彼女達の未来のために 作:おっさんとチルドレン
事故から数日が経つと、六條院小学校での生活は何事もなかったように続き、薫も朝になればランドセルを背負って普段通り教室へ向かっていた。
東野も千里も施設外見学で事故があったことまでは知らず、薫がいつものように席へ着けば、昨日の遊びや宿題の話を始めるだけだった。
その変わらなさは、薫にとって少しありがたかった。
目の前で作業員が瓦礫へ巻き込まれかけた光景はまだ鮮明に残っているものの、物が倒れるたびに怯えるほどではなく、学校生活へ支障が出るような状態でもない。
ただ、教室の棚や机が少し傾いていると、以前より先にどこへ重さが乗っているかを確認するようになり、あの事故が自分の物の見方へ小さな癖として残っていることには気づいていた。
掃除の時間になると、東野が一人で机の片側だけを持ち上げ、そのまま無理に移動させようとして脚を床へ引っかけた。
「おい、そっちだけ上げんなよ。傾いてんじゃん」
「分かってる!」
「分かってんなら反対も持てって」
薫が反対側を掴むと、東野は少し不満そうな顔をしながらも素直に力を合わせ、二人で机を教室の後ろへ運んでいく。
途中ですれ違った千里が「一人で持てたんじゃなかったの?」と笑うと、東野はすぐ反論を始め、薫も自然とそのやり取りへ加わった。
事故の時には瓦礫の荷重をどう逃がすか必死に考えていたのに、今日は同じようなことを教室の机で話していると思うと、少しだけ可笑しくなる。
それでも今日の放課後にはB.A.B.E.L.で事故時の記録について話があるため、表面では普段通りにしていても、胸の奥にはわずかな緊張が残っていた。
担当職員からは、能力使用時の記録を確認したので、次の訓練日に本人と保護者へ簡単な説明をしたいと伝えられている。
高出力を使っていないことは自分でも分かっているが、現場の観測機器が何をどこまで記録していたのかまでは知らないため、追加検査の可能性を完全には捨てきれなかった。
ただ、まだ起きてもいないことを学校で考え続けても仕方がない。
薫は掃除を終えた机を元の位置へ戻し、東野たちと帰りの支度を始めた。
放課後、秋江と一緒に施設へ着くと、すぐ説明室へ案内されるのではなく、いつもの訓練を先に行うことになった。
普段通りの流れだったことに少し安心したものの、訓練室へ入った瞬間、担当職員がいつもより詳しい記録画面を開いていることにはすぐ気づいた。
「今日は二個操作の続きね」
「いつもと同じ?」
「基本は同じ。ただ、この前のこともあるから、操作の仕方を少し細かく見させてもらうよ」
「ふーん」
平然と返事をしながら、薫は床へ置かれた二つの訓練物へ視線を向けた。
普段なら指定された位置へ動かせているか、出力がどの程度かといった結果を中心に記録されている。
しかし今日は、視線をどちらへ向けるか、片方が揺れた時にどちらを先に安定させるか、修正まで何秒かかるかまで細かく確認しているようだった。
どうやら、見られているのは出力だけではないらしい。
そのことへ気づいた瞬間、薫の中には少しだけ昔の癖が戻り、わざと一度失敗したり、反応を遅らせたりすれば評価を抑えられるのではないかという考えが浮かんだ。
しかし、今まで普通にできていたことを突然できないふりへ変えれば、その変化自体が不自然に見える可能性があり、積み重ねた訓練記録とも噛み合わなくなる。
なら、今までと同じでいい。
本来の出力だけは抑えたまま、すでに見せている技術については自然に使えばいいと判断し、薫は二つの物体へ念動力を伸ばした。
一方をその場へ固定しながら、もう一方だけをゆっくり横へ動かし、固定していた側がわずかに揺れたところで移動側を一度停止させる。
その状態から先に固定側を立て直し、安定したことを確認してから再び動かすという最近身につけた手順を、普段と変わらない速度で繰り返した。
「前より止めるの早くなったね」
担当職員が画面を見ながら呟く。
「揺れたまま続けると、余計めんどくせーから」
「そこなんだよね」
「何が?」
「あとで話すよ」
少し引っかかる答えだったものの、訓練中に余計なことを考えて失敗する方が目立つため、薫はそれ以上聞かず目の前の操作へ集中した。
一時間ほどで通常訓練が終わると、今度は秋江と一緒に小さな評価室へ案内された。
