彼女達の未来のために 作:おっさんとチルドレン
朝、目を開けた瞬間に最初に見えたのは、昨日と同じ白い天井だった。
薫はしばらく瞬きもせずにそれを眺め、それから布団の中で右手を持ち上げた。小さい。指も短い。昨日起きたときには、その事実を確認するだけで妙に時間がかかった気がするのに、今日はそれを見ても心臓は跳ねなかった。ただ、現実が昨日から何ひとつ元へ戻っていないという事実だけが、眠気の残った頭へ静かに沈んでいく。
「……夢じゃなかったか」
口から出た声はやはり高かった。
昨日の自分なら、その声にも少なからず引っかかっていた。ところが今朝は、妙な感覚こそあっても、いちいち驚くほどではない。昨日一日だけで慣れたというより、この身体の中には最初からこの声で話してきた感覚があるのだから、むしろ驚き続ける方が難しいのかもしれなかった。
布団を蹴り退け、ベッドの縁へ移動する。今日は床までの距離を間違えない。昨日の失敗を思い出して少しだけ腰を落とし、軽く飛び降りる。
「よし」
小さく呟いてから、薫は自分で自分に呆れた。
四歳児がベッドから無事に降りただけで達成感を得てどうする。
もっとも、前の身体なら意識する必要すらなかったことが、今は何をするにも少しずつ違う。歩幅も、視界の高さも、取っ手へ手を伸ばす角度も違う。昨日はそれがいちいち気になったが、今朝は考えるより先に身体が動いていた。洗面所へ向かい、台の下から踏み台を引っ張り出し、その上へ乗る。鏡に映った寝癖だらけの少女へ顔をしかめながら、蛇口をひねった。
「……慣れるの早すぎない?」
水を手ですくい、顔へ当てる。
冷たい。
目が覚める。
タオルで顔を拭きながら、昨日考えたことを頭の片隅でなぞった。
自分は明石薫という名前の女の子らしい。母親は秋江。姉は好美。少なくともこの身体には、それまで四年ほど生きてきたらしい記憶が残っている。一方で、それとは別に男として何十年も生き、二人の子どもの父親だった記憶もある。
どちらかが夢だった、と切り捨てるには両方とも鮮明すぎた。
もっとも、昨日決めた通り、分からないものへ無理やり答えをつける気はない。原因が何であれ、今ここにいる。それだけは変えようのない事実だった。
問題は、その「ここ」がどこなのかだ。
「薫ー! いつまで顔洗ってんのー!」
廊下から秋江の声が飛んでくる。
「今行くー!」
反射的に返事をし、踏み台から降りる。
昨日、「俺」という一人称が口から出たときには妙な違和感があった。「あたし」の方はずっと馴染んだ。それなら無理に前の話し方を維持する理由もない。言葉というものは、相手と場所に合わせて変わるものだ。仕事で家族と同じ喋り方をしなかったのと大差ない、と考えれば気にするほどでもなかった。
朝食の席へ着くと、好美はすでにテレビを見ながらパンを食べていた。
画面では、色の派手な着ぐるみが何人か飛び回っている。子ども向けらしい番組で、昨日までのこの身体には馴染み深いものなのか、画面に映ったキャラクターの名前が考えるまでもなく頭へ浮かんだ。
薫は一瞬それを見てから、テーブルへ置かれた自分の皿へ視線を落とす。
今日は朝からやりたいことがあった。
世界の確認。
昨日、家の中を簡単に調べた範囲では、前の人生と文明水準が極端に違うようには見えなかった。家電も、自動車も、町並みも、おおよそ見覚えのあるものだ。ただ、それだけで同じ世界だと判断するには材料が足りない。
新聞を読めれば早いが、四歳児が突然新聞を端から端まで熟読し始めれば、それはそれで妙だ。自由にパソコンを使うのも難しい。
そこでテレビだった。
ニュースなら、政治、事件、制度、社会情勢まで一度に拾える。何より、幼い子どもがテレビの前に座っていても誰も疑わない。
薫はパンを齧りながら、目だけを画面へ向けた。
五分。
十分。
十五分。
「……」
気づけば、普通に番組を見ていた。
