彼女達の未来のために 作:おっさんとチルドレン
翌朝、薫は目を覚ましてからしばらく布団にくるまっていたが、昨夜ほど未来の銃口に意識を奪われることはなかった。破壊の女王と呼ばれる未来の自分も、苦しそうな顔で銃を向けていた皆本も、記憶から消えたわけではない。ただ、それを今日すぐにどうにかしなければならないものとして考えることを、いったんやめただけだった。
廊下の向こうから好美の「薫、洗面所使うよー」という声が聞こえると、薫は考えるより先に布団を跳ね上げた。何十年先の戦争について悩んでいても、朝の洗面所が姉との早い者勝ちであることまでは変わらない。小さな足で廊下を走り、好美より半歩早く扉に手をかけると、薫は勝ち誇ったように振り返った。
「待った! あたし先!」
「まだ来てなかったじゃん!」
「今来た!」
「それズルくない?」
「早い者勝ちだろ!」
好美が頬を膨らませるのを横目に、薫は踏み台を引き出して洗面台の前に立った。昨日までなら、この高さや小さな身体に妙な違和感を覚えることもあったが、今朝はかなり自然に動けている。未来を知ったからといって世界が変わったわけではないが、今の生活を今の生活として受け取る余裕は少し増えていた。
朝食でも、薫は秋江と好美の会話を聞きながら普段どおりにパンを食べていた。ところがスプーンへ視線を落とした瞬間、昨日テレビで見た能力者の子どもが頭に浮かぶ。手を触れずに玩具を浮かせ、成功したことを褒められて嬉しそうに笑っていた、あの小さなエスパーだった。
自分にも、本当にできるのだろうか。
明石薫が将来かなり強いサイコキノになることは、曖昧な記憶の中でもかなり確かな部類に入る。それなら、この身体のどこかにはすでに能力が眠っている可能性が高い。何かの拍子に突然出るのなら、何も知らないまま迎えるより、安全な場所で確かめた方がいい。
薫はスプーンを見つめながら、ほんの一瞬だけ「浮け」と念じてみようかと考えた。けれど、目の前には秋江がいて、好美もいて、テーブルには割れる食器がいくつも並んでいる。能力の規模が分からない以上、好奇心だけで家の中を実験場所にする理由はなかった。
「……やっぱ外だな」
「何が?」
秋江に尋ねられ、薫は顔を上げた。
「なんでもない」
「最近、それ多くない?」
「考えごとしてんの」
「四歳なのに?」
好美まで同じことを言うので、薫は眉をつり上げた。
「四歳でも考えるっての!」
朝食を終え、秋江が食器を片づけ始めたところで、薫はなるべく何でもない調子を作って声をかけた。公園なら家の中より広く、周囲に人がいない場所も探せるかもしれない。能力を試すとは言えないが、外へ出ること自体なら不自然ではないと思った。
「ねー、ママ」
「なに?」
「ちょっと公園行ってきていい?」
秋江の手が止まった。
「誰と?」
「一人」
「だめ」
間を置かずに返され、薫は思わず瞬きをした。
「なんで?」
「なんでって、一人で行かせられないでしょ」
「すぐそこじゃん」
「すぐそこでも、一人はだめ」
言われてみれば、何一つおかしくない。四歳前後の娘が一人で公園へ行きたいと言って、それを気軽に許す親の方が心配になる。前世の自分だって、子どもから同じことを言われれば、秋江とほとんど同じ返事をしたはずだった。
理屈では完全に納得できる。
それなのに、口から出た言葉は違った。
「でも、ほんとに近いじゃん」
秋江が少し眉を寄せる。
「近いとか遠いとかじゃないの。薫はまだ小さいんだから、一人はだめ」
その一言が、思った以上に胸へ引っかかった。
まだ小さい。
そんなことは分かっている。昨日だって、自分が母親に手を引かれる年齢だと何度も考えた。洗面台には踏み台が必要で、一人では行けない場所があり、生活のほとんどを大人に守られている。
けれど、自分で認めるのと他人から当然のこととして言われるのは、少し違った。
「分かってるって!」
思ったより大きな声が出た。
秋江も笑って流さず、薫の目を見る。
「分かってるなら聞きなさい」
「聞いてるだろ!」
「聞いてないから言ってるの!」
秋江が正しいことは、薫自身が一番よく分かっていた。前世の自分なら、むしろ今の薫を見て「どうして分からないんだ」と苛立ったかもしれない。その記憶まで残っているのに、胸の奥に溜まった不満だけは、正論を並べても少しも小さくならなかった。