中には普段の担当職員だけでなく、事故当日に同行していた現場担当者、能力測定担当、安全管理担当もいたが、大勢の上役に囲まれるような堅苦しい雰囲気ではなかった。
「そんなに身構えなくて大丈夫ですよ」
現場担当者が少し笑う。
「身構えてねーし」
「そう?」
「……ちょっとしか」
正直に訂正すると、隣の秋江が小さく笑った。
最初に説明されたのは、事故に巻き込まれた作業員の状態だった。
足に軽い捻挫と打撲はあったものの骨折などの大きな怪我はなく、すでに自宅へ戻って休養しているらしい。
本人からも救助に関わった人たちへ感謝を伝えてほしいという言葉があり、その中には薫の名前も含まれていた。
「薫ちゃんにも、ありがとうって」
現場担当者からそう言われ、薫は少しだけ視線を逸らした。
「あたしだけじゃねーだろ。大人の人らが引っぱり出したんだし」
「そうだね。だから良かったんだよ」
担当職員はすぐ頷いた。
「薫ちゃん一人で助けようとせず、ちゃんとみんなで救助できた。それが一番良かった」
その整理の仕方には、薫も素直に頷けた。
自分が作ったのは崩落を遅らせるための短い時間だけであり、その間に補助材を入れ、作業員を引き出し、構造を安定させたのは現場の大人たちだった。
英雄のように扱われるより、自分も救助チームの一部分だったと考える方が、薫自身の感覚にもずっと近かった。
「それで、ここからが能力使用についての確認になります」
能力測定担当が端末を操作すると、画面へ事故当時の出力記録とリミッターのログが表示され、薫の背中へ少しだけ緊張が戻った。
「まず結論から言うと、リミッターには異常ありませんでした。解除記録もありませんし、一時的に機能が低下した形跡もありません」
そこは予想していた通りだったため、薫は胸の奥で小さく息を吐いた。
事故の最中、自分はリミッターへ触れてすらいない。
「事故時の最大出力も普段よりは高めですが、現在登録されている超度4として十分説明できる範囲です」
「じゃあ問題ねーじゃん」
薫が思わず言うと、測定担当者は少し困ったような笑顔を浮かべた。
「数字だけならね」
その言い方で、薫にはすぐ別の問題が来ることが分かった。
画面が切り替わり、今度は事故現場を上から簡略化した図が表示される。
「私たちが確認したかったのは、むしろこっちなんです」
現場担当者が図の一角を指さすと、作業員のすぐ横で滑り始めていた小さな破片が赤く表示された。
「最初に薫ちゃんが押さえたのがここです。ここが横へずれると、その上の部材が回転して二次崩落へ繋がる可能性がありました」
続いて、斜めになった長い部材の下側へ別の色が表示される。
「二つ目がここ。最初の破片を止めたあと、この部材が回転し始めたので、逆方向へ小さく力を加えています」
さらに短い時間だけ、奥にあった別の破片へ力が向いた記録も追加された。
「ここは一秒にも満たない程度ですね。三点をずっと同時に操作したわけではなく、一方をほぼ固定した状態で第三の箇所へ短い修正を入れ、そのあと元へ戻っている」
そこまで正確に記録されていたことには、薫も少し驚いた。
能力の使い方を隠したつもりはないものの、事故の最中に自分が行った操作が後からここまで細かく再現されるとは思っていなかった。
ただし記録されている内容は実際の行動と一致しており、そこに異常な出力やリミッター解除が混ざっていない以上、慌てて誤魔化す必要もなかった。
「力そのものは、正直そんなに強くありません」
現場担当者が慎重に言った瞬間、薫はすぐ眉を上げた。
「悪かったな」
「いや、悪口じゃないから」
秋江が隣で笑いを堪えているのが見え、薫はさらに不満そうな顔をした。
「じゃあ言い方考えろよ」
「ごめんごめん。でも、本当に見てほしいのはそこじゃないんだ」
現場担当者は笑いを収め、もう一度画面へ向き直った。
「普通なら、目の前で人が瓦礫へ巻き込まれた時、まず落ちてくる物を止めるか、全部持ち上げようとするか、人そのものを引っ張ろうと考えやすいんだ」
「でも全部持ったら、他んとこまで崩れるかもしれねーだろ」
薫が即座に返すと、部屋にいた大人たちが一瞬だけ黙った。
「……そう。その通りなんだよ」
現場担当者は少しゆっくりと続ける。
