彼女達の未来のために   作:おっさんとチルドレン

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15.残った数字

 

 

算数の時間になると、黒板には先生が書いた数字が大きく並び、薫は教科書と見比べながら、指定された計算問題をノートへ一つずつ写していた。

 

内容そのものは簡単でも、答えを枠の中へ丁寧に書く作業は六歳の手にとって意外と面倒で、頭で分かっていることと綺麗な字を書けることは別問題だった。

 

前世の記憶があるからといって、今の身体まで大人の筆跡を再現できるわけではなく、気を抜けば五と六の丸みが似た形になってしまう。

 

斜め前の席では、東野が指を折りながら問題を考えており、偶然見えた答えが一つ多かったため、薫は先生へ聞こえない程度の声で教えてやった。

 

「東野、そこ違うぞ」

 

「見るなよ!」

 

「見えたんだよ。一個多いって」

 

「合ってる!」

 

「じゃあそのまま出せば?」

 

東野はしばらく自分の答えを睨んでいたが、結局こっそり書き直したため、隣で見ていた千里が口元を押さえて笑い始めた。

 

今度は東野が千里へ文句を言い始め、三人まとめて先生から前を向くよう注意されるまでが一連の流れになり、薫も慌ててノートへ視線を戻した。

 

ほんの少し前までは未来を変える方法ばかり考えていた自分が、今では同級生の足し算へ余計な口を出していることを、薫は時々可笑しく思う。

 

ただ、その可笑しさを以前のように「自分らしくない」と感じることは減っており、こうして同年代とくだらないやり取りをする時間も、確かに今の自分の生活になっていた。

 

先生が黒板へ新しい数字を書き足すたび、薫はそれをノートへ写し、間違えたところだけ消しゴムで消して正しい答えを書き直していく。

 

紙の上なら書き直せる数字でも、強く鉛筆を押しつけた場所には薄い跡が残ることがあり、光の当たり方によっては消したはずの形まで見える。

 

その程度のことを深く考える理由もなく、薫は次の問題へ鉛筆を進めたものの、その日のうちに別の場所で、もっと厄介な形で残った数字を見ることになるとは思っていなかった。

 

最近の薫には、学校生活とは別に、夜の短い能力練習を少しだけ楽しみにする習慣ができていた。

 

秋江から許可をもらった日に限り、宿題や風呂を終えたあと、リミッターを着けたまま二つの紙玉を別々に動かす練習を続けている。

 

右をその場へ残したまま左だけを横へ動かし、固定していた方が揺れた時には一度両方を止めてから、小さな修正を入れて立て直す。

 

最初は二つとも同じ方向へ動いてしまったのに、今では数センチ程度なら違う動きを維持できるようになり、強さとは別の意味で能力が広がっている感覚があった。

 

三つならどうなるのか、四つになればどこで集中が崩れるのか、そんな好奇心が浮かばないわけではない。

 

リミッターを外せば操作できる数そのものも増えるのではないかと考えることさえあるが、そこで実際に試してみようとは思わなくなっていた。

 

四歳の頃、公園で自分の限界を確かめようとして、ほんの少し広げたつもりの力が予想を大きく超え、景石を持ち上げてしまった時の感覚は今も残っている。

 

分からないことを試す姿勢そのものは悪くなくても、自分の念動力については、一度試した結果を簡単になかったことへ戻せないのだと、その時に十分理解した。

 

その日の放課後も、薫は秋江と合流してB.A.B.E.L.の訓練施設へ向かい、受付を済ませてから慣れた廊下を歩いていた。

 

ナオミが使うことの多い訓練室へ何気なく視線を向けたものの、今日は時間が違うらしく姿は見えず、薫もそのまま自分の部屋へ向かう。

 

扉の近くまで来たところで、いつもの担当職員が、見慣れない技術職員らしい人物と壁際の端末を見ながら話している姿が目に入った。

 

画面には細い線がいくつも走ったグラフと簡略化された地図が表示されていたが、薫は最初、訓練設備の調整でもしているのだろうと思い、特に気にせず荷物を置こうとした。

 

「登録記録とは、やっぱり一致しないんですよね」

 

