翌朝。いつものようにスマホを開いた俺は、タイムラインに流れてきた動画のサムネイルを見て、思わず顔を引きつらせた。
そこには『【ASMR】かっふぇの極上吐息集まとめ』や、『コーヒーミル音&無言ドリップ60分耐久』といった、昨晩の配信を切り抜いたマニアックすぎる動画が大量にアップロードされ、凄まじい勢いでバズっていたのだ。
「……いや、流石にちょっとドン引きなんだけど」
『ふふっ。需要はどこにあるのか、本当にわかりませんね』
画面を見て若干引いている俺の横で、カフェはどこか面白そうに苦笑いを浮かべていた。中身が三十路前のおっさんだと知らずに、俺の(カフェの)息遣いを60分間も耐久して聞いている視聴者たち。
彼らの熱意には感謝すべきなのだろうが、得体の知れない居心地の悪さを感じるのは避けられなかった。
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気を取り直して、今日は再び外出することにした。
すっかり寒くなってきたため、ダボダボのダウンジャケットを着込み、ニット帽を目深に被って耳と尻尾を完全に隠す。向かった先は、千葉県船橋市にある中山競馬場だ。
「今日はステイヤーズステークスか。距離が長いレースだから、カフェさんも少しは興味あるだろ?」
『ええ。長距離を走る者たちの息遣い、しっかりと見届けさせていただきます』
GIIレースとはいえ、名物の長距離重賞。場内にはそこそこの人が集まっていたが、身動きが取れないほどのぎゅうぎゅう詰めというわけではない。変装した俺たちが紛れ込むにはちょうどいい塩梅だった。
スタンドから、3600メートルという過酷な距離を駆け抜ける馬たちを見つめる。カフェはその黄金の瞳に静かな熱を帯び、お友達の影もターフを駆ける馬に合わせて一緒に走るような素振りを見せていた。
しかしながら、ウマ娘の肉体は容赦なくカロリーを要求してくる。
俺たちは足早に中山競馬場の名物スポットである地下のフードコートへと向かった。
「ようし、今日も食うぞ!」
俺は手当たり次第に中山名物を買い集め、空いたテーブルで凄まじい勢いで平らげ始めた。
鳥千のフライドチキン:骨付きの特大サイズを躊躇なくかぶりつく。
梅屋のモツ煮込み:府中とはまた違う濃厚な味付けを白米と一緒に流し込む。
翠松楼のラーメン:昔ながらの醤油ラーメン。スープまで完飲。
G1焼き:締めは馬の顔の形をした甘い大判焼きを数個ペロリ。
傍から見ればダボダボのダウンを着た華奢な女の子が、周囲の競馬オヤジたちもドン引きするレベルの量を無心で『もっしゃもっしゃ』と胃袋に消し去っていく。カフェも気が気じゃないようで、料理楽しみつつも、
『ああっ、また口の周りにソースが……』
と心配している。お友達はどちらかと言うと図太いのか、「もっといけー!食えー!」と大盛り上がりだ。
「……ふぅ、食った食った。中山のメシも最高だな!」
大満足で腹をさする俺。だが、この異常な食欲が、またしても誰かの目を引いてしまうことになるとは、この時の俺は知る由もなかった。
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最後の大判焼き(G1焼き)を飲み込むように平らげ、お茶で一息ついていると、ふいに横のテーブルから声がかかった。
「すんげー食べるな、じょうちゃん」
声の主は、耳に赤ペンを挟み、競馬新聞を丸めて握りしめた典型的な『競馬場のおっちゃん』だった。
一瞬ビクッとした俺だったが、すぐさま背筋を伸ばし、スッと感情を抑えた『カフェモード』へと移行する。
「……ええ。食欲旺盛なもので」
ミステリアスなウィスパーボイスでそう返すと、隣にいたカフェも、
『ウマ娘ですからね』
とばかりにコクリと頷いた。おっちゃんは目を丸くして、俺の前に積み上げられた空の容器(チキン、モツ煮、ラーメン丼など)をまじまじと見つめた。
「いや、良い喰いっぷりだったんでずっと見てたけどさ。この地下のフードコート食い尽くすかと思ったよ。何、今日当たったの?」
「……いいえ。馬には、かけていません」
「お、そうなんか?」
意外そうな顔をするおっちゃんに、俺は少しだけ目を伏せ、長いまつ毛を揺らして静かに微笑んだ。
「……はい。馬が、好きなんです」
ターフをひたむきに走る彼らの姿そのものが好きなのだと、言葉の端々に匂わせるように。するとおっちゃんは、ひどく感心したようにウンウンと深く頷いた。
「若いのに珍しいなー。いやそう、本当にそう。金はかけないほうがいい。おっちゃんみたくなっちまうぞ?」
「……と、申されますと?」
俺が小首を傾げて尋ねると、おっちゃんは自嘲気味に鼻で笑い、ペラペラになった財布を叩いてみせた。
「無一文ってこと! 言わせないでくれ恥ずかしい!」
ガハハハハ!