「薫ちゃんは重さそのものを受けるんじゃなくて、今動き始めている支点だけを止めた。それで元の構造へできるだけ荷重を残したまま、救助する時間を作ったんだ」
「滑ってたから止めただけだぞ」
「どうして、そこを止めればいいと思ったの?」
「下が右に滑ってて、その上の斜めのやつも同じ方へ動きそうだったから。全部持つより、動いてるとこだけ戻した方が楽だろ」
答えてから、薫は自分でも少しだけ嫌な予感が強くなるのを感じた。
言っていること自体は特別難しいつもりがなく、見えたものを見て、動いている方向を考え、自分が使える力で止められそうな場所を選んだだけだった。
しかし六歳の子どもが事故の最中にその判断を即座に行ったという部分だけ見れば、大人たちが引っかかる理由も理解できなくはない。
安全管理担当の職員が、手元の資料を確認しながら口を開いた。
「能力の強さというより、状況判断が年齢に対してかなり落ち着いていますね」
「落ち着いてねーよ。終わったあと手震えてたぞ」
「怖くなかったという意味ではないよ。怖い状況でも、何を先にするべきか順番を崩さなかったということ」
そう説明されると否定しづらく、薫は少しだけ口を尖らせた。
「薫って昔から、たまに妙に大人みたいなこと言うんですよ」
隣から秋江が口を挟み、薫は思わず母親を見上げた。
「母さん」
「だって本当でしょ?」
「今それ言う?」
「聞かれたら言うわよ」
完全に間違っているわけではないだけに反論もしづらく、薫は椅子の背へ少し深くもたれた。
大人たちも秋江の言葉から何か特別な秘密へ飛躍する様子はなく、もともと少し大人びた考え方をする子どもなのだろうという程度で受け止めている。
担当職員が今度はこれまでの訓練記録を画面へ表示した。
一物体を指定位置へ止める精度や、小さくずれた時に修正する速さ、二物体操作で不安定になった際に無理に続けず一度止める判断などが、時系列でまとめられている。
家庭練習でも軽い物しか使わず、時間やリミッターの条件を守っていることまで含めると、事故の時だけ突然変わったわけではないことがはっきり見えていた。
「事故の時だけ偶然うまくできたわけじゃないんです」
担当職員が説明する。
「これまでの訓練で見えていた特徴が、現場でそのまま使われたと考えています。だから一回だけの偶然という評価にはなりません」
薫は画面へ並んだ記録を見ながら、少し複雑な気持ちになった。
公園で景石を動かした時から、自分は本当の出力を知られないよう数字を抑えることばかり意識してきた。
正式な測定で超度4へ収めた時も、その後の訓練でも、最大出力さえ隠していれば普通の登録能力者として目立たず過ごせると考えていた。
けれどB.A.B.E.L.は、数字だけを記録しているわけではない。
どんな動かし方をするのか、失敗した時に何を選ぶのか、危険な状況でどこへ目を向けるのか、周囲の人間とどう連携するのかまで含め、一人の能力者として評価している。
出力を低く見せることには成功していても、自分の経験や判断まで同じように数値へ合わせて小さくできるわけではなかった。
「再測定とかすんの?」
薫は少し迷ったあと、一番気になっていたことを直接尋ねた。
能力測定担当者はすぐ首を横へ振った。
「今のところ必要ありません。事故時の出力記録もリミッターのログも普段の測定結果と矛盾していないので、超度そのものを見直す理由はないです」
「ほんと?」
「本当ですよ」
その答えを聞き、薫はようやく素直に安心した。
少なくとも、本当の出力へ近づかれたわけではない。
「ただ、別の評価については少し変わります」
安全管理担当が資料へ目を落としながら続けた。
「精密操作、状況判断、安全行動、それから周囲との連携については、これまでより高い評価になります」
「それっていいのか悪いのか、どっちだよ」
「基本的には良いことだよ」
そこで現場担当者が、少し苦笑しながら口を挟んだ。
「ただ、ある意味では出力が高い子より厄介かもしれないけど」
「誰が厄介だ!」
薫が即座に食いつくと、秋江だけでなく担当職員まで笑い始めた。
「褒めてるんだよ」
「その褒め方おかしいだろ!」
「出力が高いだけなら、どれくらいの物を動かせるかは数字からある程度予想できるんだ。でも薫ちゃんは、少ない力で予想より色んなことをするからね」