数日前までの感覚では、自分は一人で車を運転し、仕事へ行き、必要なら子どもを連れてどこへでも出かけられた。それが今は、家の近くの公園へ行くことさえ、自分一人では決められない。事情は分かるのに、自由を取り上げられたような感覚だけが、どうしても先に立った。
「薫、最近ちょっと生意気じゃない?」
好美が横から口を挟んだ。
普段なら「うるさい」で終わる軽口だったが、今はタイミングが悪かった。
「ねーちゃんは黙ってろ!」
「なにそれ!」
「関係ないだろ!」
「薫が勝手に怒ってるから言っただけじゃん!」
「うっさい!」
言い返した直後、薫自身が一番先に「まずい」と思った。秋江は間違っていないし、好美だっていつもの調子で口を挟んだだけで、本気で腹を立てる理由などない。前世の経験を持ち出すまでもなく、一度息を吸って頭を冷やせば済む話だった。
そう考え、薫は深く息を吸おうとした。
けれど、感情は頭で考えた通りには止まらなかった。
カタ、と小さな音がした。
最初は誰も気にしなかったが、テーブルの上のスプーンが、誰も触れていないのに細かく震えていた。その隣ではコップの水面に薄い波紋が広がり、閉じた雑誌の表紙が風もないのにわずかにめくれ、少し離れたカーテンまで不自然に揺れ始める。
好美が最初に気づいた。
「……なに?」
薫もその視線を追い、震えているスプーンを見る。
誰も触っていない。
それなのに、スプーンはゆっくりとテーブルから離れた。
「え」
能力。
そう理解した瞬間、怒りとは別の驚きが身体を駆け抜けた。すると、それまでスプーン一つに留まっていた異変が一気に広がり、フォーク、リモコン、雑誌、クッション、床に置かれた玩具まで、重力を忘れたように宙へ浮き上がった。
「薫……?」
秋江の声が聞こえる。
けれど、薫は答えられなかった。
視界に入る物だけではなく、部屋の中にある物の位置や重さが、妙にはっきりと意識へ入ってくる。一つずつ触れている感覚ではなく、部屋全体が見えない巨大な掌の内側へ入り、その掌を自分の意思だけで握れるような感覚だった。
テーブル。
椅子。
ソファ。
食器棚。
床に散らばった玩具。
壁。
さらに、その向こう。
意識を少し広げるだけで、今浮いている軽い物よりずっと大きなものまで掴めそうだった。しかも恐ろしいことに、その感覚の先にはまだ余裕があり、今使っている力など本当に一部分でしかないことまで分かってしまう。
「……っ」
食器棚が低く軋んだ。
ミシッ、と嫌な音が響き、大きな棚が床からほんのわずかに浮きかける。中の皿が一斉に鳴り、窓ガラスまで細かく震え始めると、秋江の顔からさっきまでの怒った表情が消え、好美も息を呑んだまま動けなくなった。
薫も、そこでようやく理解した。
これは危ない。
思っていたより強い、という程度ではない。
まだ出る。
今浮かせている物を全部合わせても、力を使い切った感覚がまるでない。むしろ、感情に押されて開いた何かを、自分がまだ止めていないだけなのだと身体の方が理解していた。
「止め――」
そう言いかけた瞬間、棚の上に置かれていた写真立てが横へ滑った。
空中で少し傾き、そのまま好美の方へ向く。
ガラスの入った写真立てだった。
角が、姉の顔の方へ向いている。
好美は動けない。
その瞬間、それまで胸に残っていた苛立ちは一気に消えた。
代わりに、もっと強い感情が身体の奥から突き上がる。
危ない。
前の人生で、道路へ飛び出しかけた子どもの腕を咄嗟に掴んだことがある。椅子から落ちそうになった身体へ手を伸ばし、熱いものへ触れようとした小さな指を止めたこともあった。あの時と同じで、何をすべきか考えるより先に、守らなければという感覚だけが身体を動かした。
「止まれ!」
部屋のすべてが静止した。
好美へ向いていた写真立ても、宙に浮いたスプーンも、傾いた雑誌も、浮きかけていた家具も、その瞬間だけ時間から切り離されたように動きを止めた。さっきまで聞こえていた食器の音さえ消え、薫自身の荒い呼吸だけが、急に静かになった部屋へ残る。
止めた。
でも、これで終わりではない。
