彼女達の未来のために 作:おっさんとチルドレン
見学当日の朝、薫が着替えを終えて居間へ下りると、テーブルの上には秋江が用意した飲み物やハンカチ、それから前日に確認した案内資料まで綺麗に並べられていた。
学校へ行く時より荷物は少ないはずなのに、秋江は緊急連絡先や集合時間まで一つずつ確かめており、娘を初めて施設外の活動へ参加させることに、普段以上の緊張を感じているらしい。
「リミッターは?」
「着けてるって」
「飲み物は?」
「そこにある」
「今日は何するんだっけ?」
「能力者が仕事してんのを見るだけ。勝手にどっか行かねーし、言われない限り能力も使わない」
先回りして答えると、秋江はようやく満足したように頷いたものの、最後にはもう一度「本当に見るだけだからね」と念を押してきた。
薫自身も今日は何かをするつもりなどなく、能力者が実際の現場でどんな働き方をしているのか見たいと思っただけなので、母親の心配を鬱陶しいとは感じなかった。
「分かってるって。あたしだって仕事しに行くわけじゃねーよ」
「それならいいけど、薫は何かあると自分でやろうとするから」
「そんなことねーだろ」
反射的に言い返したものの、全く心当たりがないとは言えず、薫はそれ以上反論する代わりに自分の荷物を持ち上げた。
秋江も追及はせず、玄関で靴を履く娘の腕にリミッターがあることをもう一度だけ確かめてから、一緒にB.A.B.E.L.の施設へ向かった。
施設へ到着すると、今回の見学には薫以外にも登録児童が二人参加しており、それぞれ保護者と並んで事前説明を受けていた。
能力の種類も年齢も違うらしく、薫は特別話しかけることはしなかったが、子ども一人ごとに担当職員が決められている様子からも、安全管理はかなり細かく組まれていることが分かる。
現地へ向かう前には改めて説明があり、見学区域から勝手に出ないこと、職員の指示なしに能力を使わないこと、警報や撤退指示が出た場合には理由を聞くより先に担当者へ従うことが伝えられた。
何があっても能力を使うなと一律に禁止するのではなく、状況が変わった場合には大人の判断を優先するという決め方になっている辺りは、普通の校外活動とは少し違っている。
「今日は安全が確認された範囲だけを見学しますが、現場なので予定が変わる場合があります。その時は職員の指示を最優先にしてください」
説明役の職員がそう言うと、子どもたちだけでなく同行する保護者たちも真剣な顔で頷き、最後に緊急時の集合場所まで確認してから移動が始まった。
秋江は現場近くに設けられる保護者用の待機区域まで同行する予定であり、実際の作業区域へ近づくのは薫たち登録児童と担当職員だけになっている。
送迎車の中では、能力者が施設外で仕事をする際の基本的な役割について説明が続き、薫も窓の外を眺めながら耳を傾けていた。
超能力者がいるからといって何でも能力だけで解決するわけではなく、普通の作業員や技術者、場合によっては消防や行政とも連携しながら仕事をするのが基本だという。
「でかい物なら、サイコキノが全部どかした方が早くね?」
薫が尋ねると、担当職員は少し笑いながら首を横へ振った。
「動かしていい物ならね。でも建物みたいに色んなものが繋がってる場所だと、一個だけ強く引っ張ったせいで別の場所が壊れることもあるんだ」
その説明を聞いた瞬間、薫の頭には最近自宅で練習している二つの紙玉が浮かび、一つを動かした時にもう一つまで引っ張られる失敗を何度もしたことを思い出した。
力が強ければ解決するとは限らず、どこへどの程度の力を加えるか理解できていなければ、強さそのものが余計な問題を生むこともあるのだろう。
到着したのは、長く使用されていた公共施設の一部を撤去しながら補修する作業現場で、建物の周囲には立入禁止の柵と安全表示が何重にも設けられていた。