画面の中で着ぐるみの主人公が悪役に捕まり、仲間が助けに向かう。展開も演出も幼児向けだ。それなのに、妙に気になる。次にどうなるかが分かっているような感覚まであるのは、この身体の記憶に番組の内容が残っているからなのだろう。
好美が横から笑った。
「薫、それほんと好きだよね」
「……まあ、面白いもんは面白いし」
答えてから、薫は少しだけ眉を寄せた。
前世の精神年齢がどうであれ、今の自分が面白いと思っているものまで否定する必要はない。それでも、情報収集のつもりでテレビをつけておきながら、完全に見入っていたのは少々情けない。
秋江が食器を片づけながらリモコンを取った。
「もう終わったんでしょ? ニュース見るわよ」
画面が変わる。
薫の意識も切り替わった。
天気予報。
交通情報。
政治家の会見。
企業の不祥事。
前世の記憶にある社会と大きく違うものは、少なくともまだ出てこない。年月や固有名詞までは簡単には照合できないが、生活そのものは似ている。
パンの最後の一口を口へ入れたところで、ニュースキャスターの声が少し変わった。
『続いて、昨日午後――』
画面が街中の映像へ切り替わる。
壊れた街灯。
規制線。
警察らしき人間。
そこまでは何でもない事件映像だった。
だが、次に聞こえた単語で、薫の咀嚼が止まった。
『現場では、エスパーによる能力使用があった可能性もあるとして――』
薫は動かなかった。
好美は特に反応しない。
秋江も食器を洗ったままだ。
テレビだけが淡々と続けている。
エスパー。
聞き間違いかと思った。
いや、単語そのものは前世にも存在した。漫画や小説、テレビ番組で超能力者をそう呼ぶことは珍しくない。だから、この一語だけなら決め手にはならない。
薫はパンを飲み込み、何気ないふりをしながら画面へ視線を固定した。
映像では、専門家らしい男が何か説明している。
『――能力の性質から見て念動系の可能性が高いものの、現時点では本人の特定には至っていません。近年は未成年エスパーによる偶発的能力使用も増加しており――』
薫の指先が止まる。
念動系。
未成年エスパー。
誰も驚いていない。
幽霊やUFOを扱うオカルト番組ではない。ニュースキャスターも専門家も、超能力者が現実に存在することを当たり前の前提として話している。
それだけではない。
画面下に、
『能力者登録制度の見直しへ』
という文字が流れた。
心臓が、昨日とは違う理由で少し速くなる。
「……」
偶然。
まず、その可能性を考える。
自分が知らなかっただけで、前の世界にも本当は超能力者がいた――というのは無理がある。ニュースで普通に制度まで語られる存在なら、知らずに何十年も生きることなどまずない。
では、この世界だけがそういう世界なのか。
それならまだ説明できる。
違う世界へ来た。
たまたま明石薫という名前になった。
そこへ、前世で何か聞いたような記憶が引っかかっている。
まだ、それだけだ。
薫は自分にそう言い聞かせた。
そして次の言葉が出た。
『今回確認された現象について、専門家は超度二から三程度の出力だった可能性が高いと――』
息が止まった。
超度。
その言葉。
知っている。
何かが頭の奥で音を立ててはまった。
エスパー。
超度。
明石薫。
昨日からずっと取れなかった小骨のような違和感が、一気に形を持ち始める。
記憶の底でページがめくれる。
漫画。
アニメ。
超能力。
三人の女の子。
赤い髪。
黒髪の少女。
眼鏡。
若い男。
妙に若い老人。
組織。
未来。
一気に浮かび上がっては、互いにぶつかって消えていく。
そして、その中心にタイトルだけがはっきり残った。
『絶対可憐チルドレン』。
薫は画面を見たまま、ゆっくり口の中のものを飲み込んだ。
「……マジ?」
小さな声だった。
好美が振り向く。
「何が?」
「なんでもない」
咄嗟に答える。
テレビではもう別の話題へ移っていた。
だが、薫の頭の中だけは戻らない。
絶対可憐チルドレン。
