『――パァァァァパン! パパパパーン!!』
暮れの中山競馬場に、一年の総決算を告げる有馬記念のファンファーレが高らかに鳴り響いた。
十数万人という、普段の競馬場では考えられないほどの大群衆。彼らが一斉に打ち鳴らす手拍子と、地鳴りのような大歓声が、冷たい冬の空気を震わせ、俺の足元(正確にはウマ娘の足元)から内臓の奥深くまでビリビリと響いてくる。
「……すげぇ熱気だ。府中の時とはまた違う、独特のピリピリした空気感があるな」
『ええ……。選ばれし者たちだけが立てる、夢の舞台。彼らも、きっと持てるすべての力を振り絞って走るはずです』
後方の小高いスタンドからターフを見下ろす俺の隣で、空中のカフェが静かに、しかし熱を帯びた瞳でゲートを見つめていた。その足元では、お友達の影が「いっけー!」とばかりに見えない拳を振り上げている。
ガシャンッ! という金属音と共に、ついにゲートが開いた。
歓声が悲鳴のような怒号へと変わり、十数頭のサラブレッドたちが一斉にターフへと飛び出していく。
中山競馬場の内回りコース、2500メートル。最初のスタンド前を通過する時の、馬群が巻き起こす風と蹄の音は、遠く離れたこの場所にまで圧倒的な質量を持って迫ってきた。
レースは生き物だ。道中の駆け引き、息を入れるタイミング、そして勝負所でのスパート。
最終コーナーを回り、短い直線へと差し掛かった瞬間、場内のボルテージは最高潮に達した。
「そのまま! そのままいけええええ!!」
「差せ! 差せ!!」
周囲の競馬オヤジたちが顔を真っ赤にして絶叫する中。
馬群の外から、全くノーマークだった人気薄の馬たちが、凄まじい末脚でごぼう抜きを開始した。それはまさに、俺たち三人がパドックで予想し合った『三つのパターン』のうちの一つ。
お友達が自信満々に胸を張って指定した、大穴の馬たちだった。
「お……おい! マジか!!」
先頭でゴール板を駆け抜けたのは、お友達が本命に推していた伏兵。それに続くように、これまた人気薄の馬たちが2着、3着へと滑り込んだ。
ターフの巨大ビジョンに『確定』の文字と配当が表示された瞬間、場内からはどよめきと悲鳴、そして一部の歓喜の声が入り混じった異様なざわめきが巻き起こった。
俺の足元では、お友達の影が「やったああああああ!!」とばかりに、両腕を天に突き上げ、その場でフィギュアスケーターのごとく猛烈な大回転(スピン)をキメながらガッツポーズを連発していた。
一方、空中のカフェはといえば。
『……ふぅ』
彼女が直感で「一番で来ます」と予想した馬は、惜しくも馬群に沈んでいた。カフェは少しだけ残念そうに、黄金の瞳を伏せて小さく息を吐いた。
「まぁ、競馬なんてこんなもんだ。お友達、大金星だったな!」
俺はダボダボのダウンジャケットの中で小さく笑い、肩をすくめた。
自分自身の直感予想は外れたが、グループ全体として見れば大勝利である。日雇い時代、パチンコでスッテンテンになって帰る同僚たちを腐るほど見てきた俺からすれば、これだけの熱狂を味わった上でプラス収支で終われたのだから、御の字もいいところだ。
「よし、有馬記念も終わったし、この十数万人が一斉に帰路につく前に撤収するぞ。混む前に、地下のフードコートで飯だ!」
俺の鶴の一声で、俺たちは足早にスタンドを後にした。
***
払い戻し機に当たり馬券(お友達指定の3連単)を吸い込ませると、機械からチャリンチャリンと景気の良い音を立てて、分厚い万札の束が吐き出されてきた。
5000円が、帯封一歩手前の数十万円に化けた瞬間である。
「うひょー……マジかよ。インフルエンサーのギャラも凄かったが、ギャンブルで勝つこの背徳的な感覚、たまんねぇな」
俺がニヤニヤしながら札束を財布にねじ込んでいると、先頭を歩いていたお友達の影が「これ食べたい! アレも食べたい!」と、テンション上げ上げの状態でフードコートの各店舗を指差し始めた。
大金星を挙げた本日のMVP(影だが)の要求を無下にすることはできない。
「わかったわかった、今日は遠慮はいらねぇ。片っ端から買ってやるよ」
俺は財布の紐を完全に緩め、中山競馬場の名物グルメを次々と買い漁っていった。
熱々のモツ煮込み、特大のフライドチキン、湯気を立てるラーメン、ソースの匂いがたまらない焼きそば、そして締め用の甘いG1焼き。
それらを両手いっぱいのトレイに乗せ、空いているテーブルへと陣取る。カフェは俺の背後を、静かに、しかしどこか呆れたような微笑みを浮かべながら大人しくついてきていた。
「よし、とりあえず食べる前に一枚撮っておくか。かっふぇの日常アカウントの更新用にな」
俺はダボダボのダウンのポケットからスマホを取り出し、ロック画面を解除しようとした。
――まさにその時だった。
画面が明るくなった瞬間。ロック画面の通知センターの最上部に、一通の奇妙なメッセージがポップアップしたのだ。