ヘルメットをかぶった作業員や技術者が行き交う光景を見ると、特別派手な場所ではないにもかかわらず、自分が本当に大人の仕事場へ来たのだという実感が湧いてくる。
薫たちが案内されたのは、実際の作業区域から十分な距離を取った見学用スペースで、床にはここから先へ出ないよう明確な線まで引かれていた。
担当職員から改めて勝手に近づかないよう注意され、薫も素直に頷いてから、柵の向こうで始まっている作業へ視線を向ける。
そこで働くサイコキノは、薫が想像していたよりずっと地味な能力の使い方をしていた。
古い金属パネルを一枚だけ数センチ浮かせ、その状態を保ったまま作業員が固定具を外し、全て外れたという合図が出てから初めてゆっくり移動させる。
別の場所では少し傾いた構造材を能力者が支えている間に技術者が補助材を取り付けており、どちらも大きな力で一気に片づけるような作業ではなかった。
「もっとバーンって動かすのかと思った」
思わず漏れた言葉を聞き、隣にいた担当職員が楽しそうに笑った。
「やっぱり大きいのが飛んだ方が面白い?」
「そりゃ、でけーの浮いたらちょっとは『おお』ってなるだろ」
「でも実際の仕事だと、派手に動かさない方が上手いことも多いんだよ」
ちょうどその時、現場の能力者が一枚の板材を少しだけ持ち上げ、作業員から「もう少し右」と指示されるたびに数センチずつ位置を調整していた。
薫にはその動きが、自宅で行っている紙玉の練習をそのまま大きな規模へ置き換えたように見え、以前より作業の意味を想像しやすかった。
強く引けば早く動かせるとしても、周囲がどう繋がっているか分からない場所では、その力が別の部分へ余計な負担を生む可能性がある。
だから一度動かしたら止め、周囲を確認し、必要な分だけ次の力を加えるという繰り返しが、現場では能力の強さ以上に大切なのだろう。
「能力あるだけじゃ仕事になんねーんだな」
薫が何気なく呟くと、担当職員は少し意外そうな表情を見せたあと、満足そうに頷いた。
「そうだね。そこに気づいてもらえるなら、見学に来てもらった意味はあるかな」
作業をしばらく眺めているうちに、薫は能力者が力を使っている時間より、何も動かさず周囲の確認を待っている時間の方が長いことにも気づいた。
以前なら退屈だと感じていたかもしれないが、今では止まっている時間にも意味があると理解できるため、何を確認してから次へ進んでいるのかを見る方が面白く感じられる。
やがて、建物の奥側で古い壁材を撤去する作業が始まり、周囲の固定状況を確認したうえで、能力者が上側を軽く支えながら作業員が接合部を外していった。
薫たちのいる場所からはかなり距離があり、手順も事前に確認されているらしく、少なくとも見ている限りでは危険な様子は感じられなかった。
最初に異変へ気づいたのは、作業区域にいた技術者だった。
乾いた金属音が一度響いた直後、壁の内側から細かなコンクリート片が床へ落ち、近くにいた作業員の一人がすぐ手を上げた。
「一旦止めます!」
その声が飛んだ瞬間、能力者も動きを止め、工具を持っていた作業員たちも一斉に手を離した。
薫の隣にいた職員もすぐに姿勢を変え、見学児童をさらに後ろへ移動させるため、決められていた通り落ち着いた声で指示を出す。
「みんな、一度後ろへ移動するよ。急がなくていいから、こっちへ来て」
誰も事故が起きてから慌てたわけではなく、小さな異常を確認した段階で作業そのものが止められていた。
薫も他の子どもたちと一緒に後方へ移動しながら、現場では技術者が安全な位置から壁の内部を確認する機材を向けているのを見ていた。
その途中でもう一度、今度は金属同士が擦れるような低く長い音が聞こえた。
