彼女達の未来のために 作:おっさんとチルドレン
未来のあたし
夢の中では、空の色が分からなかった。
雲が厚いのか、煙が街を覆っているのか、それとも空そのものが濁っているのかも判然とせず、灰色に染まった視界の下には、壁を失った建物やひしゃげた車、道路だった場所へ散らばった瓦礫がどこまでも続いていた。逃げ惑う人間の姿がある一方で、その流れへ逆らうように走る者もおり、中には地面を蹴ることなく空を横切る者や、触れてもいない巨大な瓦礫を宙へ持ち上げる者まで混じっているから、ここが単なる災害現場ではなく、エスパーの力が当たり前のように飛び交う場所であることだけは、何の説明を受けなくても理解できた。
薫はその光景を少し高い場所から見下ろしていたが、ふと視界の端へ入った自分の手を見て、これは今の自分の目ではないのだと気づいた。指は長く、腕も幼児のものではなく、風にあおられて頬へ触れる赤い髪も今よりずっと長い。周囲には年齢も服装もばらばらなエスパーたちが何人も立っており、その誰もが薫を気にし、次に何をすればいいのかを待つような目を向けていた。
その中心にいる女が誰なのか、考えるまでもなかった。
明石薫。
未来の自分だった。
けれど、今の自分と同じ名前を持つ女だと分かっても、目の前の姿をすぐに自分だと思うことはできなかった。背丈や髪の長さだけではない。周囲を見渡す目には幼さがなく、疲れているようにも、怒っているようにも見えるのに、それらを全部胸の奥へ押し込み、誰かに頼るより先に自分が決めなければならない人間の顔をしている。その背後へ集まった人々を見れば、彼女が守られる側ではなく、多くの者から「この人について行けばいい」と思われる側へ立っていることだけは分かった。
場面が途切れ、次に視界が戻った時、目の前には一人の男が立っていた。
皆本光一。
昨日ようやく名前を思い出した、あの若い男だったが、目の前にいる皆本は二十歳の青年ではなく、もっと年齢を重ね、頬にも目元にも今まで積み重ねてきた疲れを残している。それでも顔立ちには覚えがあり、未来の自分と同じように、年月だけが今知っている姿へ上書きされたのだとすぐ分かった。
その皆本が、銃を持っていた。
腕を伸ばし、真っ直ぐこちらへ向けている。
銃口の先にいるのは、未来の薫だった。
不思議なのは、皆本の顔に殺意がなかったことだった。憎い相手を撃ち殺そうとしている人間の目には見えず、怒りよりも苦しさの方が強く、できることなら今すぐ腕を下ろしたいのに、それ以外の選択肢がすべてなくなってしまったような顔をしている。未来の薫も逃げようとはせず、何かを言っているようだったが声は聞こえず、それでも二人が長い時間を共に過ごし、互いのことを簡単な言葉では済ませられないほど知っていることだけは、向かい合う表情から嫌というほど伝わってきた。
皆本の唇が動く。
未来の薫も、何かを返す。
そして。
銃声が響いた瞬間、灰色だった世界が視界いっぱいに白く弾け、薫は喉の奥で息を詰まらせながら布団の上へ飛び起きた。
「――っ!」
反射的に声を上げかけ、隣の部屋まで聞こえてしまう寸前で両手を口へ押し当てる。カーテンの隙間から差し込んだ朝の光が、棚や玩具、見慣れ始めた自分の部屋を薄く照らしているのに、身体だけはまだ夢の中へ置いてきたように心臓が激しく打ち、握った指先まで細かく震えていた。
「……落ち着け」
誰へ言うでもなく呟き、薫は鼻からゆっくり息を吸って、口から長く吐いた。前の人生なら、怖い夢を見て泣きながら部屋へやって来た子どもへ「夢だから大丈夫だ」と言う側だったのに、今は自分が小さな身体で布団の上に座り、自分自身へ同じことを言い聞かせているのだから、立場が変わるというのはつくづく妙なものだと思う。
「……笑えねーな」
口ではそう言ったものの、本当に笑えるところは一つもなかった。
夢だった。
ただ、それだけならよかった。
しかし皆本の顔も、未来の自分も、銃も、昨日から記憶の奥へ引っかかっていた「未来」という言葉も、全部があまりに具体的すぎる。単なる悪夢ではなく、前の人生で知っていた何かが、忘れていた場所から形を取り戻し始めているのだと、薫自身が一番よく分かっていた。
布団から降り、冷たい床へ足をつけると、足裏へ伝わる感覚が少しだけ意識を現在へ戻してくれた。洗面所へ行き、いつもの踏み台を引き出してその上へ立つと、蛇口から出した冷たい水で顔を何度か洗い、頬から滴を垂らしたまま鏡を見上げる。
