翌朝。
洗面所の鏡の前に立ち、見慣れてきたとはいえ、まだ時々その美貌にビビるが、ウマ娘の顔を眺めながら、ゆっくりと歯を磨いていた時のことだ。
洗面台に置いていたスマホが、ブルッと短く震えた。
またいつものように、昨夜のポージング配信の切り抜き動画への「いいね」か、熱烈なファンからの賞賛コメントだろう。そう思って何気なく画面に目を落とした俺は、ピタリと歯ブラシを動かす手を止めた。
『アカウント名:空都茎
「話題になってるから見てみたら、ただの顔が良いだけの素人じゃん。ウィッグの質感も変だし、マンハッタンカフェの解釈も浅い。コスプレの基本すらわかっていない。これだからにわかは」』
「……は?」
完全な的外れである。そもそもウィッグではなく地毛(本物)だし、解釈も何も本人の魂が横でコーチングしているのだから、これ以上の「本物」は次元を超えない限り存在しない。
「……なんだこれ」
口をゆすぎながら眉をひそめていると、空中のカフェがふわりと近づいてきて、俺の肩越しにスマホの画面を覗き込んだ。
『ああ、ありがちなものですね』
「そうなん?」
『はい。大体やっかみですから、お気になさらず』
カフェは黄金の瞳を細め、涼しい顔でふふっと笑った。あちらの世界でも、トレセン学園のウマ娘たちは常にメディアや世間の目に晒されている。こういう心ない言葉(アンチコメント)の類には、ある程度耐性がついているのだろう。
「ま、そういうことなら」
俺も日雇いの現場で理不尽な怒号を浴びるのには慣れている。顔も見えないネットの有象無象の戯言など、痛くも痒くもない。俺は躊躇なくその『空都茎』というアカウントをブロックし、スマホをポケットに突っ込んで朝食の席(もちろん、山盛りの白米とキャベツ付き)についた。
ところが。
もっしゃもっしゃとキャベツを平らげていると、スマホが断続的にブブッ、ブブッと鳴り始めた。
画面を開くと、先ほどのアカウントのコメントを起点にしたのか、あるいはどこかの界隈で晒されたのか、新たなアカウントが、イナゴのように湧いてきた批判コメントが通知欄を埋め始めていた。
『ちょっとバズったからって調子乗るな』
『キャラへのリスペクトが足りない。もっと勉強してから出直してこい』
『声作ってるのバレバレでキツい』
『所作がたまに男っぽい。見てて不快』
(最後の一個は図星だけどな……!)と内心で冷や汗をかきつつも、全体的に上から目線の謎の説教コメントが大半を占めていた。中には名前を出さずに、鍵垢でのコメントや評価もあるようだ。
もちろん、数万という好意的なフォロワー数からすれば、ほんの数十件のノイズに過ぎない。数は少ないのだが、目に入るとひたすらに鬱陶しい。
「……バカがオオクネー?」
箸を止めた俺は、思わず半目でそう呟いた。本物のマンハッタンカフェの肉体と魂に向かって「解釈違い」だの「リスペクトが足りない」だのと言いがかりをつけてくるのだから、滑稽を通り越して呆れてしまう。
俺の言葉に、空中のカフェはコーヒーの香りを楽しみながら、ゆっくりと肩をすくめた。
『まぁ、色々な方がおられますから』
彼女はどこ吹く風といった様子で、全く気にした素振りを見せない。だが、その足元では違った。
―――シュッ、シュッ!
