彼女達の未来のために 作:おっさんとチルドレン
朝、鏡の前で歯を磨きながら、薫は昨日から頭の片隅に居座っている三人の顔を追いかけていた。
一人は眼鏡をかけた黒髪の少女。もう一人は柔らかく笑う少女。そして、二人と自分のそばにいた若い男。輪郭も表情も思い出せる。声だって、あと少し何かきっかけがあれば蘇りそうなのに、肝心の名前だけが舌の奥へ引っかかったまま出てこない。歯ブラシを動かしながら眉間へ皺を寄せていると、鏡の向こうでも赤毛の幼女がまったく同じ難しい顔をしていた。
「んー……」
口の中を泡だらけにしたまま唸る。
昨日は、一晩寝れば少しくらい記憶が整理されるのではないかと思っていた。
甘かった。
何十年分もの記憶というものは、押し入れへ適当に突っ込んだ荷物に似ている。確かにそこにあるはずなのに、欲しいものに限って一番奥へ入り込んでいる。
「年取ると、こういうの増えたんだよなー……」
ぼそりと漏らしてから、薫は歯ブラシを止めた。
鏡を見る。
四歳前後。
少なくとも、白髪も老眼も腰痛も縁がなさそうな見た目である。
「いや、今は若いっていうか……若すぎるけど」
自分で言っていて馬鹿らしくなった。
口をゆすぎ、洗面台の下に置いてある踏み台から降りる。昨日までなら、その高さにも一瞬気をつけていたのに、今朝は何も考えずに身体が動いた。どうも人間というものは、置かれた環境へ慣れるようにできているらしい。何十年も大人として生きてきた記憶があろうが、今使っている身体はこの家で何年も暮らしてきた明石薫のものなのだから、そちらの習慣に引っ張られるのも当然なのかもしれない。
それにしても。
「名前くらい出てこいよなぁ」
廊下を歩きながら、もう一度三人を思い浮かべる。
眼鏡。
黒い髪。
関西弁。
そこまでは出る。
もう一人。
笑顔。
触れる。
触ったものが――。
そこまで考えたところで、秋江の声が飛んできた。
「薫! いつまでのんびりしてるの! ご飯冷めるわよ!」
「今行くって!」
思考を切り替え、食卓へ向かう。
急いでも仕方がない。
昨日それを決めたばかりだった。
思い出せないからといって、無理やり穴を埋めれば、そこへ入り込むのは記憶ではなく想像かもしれない。前の人生でも、昔の出来事について家族と話しているうちに「そんなことあったっけ」と揉めたことは一度や二度ではない。同じ旅行に行ったはずなのに、家族全員が別々の場面を覚えていたりする。
まして、自分が思い出そうとしているのは、ずっと昔に読んだり見たりした物語の記憶だ。
正確である保証などない。
そう考えると、昨日「ここは知っている物語によく似た場所らしい」と気づいたときより、むしろ慎重にならなければいけない気がしてきた。
食卓では好美が先に座っていた。
「薫、寝癖まだ残ってる」
「うそ」
反射的に髪へ手をやる。
「こっち」
好美が自分の頭の右側を指さす。
薫は右側を撫でる。
「逆」
「最初からそっち指せよ!」
「鏡だから逆だと思ったの」
「ねーちゃんが鏡になってどーすんだ!」
朝からくだらないやり取りをしていると、秋江が呆れたように二人の間へ皿を置いた。
「二人とも食べなさい」
「はーい」
返事だけは揃う。
薫は椅子に座り、パンへ手を伸ばした。
そのとき秋江が、テーブルの端に置いていた眼鏡へ手を伸ばした。普段いつも掛けているわけではないらしく、小さな文字を見るときだけ使うものらしい。
「これ、昨日どこ置いたか分からなくなっちゃって」
「また?」
好美が笑う。
「ちゃんと決めたとこ置きなよ」
「そうなのよねえ。分かってるんだけど」
眼鏡。
その単語よりも、細いフレームが秋江の指に持ち上げられた光景が、記憶の奥に何かを引っ掛けた。
黒髪。
眼鏡。
少女。
少しつり上がった目。
呆れたような顔。
それから、声。
『薫! 無茶したらあかん言うてるやろ!』
頭の中で、突然はっきりと響いた。
薫の手が止まった。
「……葵」
「なに?」
秋江が振り向く。
薫は一瞬黙り、パンを持ち直した。
「なんでもない」
心臓が少し速い。
葵。
そうだ。
名字も。
「野上……葵」