そこにいるのは昨日までと同じ、赤みのある髪を寝癖で少し跳ねさせた幼い女の子で、夢の中にいた背の高い女とは似ても似つかない。それでも目元や髪の色、何より「これが自分だ」と身体の奥で感じる感覚は同じで、今の四歳前後の自分から何年も何年も時間を重ねれば、あの女へ辿り着く可能性があるのだと思うと、洗面台へ届くために踏み台へ乗っている自分の小ささが急にひどく現実的に感じられた。
まだ一人で何でもできる年齢ですらない。
母親に起こされ、姉と菓子を取り合い、眠くなれば機嫌が悪くなるような子どもだ。
そんな自分の未来に、戦場の中心へ立つ女がいる。
「……冗談きついって」
呟いた瞬間、頭の中に兵部の顔が浮かんだ。
白い髪。
子どものような顔。
笑いながら、自分へ何かを呼びかける声。
昨日はどうしても出てこなかったその言葉が、今度は夢の映像へ引きずられるように記憶の底から浮かび上がってくる。
女王。
さらにもう一つ。
破壊。
災厄。
クイーン・オブ・カタストロフィー。
破壊の女王。
薫は鏡を見たまま黙り込み、何秒か経ってからようやく口を開いた。
「……物騒すぎんだろ」
いつもの自分なら鼻で笑って終わらせそうな呼び名なのに、今は少しも面白くなかった。未来の自分がただ強いからそう呼ばれるのではなく、多くのエスパーの中心へ立ち、能力を持たない人間たちとの大規模な争いに関わる存在になることまで、途切れ途切れながら思い出してしまったからだ。
戦争。
その言葉だけは、はっきりしている。
ただ、誰が最初に始めたのか、何が引き金になったのか、自分が望んでその立場へ立ったのか、それとも追い込まれてそうなったのかまでは思い出せない。昨日、自分の知識を信用しすぎないと決めたばかりなのだから、ここで「未来のあたしは悪い奴になった」と穴の部分を勝手に埋めるのは簡単でも、それを事実として扱うのは違う。
確かなことだけ拾えばいい。
未来のどこかで、明石薫は大勢のエスパーの中心にいる。
人間とエスパーは大きく争っている。
そして皆本光一は、未来の薫へ銃を向ける。
「……撃たれるんだよな、たぶん」
言葉にすると、腹の奥が冷たくなった。
死ぬ。
前の人生でも一度死んだらしいが、その瞬間を鮮明に思い出せないからといって、死への恐怖までなくなるわけではない。むしろ、前に一度家族を残しているという感覚があるからこそ、今度は秋江や好美まで置いていくことになるのかと思えば、嫌だという気持ちは簡単に出てきた。
けれど、何度か夢を思い返しているうちに、薫は自分の死より別のことの方が気になっていることに気づいた。
未来の自分の後ろへ立っていた人たち。
あのエスパーたちは、薫を信じていた。
少なくとも、そう見えた。
大人もいたが、若い者もいた。遠目だったから年齢までは分からないものの、中にはまだ子どもと呼べるような者が混じっていてもおかしくない。もし未来の自分が「戦うしかない」と言い、その言葉を信じた人間たちが一緒に戦場へ来たのだとしたら、自分一人が撃たれて終わる話よりずっと重い。
前の人生で、自分の子どもがまだ小さかった頃を思い出した。
道路を渡る時、父親が一歩踏み出せば何も疑わず一緒についてきた。何か怖いことがあっても「大丈夫」と言えば、その一言だけで安心した顔を見せることがあった。親が本当に正しいかどうかなど、子どもには判断できないことも多く、それでも信じてついてくるからこそ、大人の側は自分が間違える可能性を忘れてはいけなかった。
未来の自分は女王と呼ばれている。
大勢がその言葉を聞く立場。
その立場で自分が間違えたら。
何人が一緒に間違う。
「……最悪じゃん」
低い声が漏れた。
未来の自分にも、守りたかったものがあったのかもしれない。
エスパーを。
仲間を。
家族を。
自分と同じ力を持ち、それだけで生きづらい思いをした人間たちを。
守ること自体が悪いとは思わない。
でも「守ってやるからこっちへ来い」と言い続け、最後には相手の選択まで自分が決めてしまうのなら、それは本当に守っていると言えるのか。
そこまで考えた瞬間、昨日思い出した葵と紫穂の顔が浮かび、薫は眉を寄せた。
まだ会ったこともない二人。
それなのに、同じ年頃の子どもで、将来危険な目に遭うかもしれないと知っただけで、気になり始めている。
助けたい。