その言葉が聞こえた瞬間、薫の手はほんのわずかに止まりかけたものの、すぐ何もなかったように荷物を棚へ収めた。

 

「ええ。念動系なのはかなり確度が高いんですが、推定値の幅が広すぎるうえ継続時間も短いので、個人特定までは難しいですね」

 

「同一人物かどうかも分からない?」

 

「そこからです。地点はある程度寄っていますけど、この辺りは登録者も多いですから」

 

薫は荷物を整える動作を続けながら、耳だけが自然と会話の方へ引かれていくのを感じた。

 

未確認、念動系、推定値、登録記録との不一致という単語だけなら、自分とは全く無関係な出来事である可能性も十分にある。

 

それでも、聞けば聞くほど嫌な方向へ意識が引っ張られていき、画面に映っている地図をもっと詳しく見たいという衝動が少しだけ湧いてきた。

 

しかし、今まで何の興味も示していなかった六歳児が急に職員の端末へ近づけば、その行動自体が余計な違和感として残ることくらいは分かっている。

 

「明石さん、準備できた?」

 

担当職員から声をかけられ、薫は普段と変わらない調子で顔を上げた。

 

「できた」

 

「今日は前回の二個操作の続きからね」

 

「おう」

 

職員の態度には、先ほどの未確認反応と薫を結びつけている様子など全くなく、それを確認できただけでも胸の奥の緊張が少しだけ緩んだ。

 

同時に、今ここで自分から不自然な反応をすれば、まだ存在していない線をわざわざ自分で引くことになると、改めて意識を目の前の訓練へ戻す。

 

床へ置かれた二つの軽い訓練物を浮かせ、一方をその場へ保ちながら、もう一方へだけゆっくり前向きの力を加えていく。

 

数日前から始めたばかりの技術ではあるものの、夜の安全な練習を続けた成果もあり、前回よりは明らかに二つの感覚を分けて持てるようになっていた。

 

右側を進めながら左側を固定し、どちらかが揺れたら一度止めて小さく修正するつもりでいたのに、廊下側から聞こえた「高出力」という言葉へ意識が向いた瞬間、左の物体が数センチほど高度を落とした。

 

薫は担当職員が声を出すより先に両方を停止させ、落ちた方だけを元の高さへ戻してから、無理に続けず静かに床へ下ろした。

 

「今日はちょっと集中してない?」

 

「学校で走りすぎたかも」

 

「それなら無理しない方がいいね。休憩多めにしようか」

 

昼休みには実際に東野と校庭を走っているため、完全な嘘ではなく、担当職員もそれ以上の意味を見出さずに訓練内容を少し軽くしてくれた。

 

知りたい情報が近くにある時ほど普段通りに振る舞うことが難しくなるのだと感じながら、薫は自分から追いかけない方がいいと判断する。

 

仮に端末へ近づいて詳しい数字を見たとしても、それを見たという行動まで消せるわけではなく、勝手に書類や端末を調べれば別の痕跡が増えるだけだ。

 

何も知らない六歳の登録能力者として普通に訓練を続けることが、今の自分にとって一番自然であり、一番安全な選択だと考えればよかった。

 

薫は途中から完全に訓練へ集中し直し、二つの物体を別方向へ数センチ動かす課題を、失敗した時ほど無理に押し切らず一度止めながら繰り返した。

先ほどまで聞こえていた会話はいつの間にか別の場所へ移ったらしく、訓練が終わる頃には廊下も普段通りの静かさへ戻っていた。

 

結局何の話だったのかという疑問への答えが、自分から探しに行かなくても向こうからやってきたのは、その日の訓練を終えて少し経った頃だった。

 

「今日はもう一つ、能力の安全利用について短い説明があるから、お母さんと一緒に聞いていってね」

 

担当職員からそう言われ、薫と秋江は普段使わない小さな説明室へ案内された。

 

中には薫以外にも数組の登録能力者と保護者が座っており、特定の誰かへ向けた話ではなく、この地域の利用者へ順番に行われている安全指導らしい。

 

前方の画面へ表示されたのは、子ども向けに簡略化された地図と、いくつかの観測値を示したグラフだった。

 