今度は声に出さず、頭の中だけで言う。
すんなり馴染んだ。
野上葵。
眼鏡をかけた、黒髪の少女。
京都出身だったはずだ。話し方もそうだった。三人の中では常識人で、勢いで突っ走る自分を止める側になることが多かった。
そして能力。
瞬間移動。
テレポーター。
そこまで一気に繋がった。
「あー……いたいた」
思わず笑いそうになる。
昨日まで、顔だけが思い出せずに引っかかっていた旧友の名前が突然出てきたような感覚だった。
実際には会ったことなどない。
少なくとも今の人生では。
前の人生でも、画面や紙の向こう側にいただけだ。
それでも何度も見た人物の記憶というのは妙なもので、名前が出てきただけで、妙な懐かしさがあった。
そこで薫は、パンを齧りながら別のことに気づいた。
原作――という言葉を頭へ浮かべて、すぐ別の言い方へ置き換える。
自分が覚えている頃の野上葵は、自分と同じ十歳くらいだった。
任務へ出て。
能力を使って。
薫やもう一人の少女へツッコミを入れて。
場合によっては大人顔負けの仕事までしていた。
だが。
薫はパンを噛むのを止めた。
今、自分は四歳くらいだ。
なら。
「あいつも……四歳くらい?」
好美が顔を上げた。
「誰が?」
「なんでもないって」
今度は少し慌てて誤魔化した。
しかし頭の中には、十歳の葵ではなく、見たこともない幼い葵の姿が勝手に出来上がっていた。
眼鏡はもう掛けているのだろうか。
京都弁は当然だろう。
自分で靴の左右を間違えたりするのか。
ご飯をこぼして怒られたり。
眠くなって機嫌が悪くなったり。
前世の子どもたちがそのくらいの年齢だった頃を思い出す。
なんでも自分でできると言い張るくせに、できなければ泣いた。
昨日まで平気だったものを突然怖がったり、逆に大人が危ないと思う場所へ平気で飛び込んでいったりする。
子どもとは、そういう生き物だった。
原作で見ていた十歳の少女も、今はまだそこまで育っていない。
その事実に気づくと、妙に現実味が増した。
「……何してんだろ」
小さく呟く。
会ってみたい、と少し思った。
能力者としてではなく。
未来の仲間としてでもなく。
単純に、あのしっかり者の野上葵にもこんなに小さい頃があるのか、と。
「薫?」
「なに?」
「さっきから一人で喋ってるけど」
好美がじっとこちらを見ている。
「考えごとしてただけ」
「何を?」
「今日何して遊ぼっかなーって」
「ふーん」
かなり雑な誤魔化しだったが、好美はそれ以上追及しなかった。
助かった。
パンを食べ終え、薫は自分のコップへ手を伸ばした。
その横から好美が何気なく、薫の前に置いてあった小さな玩具を取った。
「これ貸して」
「勝手に取んなって!」
薫は反射的に好美の手から取り返す。
指先が触れる。
触れる。
その言葉が、今度は別の扉を開いた。
笑顔。
茶色がかった髪。
一見すると穏やか。
でも、その笑顔のまま妙に黒いことを言う。
触れることで何かを読む。
物。
人。
記憶。
情報。
「……紫穂」
今度は名前が先だった。
「また誰?」
好美が怪訝そうにする。
「あーもう、なんでもない!」
薫は玩具を抱え込んだ。
三宮紫穂。
そうだ。
三人目。
触れたものから情報を読み取る。
サイコメトラー。
それも、とんでもなく高い能力を持っていた。
そこまで思い出した瞬間、薫は笑顔を消した。
「……あ」
前世の記憶。
転生。
この世界について知っていること。
そして、自分自身の力を将来隠そうと考えていること。
もし全部触っただけで読まれるなら。
「やっば」
「何が?」
「だから、なんでもない!」
今日何回目だ。
好美がますます怪しそうな目を向けてくる。
薫は玩具をテーブルの端へ置き、腕を組んだ。
紫穂。
確か、全部を完全に読めるわけではなかった気がする。
相手の能力や状況によっても違ったはずだ。
ただ、少なくとも触れられた相手が隠している情報へ接近できる能力であることは間違いない。
自分とは最悪の相性ではないか。
「絶対触られないように……」
頭の中で考え、すぐ却下する。
無理だ。
三人で行動する未来があるのなら、身体へ触れないなんて不自然すぎる。