危ないことはさせたくない。
そういう気持ちは自然に出てくる。
けれど、前世で父親だったからといって、自分があの二人より何でも分かっているわけではない。二人の意思を聞かず、「危ないから」「子どもだから」と全部自分で決めるようになれば、規模が違うだけで、未来の女王と同じところへ向かう可能性だってある。
「……いや、さすがに考えすぎか」
薫は濡れた顔をタオルで拭きながら苦笑した。今はまだ四歳で、葵にも紫穂にも会ったことすらなく、未来の人間関係について反省会を始めるには早すぎる。
それでも一つだけ。
「守る」がいつでも正しいとは限らない。
それは覚えておこうと思った。
未来の自分を嫌いにはなれなかった。
むしろ、あの女が何を積み重ねてあの場所へ辿り着いたのかを考えるほど、簡単に「馬鹿だ」と切り捨てる気にはならない。何年も生きるうちに、守れなかった人がいたのかもしれないし、信じていた誰かを失ったのかもしれない。何度も我慢し、何度も選んだ末に、「もうこれしかない」と思うところまで追い込まれた可能性だってある。
今の自分には、その何年間が丸ごと抜けている。
そのくせ結果だけ見て、
「間違ってる」
と言うのは簡単だ。
「……そこまでしなきゃダメだと思った理由くらい、あったんだろーな」
鏡の中の自分へ言う。
同情するわけでもない。
許す必要もない。
ただ、まだ何も知らない。
それで十分だった。
次に考えたのは皆本だった。
未来で銃を向けてくる男。
そう言い換えれば、今後会うのを避けた方がいいようにも聞こえる。
実際、夢の銃口を思い出すだけで身体は少し強張ったし、できれば自分を撃つ人間と仲良くしたいとは思わない。けれど同時に、皆本の顔もはっきり覚えている。撃ちたくて撃つ顔ではなく、むしろ撃たなければならないところまで追い込まれた人間の顔だった。
昨日思い出した皆本は、まだ二十歳の若者だ。
そこから何年も経って、未来の自分と向かい合う。
なら、あの映像は「皆本が薫を殺す未来」ではなく、薫も皆本も、互いを撃つか撃たれるかしかなくなるところまで追い詰められた未来なのかもしれない。
そう考えた方が、夢で見た二人の表情にはしっくりきた。
「だったら、皆本に会わなきゃ――」
そこまで呟いて、薫は自分で口を閉じた。
会わなければ未来が変わる。
一見もっともらしい。
では葵にも会わない方がいいのか。
紫穂にも。
B.A.B.E.L.にも近づかない。
兵部にも関わらない。
全部切って、一人で暮らす。
そうすれば少なくとも同じ出来事は起きないかもしれない。
けれど、それで良い未来になる保証はどこにもない。
皆本がいなければ、もっと悪いことが起きるかもしれない。
葵と紫穂が出会わなければ、三人とも別の場所で孤立するかもしれない。
自分がB.A.B.E.L.へ行かなければ、これから発現するはずの力を制御できず、家族を傷つけるかもしれない。
「……分かんねーな」
結局それだった。
記憶はある。
でも穴だらけ。
未来を変えるために動こうとして、間違った情報を信じたまま大事な人間関係を壊す方が怖い。
皆本はまだ、自分に何もしていない。
まだ会ってすらいない。
「未来のことで、まだ何もしてねー奴を恨んでもしょうがないし」
会った時に見る。
自分の知っている皆本と同じなのか。
何を考え。
どう子どもを見るのか。
その時に判断する。
それでいい。
そんなことを考えながら食卓へ行くと、好美が二枚の皿を交互に見比べていた。どちらにも卵料理が乗っているが、どうやら好美には薫の方が少し大きく見えたらしい。
「薫の方が大きくない?」
「同じだって」
「絶対そっちの方が大きい」
いつもなら即座に否定して皿を守ったはずなのに、未来だ戦争だと考え続けて少し疲れていたせいか、薫は深く考えずに自分の皿を押し出した。
「じゃあ取り替える?」
好美が目を丸くする。
言った薫自身も、少し遅れて自分の言葉へ驚いた。
「……いいの?」
「別に」
「薫、今日変」
「なんでだよ」
「優しい」
「いつも優しいだろ!」
「絶対なんかある」
好美が額へ手を伸ばしてくるので、薫は顔を逸らしてその手を払い、秋江まで面白そうにこちらを見るものだから「熱なんかねーって!」と声を上げた。ところが好美が本当に皿を交換して食べ始めると、さっきまでの大きな決断などどこへやら、薫の目には向こうの卵の方が本当に少し大きく見えてきた。