撤去途中だった壁材が数センチほど斜めへ動いた瞬間、現場主任の鋭い声が作業区域へ響く。
「離れろ!」
近くにいた作業員たちはすぐ安全側へ移動したものの、壁際で確認していた一人が床へ落ちた破片を避けようとして足を取られ、その場へ転倒した。
立ち上がろうとした直後、壁内部の別の接合部まで外れ、斜めになった長い構造材が床側へ大きく沈み込んでいく。
完全に床へ倒れ込む前に別の部材へ引っかかったため、転倒した男性を直接押し潰すことだけは避けられた。
しかし男性の足元は複数の瓦礫に塞がれ、その上にはさらに別の部材が乗りかかっており、今支えている箇所がずれれば一気に崩れる危険な状態になっていた。
現場の大人たちは、その状況を見ても止まらなかった。
「全員、指定区域まで退避!」
「救助班、こっち!」
「主構造を支えます!」
成人のサイコキノが最も大きな梁へ念動力をかけ、それ以上沈み込まないよう支え始める一方で、別の職員は倒れた男性へ声をかけて意識を確認していた。
技術者たちもどこから補助材や救助機材を入れられるか確認し始めており、誰かが呆然として判断を止めているような様子はない。
薫も担当職員に促され、他の子どもたちと同じようにさらに後ろの安全位置まで移動した。
本来なら、そこにいればよかった。
大人が助けるために動いている以上、六歳の自分が勝手に入り込めば、救助する側の仕事まで増やすだけになる。
それでも薫の視線は、倒れた男性そのものではなく、そのすぐ横に積み重なった小さな瓦礫へ向いていた。
斜めになった長い部材の下では、小さなコンクリート片が重さを受けながら、ほんのわずかずつ横へ滑っている。
成人能力者が支えているのは最も重い主構造であり、そちらから意識や力を割けば全体が崩れる可能性があるため、細かな部分まで同時に処理する余裕はないように見えた。
もう一人の職員も救助用の空間を作るため別の場所へ力を使っており、誰かが見落としているというより、単純に使える手が足りていない。
薫は建築構造の計算などできなかったが、念動力で物体を扱ってきた感覚から、どの部分が動き始め、どちらへ力が逃げようとしているかだけは何となく読み取れた。
全部を持ち上げる必要はない。
むしろ、全部へ大きな力をかければ、今ぎりぎり噛み合っている支点まで外してしまう可能性がある。
必要なのは、滑り始めている部分をほんの少し戻し、上に乗った部材が回転しない程度に別の方向から支えることだけだった。
薫はまず、自分が気づいた危険を大人へ伝えるために声を上げた。
「あそこ、動いてる!」
担当職員がすぐに振り返る。
「どこ?」
「あの人の横! 下の小さいやつが、ちょっとずつ右に滑ってる!」
職員が視線を向けた直後、小さな破片がまた数ミリほど動き、それに合わせて上の部材から低い軋み音が鳴った。
現場側の職員も異変へ気づき、救助機材を入れようとしていた作業員へ、いったん動きを止めるよう指示が飛ぶ。
薫は自分の腕にあるリミッターを一度だけ見た。
外す必要があるかを考えるより先に、今の状態で何ができるかを考えた。
瓦礫全体を浮かせるほどの出力は、現在見せている能力では使えないし、そもそもそんなことをすれば構造そのものを崩す危険がある。
しかし横へ滑っている小さな破片を数センチ押し戻すだけなら、リミッターを着けた状態でも届く可能性は十分にあった。
「ねえ!」
薫は担当職員の袖を掴み、現場を指さした。
「あたし、あそこだけなら止められるかも!」
「薫ちゃん?」
「全部持つんじゃねーよ。滑ってるとこだけ戻して、上のやつが回んないようにすれば、ちょっとはもつだろ!」
担当職員は一瞬だけ薫と現場を見比べ、六歳の子どもへ能力を使わせることの危険と、今崩れ始めている支点の状況を同時に判断しているようだった。