職員は怖がらせないよう穏やかな口調で、登録されていない状態で大きな能力を使うと、本人にも力の程度が分からず事故へ繋がることがあると説明していく。

 

B.A.B.E.L.が能力者を登録する理由についても、単に力を管理するためだけではなく、安全な使い方や必要な医療、生活支援へ繋げるためだと改めて説明された。

 

その内容自体は薫もすでに知っているものだったが、前方へ表示されている地図が先ほど職員たちの端末で見たものと似ていることには、すぐ気づいた。

 

「最近、この地域でも登録記録と一致しない強い能力反応がいくつか確認されています。ただ、同じ人が使ったものか、それぞれ別の人なのかも分かっていません」

 

薫は表情を変えないまま画面を見つめ、色の付けられた範囲の中へ、自宅から遠くない場所が含まれていることを確認した。

 

「能力の種類は、今のところ念動力に近いものと考えられています。ただし観測時間が短いものも多く、正確な強さまでは判断できません」

 

画面が切り替わると、日時を大まかにぼかした複数の記録が並び、その一つへ薫の視線が自然と吸い寄せられた。

 

短時間の念動系反応、かなり大きな推定値、自分がよく知っている地域という三つの条件が重なっただけでも、背中へ冷たい感覚が走る。

 

さらに補足資料として公園の一角を写した写真が表示され、その脇へ「大型景石の位置変化を確認」という短い説明が現れた瞬間、薫の中から残っていた可能性がほとんど消えた。

 

あの時のものだと、もう疑う余地はなかった。

 

四歳の頃、誰もいないと思った公園で、自分がどこまで力を出せるのか確かめようとして景石を持ち上げた。

 

本人の中では二年も前に終わった失敗だったのに、誰にも見られていなかったと思っていた一瞬の力は、観測装置の中へ数字として残り続けていた。

 

薫は膝の上で握りかけていた手をゆっくり開き、子どもとして資料を見れば自然に浮かぶ程度の質問だけを選んで口にした。

 

「石って、そんなの動くの?」

 

前に立っていた職員は、特に何も疑うことなく頷いた。

 

「普通の人の力ではまず動かない大きさだったみたいだね。だから、かなり強い念動力が使われた可能性があるんだ」

 

「どんくらい強いの?」

 

「そこまではまだ分からないよ。機械の位置や周りの環境でも数字が変わるし、一人の能力だったのかも確定してないからね」

 

職員は超度7という言葉を使わず、観測値だけで正確な等級を決めつけることもしなかった。

 

一瞬だけ残った数字と動いた景石だけを材料に、複数の可能性を残しながら調査しているところに、B.A.B.E.L.側の慎重さが表れている。

 

画面にはさらに二、三件の異常値が表示されたが、どれも観測時間が短く、場所も広い範囲でしか示されていなかった。

 

一つは自宅からそれほど遠くない場所で、もう一つは施設へ向かう経路から少し外れた辺りだったものの、公園の一件ほど自分の記憶へ直接結びつく出来事は思い出せない。

 

能力が発現したばかりの頃には家で小さな暴発もあり、正式な訓練へ入る前には細かな操作を試したこともある。

 

それらが外部の観測へ引っかかるほどだったのかは分からず、資料にある全てが自分だと考えるのも、全て別人だと決めるのも根拠がなかった。

 

別の子どもが、この辺りには能力者がたくさんいるのではないかと質問すると、職員はその通りだと答えた。

 

「だから登録されている人たちの能力の種類や強さ、それから分かる範囲でリミッターの記録も確認してるよ。でも今のところ、この反応と一致する人はいないんだ」

 

その説明を聞いた時、薫の喉の奥が少しだけ乾いた。

 

当然ながら、自分も照合の対象には入っているのだろう。

 

この地域に住み、正式に登録されている念動能力者で、現在も定期的に施設へ通っている明石薫という六歳児の記録を、B.A.B.E.L.が確認していないはずはない。

 

それでも公称超度4の測定結果と正常なリミッター利用記録から、二年前の大きな未確認反応へ結びつける理由がないため、今のところ候補として残っていないだけなのだろう。

 

「薫ちゃんみたいに、ちゃんと登録してリミッターを使ってる子なら、力の扱い方を一緒に確認できるからね」

 