全部を一度に落とせば、食器は割れ、写真立ても床へ叩きつけられる。好美や秋江の近くにある物は、ただ下ろすのではなく、まず二人から離さなければならない。
薫は歯を食いしばり、空中の物へ意識を向けた。
落とすな。
好美から離せ。
割れる物はゆっくり。
軽い物から戻す。
家具はその場で下ろす。
一度に全部ではなく、一つずつ。
頭の中で順番を作りながら、部屋全体へ広がっていた力を狭めていく。巨大な掌で何もかも一緒に握っている感覚を、指先だけで小さな物をつまむような感覚へ変えようとする。
大きすぎる。
もっと小さく。
出しすぎるな。
蛇口を閉めるように、少しずつ細くする。
最初にスプーンがテーブルへ戻り、小さな金属音を立てた。続いてフォーク、雑誌、リモコン、クッション、玩具が順番に元の場所へ近づき、食器棚も余計な揺れを起こさないよう床へ静かに戻っていく。
最後に残ったのは、好美の近くで止めた写真立てだった。
薫はそこだけへ意識を絞る。
いきなり落とさない。
まず好美から離す。
それから少しずつ下へ。
写真立ては空中を滑るように移動し、テーブルの中央まで来ると、最後にはほとんど音を立てずに置かれた。
コト、と小さな音だけが響いた。
それを境に、部屋は完全に静かになった。
薫はすぐには動かなかった。
まず好美を見る。
顔にも手にも怪我はない。
次に秋江を見ると、こちらも何かにぶつかった様子はなく、驚いてはいるものの立ったままこちらを見ている。二人の無事を確認できて初めて、薫は自分がずっと息を詰めていたことに気づいた。
「……大丈夫?」
自分でも、どちらに聞いたのか分からなかった。
好美が何度か瞬きをしてから、ようやく口を開く。
「……薫、今のやったの?」
誤魔化せる状況ではなかった。
薫は自分の小さな手を見下ろし、指を一度だけ握る。
「……たぶん」
次に動いたのは秋江だった。
後ずさるのではなく、薫のところまで来て目線を合わせるようにしゃがみ、肩や腕を確かめるように触れる。その手に恐る恐るといった様子がなかったことが、薫には意外だった。
「薫、怪我してない?」
「え?」
「頭痛いとか、どこかぶつけたとかない?」
怒られると思っていた薫は、一瞬返事が遅れた。
「……あたしは平気」
そう答えてから、今度は薫が秋江の手や腕を見る。
「ママは?」
「私?」
「どっか当たってない?」
「大丈夫よ」
「ほんとに?」
「ほんと」
薫は好美へ顔を向けた。
「ねーちゃんも?」
「う、うん」
「顔とか当たってない?」
「当たってないよ」
二人とも大丈夫だった。
その事実が分かった途端、それまで張りつめていたものが切れ、薫の膝から急に力が抜けた。秋江が慌てて身体を支えたが、能力を使いすぎたような疲労はなく、震えているのは単純に恐怖が遅れて追いついてきたせいだった。
自分が。
家族を。
傷つけるところだった。
その事実を認識した瞬間、頭の奥で別の記憶がかすかに繋がった。
幼い明石薫。
母親。
癇癪。
念動力。
怪我。
前の人生でどこかで見たか、読んだかした情報だと思うが、細部はぼやけている。今の出来事がそれと同じものだったと断定することはできないものの、もし自分が止めなければ何か似た事故になった可能性は十分にあった。
薫は秋江を見上げた。
もし写真立てだけで済まなかったら。
棚が倒れていたら。
もっと重い物を動かしていたら。
自分の感情が、秋江か好美へ直接向いていたら。
考えたくもなかった。
「……よかった」
思わず漏れた声に、秋江が首を傾げる。
「何が?」
薫は少し間を置いてから、二人を順番に見た。
「怪我しなくて」
それだけだった。
大きな未来が変わったかどうかなど分からない。
自分が覚えている出来事と、今起きたことが本当に同じだったのかも分からない。
ただ、今日は誰も怪我をしなかった。
今はそれで十分だった。
緊張が少し薄れ始めると、好美はさっきまで浮いていた物を見回し、恐怖よりも好奇心の方を取り戻していった。テーブルのスプーンを見て、食器棚を見て、それから床へ座ったままの薫へ視線を戻す。
「薫……エスパーなの?」
「……みたい」
「すごいじゃん!」
好美の目が一気に輝いた。
薫は反射的に眉を寄せる。
「すごくねーよ」
「え?」
「あたし、ねーちゃん怪我させるとこだっただろ」
好美の笑顔が少しだけ止まった。