説明されてみれば、言いたいことは理解できた。
巨大な物を持ち上げられる能力者なら、その力を前提に安全距離や訓練内容を決めればよく、危険性も比較的分かりやすい。
しかし出力そのものは普通なのに、力を使う場所や組み合わせによって数値以上の結果を出す能力者は、評価する側からすると単純な数字だけで想定しにくいのだろう。
「だから厄介って言ったのか」
「そういうこと。悪い意味じゃないよ」
「やっぱ言い方は悪いけどな」
薫がまだ少し不満そうに返すと、部屋の空気はようやく軽くなった。
ただし薫の内側には、笑って終わらせられない問題も残っていた。
強さを隠しておけばいいという考え方は、完全に間違っていたわけではなく、実際に本来の最大出力はまだ知られていない。
しかし、最大出力とは関係のない判断や経験までわざと普通へ落とし込めるかと言われれば、それは全く別の問題だった。
事故現場で危険な箇所へ気づいても、六歳らしく分からないふりをし、判断を遅らせれば目立たずに済むかもしれない。
けれど、その結果として助けられたはずの人間が死ぬ可能性まで受け入れられるかと考えれば、自分にはどうしても無理だった。
ならば、隠すものを変えるしかない。
本当の最大出力については、今まで通り見せない。
普段の生活で必要もないのに大人じみた知識をひけらかすつもりもない。
しかし、今まで練習して身につけた制御や、誰かを助けるために必要な判断まで、秘密を守るためだけにわざと鈍らせることはしない。
「今後なんですけど」
担当職員の声で、薫は考えから戻った。
「登録上の超度は今まで通り4で、リミッターも同じ条件を続けます。学校生活についても変更はありません」
秋江がまず安心したように頷いた。
「そのうえで、精密操作の訓練については、少し発展させてもいいんじゃないかという話が出ています」
「発展って?」
「今までより複雑な課題を見たり、現場で使われる訓練を安全な範囲で体験したりする感じかな」
秋江の表情がすぐ少し厳しくなる。
「危ない仕事をさせる話ではないですよね?」
「もちろん違います」
担当職員は即座に否定した。
「薫ちゃんはまだ六歳です。仕事へ出すことは考えていませんし、学校生活が最優先なのも変わりません。あくまで教育として、本人の得意な部分を伸ばせる範囲を少し広げるだけです」
「それなら、内容を見てからですね」
「はい。それで大丈夫です」
その会話を聞きながら、薫は自分でも意外なほど素直に興味を覚えていた。
施設内で見られる場所や訓練内容が増えることは、未来へ備えるためにも都合がいい。
それだけではなく、事故現場で能力者が実際に働く姿を見たことで、精密操作がどんな形で人の役に立つのかをもっと知りたいという気持ちも確かに生まれていた。
評価室を出て廊下を歩きながら、薫は自分の登録情報を頭の中で思い返した。
超度4という数字そのものは変わらず、再測定もなく、リミッターも今まで通り使い続けることになった。
それなのに、その数字の周りへ積み重なる評価だけは事故前と明らかに変わっており、低い数字なら自然と見逃されるという考えが単純すぎたことを思い知らされる。
「薫ちゃん」
聞き覚えのある声に呼ばれて顔を上げると、少し先の廊下からナオミがこちらへ歩いてくるところだった。
「ナオミ」
「事故あったって聞いたけど、大丈夫だった?」
普段より少し真剣な表情で最初に身体を心配されたため、薫は軽く腕を上げて何ともないことを示した。
「もう平気だよ。怪我もしてねーし」
「よかった。助けた人も大丈夫だったんだよね?」
「打撲とかはあるけど、もう家に帰ってるって」
ナオミはそれを聞いて安心したように息を吐き、ようやく普段の表情へ戻った。
「それで、薫ちゃんまた何か変なことしたの?」
「なんだよ変なことって」
「だって職員さんたち、薫ちゃんの話してたから」
「強くしてねーのに目立ったんだよ」
薫が不満そうに言うと、ナオミは意味が分からないという顔で首を傾げた。
「目立とうと思ってやったの?」
「違うよ。人が危なかったからやっただけ」
「じゃあ、いいんじゃない?」
あまりにも簡単に返され、薫は一瞬だけ黙った。