担当職員が説明の一例として薫の方を見て、困った時に相談できる場所があることの大切さを話した。

 

未登録のまま一人で力を試すより、大人と一緒に安全な範囲を確認した方が事故を防げるのだと、善意だけで説明していることが分かる。

 

その言葉は、思っていた以上に薫の胸へ重く落ちた。

 

職員は自分を疑っているのではなく、安全に能力を扱えている登録児童の一例として見ている。

 

それなのに、今まさに教材として示されている未確認高出力反応の一つを残した本人が、その前の席へ座って何も知らない顔をしていた。

 

騙しているという感覚が胸へ浮かび、それを理由だけで綺麗に消すことはできなかった。

 

自分は犯罪をするために力を隠しているわけではなく、未来に知っている破局を避け、普通の学校生活を守り、必要な時に動ける自由を残したいという理由がある。

 

それでも、善意で守ろうとしてくれている相手へ本当のことを言っていないという事実まで、その目的が正しいからといって消えるわけではない。

 

一瞬だけ、自分だと名乗る選択肢が頭へ浮かんだ。

 

公園の一件はあたしだと話せば、少なくとも職員たちは正体不明の能力者を探し続けなくて済み、余計な調査を一つ終わらせられる。

 

しかし、その先に再測定や詳しい検査、リミッターの再調整、生活上の管理強化が続く可能性を考えれば、今の学校生活や自由がどこまで維持できるか分からない。

 

全てが悪い方向へ進むとは限らないし、B.A.B.E.L.が自分を傷つけるために動くとも思っていない。

 

それでも、今ここで真実を明かすことで得られる安心より、失われる可能性のある選択肢の方が大きいという判断は変わらなかった。

 

だから今は言わない。

 

ただし、秘密を持ち続けるなら、自分の側にもその分だけ責任を持たなければならない。

 

限界を知りたい、もっと重い物ならどうなるか確かめたい、何個まで同時に動かせるか試してみたいという好奇心だけで、本当の出力を使うことは二度としない。

 

普段の訓練はリミッターの内側で行い、強さそのものではなく、今見せている精度や停止、複数操作を伸ばす方へ進む。

 

ただし、人の命がかかった時だけは別だと、薫はそこだけは迷わず線を引いた。

 

秘密を守ることと、目の前で誰かが死ぬのを見捨てることまで同じにはできない。

もし本当に自分の力しか間に合わない状況が来たなら、その時に正体が知られることより、助けられる命を優先するつもりだった。

 

「怖がらせるために、この話をしているわけではありません」

 

前方の職員が説明を続け、薫は改めて顔を上げた。

 

「もしかすると、この反応を出した人自身が、自分の力を怖がっているかもしれません。だから身近に困っている子がいたら、責めるんじゃなくて大人へ相談してほしいと思っています」

 

その言葉を聞いた時、薫の中でB.A.B.E.L.が何を探しているのかという見え方が少し変わった。

 

正体不明の危険な能力者を捕まえるためだけに調べているのではなく、支援へ繋がっていない能力者を事故が起きる前に見つけようとしている。

 

本人すら扱い方が分からず困っている子どもなら、管理する前にまず守る必要があるという考え方で動いているのだろう。

 

リミッターを初めて受け入れた頃にも、管理と保護が同じ仕組みの表裏なのだと考えたことがあった。

 

あの時より少し成長した今は、それが単なる綺麗事ではなく、実際の仕事としてこうして続いていることまで見えるようになっていた。

 

説明が終わり、秋江と一緒に廊下へ出ると、母は受け取った資料へ目を落としながら、少し考えるような顔をしていた。

 

「そんなに強い子が近くにいたんだね」

 

「怖くねーの?」

 

薫が何気ない調子を装って聞くと、秋江は少しだけ考えてから首を傾げた。

 

「危ない使い方をしたら怖いけど、その子も怖かったかもしれないじゃない」

 

その答えを聞いた瞬間、薫の歩く速度がほんの少しだけ遅くなった。

 

「そんな力が急に出たら、自分でもどうしたらいいか分からないでしょう? ちゃんと相談できる人がいるといいけどね」

 

秋江は薫へ何かを言い聞かせようとしているわけではなく、今日の資料を見て純粋にそう感じただけなのだろう。

 