その間にも小さな破片はまたわずかに動き、上の構造材が低い音を立てたことで、職員の表情が決まる。
「安全区域から絶対に出ないで! 無理だと思ったらすぐ離して、持ち上げようとせず止めるだけにして!」
「分かった!」
許可を得た薫はその場から一歩も動かず、滑っている小さな破片へ意識を伸ばした。
リミッター越しの念動力が対象へ触れると、紙玉とは比較にならない重さが返ってきたものの、その上に乗っている全重量を自分で受け止める必要はない。
今まさに横へ動こうとしている力だけへ反対方向の小さな力を加えればよいと考え、薫は焦らず少しずつ押し返していく。
数センチも動かさないうちに、破片の滑りが止まった。
「止まった!」
担当職員の声が上がったものの、それで終わったわけではなく、下側の破片が止まったことで、今度は上に乗っていた斜めの部材が自重によってわずかに回転し始めている。
薫は最初の破片へかけた力を完全に抜かず、その位置を保つ感覚だけ残しながら、二つ目の部材へ別方向の念動力を伸ばした。
自宅で練習してきた二物体操作と同じように、一方をその場へ保ちながら、もう一方だけへ回転を止めるための小さな力を加える
リミッターによる出力上限がある以上、余裕のある操作ではなかったが、重量全てを支えているわけではないため、必要な二点だけならどうにか維持できた。
額へ汗が浮かび、普段より早く集中力が削られていく。
それでも薫は、力を増やすのではなく、必要な場所へ置いている力がずれていないかを意識し続けた。
「そこ支えてるの誰だ!」
現場で主梁を支えていた成人能力者がこちらへ気づき、担当職員が薫だと答えると、一瞬だけ驚いた表情を見せたものの、すぐ救助側へ声を飛ばした。
「今なら補助材を入れられる! 急いで!」
二人の作業員が低い姿勢で救助用の補助具を運び、別の職員が安全な位置から小型ジャッキを差し込んでいく。
薫は大人たちの動きを追う余裕を持とうとはせず、最初の支点を保ちながら、二つ目の部材が回転しないことだけへ集中を絞った。
救助機材が床へ触れた振動で、さらに奥にあった小さな瓦礫がわずかに沈み、その瞬間だけ二つ目の部材へ加わる力の方向が変化した。
三つを自由に同時操作することはまだできないため、薫は最初の二点を一瞬だけ固定状態として残し、奥の破片へ短い修正を加えてからすぐ元の二点へ意識を戻した。
動いた破片は数センチだけ横へずれ、より広い床面へ噛み込むことで、それ以上沈み込む動きが止まった。
薫はすぐ最初の支点へ意識を戻し、わずかに揺れた部分へ小さな修正を加えながら、二つ目の部材の位置も確認する。
全部を同時に完璧へ合わせようとはせず、一か所を保ち、もう一か所を直し、必要な時だけ短く別の場所へ触れて戻るという方法なら、今の自分にも続けられた。
机の上で紙玉を動かしていた時と、やっていること自体は変わらない。
ただし今は、失敗すれば人が死ぬかもしれない。
その事実が集中を鋭くする一方で、身体には普段とは比べものにならない緊張を与えていた。
「薫ちゃん、呼吸して!」
担当職員の声で、自分が息を浅くしていたことへ気づき、薫は意識的に一度大きく吸った。
「してる!」
「今してなかったよ!」
思わず言い返す余裕が残っていることに、自分でもほんの少し安心した。
「ジャッキ入った!」
現場から声が飛び、薫が支えている斜めの部材の下へ補助支持が入り始める。
「右側、そのまま保てる?」
「いける!」
「左を少しだけ抜いて! 一気に離さないで!」
薫は指示に従い、一方へかけていた力を少しずつ弱めながら、補助材へ荷重が移っていく感覚を確認した。