お友達が、なぜか見事なフットワークでステップを踏み、虚空に向かって鋭いワンツーパンチ(ボクシングポーズ)を繰り出していた。どうやら彼女(?)は、カフェ本人よりも圧倒的に好戦的な気性らしい。「アンチども、全員まとめてかかってこい!」と言わんばかりの猛烈なシャドーボクシングだ。
「おいおい、落ち着けって。こういうのはまぁ、表現者の通過儀礼みたいなもんだ」
俺は荒ぶる影を宥めつつ、片手でスマホを操作した。
「ま、ブロック安定だろ。触らぬ阿呆に祟りなし、だ」
淡々と無心で『ブロック』のボタンを連打していく。俺たちの命綱であるこのアカウントを、こんな馬鹿げた連中のやっかみで荒らされてたまるか。それに、俺には「ウマ娘の規格外の食欲を満たす」という、アンチの相手よりも遥かに切実で重要な使命(朝食)があるのだ。
かくして、SNSの負の側面を物理的なブロックと食欲で強引にねじ伏せ、俺たちの朝は騒がしくもたくましく過ぎていくのであった。
■
あれから数日。俺たちは順調に日々の配信(主にリクエストに応じたポージングと、一言二言の短い質疑応答)と、尋常じゃない量の食事風景の投稿を続けていた。
その甲斐あって、『かっふぇの日常』のアカウントのフォロワー数は、ついに大台の十万人を突破した。もはや一端のインフルエンサーである。動画の再生数やインプレッションから発生する広告収入の予定も、ちょっとしたボーナス並みの額になりつつあった。
「よしよし、これで当分は食いっぱぐれることはねぇかな」
そうやってホクホク顔でスマホを眺めていた時のことだ。熱心なファンの一人から、DM(ダイレクトメッセージ)で何やらURL付きの通知が送られてきた。
「メッセージ? 珍しいな。なんだべー? 『かっふぇさん、こんな悪質なデマを流している人がいます。気をつけてください』……?」
送られてきたリンクを踏んでみると、そこに広がっていたのは、以前俺が迷いなくブロックしたアンチアカウント『空都茎』らによる、狂気に満ちた誹謗中傷の数々だった。
『あのアカウント、絶対に裏でパパ活してる』
『どうせ加工ツールとAIを駆使したネカマか男の娘だろ。騙されてる奴らバカすぎ』
『グッズの転売で詐欺を働いたらしい』
などなど、根拠もクソもない荒唐無稽な悪評を、手を変え品を変え、ハッシュタグまでつけて懸命に拡散しようとしているらしい。『男の娘』という部分だけは、中身が三十路の男である以上、ある意味でニアピン賞なのが余計に腹立たしいが。
俺の肩越しに画面を覗き込んだカフェは、黄金の瞳をすんと冷やし、小首を傾げた。
『うーん? これは粘着、ですね』
「だな。俺が一瞬でブロックしたのが相当気に食わなかったらしい」
暇な奴もいたもんだと呆れつつ、俺はスマホをテーブルに放り投げた。
「まぁ、勝手にやらしてりゃ良いとは思うんだが。こういう手合いは、反応したら余計に喜んで燃え上がるだけだしな」
『同感ですね。相手にするだけ、時間の無駄というものです』
俺とカフェは顔を見合わせ、綺麗に『スルー(完全無視)』を決め込むことで合意した。フォロワー十万人の大アカウントが、たかだか数いいねしかついていないアンチの戯言など、文字通り相手にするレベルではないのだ。
――が、問題はそこではなかった。
「パパ活」や「男の娘(出会い目的)」というデマが、変な界隈のアルゴリズムに引っかかってしまったらしい。数日後から、俺のDM欄に、背筋が凍るような気色の悪いメッセージが紛れ込むようになってきたのだ。
『動画見ました。最高ですね。金銭で一発やらない?』
『〇〇駅で待ち合わせできませんか? 10出せます』
『ホテル直行でどうですか? 内緒にしますよ』
「……っっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!」
画面を見た瞬間、俺は全身の鳥肌が粟立ち、危うくスマホを壁に叩きつけそうになった。
「きっっっっっっっっっも!! やめろバカ!! 中身は三十路の、少し前まで日雇い現場で泥水すすってたゴツいおっさんだぞ!? なにが『一発やらない?』だ!! 俺の精神が崩壊するわ!!」
ウマ娘の肉体という極上のガワを被っているとはいえ、心は立派な成人男性である。見知らぬオッサン(あるいは若者)から直接的な性的アプローチを受けるなど、前世を含めても未体験の恐怖だった。
あまりの気持ち悪さに、俺が頭を抱えて畳の上で悶絶していると。
――シュバッ!