前世で知っていた作品。
どこまで見た。
漫画か。アニメか。両方か。
記憶を掘ろうとすると、断片ばかり出てくる。
登場人物についてはかなり覚えている気がする。誰がどういう性格で、どんな能力を持っていて、誰とどういう関係だったのか。そういうものは妙に濃い。
反対に、事件が何巻だったとか、何が先に起きたとか、そういう細かい順序はぼやけている。
前世で作品に触れたのがかなり昔だったのかもしれない。
「……明石薫」
昨日名札で見た名前を、頭の中でもう一度呼ぶ。
今度は反応があった。
赤い髪。
元気で乱暴。
超能力。
確か、念動能力者。
三人組の中心。
口が悪くて、オヤジ臭くて――。
薫はそこで考えるのを止めた。
ゆっくり自分の身体を見る。
小さな手。
寝癖を直した赤みのある髪。
さっきから「あたし」と自然に言っている自分。
そして名前。
「……あたしじゃん」
呟いた途端、頭が痛くなりそうだった。
偶然というには一致が多すぎる。
同姓同名だけならまだいい。
赤い髪も、性格の断片も、エスパーが存在する世界も、能力を超度で測る制度まで重なる。
漫画の世界へ転生した。
そんな結論の方が普通なら馬鹿げている。
だからこそ、薫は簡単に「間違いない」とは思わなかった。
前世の記憶が正しい保証はない。
原作そのものではなく、似た世界かもしれない。
アニメと漫画で設定が違う作品だって珍しくない。自分が覚えている情報が、そもそも複数媒体で混ざっている可能性だってある。
それでも。
「……無視する方が危ないか」
薫は小さく息を吐いた。
確定していなくても、可能性が高いなら、それを前提に警戒する。
災害が来るかどうか分からないから備蓄をしない、なんて考え方はしない。
起きなかったらそれでいい。
起きたとき困るなら準備だけしておけばいい。
その程度の話だった。
「ねーちゃん」
「んー?」
好美はテレビではなく漫画雑誌を見始めていた。
薫はなるべく子どもらしい調子を意識する。
「エスパーって、普通にいるんだよね?」
好美が顔を上げた。
「いるでしょ?」
あまりにも普通の返事だった。
「そのへんにも?」
「そのへんにいるかは知らないけど。学校にもいるんじゃない?」
「へえ」
「なに、薫エスパーになりたいの?」
好美がからかうように笑う。
「別に」
薫はそっぽを向いた。
反応を見る限り、やはり能力者の存在そのものは常識だ。
吸血鬼や宇宙人について尋ねた子への返答ではない。
秋江にも同じ確認をする。
「ねー、ママ」
「なに?」
「エスパーってどうやったら分かるの?」
秋江は洗い物をしながら首だけこちらへ向けた。
「どうって、検査とかじゃない?」
「じゃあ、あたしもエスパーだったりして!」
なるべく冗談っぽく両手を上げる。
秋江は笑った。
「はいはい。だったらまず自分のおもちゃくらい念力で片づけてちょうだい」
「それができたら苦労しねーって」
「四歳で何の苦労してるのよ」
言われて、薫は口を閉じた。
好美が吹き出す。
「薫、今日やっぱおっさんみたい」
「誰がおっさんだ!」
反射的に立ち上がる。
好美が逃げる。
薫も追う。
数歩で、今まで考えていたことが一瞬飛んだ。
「待てー!」
「やだよー!」
「捕まえたら覚えてろ!」
「ほら! そういうとこ!」
「うっさい!」
秋江の「家の中走らない!」という声が飛ぶ。
二人まとめて止まる。
薫は好美を睨みながらも、内心では別の意味で少し冷や汗をかいていた。
おっさん。
図星すぎる。
もっとも、それを気にして無理に子どもらしく振る舞うのも違うだろう。今の薫自身にも、元からそういう妙にオヤジ臭いところがあるらしい。前世の性格とたまたま噛み合っているだけなら、むしろ便利かもしれない。
好美から離れ、ソファへ戻る。
そこで初めて、別の問題が頭へ浮かんだ。
原作の明石薫は。
エスパーだった。
しかも、かなり強かったはずだ。
詳細はまだ思い出せない。