急に能力を解除すれば支点へかかる力が変化する可能性があるため、完全に任せられる状態になるまで焦らず少しずつ力を減らしていく。
「もう少し抜いていい!」
さらに力を弱めると、補助材がその分を受けても構造は動かなかった。
「よし、左は離して!」
薫は一方の能力を完全に解除し、残った支点だけへ集中を集めた。
二点を同時に維持していた時より少し楽になったものの、すでに額からは汗が流れ、頭の奥には重い疲労感が溜まっている。
それでも男性がまだ瓦礫の近くにいる以上、最後の支点だけは勝手に離さず、大人から指示が出るまで同じ位置を保ち続けた。
「作業員、引き出します!」
足元の破片が取り除かれ、二人の大人が倒れていた男性の両脇へ入り、その身体を安全側へ引き始める。
薫は持ち上げようとはせず、位置を変えようともせず、今の場所へ留めることだけを続けた。
「抜けた!」
その声が聞こえ、男性の身体が瓦礫の下から完全に離れたことを確認した直後、現場職員から薫へ指示が飛ぶ。
「明石さん、もう離していい!」
言われた瞬間、薫は能力を解除した。
自分が支えていた箇所はすでに補助材と成人能力者の念動力へ完全に引き継がれており、薫が手放しても構造が動く様子はなかった。
救助が終わったからと自分の判断で長く能力を残せば、逆に大人側の荷重確認を邪魔する可能性もあるため、終わりの指示まで含めて従うことが必要だったのだろう。
能力を解いた途端、薫の足から一気に力が抜け、座り込みそうになった身体を担当職員が肩を掴んで支えた。
「薫ちゃん、大丈夫?」
「あたしはいい。あの人は?」
自分でも分かるほど声が少し震えていた。
「意識はあるよ。足を打ってるけど、今のところ大きな怪我はなさそう」
「ほんと?」
「うん。これからちゃんと診てもらうから大丈夫」
その言葉を聞いて初めて、薫は肺に残っていた空気を大きく吐き出し、能力を使っている間には感じなかった震えが両手へ広がっていくのを感じた。
出力を使いすぎたというより、人間が自分の目の前で押し潰されるかもしれない状況を見た緊張が、終わってからまとめて身体へ戻ってきたのだろう。
「手、震えてるよ」
担当職員が薫の前へしゃがみ込み、無理に止めようとしなくていいと声をかけた。
「……止まんねー」
「怖かったからだよ。今はそれでいい」
その言葉を聞くまで、薫は自分が何を感じているのか、うまく言葉へできていなかった。
怖かったのだ。
助けられなかったらどうなるのか、自分の支え方が間違っていたらどうなるのか、途中で構造が崩れたらどうなるのかと考える余裕はなかったのに、終わった途端に全部が押し寄せてきた。
担当職員からもう大丈夫だと繰り返され、薫は目を閉じながら何度か深く呼吸し、ようやく身体の震えが少しずつ弱くなっていくのを待った。
事故現場の安全確認が終わり、見学区域そのものが完全に閉鎖されたあと、保護者待機場所にいた秋江が職員と一緒に薫のところへやってきた。
途中で事故の説明を受けていたらしく、娘の姿を見つけた瞬間には普段の余裕が消え、そのまま強く抱きしめられる。
「薫!」
「母さん、苦しい」
「怪我してない?」
「してねーよ」
「本当に?」
「ほんとだって」
普段なら恥ずかしがって早く離れようとしたかもしれないが、まだ身体の奥に震えが残っていたため、薫はしばらくそのまま秋江へ体重を預けた。
娘を抱きしめる腕に自分以上の緊張が残っていることへ気づき、秋江も待機区域で何もできないまま事故の説明を聞いていたのだと遅れて理解する。
「薫が怪我したらどうするの」
秋江の声は怒っているというより、明らかに怖がっていた。
薫は言い訳をせず、小さく「ごめん」とだけ返した。
すると担当職員が横から、薫が危険区域へ飛び込んだわけではなく、安全区域から状況を知らせたうえで、職員の許可を受けて能力を使ったことを説明した。