と、おっちゃんは地下のフードコートに響き渡るような声で豪快に大笑いした。どうやら今日のレースで、見事にスッテンテンにされてしまったらしい。
そのあまりにも清々しい負けっぷりと、裏表のない明るい自虐に、俺はすっかり毒気を抜かれてしまった。カフェを見ると、彼女もおかしそうに肩を揺らしている。
『ふふっ……』
その上品な笑い声につられるようにして、俺も自然と口元を綻ばせた。
「……ふふっ」
三十路の元日雇い男(見た目は超絶美少女)と、見ず知らずの競馬オヤジ。鉄火場の片隅で交わされた他愛のない会話だったが、ネットのノイズやアンチの悪意から離れたこの生身のやり取りは、不思議と温かく、心地の良いものだった。
■
「お。なんだ、お前こんなとこで若いやつナンパしてんのか!」
おっちゃんと和やかに笑い合っていると、背後から別のド派手なジャンパーを着たおっちゃんその2が、ニヤニヤしながら合流してきた。どうやら競馬仲間らしい。
「ちげーよ! ほれ、見てみろってあの空食器の量!」
「ああん? 食器だぁ? ……お、おお!?」
おっちゃんその2は、俺の目の前にそびえ立つ空き容器のタワー(チキン、モツ煮、ラーメン、G1焼きの残骸)に視線を落とし、文字通り目をひん剥いた。
「嬢ちゃん、え? それ全部一人で食ったの!?」
「……ええ」
俺が涼しい顔で、短く首を縦に振る。するとおっちゃんその2は、「かーっ!」と大げさに頭を抱えて天を仰いだ。
「こりゃあ驚いた! うちの育ち盛りの息子より食が太いじゃあないか!!」
驚愕しつつも、どこか嬉しそうに俺の細い腕や肩幅をマジマジと見つめるおっちゃんその2。隣のカフェも『ふふっ、育ち盛りですからね』と同意していた。お友達にいたっては、面白そうにおっちゃんたちを覗き込んでいる。
しかし、次の一言でその場の空気が少しだけ歪んだ。
「ひゃー、それにしても豪勢だな! そんなに(馬券が)当たったんか!」
「――ッ!?」
俺は思わず、椅子からズリッと滑り落ちそうになった。いわゆる『ズッコケる』というやつである。完璧なミステリアス美少女のガワを被っていながら、中身の昭和のおっさんムーブが咄嗟に出てしまい、ガタッとテーブルを揺らしてしまった。
『ああっ、四月一日さん! 姿勢が崩れていますよ!』
(わ、わかってるって! 咄嗟のボケとツッコミの反射神経が……!)