だからこそ、その言葉は自分へ向けた説教よりずっと強く胸へ刺さり、四歳の公園で景石が浮いた瞬間に感じたものを自然と思い出させた。

 

前世で大人だった記憶を持つ自分でさえ、予想を超えた力が出た瞬間には、周囲に人がいないか、何か壊していないか、誰かを怪我させていないかと真っ先に確認した。

 

本当に何も知らない子どもが同じことを経験したなら、自分の力そのものを怖がってしまっても不思議ではないのだろう。

 

「……そうだな」

 

薫がそれだけ答えると、秋江は特別な意味を探ろうともせず、帰ったら何を食べたいかといういつもの話へ自然に切り替えた。

 

施設を出る頃には日が傾き、道の向こうでは学校帰りの子どもたちが友達同士で話しながら歩いていた。

 

B.A.B.E.L.は能力を管理し、リミッターを使わせ、記録を取り、未確認の力が現れればその出所を調べる組織であり、それだけ見れば監視されているようにも感じられる。

 

しかし、その先で何をしようとしているのかを今日少し理解したことで、薫の中にあった単純な警戒心は以前より複雑なものへ変わっていた。

 

敵だったなら、自分の秘密を守るために騙すことももっと簡単だったかもしれないが、守ろうとしてくれている相手だからこそ、言わないという選択にも重さが生まれる。

 

それでも、今はまだ言わないと決めた。

 

その代わり、自分が選んだ範囲を守り、秘密を抱えることで周囲へ余計な危険を増やさないようにする。

 

帰宅して夕食と宿題、風呂まで終えると、薫はいつものように秋江へ短い能力練習をしていいか確認した。

 

今日あんな説明を聞いた直後だからか、秋江は一瞬だけリミッターへ視線を向けたものの、決めた条件を守るなら構わないと普段通りに答えた。

 

自室へ戻り、机の上へ二つの紙玉を置いたところで、薫はすぐ能力を使わず、少しだけその場で動きを止めた。

 

公園の景石。

 

画面へ表示されていた数字。

 

誰にも見られていないと思っていた二年前の力が、本人の知らない場所へ残り続けていたという事実を思い出すと、能力を使うことそのものへ一瞬だけ慎重になりすぎそうになる。

 

しかし、今から行うことはあの時とは全く違う。

 

リミッターを着けたまま、落ちても何も壊さない紙を使い、家族も知っている場所で短い時間だけ精度を練習する。

 

今まで自分で決めてきた条件を全部守っている以上、過去の失敗を理由に安全な訓練まで捨てる必要はなかった。

 

薫は右と左の紙玉へ意識を伸ばし、二つを机から少しだけ浮かせたうえで、一方を固定しながらもう一方だけをゆっくり横へ動かした。

 

固定側がわずかに揺れたところで動かしていた方を一度停止させ、支える力をほんの少し修正し、安定を確認してからもう一度進める。

 

大きな力は必要なく、必要な方向へ必要な量だけ加えれば、二つの紙玉は別々の場所へ静かに収まっていく。

 

公園で残した数字がどれほど大きな出力を出したかを示すものなら、今磨いているのは、どれほど小さな力を正確に置けるかという全く別の能力だった。

 

どちらも自分の念動力であり、片方だけが本物というわけではない。

 

景石を動かした大出力も確かに自分の一部だが、今こうして小さな力を止め、分け、修正できるようになったことも、同じくらい自分で積み重ねたものだった。

 

過去の数字に怯えて現在の能力まで縮こまらせる必要はなく、むしろ二度と同じ失敗をしないためにも、安全な範囲で使い方を学び続ける方がいい。

 

薫は時計を確認し、約束した時間より少し早いところで練習を終えると、二つの紙玉を手で拾って引き出しへ戻した。

 

その動作の間に、限界を知るためだけの高出力は使わないことと、人命がかかった時には秘密より助けることを優先するという二つの条件を、改めて自分の中へ残した。

 

数日後の訓練では、担当職員が最近の記録を確認しながら、二物体操作の精度が少しずつ安定してきていると評価した。

 