手を取る。
引っ張る。
助ける。
日常生活で人間同士が接触しない方が難しい。
しかも、紫穂の性格。
そこも少しずつ思い出してきた。
「隠してます」という態度を取ったら。
たぶん。
絶対。
気づく。
そして、面白がる。
薫は額へ手を当てた。
「あいつに怪しまれたら終わる気しかしねー……」
「薫、さっきから誰の話してるの?」
「独り言!」
「長くない?」
「うるさい!」
好美を追い払うように手を振り、薫は席を立った。
部屋へ逃げ込んでから、ようやく息を吐く。
紫穂対策。
その言葉だけなら簡単だ。
しかし、本当にそれだけでいいのか。
薫はベッドの縁へ座った。
触れたものから情報が入ってくる。
もしそんな能力が幼い頃からあったら。
四歳。
五歳。
家族。
周囲の大人。
誰かが表では笑っていても、触れた瞬間に嫌な感情まで流れ込む。
自分への嘘も。
誰にも知られたくない記憶も。
普通の子どもなら知らなくてもいいものまで。
前世で自分の子どもが同じ能力を持っていたなら――。
きっと怖かっただろう。
親である自分の建前まで見抜かれる。
叱りながら、本当は自分も自信がないことまで知られる。
「読まれる側」からすれば恐ろしい。
でも。
「読む側」は、もっと大変かもしれない。
薫は足をぶらつかせながら、しばらく黙った。
前世の記憶を読まれるのは困る。
自分の事情を知られるのも困る。
だから能力には警戒する。
それは必要だ。
しかし。
「紫穂まで怖がるのは違うよな」
誰もいない部屋で呟いた。
能力と本人は別だ。
読まれたくないものがあるなら、読まれない工夫を考える。
嫌なら嫌と言えばいい。
最初から相手を化け物扱いする理由にはならない。
「……まあ、会ってから考えりゃいいか」
結局そこへ戻った。
今はまだ会っていない。
何年後かも分からない。
能力があるかどうかすら、今の自分は確認できていない。
未来の心配を全部今日済ませる必要はない。
その日の昼前、薫は別のことを思い出した。
葵。
紫穂。
そして自分。
この三人には共通点があった。
強い。
ただ強いのではない。
「レベル……」
口に出しかける。
昨日テレビで聞いた。
超度。
能力の強さを示す基準。
数字。
思い出そうとする。
二。
三。
四。
もっと上。
「……七」
薫の顔が固まった。
そうだ。
レベル7。
野上葵。
三宮紫穂。
そして明石薫。
三人とも。
レベル7。
「…………七?」
もう一度言う。
昨日ニュースでは、レベル二か三程度の能力使用が事件として報道されていた。
正確な差は覚えていない。
レベル7がどの程度の規模なのかも、数字として説明しろと言われれば困る。
だが、一つだけは分かる。
最高峰。
普通ではない。
洒落にならない。
「いや待て待て待て」
昨日。
スプーンを念力で動かせないか試そうとして、やめた。
家の中だったから。
もしあの判断をせず、既に力が発現していたら。
どうなった。
スプーンだけ浮いたのか。
テーブルも。
食器も。
それとももっと。
「……やめて正解じゃん」
背中が少し冷えた。
まだ能力が出ていない。
身体側の記憶にも、それらしい事件はない。
だから大丈夫――とは言い切れない。
発現するのが今日かもしれない。
明日かもしれない。
何かの拍子に突然出るかもしれない。
レベル7。
その数字だけで、昨日より警戒する理由が十分に増えた。
ただ、それとは別に。
薫は少し不思議な気持ちになっていた。
野上葵。
三宮紫穂。
名前まで思い出すと、三人並んでいる光景が次々浮かぶ。
喧嘩。
笑い。
任務。
馬鹿なこと。
本気で怒った顔。
一緒にいることが当たり前だった。
もちろん、それは前の人生で見た「未来の彼女たち」だ。
今の葵と紫穂は、自分を知らない。
自分だって二人に会ったことはない。
それなのに。
「……一人じゃないんだよな」
ぽつりと漏れた。
昨日から、誰にも言えないことばかり増えていた。
前世があること。
父親だったこと。
この先について多少知っていること。
自分が明石薫だということ。
そこへ今度は、レベル7の能力まで加わるかもしれない。