瓦礫を持ち上げたのではなく、崩れかけていた部分だけを支えたことで救助までの時間を作れたのだと聞き、秋江はしばらく何も言わず事故現場の方向へ視線を向けた。
「……助かったんですよね?」
「はい。現在は医療スタッフが確認しています」
「薫が勝手に飛び出したわけでもない?」
「それはありません。こちらから安全区域を離れないよう指示したうえで、使用を許可しました」
そこまで聞いて、秋江の肩からようやく少しだけ力が抜けた。
それでも助けられたから全て正しかったという話にはせず、家へ帰ったら改めて話そうと言われたため、薫も反発せず素直に頷いた。
結果が良かったことと、母親が自分を心配したことは別の話であり、その二つを一緒にしてしまわない方がいいことくらいは今の薫にも分かる。
事故後の簡単な聞き取りでは、現場職員から最初に何が危険だと思ったのか尋ねられた。
「下の破片が横に滑ってた」
「それで、上の部材も動くと思った?」
「うん。下がずれたら上の斜めのやつも回りそうだったから、下を戻して、上は回んないように押した」
「全部持ち上げようとは思わなかった?」
「全部持ったら無理だろ。それに変に浮かしたら、もっと別のとこ崩れんじゃん」
そこまで答えた時、質問していた職員の表情がほんの少し変わった。
「誰かに、そういう支え方を教わった?」
「教わってねーよ。二個同時に動かす練習してたから、その感じでやっただけ」
実際に嘘は言っておらず、薫が使ったのは自宅や訓練室で何度も繰り返してきた操作の延長でしかない。
一方を固定しながら別の場所へ小さな修正を加え、状態が崩れそうなら一度止めてから立て直すという方法を、たまたま実際の瓦礫へ応用しただけだった。
「そうか……」
職員が記録へ何かを書き込みながら考える様子を見て、薫はそこで初めて別の意味で嫌な予感を覚えた。
本当の出力は使っていない。
リミッターも外していない。
観測された数字だけを見れば、公称超度4の範囲から大きく外れてはいないはずだった。
しかし六歳児が事故現場で、どの部分へ力を加えれば崩落を遅らせられるかを即座に判断し、二か所を支えながら必要な瞬間だけ別の破片へ修正を入れた。
出力を隠すことばかり考えていた薫は、使い方そのものが年齢に対して不自然に見える可能性を、実際に職員の顔を見るまで十分に考えていなかった。
少し目立ったかもしれない。
そう思っても、後悔はなかった。
少し離れたところでは、救助された男性が担架の上で医療スタッフと会話しており、意識があることはここからでも確認できる。
もし同じ状況へもう一度戻ったとしても、目立ちたくないという理由だけで黙って見ている選択を、自分ができるとは思えなかった。
そしてもう一つ、薫の中には予想していなかった感覚が生まれていた。
本当の力を使わなかったことへの安心より、今まで人へ見せてもいい範囲で磨いてきた技術だけでも、一人の人間を助ける役に立てたことの方がずっと大きかった。
超度7相当の力を解放しなければ何も守れないわけではなく、公称超度4として積み重ねてきた停止や分散、微調整にも、ちゃんと人を救える価値があった。
最初は本当の自分を隠すために選んだ数字だった。
けれど、その数字の中で身につけた技術まで偽物ではない。
その事実を、今日ほどはっきり感じたことはなかった。
帰りの車では、事故直後の緊張が抜けたせいか身体全体が重く、薫は窓側へ少し寄りながら、ほとんど話さず流れていく景色を眺めていた。
隣に座った秋江もすぐ説教を始めることはなく、娘が落ち着くまで待つつもりらしく、しばらくは車が走る音だけが二人の間に続いていた。
「薫」
「ん?」