薫はテーブル中央の写真立てを見る。位置が少しずれているだけで、ガラスも割れていないし、誰にも当たらなかった。だからこそ、その結果が偶然ではなく、自分が最後に止められたからなのだと思うと、さっきの力を素直に喜ぶ気にはなれなかった。
「浮かせられたからって、それだけですごいわけじゃないだろ」
「でも、止めたじゃん」
好美が言う。
薫は返事に詰まった。
確かに止めた。
でも、最初に暴発させたのも自分だ。
「……次は、最初からやらない方がいい」
その言葉に、秋江が静かに息を吐いた。
「そうね。でも、怒らないこと自体を目標にするのは違うと思う」
薫が顔を上げる。
秋江は少し困ったように笑っていた。
「怒ることもあるし、びっくりすることもあるでしょ。薫だけ一生それを我慢するなんて無理よ」
「でも、また今みたいになったら危ないじゃん」
「だから、どうしたら安全に使えるのかを、大人と一緒に調べればいいの」
秋江の口調に責める響きはなかった。
薫はその言葉を聞きながら、自分が一番ショックを受けている理由に少しずつ気づいていった。能力が出たことも、その力が想像以上だったことも怖いが、それ以上に、自分は感情をもっと上手く扱えると思い込んでいた。
前世では大人だった。
二人の子どもも育てた。
仕事もした。
人と喧嘩する時も、黙るべき時も、謝るべき時もそれなりに知っている。
だから、今の幼い身体になっても、少なくとも感情で暴走するようなことは避けられると思っていた。
今日、それが違うと分かった。
秋江が正しいことも、好美に怒る理由がないことも、最初から全部分かっていた。それでも腹が立ち、声を荒げ、能力まで動いた。知識があることと、感情を自由に止められることは、まったく別だった。
今の身体には、今の身体の反応がある。
今の明石薫には、今の明石薫の感情がある。
前世の男が、この少女の身体を上から操縦しているわけではない。
「……そっか」
何に納得したのか、自分でもうまく説明できなかった。
それでも、薫は少しだけ自分の見方を変えなければならない気がした。大人の記憶があるから大丈夫ではなく、大人の記憶も幼い身体も、今の感情も全部合わせて自分なのだと考えた方が、さっきの出来事には辻褄が合った。
秋江はその日のうちに、能力者向けの相談窓口へ連絡を入れた。
薫はリビングの端に座り、会話を聞きながら、さっきの感覚を何度も頭の中で確かめていた。秋江は「初めてです」「複数の物が浮きました」「怪我人はいません」と順番に説明し、電話の向こうから何か尋ねられるたび、薫や好美へ確認しながら答えていく。
「家具も少し浮いたように見えました。本人は意識があって、最後は自分で止めたみたいです」
その言葉を聞いた時、薫は視線を下げた。
最後は止めた。
確かにそうだ。
けれど、秋江には説明できない部分がある。
あの時、自分は家具を浮かせようとすらしていなかった。
部屋全体が掌の内側へ入ったように感じ、その気になればもっと広い範囲まで掴めそうだった。今浮いた物の総重量がどの程度だったとしても、力そのものを使い切った感触はなく、むしろ自分の方から途中で出口を絞ったという感覚の方が強い。
やがて電話を終えた秋江が振り返った。
「数日後に、ちゃんと検査してくれるって」
「数日後?」
「うん。それまでは、わざと能力を使わないこと。もしまた勝手に出そうになったら、危ない物から離れること」
「……そっか」
「何か変な感じがしたら、すぐ私に言ってね」
薫は頷きながら、別のことを考えていた。
検査。
そこで今の力をそのまま出したら、どうなる。
頭の中に、一つの数字が浮かぶ。
超度7。
以前は記憶の中にある設定の一つでしかなかった。自分が本当に同じだけの力を持っているのかは、実際に測ったわけでもないので確信できなかった。それでも今日、部屋の中で感じた余裕を思い返すと、少なくとも弱い能力ではないことだけは否定しようがない。
「……七、マジっぽいな」
「なに?」
好美に聞かれ、薫はすぐ首を振った。
「なんでもない」
もし本当に超度7なら。
検査で全部を見せた瞬間、自分の扱われ方は大きく変わるかもしれない。
B.A.B.E.L.。
ザ・チルドレン。
未来の自分。
昨日まで思い出したものが、一気に近づいてくる。