「……やっぱ返せ」
「やだ」
「おい!」
数秒でいつもの姉妹喧嘩へ戻り、秋江から「朝からやめなさい」と叱られる。
くだらない。
本当にくだらない。
夢の中の自分は大勢のエスパーを背負い、皆本は銃を握り、街は壊れていたのに、今の自分は朝食の卵が少し大きいか小さいかで姉と本気になっている。
けれど。
薫は好美を睨みながら、そのくだらなさを少しだけ大切に思った。
世界を救いたい。
今のところ、そんな大きな使命感はない。
人間とエスパーの戦争を止めると言われても、四歳の自分に何ができるのか分からない。
でも。
秋江と朝飯を食べて。
好美とくだらないことで喧嘩して。
母親に二人まとめて怒られる。
それがなくなる未来は、嫌だった。
「これがなくなるのは、ヤだな」
無意識に漏れた言葉へ、好美が眉を上げた。
「何が?」
薫は一瞬考えた後、好美の皿を指さした。
「それ」
「卵?」
「返せ」
「やだ」
「このっ!」
秋江のため息が聞こえた。
未来の戦争より、今は目の前の卵。
それでいいのかもしれない。
食後に流れていたテレビでは、エスパーの子どもへ向けた訓練施設について短く紹介していた。画面の中では薫より少し年上に見える子どもが、手を触れずに玩具を浮かせることに成功し、隣にいた指導員から褒められて嬉しそうに笑っている。
薫はその笑顔を見ながら、夢の中で戦っていたエスパーたちを思い出した。
同じ力。
今は玩具を動かして笑っている。
未来では誰かを傷つけるために使っているかもしれない。
「……そりゃ、こっちの方がいいよな」
誰にも聞こえないくらいの声で呟く。
戦争が起きてから止めることも大切なのだろう。
でも、そもそも戦争になるまで追い込まれない方がいい。
子どもが力を持っていても、それで笑っていられる場所を残した方がいい。
具体的に何をすればいいのかは分からないし、政治も社会もどうにかできる年齢ではない。だから今から全部を自分の責任だと思い込むのは、むしろ危ない。
「世界とか未来とか、四歳にやらせんなっての」
頬杖をついてぼやく。
「薫、また一人で喋ってる」
好美に言われ、薫は顔を上げた。
「考えごと!」
「何考えてるの?」
「……ねーちゃんがうるさいなーって」
「なにそれ!」
笑いながら好美が近づいてくる。
薫も逃げる。
そんなふうに一日は進んだ。
昼過ぎ、秋江と外へ出ることになり、薫はいつものように小さな手を引かれて歩いていた。空は夢とは違って青く、自転車が通り、犬を散歩させている人がいて、公園では子どもが走り回り、そのそばで親らしい大人が話している。
あまりにも普通の町だった。
だからこそ、朝見た瓦礫の街を思い出すと不思議な気分になった。
この道路が壊れる。
あの建物が崩れる。
あそこで遊んでいる子どもたちが逃げる。
本当にそうなるのか。
まだ分からない。
薫は自分よりずっと大きな秋江の手を見下ろし、その温度を確かめるように少しだけ握る力を強くした。
未来の自分は、もうこうして誰かに手を引かれて歩くことなどなかったのだろう。
「どうしたの?」
秋江が横を見る。
「……別に」
「疲れた?」
「違うって」
「甘えたい?」
「違う!」
即座に否定すると秋江が笑い、薫はむっとしながらも手を離さなかった。
未来のために今を捨てる。
それは違う。
もし将来を変えるために、家族との時間も、学校も、友達も全部後回しにして、自分だけが何十年先のことを考え続けるようになったら。
その時点で、もう未来の女王に近づいているような気がした。
守りたいのは「世界」という言葉ではない。
こうして歩く道。
握っている手。
くだらない姉妹喧嘩。
そういうものがたくさん集まった結果を、たぶん世界と呼ぶのだろう。
夜になり、薫はもう一度鏡の前へ立った。
朝とは違って、未来の自分の顔を思い出しても、すぐに目を逸らすことはなかった。
怖い。
それは変わらない。
でも。
未来の薫を別人にしてしまえば楽だという気持ちも、もうなかった。
今の自分が何年も生きた先に、あの女がいる可能性がある。
なら。
「何があったか知らないけどさ」
鏡の中の幼い自分へ向かって言う。
その向こうに、未来の女王を重ねる。
「まあ……そうならないようにはするよ」
世界を絶対救う。
未来を必ず変える。
そんな大きなことを約束する気はなかった。