出力そのものは登録されている超度4の範囲から変わっていないが、停止や微調整、異常を感じた時に無理をせず中断できる点について、特に良い記録が続いているらしい。

 

「明石さん、ちょっと興味あるか聞いていい?」

 

「何?」

 

担当職員は一枚の案内資料を取り出し、見学していた秋江にも読める向きで机へ置いた。

 

「登録している子ども向けに、能力者が外でどう仕事をしてるか見る見学プログラムがあるんだ。今度、低危険度の支援現場へ行く予定があるんだけど」

 

「外へ行くの?」

 

「もちろん仕事をさせるわけじゃないよ。職員と一緒に安全区域から見るだけで、状況が変わったらすぐ撤退する決まりになってる」

 

秋江は資料を手に取り、日程だけではなく、同行する職員の人数や安全区域、途中で体調が悪くなった場合の対応まで一つずつ確認していった。

 

その様子を見ても、子どもを現場へ出すことが軽く決められるものではなく、保護者の同意と複数の安全条件を満たしたうえで初めて参加できる制度だと分かる。

 

「どうして薫なんですか?」

 

秋江の問いへ、担当職員は薫の訓練記録を見ながら答えた。

 

「最近、指示を守って訓練できていますし、力を止める判断もかなり安定しています。外へ出ても勝手に能力を使わず、安全指示を聞ける段階だと思ったからです」

 

その理由を聞いて、薫は胸の中へ少しだけ妙な可笑しさが込み上げるのを感じた。

 

数日前には、自分が二年前に残した高出力の記録をこの組織が調べていることを知り、正体へ繋がる可能性があるのではないかと警戒していた。

 

ところが今は、同じ組織から超度4として安全に力を扱えることを評価され、施設の外を見せても問題のない子どもだと判断されている。

 

どちらも嘘ではない。

 

公園で使った力が本当であるのと同じように、今評価されている停止の技術も、複数操作の精度も、危険を感じた時に止める判断も、自分で練習して身につけた本物だった。

 

本当の出力を隠しているからといって、今見せている明石薫まで全部作り物になるわけではないのだと、その評価を聞いて改めて思う。

 

「薫はどうしたい?」

 

秋江が案内資料から顔を上げて尋ねた。

 

薫は少し考え、未来の事件を探るためでも、何かを変えるためでもなく、能力者が実際の現場でどう働いているのか純粋に見てみたいと思った。

 

「行ってみたい」

 

「じゃあ、資料ちゃんと読んでから決めようね」

 

「おう」

 

その場で参加が即決されず、資料を持ち帰って家庭で改めて確認してから申し込むことになったのも、今の薫にはむしろ安心できる進め方だった。

 

低危険度の見学なら大きな問題は起きないだろうと思いつつ、自分が今まで訓練室でしか見てこなかった能力者の仕事を知れることには、少しだけ期待も生まれている。

 

その夜、机の上には学校へ提出する宿題と、持ち帰った現場見学の案内、それから腕に着けたままのリミッターが同時に存在していた。

 

普通の小学一年生として明日提出するプリントがあり、登録された超度4として参加するかもしれない見学資料があり、そのどちらにも書かれていない本来の出力だけが、自分の中に残っている。

 

二年前に動かした景石は、今なら同じ力を使えば元の位置へ戻すことくらいできるのかもしれないが、あの日センサーへ刻まれた数字までは戻せない。

 

一度起きたことを消せないのなら、無理に過去を消そうとするより、これ以上余計な痕跡を増やさず、その先へ何を積み上げるかを選ぶ方が現実的だった。

 

薫は見学案内を閉じると、机の端へ置いていた二つの紙玉へ念動力を伸ばし、一方を奥へ、もう一方を手前へ、それぞれ違う軌道でゆっくり動かした。

 

途中でどちらも大きく揺れることなく目的の場所へ着き、最後には机へほとんど音も立てず静かに下りたため、薫は少しだけ満足してから能力を解いた。

 

昔残した大きすぎる数字を消すことはできなくても、その数字だけでこれからの自分まで決まるわけではない。

何を隠し、何を見せ、どんな力の使い方を積み重ねていくのか、その先に残るものだけは、まだ自分の選択で変えていける余地が十分に残っていた。

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