まだ何一つ起きていないのに、秘密だけは先に積み上がっている。
でも、その先には二人がいるらしい。
自分と同じように大きな力を持った少女たち。
その事実だけは、思った以上に気持ちを軽くした。
薫はしばらく微笑み、それから自分で首を振った。
「いやいや」
まだ会っていない。
相手からすれば知らない子だ。
前の人生で二人を知っているからといって、勝手に親友になった気でいるのはおかしい。
まして今の自分は、知っている物語の明石薫とまったく同じではない。
既に前世の記憶という大きな違いがある。
それによって自分が別の選択をすれば、葵や紫穂との関係だって変わるかもしれない。
「会ったこともねーのに友達面すんのは変だろ」
そう呟いて、薫はベッドから降りた。
でも。
いつか会ってみたい。
それくらい思うのは自由だろう。
午後になり、秋江と買い物へ出た。
家にこもって考えているより、外へ出た方が気分転換になる。もっとも薫がそう決めたわけではなく、秋江から「ついてくる?」と聞かれて普通に「行く」と答えただけだった。
小さな手を引かれて歩く。
道路を渡るとき秋江が左右を見る。
薫も見る。
身体だけなら完全に保護される側だ。
その状況へまだ少し慣れない。
店へ入る。
秋江が買い物かごを持ち、薫は横を歩く。
途中、若い男性店員が白い制服のようなものを着て商品整理をしているのが目に入った。
白。
若い男。
眼鏡ではない。
だが。
その姿が引き金になった。
研究施設。
白衣。
大量の書類。
三人の少女へ説教する若い男。
『お前たちは――!』
名前。
「皆本……」
足が止まる。
秋江が数歩先で振り返る。
「薫?」
「……あ」
続き。
皆本。
光。
一。
「皆本光一」
小さな声で言う。
出た。
三つ目。
野上葵。
三宮紫穂。
皆本光一。
昨日から思い出せなかった三人の名前が、ようやく全部揃った。
「知り合い?」
秋江が首を傾げる。
「え?」
「今、名前言わなかった?」
薫の頭が一瞬止まる。
「テレビの人!」
「そう?」
「そう!」
またテレビ。
この言い訳に頼りすぎではないか。
秋江は疑わなかったのか、それ以上聞かず歩き出した。
薫も後を追う。
皆本光一。
名前が出ると、人物像も一気に戻ってきた。
頭がいい。
科学者。
かなり若い。
三人の担当。
叱る。
世話をする。
料理もしていた気がする。
苦労人。
そして――。
「二十歳くらいじゃなかったっけ」
記憶を確認する。
二十歳。
自分が前の人生で二十歳だった頃を思い出す。
大学。
仕事を始める前後。
まだ「大人になった」と自分で思っていた割に、今振り返れば何も分かっていなかった時期。
そこへ十歳のレベル7エスパー三人。
任務管理。
生活。
教育。
感情。
危険。
「……罰ゲームじゃん」
思わず本音が出た。
「なにが?」
秋江がまた振り返る。
「なんでもない!」
今日、本当に何回目だ。
薫は少し早足で秋江の隣へ並んだ。
前の人生で見ていたときは、皆本を「大人側」の人間として自然に受け入れていた。
しかし自分自身が中年まで生きてから二十歳という数字を聞くと、印象がまるで違う。
若い。
若すぎる。
そんな年齢で、超能力者の子ども三人を預けられる。
しかも、たしかただの子守ではない。
危険な任務に連れていく。
本人にも判断を求められる。
命まで背負う。
薫は少し黙った。
「……よく逃げなかったな」
その言葉には、さっきまでの冗談とは違う感情が混ざった。
もし前世の自分が二十歳で、あんな三人を任されたらどうだっただろう。
無理だったかもしれない。
少なくとも、二人の子どもを育てた後の今だから分かる。
子どもは一人でも思い通りにならない。
三人。
しかも全員レベル7。
「大変だっただろーな……」
まだ会ったこともない若者へ、妙に同情してしまう。
その直後だった。
頭の奥に、何かが光った。
皆本。
銃。
銃口。
こちらへ向けられている。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
薫の足が止まった。