もちろん、強い能力者だからといって即座に何かを強制されるとは限らない。自分の知識が穴だらけである以上、そこも決めつけるべきではない。それでも、何も分からない今の段階で「自分にはこれだけできます」と上限まで見せる必要もない気がした。
まだ何も選んでいない。
葵にも。
紫穂にも。
皆本にも会っていない。
なのに、能力の数字だけで自分の進む場所が決まるのは嫌だった。
ただし、隠すと決めるにしても、問題はある。
どうやって。
薫は自分の手を見た。
さっきは能力を出そうとしたのではなく、怒った結果として勝手に広がった。その状態から無理やり絞ることはできたが、最初から小さな力だけを出せるかどうかは分からない。検査で「少しだけ」と思った瞬間に部屋中の物を浮かせれば、隠すどころの話ではなくなる。
夕方になっても、薫はその問題を頭の中で転がしていた。
好美はすでに怖さより興味の方が勝ったらしく、「もう一回なんか浮かせて」と何度か言ってきたが、そのたび薫は断った。秋江から使わないように言われたからという理由もあるが、何より家の中でもう一度試す気にはなれなかった。
「消しゴムくらいいいじゃん」
「ダメ」
「スプーンは?」
「ダメ」
「ティッシュ」
「もっとダメ」
「なんでティッシュの方がダメなの?」
「散らかったらめんどい」
好美が笑う。
その顔を見て、薫も少しだけ肩の力を抜いた。
さっき危険な目に遭わせた相手が、もういつもの姉に戻っている。それがありがたかった。
同時に。
次も同じように終わる保証はない。
その事実だけは忘れてはいけない。
夜になり、自分の部屋へ戻った薫は、机の前に座って小さな消しゴムを見つめていた。
軽い。
柔らかい。
落としても割れない。
今試すなら、一番安全そうな物に見える。
念じれば動く気がする。
今日の感覚を思い出せば、むしろ消しゴム一つだけを動かす方が難しいのではないかと思うほど、身体のどこかに力の存在が残っていた。さっきのような感情の爆発がなくても、少し意識を向ければ届きそうな、奇妙な確信がある。
薫は机へ片手を伸ばしかけた。
途中で止める。
家の中だ。
隣には秋江がいる。
好美もいる。
今日、自分は本当に家族を傷つけかけた。
昨日までなら「危ないかもしれない」と想像するだけだったが、今は違う。
危ないと知っている。
それなのに好奇心だけで試すなら、さっきの反省が何も生きていない。
薫は手を膝へ戻した。
「……今日はやめとこ」
そう決めること自体は難しくなかった。
問題は、その先だった。
一切使わなければ安全なのか。
答えは違う。
今日は使おうとしたから暴発したわけではない。
怒ったら出た。
なら今後、怒らないようにするのか。
驚かない。
怖がらない。
泣かない。
焦らない。
そんな生き方は無理だ。
前世で何十年生きていても、今日の怒りすら完全には止められなかった。これから葵や紫穂と出会い、危険な事件に関わるなら、今より強い感情を抱く場面はいくらでも出てくるだろう。
使わないことだけを覚えても、暴発は防げない。
むしろ必要なのは逆だった。
自分の意思で出す。
自分の意思で止める。
必要な量だけ使う。
それができなければ、次に怒った時も同じことが起こる。
「……練習しない方が危ないな」
薫は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
数日後には検査がある。
それまで何もしなければ、自分がどの程度の力を出すのかも分からないまま本番になる。全部を見せたくないと思っても、「全部」と「少し」の境目すら知らないのでは、隠しようがない。
安全な場所が必要だ。
周囲に人がいない。
壊れる物がない。
誰かが近づいてきたら、すぐやめられる。
最初に使う物も、できるだけ軽くて危なくないものがいい。
そこまで考えたところで、薫は自分が朝に公園へ行きたがった理由を思い出し、少しだけ苦い顔をした。
結局、公園へ行きたいという判断そのものは間違っていなかった。
ただし、一人で勝手に出かけようとしたのが駄目だった。
「……ママにバレないように行くのも、同じだよな」
明日どうするか。
その答えはまだ出ない。