何十年も生きた経験があるからこそ、自分一人でどうにもならないことがいくらでもあるのを知っている。
ただ。
誰かを知っているつもりで決めつけない。
未来だけを見て今の相手を避けない。
「守る」という言葉で、相手の人生まで自分のものにしない。
今日できることなら、そのくらいだ。
それを続けた先が違う未来なら。
それで十分だ。
布団へ入る。
目を閉じる。
すぐに銃声を思い出した。
薫は目を開いた。
もう一度閉じる。
皆本の顔。
銃。
未来の自分。
心臓が少し速くなる。
「……怖くねーし」
口にしてみる。
数秒。
「……いや、怖いわ」
薫は天井を睨んだ。
無理だった。
死ぬかもしれない。
戦争になるかもしれない。
未来の自分が大勢を戦場へ連れていくかもしれない。
怖くないはずがない。
何十年生きた記憶があったところで、恐怖まで消えるわけではないし、それを消したふりをする必要もない。
しばらく布団の中で粘ったものの、眠気よりも夢を思い出したくない気持ちの方が強く、薫はとうとう起き上がった。廊下へ出ると、リビングにはまだ明かりがあり、秋江がテレビを見ながら何かを片づけている。
「薫?」
秋江が振り返る。
「どうしたの?」
薫は少しだけ迷った。
未来の話をするわけにはいかない。
自分が破壊の女王になるかもしれない。
皆本という男に撃たれるかもしれない。
エスパーと人間が戦争をするかもしれない。
四歳の娘からそんな話を聞かされても、秋江には何もできないし、不確かな記憶で怖がらせるのも嫌だった。
だから。
「……なんか寝れない」
それだけ言った。
秋江は理由を詳しく聞かなかった。
薫の顔を少し見たあと、隣の座面を軽く叩く。
「じゃあ、少しここにいれば?」
薫はソファまで歩き、まだ一人では少し高い座面へ身体を持ち上げて座った。しばらく距離を空けていたものの、何も言わない秋江の隣が思ったより落ち着くことに気づき、最後には自分から少し身体を寄せた。
前の人生なら逆だった。
眠れない子どもが来たら、テレビの音量を下げ、理由を無理に聞かず、眠くなるまで横へ座らせた。自分では大したことをしているつもりなどなかったが、今こうしてされる側になってみると、何も解決していなくても「一人ではない」というだけで呼吸が楽になるのだと分かる。
「明日起きられなくなるわよ」
秋江が言った。
世界の未来なんて知らない。
予知も。
戦争も。
皆本も。
ただ明日の朝に娘が起きられるかを心配している。
その普通さが、今はありがたかった。
「分かってる」
「なら寝なさい」
「寝れないんだって」
「じゃあ眠くなるまでいれば?」
「……うん」
それだけだった。
未来を変える答えではない。
戦争を止める方法でもない。
でも、今夜を越えるには十分だった。
薫は秋江の肩へ少しだけ頭を預け、目を閉じた。
未来。
葵にもまだ会っていない。
紫穂にも。
皆本にも。
兵部にも。
能力だってまだ出ていない。
今の自分は、明日の朝になれば秋江に起こされ、好美と何かで喧嘩し、腹が減れば飯を食うだけの子どもだ。
だったら。
今日できることは。
今日を雑に生きないこと。
未来とは、生まれた時点ですべて決まっているものではなかった。
前世の子どもたちだって、幼い頃に好きだったものをずっと好きだったわけではない。苦手だったことをいつの間にかできるようになり、親の知らない友達が増え、こちらが「こうなるだろう」と思っていた姿とは違う方向へ少しずつ成長していった。
一日で人間が変わったわけではない。
今日何を選んだ。
誰と話した。
何を失敗した。
誰かへ謝った。
許した。
頼った。
そういう小さなものが重なって、何年も先の人間になる。
なら。
未来の自分だって同じはずだ。
今から毎日少しずつ違うものを積めば、同じ場所へ着かない可能性はある。
「……ま、明日のあたしに任せるか」
小さく呟く。
秋江には聞こえなかったのか、返事はない。
それでいい。
薫は目を閉じた。
銃口はまだ記憶に残っている。
破壊の女王も。
怖さも消えていない。
それでも、朝とは少し違って見えた。
あれは今の自分へ向けられた銃ではない。
まだ遠い。
何年も先にあるかもしれない、一つの警告。
そこへ向かう道は、これから始まる。
なら。
明日は明日の分だけ、ちゃんと生きればいい。
薫は秋江の肩へ預けていた力を少しだけ抜き、そのままゆっくりと眠りへ落ちていった。