シエルカウンターが制定されて、しばらく。
最初はただの悪ふざけだったはずなのに、結果だけを見ると妙なほど実用的だった。
飲酒量は減った。
食事は三食。
睡眠も一定。
余計なことを口走る回数まで減った。
気づけばシュテルの生活は、以前とは比べものにならないほどまともになっていた。
「昨日の飲酒量」
「一本」
「食事」
「三食」
「睡眠」
「七時間ちょい」
「無駄遣い」
「してない」
「…………真人間ですね」
「元から人間だよ!」
飲んだくれだった男は、コーヒーを飲み、自分でできることは自分でするようになった。
ただし。
一つだけ、まるで改善されなかったものがある。
シエルへの甘さだった。
何でも許すわけではない。危険なら止める。無茶なら却下する。
けれど、安全を確認できて、本人が本当にやりたそうにしているなら。
最後には、だいたい付き合う。
「D・ボードのブースター出力を、あと三パーセントだけ」
「駄目」
「二パーセント」
「駄目」
「一パーセント」
「……安全係数再計算してから」
「ありがとうございます」
「まだ許可してないよ」
結局、一・二パーセントまで。姿勢制御補正追加。夜間最大出力禁止。雨天禁止。単独テスト禁止。
「ほんとに速いの好きだねえ」
「嫌いではありません」
「その言い方するとき、大体かなり好きなんだよ」
別の日。
「新しいSpのテストを。三戦」
「二戦」
「三戦」
「二戦」
「二戦半」
「半とは?」
「三戦目は俺が疲れたら終わり」
「分かりました」
クロウたちは気づく。
「シエル、お前シュテル相手だと結構わがまま言うよな」
「そうでしょうか」
「言ってる!」
シエルはシュテルへ。
「迷惑ですか?」
「別に。安全なら好きにやればいいよ。危ないことだけは止める。あと飯と睡眠」
「分かっています」
そんな二人を、遊星は何度も目にしていた。
最初は単に仲がいいのだと思った。
次に、以前からの知り合いだから距離が近いのだと思った。
けれど、見れば見るほど説明が足りない。
シュテルはシエルを甘やかすだけではない。
どこまで任せ、どこから止めるかを、妙に正確に知っている。
遊星は、その違和感をすぐ口には出さず、静かに覚えていた。
◇
夜。
作業を終えたガレージは、昼間とは別の場所のように静かだった。
整備灯だけが机を照らし、冷え始めた金属が時折小さく鳴る。
残っているのは遊星とシュテルだけ。
シュテルはD・ボードの走行ログを眺め、遊星は工具を片づけながら、何度かその横顔を見ていた。
「シュテル。前から気になっていた。シエルとはどこで知り合った?」
「前に介抱された」
「それは聞いた。でも、あれが最初じゃないんじゃないか?」
シュテルの指が止まる。
遊星は問い詰める口調にはしなかった。
一つずつ。
自分が見てきた事実だけを並べていく。
「お前はシエルのデッキを知っていた。本人が知らなかった閃刀姫を」
シュテルは黙ったまま。
「シエルがどう戦うかも。D・ボードも、普通の車体は合わないと最初から分かっていた」
言葉を重ねるほど、偶然で説明できる範囲が狭くなっていく。
「未来を知っているから?」
「それだけじゃない」
「シエルが何を気に入るか。何を嫌がるか。どこまでなら無茶をするか。何を言えば納得するか。シエル本人が気づいていないことまで、お前は知っている」
シュテルは何も言わない。
「未来を知っているだけなら、シエルにあんな顔はしない」
「どんな?」
「父親みたいな顔」
「クロウたちの冗談だろ」
「俺はそう思ってない」
遊星は続ける。
「シエルはお前の娘じゃない。血も繋がってない。同じ世界の人間でもない。なのに娘みたいに扱ってる」
守るだけではない。
好きにさせる。
失敗しても、すぐ答えを教えない。
危険なら止める。
本人が選んだなら、最後は付き合う。
「それって、育てる側の距離なんじゃないか?」
遊星の中で最後の一つが繋がる。
シュテルは5D'sを物語として知っている。
なら、シエルの世界も同じなのではないか。
そこまで考えたとき。
遊星の中で、散らばっていたものが一つの線になった。
5D'sを「物語」として知っている男。
なら、別の世界についても同じ立場で知っている可能性がある。
そしてシエルに対してだけ見せる、あの距離。
「……お前」
遊星は短く息を吸う。
「シエルを作ったのか?」
ガレージの冷却ファンの音だけが、妙に大きく聞こえた。
長い沈黙。
シュテルは否定しなかった。肯定もしない。
「遊星。そういうとこ鋭いね」
「答えになってない」
「答える気ないから」
「そうか」
遊星はそれ以上追及しない。
「もし俺の考えが当たってるなら、シエルには言わないのか?」
「言わない」
「何故?」
「意味がないから」
シュテルは静かに言う。
「仮に俺が嬢ちゃんを作った側だったとしても」
シュテルは、すぐ隣に置かれたD・ボードへ目を向けた。
あれを作りたいと言ったのも。
もっと速くしたいと言ったのも。
閃刀姫を面白いと思ったのも。
全部、今ここにいるシエル自身だ。
「今ここにいる嬢ちゃんは俺の所有物じゃない。俺がこうしろって言ったから生きてるわけでもない」
D・ボード。
デッキ。
コーヒー。
ガレージ。
自分で選んだもの。
「自分で考えて、自分で選んで、俺にわがまま言って、シエルカウンターまで勝手に作ってる」
「それは結構楽しんでるな」
「正直ちょっと面白い。本人には言わないで」
「分かった」
「だから俺が何者かなんて、嬢ちゃんにはそんなに重要じゃないよ。今の俺はただのシュテル。偽名だけど」
遊星は少し考え。
「でも少し分かる気がする。作ったからって、その先まで決める権利があるわけじゃない」
「…………」
「お前も、シエルが自分で選ぶのを見たいんじゃないか? だから答えを知ってても黙ってる」
「俺、そんな立派じゃないよ」
「立派かどうかは関係ない」
遊星は言う。
「シエルがお前にわがままを言える。それで十分なんじゃないか?」
シュテルは珍しくすぐには返さなかった。
翌朝。
「シュテル。お願いがあります」
「D・ボードのブースター、一・五にしたいとかでしょ」
「…………何で分かったんですか」
「分かるよ。嬢ちゃんだから」
「では一・四」
「駄目」
「一・三」
「安全計算してから」
「ありがとうございます」
シエルは少し嬉しそうに遊星とブルーノのところへ向かう。
その背中を見送るシュテル。
遊星が隣に来る。
「やっぱりそう見える」
「言うな」
「何も言ってない」
「顔に出てる」
遊星は、それ以上何も言わなかった。
答えを無理に引き出す必要はない。
少なくとも今、シエルが彼を「シュテル」と呼び、シュテルがその声に振り返る。
その関係が嘘ではないことだけは分かる。
証拠はない。
本人も認めない。
でも一つだけ、ほぼ確信していた。
シュテルはシエルの父親ではない。
けれど、おそらく彼女が生まれるよりも前から彼女を知っていた人間。
そして今では、自分が作った答えを押し付けるのではなく、彼女自身の答えを隣で見ていたいと思っている人間。
シエルが「シュテル」と呼び。
シュテルが「はいはい」と答える。
今は、それだけで十分なのだと思った。