だが一般人ではなかったことだけははっきりしている。
薫は自分の手を見る。
今まで、何かが勝手に動いた記憶はない。
この身体側の記憶を探っても、それらしいものは出てこない。
なら。
「……これから、か?」
背中に少しだけ冷たいものが走った。
自分が原作の薫なら、いずれ能力が出る。
いつかは分からない。
どんな形かも分からない。
だが、もし突然だったら。
テーブルに置かれたコップを見る。
椅子。
食器棚。
窓。
秋江。
好美。
前世で子どもを育てた経験が、別の角度から危険を想像させた。
幼い子どもは加減を知らない。
物を投げる。
走る。
刃物を触りたがる。
悪意がなくても危険なものはいくらでもある。
もし、そんな子どもへ突然、見えない巨大な手を渡したらどうなる。
自分は今、中身だけなら危険性を理解できる。
だが、能力がどういう感覚で出るのかは知らない。
頭で理解できることと、実際に身体が制御できることは別だ。
薫はテーブルの上のスプーンへ視線を向けた。
念動力。
確か、原作の薫の能力はそうだった。
サイコキネシス。
なら、念じれば。
スプーンへ手を伸ばしかける。
途中で止めた。
秋江がいる。
好美もいる。
食器もある。
万が一動かせたとして、自分が思った通りに動く保証などどこにもない。
スプーン一本を浮かせるつもりが、テーブルごと飛んだら笑えない。
「……いや、やめとこ」
手を引く。
能力があるかどうかを確認するだけなら、安全な場所でやればいい。
焦る意味はない。
むしろ、まだ発現していないならその方がありがたい。
そこでテレビから、また聞き覚えのあるような単語が流れてきた。
『――政府の超能力支援機関では、未成年能力者に対する安全教育の拡充を――』
画面端のテロップ。
英字。
B.A.B.E.L.
薫の眉が寄る。
「……バベル?」
知っている。
たぶん。
何かの組織。
明石薫と関係があった。
だが、その先が出ない。
思い出そうとすると、白衣、制服、巨大な施設のような映像が断片的に浮かぶだけだった。
「ったく、肝心なとこが出てこねーな」
小声でぼやく。
前世で作品を見ていた頃は、まさか何十年後だか何年後だか分からない未来に、その知識を本気で使うことになるとは思っていなかった。当然だ。
試験勉強みたいに設定を暗記していたわけではない。
キャラクターは覚えている。
面白かった場面も覚えている。
けれど、それがいつ起きたかとなると怪しい。
その事実は、意外と重要だった。
原作を知っているから何でも分かる。
そんな都合のいい状態ではない。
「まあ……そりゃそうか」
薫はソファの背へ身体を預けた。
足が床につかず、宙でぶらぶら揺れる。
頭の中では世界規模の話を考えているのに、今の身体はこの通りだ。
その落差がおかしくて、少しだけ笑った。
絶対可憐チルドレン。
よりによって、あれ。
全部を覚えているわけではない。
それでも平和な日常だけで終わる作品ではなかったことくらいは知っている。
超能力者同士の戦い。
組織。
差別。
未来。
かなり面倒な連中。
そして、明石薫という名前の少女は、間違いなく物語の中心にいた。
「脇役だったら楽だったのになぁ……」
誰にも聞こえないようにぼやく。
だが、すぐに首を振った。
原作。
その言葉自体が、もう少し違うように感じ始めていた。
昨日、秋江に抱かれた。
今朝、好美とくだらないことで言い合った。
手を伸ばせば触れられる。
声が聞こえる。
怒るし、笑う。
漫画のページの中にいたときは、何が起きても物語だった。
今は違う。
好美が怪我をすれば血が出るだろう。
秋江が泣けば、自分も嫌な気分になる。
自分自身だって、昨日ベッドから降り損ねただけで足が少し痛かった。
「原作通りにしなきゃ」とか、「全部変えなきゃ」とか、今の時点で決めるのは馬鹿げている。
何が必要な出来事で、何が避けられる不幸なのかも分からない。
