミじゃん」
「でも、薫ちゃんが言ってくれたから考えられたんだよ」
「それでも最後に言ったのはナオミだろ。あたしが代わりに言ってたら意味ねーじゃん」
ナオミは少し考えたあと、何かに気づいたように目を細めた。
「それ、前も言ってたよね」
「何が?」
「能力の時も、最後にやったのは私だって言った」
薫は少しだけ言葉に詰まり、確かに前回も似たことを口にしたと思い返した。
能力の課題でも、人間関係の悩みでも、自分が答えを出して代わりに片づけてしまえば、一時的には早く終わるかもしれない。
けれど本人が考え、自分で試し、自分で決めなければ、次に同じことが起きた時まで薫が隣にいなければならなくなる。
「だったら、やっぱナオミがやったんじゃん」
そう答えると、ナオミは前回より少しだけ深い笑顔を浮かべた。
年下の変わったサイコキノ。
能力の説明が妙に上手い小学生。
そこへ今日は、自分の話を最後まで聞き、代わりに答えを決めるのではなく、考え方だけを整理してくれる相手という印象が少し加わったのかもしれない。
施設を出て秋江と帰る道では、夕方の空気に学校帰りの子どもたちの声が混じり、能力者の訓練施設から出た直後とは思えないほど普通の景色が広がっていた。
秋江はいつものように今日の訓練について聞き、前回名前を出したナオミがいたかどうかも、世間話の延長のような気軽さで尋ねてくる。
「ナオミちゃん、今日もいた?」
「いた」
「また能力の話したの?」
薫は一瞬だけ今日の相談をどこまで話すか考えたものの、すぐにそれは自分が勝手に共有していい内容ではないと判断した。
「今日はまあ、いろいろ。でも本人の話だから言わねー」
秋江は少しだけ驚いた顔をしたあと、詳しく聞こうとはせず「そっか」とだけ答えた。
母親だからといって友達から聞いた話まで何でも伝える必要はなく、その境界を秋江が自然に受け入れてくれたことに、薫は少しだけ安心した。
夕方の道を歩きながら、薫は今日ナオミへ言ったことより、自分の中へ返ってきた考えの方をゆっくり整理していた。
誰かを助ける時、経験のある側が相手より先に答えを決めてしまった方が、早くて安全で失敗も減らせる場面は確かにある。
しかしそれを繰り返せば、いつか助けることと相手の選択を奪うことの境目が曖昧になり、「あなたのため」という言葉だけで何でも決められるようになるかもしれない。
自分には前の人生の経験がある。
未来についても少しだけ知っている。
だからこそ、誰かが危険な道へ進みそうになれば、本人より早く答えを決めたくなる可能性は、普通の六歳児よりずっと高い。
それなら今日のことは、谷崎という人の問題だけとして覚えるのではなく、自分自身への注意として残しておいた方がいい。
守りたいからこそ、一度聞く。
危ないと思っても、本人が何を考えているか確かめる。
相手が自分で決められることまで、経験があるという理由だけで奪わない。
言葉にすれば簡単だが、実際に大切な相手が危険へ近づいた時に同じことをできるかは、今の薫にもまだ分からなかった。
それでも、いつか葵や紫穂へ会った時、自分が未来を知っているというだけで二人の行動まで全部決める人間にはなりたくない。
まだ顔さえ直接見たことのない二人についてそこまで考えるのは少し先走っているものの、今日ナオミと谷崎を見て感じた違和感だけは、忘れずに持っておこうと思った。
次の訓練日、薫がロッカーへランドセルをしまっていると、廊下の向こうからナオミが歩いてくる姿が見えた。
以前なら偶然同じ場所へ来た年上の能力者という距離だったのに、今では薫を見つけると自然に進路を変え、わずかに足を速めてこちらへ向かってくる。
「薫ちゃん」
「おう」
ナオミは隣まで来ると、少しだけ考えるように間を置いたあと、前回よりずっと気軽な調子で口を開いた。
「ねえ、ちょっと聞いていい?」
薫はその言葉を聞いて、能力についての質問なのか、学校の話なのか、それともまた別の悩みなのか分からないまま、少しだけ口元を緩めた。
「今度はなんだよ」
その日を境に、梅枝ナオミにとって明石薫という六歳の少女は、同じ能力を持つ変わった年下というだけではなく、何かに迷った時、答えを押しつけず一緒に整理してくれる相手として、少しずつ特別な位置へ入り始めていた。