秋江へ能力の練習をしたいと言えば、相談窓口から止められている以上、たぶん許してはくれない。それでも、危険だから何もしないという選択にも、自分はもう納得できなくなっている。
さらにもう一つ。
検査で本当の上限を見せない。
その方針だけは、少しずつ固まり始めていた。
今日の時点では、何を目標にすれば自然なのか分からない。超度4という数字を思い出しても、それが実際にどの程度の出力なのか、身体の感覚だけで再現できる保証もない。だからまず必要なのは、隠す数字を決めることではなく、自分の中にある大きすぎる蛇口を少しだけ開ける方法を知ることだった。
しばらくして、扉が軽く叩かれた。
「薫、起きてる?」
「起きてる」
秋江が部屋へ入ってくる。
昼間と違い、もう寝るだけの時間だったからか、秋江の表情にも少し疲れが見えた。突然娘がエスパーだと分かり、家の物が浮き、相談先へ連絡までしたのだから、当然といえば当然だった。
秋江は薫のそばへ来ると、机の上ではなく薫本人を見る。
「今日、怖かった?」
薫は少し迷った。
いつもの調子なら「別に」と答えたかもしれない。
けれど昨日、未来の夢を見た夜に、怖いものを怖くないと言い張っても何も楽にならないことを知った。今日も同じだった。家族を傷つけかけた恐怖まで、平気なふりをする必要はない。
「……ちょっと」
秋江は笑わなかった。
「そっか」
それだけ言って、薫の髪をゆっくり撫でる。
「でも、一人で何とかしなくていいからね。ちゃんと調べてもらって、どうしたらいいか一緒に考えよう」
薫は返事をするまで少し時間がかかった。
一人で何とかしなくていい。
昨日の未来について考えた時にも、似たようなところへ辿り着いた。
それなのに能力が出た途端、自分はもう「どう隠すか」「どう練習するか」を一人で考え始めている。
矛盾している。
自分でも分かる。
それでも、本当の力については簡単に話せない気がした。
秋江を信用していないわけではない。
好美も同じだ。
むしろ大事だからこそ、自分が知っている未来や破壊の女王まで全部背負わせたくない。能力が強いかもしれないという話と、自分が将来戦争の中心になるかもしれないという話では、重さが違いすぎる。
「……うん」
だから今は、それだけ答えた。
秋江に嘘をつく必要はない。
自分でも上限は分からない。
検査までどうなるかも分からない。
その中で、言わなくていいことまで全部話す必要もない。
秋江が部屋を出たあと、薫はもう一度机の消しゴムを見た。
今なら浮かせられるかもしれない。
試したい気持ちは消えていない。
けれど今日は触らない。
明日。
もっと安全な場所で。
まず、小さな物を動かす。
それから止める。
何より、今日のように部屋全体へ力が広がらないようにする。
検査で何を見せるかを決めるのは、その後だ。
薫はベッドへ入りながら、自分の手をもう一度見た。
小さい。
何か特別なものが見えるわけでもない。
それでも今日、この手で触れてすらいない物をいくつも浮かせ、重い家具まで動かしかけた。その力が身体のどこにあるのかは分からないが、もう「知らなかった」で済ませることはできない。
世界の未来を変えるより先に。
まず、自分をどうにかする。
それができなければ、誰かを守るどころか、自分が一番危ない。
「……まず、止められるようになんないとな」
薫はそう呟き、机の上へ最後に視線を送った。
消しゴムは動かない。
鉛筆も。
玩具も。
何も浮いていない、いつもの部屋だった。
その当たり前の静けさを今までより少しありがたく感じながら、薫は布団を引き上げた。
明日から。
力の使い方を覚える。
誰かに決められる前に、まず自分で自分の力を知る。
そして、数日後の検査までに。
どこまで見せるのかを決める。
薫はそこまで考えてから、ふと自分の思考がまた先へ走り始めていることに気づいた。
「……明日のあたしに任せるんだった」
昨日、自分で言ったばかりだ。
少し笑う。
未来の女王。
超度7かもしれない力。
数日後の検査。
考えることはいくらでもある。
でも今夜の仕事は寝ることだ。
薫は目を閉じた。
今日、誰も怪我をしなかった。
まずはそれでいい。
次に同じことが起きた時も、そう言えるようにする。
そのための最初の一歩を、明日から始めればよかった。