そもそも自分が覚えている原作と、今いる世界が完全に同一である保証すらない。
なら。
知らないことへ勝手に手を出さない。
危険が目の前に来たら、そのとき考える。
能力が本当に出るなら、まず安全に扱えるようにする。
今決められるのは、それくらいだ。
「薫」
秋江に呼ばれて顔を上げる。
「なに?」
「さっきから難しい顔してるけど、トイレ我慢してない?」
「してない!」
思わず大声になる。
秋江が笑う。
「ならいいけど」
「子ども扱いすんな!」
言ってから止まった。
秋江が眉を上げる。
「子どもでしょ」
「……そーだけど」
言い返せない。
好美がまた笑う。
薫は頬を膨らませた。
今の自分が子どもだという事実は、頭では理解している。
ただ、何十年も「大人であること」を前提に生きてきた感覚が、そう簡単には消えてくれないらしい。
それでも。
昨日より少しは、この身体でいる自分を変だと思わなくなっていた。
夕方。
好美と並んでテレビを見ながら、薫は何度か秋江へ視線を向けた。
普通に料理をしている。
好美は隣で笑っている。
この二人は物語の設定ではない。
少なくとも自分にとっては。
その事実だけは、忘れない方がいいと思った。
もし本当に『絶対可憐チルドレン』の世界なら、知っている未来があるかもしれない。
けれど、未来を知っていることと、今ここにいる人を分かったつもりになることは違う。
自分の子どもだってそうだった。
親だから分かると思っていたことが外れたことはいくらでもある。
本人に聞かず、自分の経験だけで決めつけて失敗したこともあった。
だったら、この世界でも同じだ。
知っているキャラクターだからといって、本人の気持ちまで知っているわけではない。
そこを間違えるのは、たぶん一番まずい。
夜。
布団へ入った薫は、昨日より長く目を閉じずにいた。
『絶対可憐チルドレン』。
タイトルは思い出した。
自分が明石薫らしいことも、ほぼ間違いないと思う。
では。
その作品には誰がいた。
記憶をたぐる。
自分以外にも、女の子が二人いた。
一人。
眼鏡。
細身。
黒い髪。
関西弁だったような。
もう一人。
柔らかい笑顔。
一見すると大人しそうなのに、妙に怖いことを平気で言う。
そして、その二人と自分の近くには、いつも若い男がいた。
頭が良い。
真面目。
苦労人。
でも、名前がまだ出ない。
「……いたよな」
薫は枕へ頬を押しつけた。
目を閉じる。
顔は浮かぶのに、名前だけが霞んでいる。
不思議な感覚だった。
昔の同級生の顔は思い出せるのに名前が出てこないときと似ている。
ただ、その三人がどうでもいい相手ではなかったことだけは、妙にはっきり分かった。
明石薫というキャラクターを思い出そうとすると、必ず一緒に出てくる。
二人の少女と、一人の男。
「……次はそこか」
独り言が漏れる。
全部を一晩で思い出す必要はない。
昨日もそうした。
今日もそうする。
分かるところから、ひとつずつ。
廊下の向こうから秋江の声がする。
「薫ー! もう寝なさいよー!」
「もう寝てるー!」
「返事してるじゃない!」
「あーもう、うるさいなー!」
布団を頭まで引き上げる。
そのまま暗闇の中で、薫は小さく笑った。
絶対可憐チルドレン。
明石薫。
エスパー。
超度。
B.A.B.E.L.
今日だけで、昨日よりずっと多くのことが分かった。
そして分かったからこそ、分からないことが増えた。
でも、それでいい。
焦って間違えるよりは、ずっといい。
眠気が少しずつ思考を溶かしていく。
最後に浮かんだのは、三人の顔だった。
眼鏡の少女。
笑っている少女。
若い男。
名前はまだ出ない。
それでも、いつか会うことになる気がした。
いや。
自分が本当に明石薫なら、たぶん。
会わずには済まない。
「……めんどくさそー」
小さく呟いた声は、どこからどう聞いても年相応の明石薫だった。
その言葉の裏側だけに、何十年も生きた男の諦めにも似た響きが残っていた。