「……っ?」
「薫?」
秋江の声。
薫は瞬きをした。
もう何もない。
スーパーの通路。
食品棚。
買い物客。
いつもの日常。
今見えたものは、ただの記憶だ。
たぶん。
でも。
皆本が銃を持っていた。
誰へ向けていた。
自分。
いや。
今の自分ではない。
もっと大きい。
髪も長い。
赤。
血。
「……なんだ、今の」
胸の奥がざわついた。
記憶を追いかけようとする。
すると、頭の中へ別の人物が割り込んできた。
白い髪。
学生服のような黒い服。
子どもにすら見える顔。
だが、本当の年齢はずっと上だった。
「……兵部」
名前は、皆本より簡単に出た。
「兵部京介」
今度は口には出さない。
厄介な男。
強いエスパー。
パンドラ。
能力者たちを集めていた。
世間から見れば犯罪者だったはずだ。
チルドレン――自分たちとも何度もぶつかった。
特に。
薫へ。
妙に執着していた。
「……いたなぁ、めんどくさいの」
それくらいの印象が最初に出る。
けれど、兵部を思い出すほど、単純な「悪い奴」という記憶ではないことも分かった。
戦争。
軍服。
仲間。
裏切り。
憎しみ。
ノーマル。
エスパー。
断片ばかりで繋がらない。
しかし、事情も知らずに敵と決めつけていい相手ではなかった。
「こいつも単純じゃなかったよな……」
薫は小さく息を吐いた。
分からない。
思ったよりずっと。
人物は覚えている。
性格も。
能力も。
誰と誰が親しかったかも、かなり出てくる。
なのに、それらを結んでいた出来事の順番が抜け落ちている。
何が先だった。
どこで誰が何を知った。
どの事件が原因で次の事件が起きた。
そこになると、一気に曖昧になる。
買い物から帰ったあと、薫は部屋の床へ座り込んだ。
紙へ書き出そうかとも思った。
すぐやめた。
こんなものを誰かに見られたら説明できない。
何より、書くほど正確な情報でもない。
だから頭の中だけで整理する。
自分。
明石薫。
これはほぼ確実。
野上葵。
三宮紫穂。
存在する可能性はかなり高い。
将来自分と行動する。
二人ともレベル7。
皆本光一。
将来、自分たちの担当になる若い男。
B.A.B.E.L.。
政府系の組織。
兵部京介。
パンドラ。
強力な能力者。
ここまでは比較的自信がある。
では。
何月何日に何が起きる。
誰がどこに現れる。
どうすれば事件を避けられる。
そこは。
「……全然ダメじゃん」
薫は床へ仰向けに転がった。
天井を見る。
昨日は「知っている場所なら多少有利かもしれない」とどこかで思っていた。
今は違う。
これは地図ではない。
せいぜい、昔一度通った道の記憶だ。
「あそこ曲がった気がする」程度の知識を頼りに車を飛ばしたら、普通に事故を起こす。
前世の仕事でも同じだった。
経験があるから、と確認を省いたときほどミスをする。
子育ても。
子どもが泣いている。
眠いのだろうと思う。
違う。
腹が痛かった。
機嫌が悪い。
学校で嫌なことがあったのだろうと思う。
違う。
ただ失くし物をして焦っていただけ。
分かったつもりになるのが、一番危ない。
「知ってるからって決めつけんのが、一番ダメだな」
薫は両腕を頭の下へ入れた。
この世界で出会う相手は、もう紙の向こうの存在ではない。
秋江も。
好美も。
そうだった。
なら葵や紫穂、皆本も同じだ。
前の人生で知っていた性格から「こいつならこうする」と決めつけてはいけない。
会ったら見る。
話す。
その時の本人を知る。
それから判断する。
原作――またその言葉を心の中でやめる。
前に読んだ話と違うことが起きたら。
それは「間違い」ではない。
今ここで起きたことの方が現実だ。
「よし」
薫は起き上がった。
知っていることは使う。
でも信じすぎない。
確認できない情報は、あくまで参考程度。
それでいい。
そこでふと、葵と紫穂の顔がまた浮かんだ。
今は、たぶん自分と同じくらい。
どこで何をしているのだろう。
葵は家族と暮らしているのか。
紫穂は。
能力はもう出ているのか。
もし出ているなら。
安全に過ごせているのか。
「……元気ならいいけど」