内心でカフェに怒られながら、必死に体勢を立て直し、咳払いをして表情を取り繕うとする俺。しかし、俺が弁解するよりも早く、最初のおっちゃんが笑いながらフォローを入れてくれた。
「ちげーよ。この嬢ちゃん、お金はかけてねんだとよ。ただ純粋に、馬が好きなんだとさ」
「おおっ、そうなのか!」
おっちゃんその2はパッと顔を輝かせ、ウンウンと何度も大きく頷いた。
「そりゃあいい! いやぁ、本当にそうだ。金はかけないほうがいい!!」
「全くだ! ワハハハハハ!」
すってんてんになった二人の競馬オヤジが、顔を見合わせて豪快に笑い合う。自虐100%のその痛快な笑い声に、俺はズッコケた恥ずかしさも忘れ、再び肩の力を抜いた。
「……ふふっ」
『あははっ』
俺と、カフェ。そして足元のお友達の影も一緒になって、オヤジたちの笑い声にそっと釣られる。
ネットの海で十万人のフォロワーに見つめられる息苦しさから少しだけ解放された、休日の競馬場。モツ煮の匂いとオヤジたちの笑い声に包まれたこのフードコートでの一時は、俺たちにとって最高に居心地の良い時間だった。
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中山競馬場での大食いとオヤジたちとの交流を終えた俺たちは、帰路につくべく駅へと向かった。電車に乗り込む前、俺はスマホを取り出し、先ほど撮った数枚の写真をSNSにアップロードした。
『馬とご飯を、中山で』
添えたのは、夕暮れのターフの写真と、先ほどフードコートで平らげた(数人前はあろうかという)空き容器の山。そして、変装用のニット帽とダウンジャケット姿ながら、隠しきれない神秘的なオーラを放つ自撮りを一枚。
送信ボタンを押して電車に乗り込み、座席に腰を落ち着ける。数分後。再びスマホの画面を開くと、すでに通知欄は凄まじい勢いで滝のように流れ始めていた。
『うおおおおおお! 今日は中山か!!』
『見た。フードコートですんげー量食ってた。でも食べ方が信じられないくらい上品だった。マジで何者?』
『俺も見た! 競馬場には珍しいストリート系の美少女だったから、すぐわかったよ!』
『なんか、隣のテーブルの競馬オヤジたちと楽しそうに笑いながら話してたよね? 空間のバグかと思ったわw』
『何!? かっふぇさんと談笑!? そのおっちゃん羨ましすぎるだろ!!』
『前世でどんな徳を積んだら、かっふぇさんと中山の地下で相席できるんだよ……』
『「馬とご飯」の「ご飯」の比率がおかしい定期』
『あの量のモツ煮とチキンとラーメンを腹に入れて、なんでそんな細いんだ。ウマ娘特有のカロリー消費マジで実在する説』
『あの競馬オヤジたち、相手がフォロワー10万人超えのインフルエンサーだって絶対気づいてないだろw最高かよ』
『変装してるのに隠しきれない美貌。ダウン着ててもスタイルいいのわかる』
『【悲報】ワイ、G1じゃないからと今日も自宅待機し無事死亡。明日から全競馬場巡礼します』
『おっちゃんたちに絡まれてもニコニコ対応してるの、育ちの良さが出てるなぁ(なお食事量)』
『かっふぇの胃袋を支えるために、俺もスパチャ投げるわ』
『あの空間だけ完全に異世界だった。生で見れてマジで感動した……!』
「よしよし。今日も大盛況だな」
好意的なコメントの嵐と、現地組の興奮した目撃情報。さらには「オヤジと楽しそうに話していた」というギャップが、また新たなファン層(?)の心を掴んだらしかった。俺はホクホク顔でスマホをスリープ状態にし、ポケットに突っ込んだ。
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ガタゴトと、夕闇の中を走る電車。車内の暖かな空気に少しだけ眠気を感じながら、俺は隣の空席にふわりと浮かぶカフェに向けて、声を潜めて問いかけた。
「……で、どうだった? カフェさん」
『……?』
「中山競馬場。こっちは何か、元の世界に繋がるような手がかりとか、俺の肉体の気配とか、わかったか?」
府中の時と同じ質問。しかし、ここ中山は有馬記念や皐月賞など、数々のドラマが生まれるターフ。ウマ娘にとっても縁の深い場所のはずだ。もしかしたら、という僅かな期待があった。
だが。
カフェは、少しだけ寂しそうに伏し目がちになり、ゆっくりと首を横に振った。
『……ううん。やはり、手がかりは、何も』
その言葉に合わせるように、足元でおとなしくしていたお友達の影も、「しゅん……」と項垂れながら静かに首を横に振る。
「そっか」
俺は小さく息を吐き、ダボダボのダウンジャケットの中で軽く肩をすくめた。
「ま、そう簡単にいくとは思ってねぇよ。この前の東京じゃないけどさ、異世界への扉がフードコートの裏にあったら、苦労しねぇわな」
そう言って笑いかけると、カフェも申し訳なさそうな表情を少しだけ緩め、ふっと柔らかく微笑み返してくれた。
「それに、今日は収穫もあっただろ。あのオヤジたちみたいに、純粋に競馬場を楽しんでる奴らと話せたのは、悪くなかった」
『ええ。……とても、温かい方々でした。まるで、トゥインクルシリーズのファンのようです』
元の肉体も、帰る方法も依然として不明のまま。
「まぁ、なるようになるさ。ゆっくりやっていこう、カフェ」
『はい。四月一日さん』
だが、この奇妙なインフルエンサー生活と、それに伴うささやかな日常の積み重ねは、俺たち三人の間に、確かな絆を、育みつつあった。