自分としては、本当の力を隠しながら必要な場面では人を助け、そのうえ評価を上げすぎないという面倒な問題を考えている。
しかしナオミからすれば、目立つためにしたわけではなく、誰かを助けるために必要だったのなら、それ以上悩む理由がよく分からないのだろう。
「……簡単に言うなあ」
「だって難しくする必要ある?」
「あるんだよ、あたしには」
「そっか」
ナオミは無理に理由を聞こうとはせず、そのまま少しだけ笑った。
「でも、助けられてよかったね」
「それはな」
そこだけは薫も迷わず頷いた。
秘密がどう扱われるかという問題とは別に、あの作業員が無事だったことへ後悔は一つもない。
ナオミと別れ、秋江と施設を出た帰り道では、事故の日とは違って二人の会話にも普段の軽さが戻っていた。
「今日の話、どう思った?」
秋江に聞かれ、薫は少し考えてから素直な感想を返した。
「めんどくせー」
「何が?」
「強くなきゃ目立たねーと思ってたのに、上手くても目立つんだって」
秋江は一瞬きょとんとしたあと、少し笑った。
「上手なのは悪いことじゃないでしょ」
「まあな」
問題は良いか悪いかではないのだが、その事情を今ここで説明するわけにはいかず、薫はそれ以上話を広げなかった。
秋江も深追いせず、夕食を何にするかという普段の話へ切り替えたため、二人はいつもの帰り道へ自然に戻っていった。
その夜、薫は事故以来休んでいた家庭での能力練習を再開した。
机の上へいつもの紙玉を二つ置き、リミッターを確認してから軽く浮かせると、数日休んだからといって操作感覚が大きく鈍っている様子はなかった。
一方を固定しながらもう一方を横へ動かし、わずかに揺れれば一度止めて修正するという流れも、以前と同じように自然に行える。
ここで少し下手に動かし、施設でも同じ程度へ抑えれば、今後の評価を下げられる可能性はある。
しかし、自分で苦労して身につけた技術を秘密を守るためだけにわざと腐らせることを想像すると、強い違和感が残った。
何より事故現場では、その技術が作業員を助けるための時間を作っており、もう単なる偽装用の器用さとして扱うことはできない。
本当の最大出力を隠し続ける方針は変えないが、表へ見せている超度4まで弱く振る舞う必要はないのだろう。
むしろ超度4としてできることを本気で増やし、その範囲では相当に制御が上手い能力者として振る舞った方が、不自然な演技を重ねるよりずっと安定する。
秘密にしている大出力も、表へ出している精密な念動力も、どちらも明石薫が持っている力には変わりない。
片方を隠しているからといって、もう片方まで偽物として扱う必要はなく、それぞれを違う方向へ伸ばしていけばいい。
薫は二つの紙玉を別方向へゆっくり動かし、途中で一方だけを停止させながら、もう片方へ細かな修正を加えていった。
今日はわざと失敗することもなく、かといって三つ目へ手を伸ばして急激に進もうともせず、今できる二物体操作の精度だけを丁寧に高めていく。
これまで自分は、強さを低く見せれば、それだけで人の目から外れられると思っていた。
しかしB.A.B.E.L.が見ているのは単純な出力値だけではなく、どんな場面で何を選び、どう力を使い、周囲とどのように動けるかまで含めた能力者そのものだった。
そこまで完全に隠そうとすれば、自分の判断や経験まで捨てなければならず、それは普通に暮らすための偽装としてもやりすぎている。
ならば、隠せるものと隠さないものをきちんと分ければいい。
大きな力はまだ見せないまま、必要な場面で小さな力を上手く使うことまでわざと捨てない方が、自分にとっても周囲にとってもずっと自然だった。
数日後、訓練を終えて着替えようとしていた薫へ、担当職員が一枚の新しい案内票を見せた。
「薫ちゃん、今度から使える訓練区画が少し増えるかもしれないよ」
「なんで?」
「この前の評価の続き。まだ正式決定じゃないけどね」
薫は案内票へ目を落とし、そこに記された見慣れない区画番号をしばらく見つめた。
超度4という数字は何一つ変わっていないのに、その数字の中で何ができるかについての評価だけが少しずつ広がり始めている。
強さを隠すために選んだはずの超度4という立場が、いつの間にか自分自身の技術を伸ばすための、もう一つの道になり始めていた。