俺の目の前に、お友達が躍り出た。
黒いモヤモヤとした輪郭が、謎の威圧感を放ちながら仁王立ちになる。そして、自身の胸のあたりを親指でグッと指差し、こう告げるような力強いジェスチャーをした。
『――まかせろ!!』
「……お友達?」
影は、俺の手からポロリと落ちたスマホの画面(キモいDMを開きっぱなし)を覗き込むと、メラメラと怒りのオーラを燃え上がらせた。空中に浮かぶカフェも、何かを察したように『ふふっ……』と、普段の穏やかな笑みとは違う、どこか冷ややかで底知れない笑みを浮かべている。
「おい、まさか……お前ら、何かする気か?」
俺が尋ねると、お友達は「任せておけ!」とばかりに謎のガッツポーズを連発し、見えない腕をポキポキと鳴らすような仕草を見せた。
悪霊退治のプロ(?)であるマンハッタンカフェと、そのお友達。彼女らの「オカルト的な反撃」の標的となってしまった変態どもに、俺は少しだけ、ほんの少しだけ同情を禁じ得なかった。
■
翌朝。
いつものように目を覚まし、スマホのDM欄を開いた俺は、思わず目を丸くした。
「……あれ?」
昨日まで、イナゴの大群のように湧き出ていた気色の悪い卑猥なメッセージが、ピタリと一つ残らず消え失せていたのだ。新規のメッセージが来なくなったどころか、昨日送ってきていた連中のアカウントそのものが、ことごとく「削除済み」か「非公開」に変わっている。
ふと視線を上げると、空中に浮かぶカフェはいつも以上に穏やかで後光が差しているような仏の表情をしており、足元のお友達に至っては、ホウキで鼻歌交じりに部屋の掃除をするフリなどして、やたらと上機嫌だった。
「お前ら、まさか……」
俺が何かを聞こうとした、まさにその時。つけっぱなしにしていたテレビの朝のニュース番組が、突如として『ニュース速報』のテロップに切り替わった。
『――速報です。昨晩から今朝にかけて、都内をはじめ全国各地で、複数の男性が自室や路上で意識不明の重体となって発見される事案が相次いでいます。
搬送先の病院の発表によりますと、被害者はいずれも外傷はないものの、極度の恐怖状態に陥った形跡があり、強いショックによる心不全や脳への深刻なダメージが見られるとのことです。警察は、何らかの事件に巻き込まれた可能性も視野に入れ――』
「…………」
俺は、手元のスマホ画面、全滅した変態アカウントの残骸と、テレビのニュース速報を三回ほど交互に見比べた。被害者の性別。全国各地での同時多発。極度の恐怖によるショック症状。
そして、目の前でやたらと清々しい顔をしている、強力な霊的力を持ったウマ娘とそのお友達。
点と点が、この上なく最悪な形で線に繋がった。
「……なぁ。やった?」
俺はジト目を向け、空中の二人を問い詰めた。
「お前ら、絶対やっただろ?」
俺の追及に対し、カフェはスッと黄金の瞳を明後日の方向へと逸らした。そして、優雅にカップを傾けながら、
『……さぁ? 何のことでしょう。私たちは、ずっとこの部屋で四月一日さんの寝顔を見守っていただけ、ですよ?』
と、わざとらしいほど可憐で無垢な微笑みを浮かべた。一方で、そんな高度な誤魔化しができないお友達は、俺と目が合った瞬間に「ビクッ!」と硬直。そのままススス……と後ずさりすると、サッ! と音を立てて押し入れの襖を開け、自らその中に閉じこもってしまった。しかも中から襖を押さえているらしく、謎に襖があかない。
「完全に黒じゃねーか!!」
俺のツッコミが、朝の六畳間に虚しく響き渡る。
どうやら昨日の深夜、俺が寝ている間に、お友達とカフェが、あの変態どもの元へ『次元を超えた直接の出張お仕置き』へと赴いていたらしい。まぁ、こんな影に襲われたのならば、そりゃあ心臓も止まりかけるだろう。
「はぁ……」
俺は深く、本当に深いため息をついてから、押し入れに向かって声をかけた。
「まぁ……不快な連中を一掃してくれたことに関しては、ありがとな」
俺のその言葉に、押し入れの襖が数センチだけスッと開き、中から黒いモヤモヤとした顔のようなものが覗いた。空中のカフェも、少しだけ嬉しそうに目元を綻ばせている。
「ただ……」
俺は額を押さえながら、苦言を呈した。
「流石に、全国ニュースになるレベルで病院送りにするのはやりすぎだ。もしこれで警察やオカルト特捜隊みたいなのが動いて、俺たちにまで火の粉が飛んできたらどうするんだよ」
『……善処します』
「せめて加減してくれよ!?」
三十路の元日雇い男を本気で守ろうとしてくれる(少しベクトルのおかしい)ウマ娘とお友達の過保護っぷりに、俺はただ苦笑するしかなかった。
――さて、気を取り直して、今日の朝飯(米三合)を炊くとしよう。