「怖くなかった?」
その質問を聞いた薫は、すぐには答えなかった。
前の人生なら、大丈夫だったとか問題ないとか言って、家族を安心させる側に回っていたかもしれない。
しかし今の自分は六歳で、隣には心配している母親がいて、何でも平気なふりを続ける必要が本当にあるのかと考えると、答えは思ったより簡単だった。
「……怖かった」
薫が小さく答えると、秋江は意外そうな顔をすることもなく、そっと娘の肩を抱いた。
「だったら、怖かったって言っていいんだからね」
「うん」
「助けたことはすごいと思う。でも、薫まで危なくなっていいとは思わないから」
「それも分かってる。今日は勝手に行ってねーし、できると思ったから言ったけど、絶対大丈夫だったとは言えねーし」
自分で口にしてみると、事故の最中には考える余裕のなかった危険が少しずつ形になっていく。
支えていた破片が想像と違う方向へ動いた可能性もあり、自分の集中が一瞬切れれば崩落が早まったかもしれない以上、結果が良かったから安全だったことにはならない。
「だから、次も何かあったらちゃんと大人に言う。勝手にはやらない」
秋江はしばらく薫の顔を見つめていたが、やがて少しだけ安心したように頷いた。
その日の夜、薫はいつもの能力練習をしなかった。
机の端には二つの紙玉が残っており、普段なら短い時間だけでも動かしたくなるところだったが、今日は身体だけでなく頭も明らかに疲れている。
その紙玉を使って覚えた技術が実際の救助へ繋がったからこそ、練習することと休むことの両方が必要なのだと、今なら素直に判断できた。
薫は紙玉へ手を伸ばす代わりに、そのままベッドへ腰を下ろした。
誰にも見られていなかった夜の練習で、一方を固定しながらもう一方を動かし、失敗すれば一度止めて小さく修正することを何度も繰り返してきた。
机の上では何の役に立つのか分からなかった小さな積み重ねが、今日は作業員を瓦礫から引き出すまでの短い時間を作るために、そのまま使われた。
景石を浮かせた時のような大きな力ではない。
周囲が驚くほど派手な動きでもない。
ほんの少し、落ちようとしている場所へ逆向きの力を置き、今の状態を保っただけだった。
それでも、その短い時間があったから一人の人間が助かった。
薫は布団へ入りながら、担架の上で会話していた男性の姿を思い出し、胸の中に残っていた硬いものがようやく少しずつ解けていくのを感じた。
本当の出力を隠している自分と、公称超度4として訓練している自分を別々に考えていた頃より、今はその二つが少しだけ近づいたように思える。
隠している大きな力だけが、自分の強さではない。
今、人へ見せている力にも、守れるものがある。
その日の見学は、本当に能力者の仕事を見て帰るだけの予定だった。
予定通りには終わらなかったものの、そのおかげで薫は能力者が現場でどう働くのかを見るだけではなく、自分がこれからどんなふうに力を使いたいのかまで、少しだけ知ることになった。
数日後、いつもの訓練施設へ行くと、担当職員が記録端末を見ながら、どこか困ったような笑顔で薫を迎えた。
「この前の件なんだけど、薫ちゃんの訓練記録を少し詳しく見直すことになったよ」
「なんで?」
反射的に尋ねると、職員は悪い意味ではないとすぐ付け加えた。
「むしろ逆だよ。超度4でも、使い方次第であそこまで現場に役立てるんだって、みんなかなり驚いてる」
その言葉を聞いた薫は、本当の出力を見せなかったことへ安心するより先に、別のところで目立ってしまった可能性へ気づき、何とも言えない顔で記録端末を見つめた。
強さを隠しておけば目立たずに済むと思っていた自分にとって、今度は強さ以外の部分が注目され始めたという事実の方が、むしろ扱いの難しい問題になりそうだった。