自然に口から出た。
その声を聞いて、薫は自分で少し驚いた。
会ったこともない。
まだ友達でもない。
守る義理もない。
それなのに、子どもが危険な目に遭う未来を少しでも知っていると、どうしても気になる。
前世の癖。
いや。
父親だった頃の癖、と呼ぶ方が近い。
でも、そこで薫は自分へ釘を刺した。
あの二人は、自分の子どもではない。
前世で残してきた二人の代わりでもない。
そんな扱いをしたら失礼だ。
「……まあ、会ってもないけどな」
苦笑する。
心配するのは勝手。
何かするとしたら、本人を見てから。
その程度でいい。
夕方。
好美が何か探して部屋をひっくり返していた。
「どこやったっけー」
「何探してんの?」
「髪留め」
「昨日リビングで外してなかった?」
「そうだっけ?」
「テレビ見ながら外して、テーブルに置いて、ママに片づけろって言われて……あ」
薫は途中で止まった。
好美も止まる。
「……薫、なんでそんな覚えてるの?」
「見てたから」
「すご」
「それくらい覚えてるだろ」
リビングへ行くと、髪留めは棚の端に置かれていた。
薫が取って渡す。
「ありがと」
「ちゃんと自分で片づけろよ。いつもどこ置いたか分かんなくなるんだから」
好美が髪留めを受け取りながら、じっと薫を見る。
「……薫、今日優しくない?」
「はあ!?」
「いつもなら『自分で探せ』って言うじゃん」
「……あたしはいつも優しい!」
「えー?」
「なんだよその顔!」
「べつにー」
好美が逃げる。
「待てーっ!」
薫も追いかける。
廊下から秋江の怒鳴り声。
「走らない!」
二人そろって急停止。
その瞬間だけは、未来も能力も何もなかった。
ただの姉妹だった。
夜。
薫は布団の中で、今日思い出した名前をもう一度確認していた。
「野上葵」
黒髪。
眼鏡。
京都弁。
瞬間移動。
しっかり者。
でも、今はまだ幼い。
「三宮紫穂」
笑顔。
触れたものから情報を読む。
頭が切れる。
油断ならない。
でも、それ以上に、その能力を持って育つこと自体が大変そうな少女。
そして。
「皆本光一」
二十歳。
若い天才。
三人の担当。
大人側。
前世の自分から見れば、むしろ守ってやりたくなるくらい若い。
少し間を置く。
「兵部京介」
白髪。
圧倒的な力。
パンドラ。
敵。
だけではない。
ここまで。
この四人は思い出した。
他にもいた。
たくさん。
でも、今すぐ全部を掘り起こす必要はない。
必要になったとき、また思い出せばいい。
薫は目を閉じる。
その瞬間。
また。
銃口が見えた。
今度は少し長い。
皆本。
苦しそうな顔。
腕を伸ばしている。
その先に。
赤い髪。
自分。
けれど今の自分ではない。
大人。
周囲には何人もの人影。
いや、人なのか。
エスパー。
何かが壊れている。
空。
音。
そして。
未来。
薫は目を開いた。
「……なんだよ」
心臓が速かった。
布団の中で身体を起こす。
今のはただの夢ではない。
前世の記憶だ。
その確信だけがある。
皆本。
自分。
銃。
それが何か重要なものだった。
さらに、その記憶へ兵部の顔が重なる。
兵部が何かを言っている。
自分へ。
呼びかける。
名前ではない。
別の呼び方。
「なんだっけ……」
思い出そうとする。
出ない。
なのに、嫌な感じだけが残る。
明石薫。
皆本光一。
兵部京介。
そして。
「……未来?」
声に出した途端、胸の奥へ冷たいものが落ちた。
今まで思い出していたものとは違う。
葵や紫穂の名前を思い出したときの懐かしさでもない。
兵部への警戒とも違う。
これは。
たぶん。
自分自身に関わるものだ。
しかも、あまり良くない。
薫はしばらく暗い部屋の中で目を開けたまま座っていた。
やがて息を吐き、もう一度布団へ身体を沈める。
焦るな。
分からないなら、今は分からない。
今日一日で、それを何度も自分に言い聞かせてきた。
明日になれば出るかもしれない。
何かの拍子に繋がるかもしれない。
だから今夜は寝る。
そう決めて目を閉じる。
それでも。
眠りへ落ちる直前まで。
自分へ向けられた銃口だけが、暗闇の奥から消えてくれなかった。