『通知:譛峨�險伜ソオ 繧サ繝ウ繧ソ繝シ繧ヲ繝槫ィ倥∵怙邨らオ先棡』
一瞬、その見慣れない文字列が視界の端に映った。
だが、中身が三十路前の男である俺がその意味を脳内で処理するよりも早く、フォロワー20万人を抱える『かっふぇの日常』アカウントと連動したSNSアプリが、通信を拾って猛烈な勢いでバックグラウンド更新を開始した。
『〇〇さんがいいねしました』
『〇〇さんがリポストしました』
『通知:新規フォロワーが100人増えました』
ドバババババッ! と、凄まじい勢いで流れ込んできたSNSの大量の通知が、たった一通の、文字化けしたメッセージを、あっという間に通知欄の遥か奥底へと押し流し、上書きしてしまったのだ。
「うおっ、相変わらず通知の勢いエグいな。スマホがフリーズしそうだ」
俺は、直前に見えたはずの奇妙な文字列のことなどすっかり忘れ、SNSの通知を一括消去してから、カメラアプリを起動した。まさかその通知が、元の世界への手掛かり――、あるいは、さらなる不可解な事象への招待状であったことなど知る由もない。
「ともかく写真をとりますかね」
パシャリ、と。
目の前に積み上げられた規格外のカロリーの山と、ダウンジャケットを着込んで少しだけ微笑む自撮りを撮影し、俺は満足げにスマホをポケットにしまった。
■
「……いただきます」
カフェ直伝の美しい所作で手を合わせ、俺はフードファイトを開始した。まずは熱々のラーメンをすすり、スープで流し込むように特大フライドチキンにかぶりつく。ウマ娘のブラックホール胃袋は、今日も絶好調に稼働していた。
周囲の競馬オヤジたちが、山盛りの飯を無心で平らげていく謎の美少女(俺)を見て目を丸くしているが、そんなものはもう慣れっこだ。もっしゃもっしゃと無心でモツ煮をかき込んでいると、不意に横から声がかかった。
「お久しぶりです」
「……ん?」
俺が箸を止めて視線を上げると、そこには見覚えのある顔があった。
首から一眼レフカメラとプレス用のパスを下げた、少し疲れ気味だが人の良さそうな笑顔を浮かべる中年の男性。以前、東京競馬場の毎日王冠の日に声をかけてきた、『週刊ギャロップ』の記者さんだった。
相手がマスコミ関係者とわかった瞬間、俺は背筋をスッと伸ばし、完璧な『ミステリアス美少女かっふぇ』の表情(ガワ)を顔に張り付けた。
「……あ。こちらこそ、おひさしぶり、です」
静かなウィスパーボイスで答えると、記者さんは俺の前にそびえ立つ空き容器の山を見て、腹の底から愉快そうに笑った。
「ははは! 相変わらずの健啖家でいらっしゃる。今日も、純粋に馬の走りを見に中山へ?」
「……はい。あの地鳴りのような歓声の中を駆け抜ける姿は、とても美しかった、です。……あと、今日はせっかくの有馬記念ですので。馬券も、少しだけ」
俺がダウンの袖で上品に口元を隠しながらふわりと笑ってみせると、記者さんは「おお!」と目を輝かせた。
「この有馬の熱気にあてられて、ついに勝負師の血が騒ぎましたか! どうでしたか、結果は?」
「……見事に、的中です。3連単で」
「おっ! あの大荒れの展開で3連単を!? じゃあ、結構獲ったんじゃないですか?」
記者さんが身を乗り出してくる。俺は少しだけ小首を傾げ、悪戯っぽく微笑んだ。
「……はい、そこそこ。……ですので、今日は遠慮なく、中山の美味しいものをいただいています」
「ははは! なるほど、それは納得です! 最高のクリスマスのご馳走ですね!」
記者さんは周囲の喧騒を忘れたように、和気あいあいとした雰囲気で大笑いした。カフェも『ふふっ』と上品に肩を揺らし、お友達も記者さんの横で「俺がいっぱい勝ったの!」と自慢げに踊っている。
「いやあ、大混雑の取材でクタクタでしたが、かっふぇさんの見事な食べっぷりと笑顔を見たら、なんだか元気を貰えましたよ」
記者さんはカメラをポンと叩き、満足そうに頷いた。
「それでは、私はまだこの後も勝利騎手へのインタビューなど取材が残っておりますので、この辺りで。どうぞ、中山のグルメを心ゆくまで楽しんでいってください」
「……ありがとうございます。お仕事、頑張ってください」
「あ、そうだ!」
踵を返しかけた記者さんが、ふと思い出したように振り返り、人差し指を立てた。
「以前、東京競馬場で撮影させていただいたかっふぇさんのストリートスナップですが……今度発売される『週刊ギャロップ』の年末最終号で、無事に掲載されることが決まりました。よろしければ、ぜひ書店で手に取って見てみてくださいね!」
「……! 承知、しました。楽しみに、しています」
俺が深くお辞儀をすると、記者さんは嬉しそうに手を振り、人混みの中へと消えていった。
■
「……なるほど。ギャロップの年末最終号、ね?」
記者さんの姿が見えなくなったことを確認し、俺は素のトーンに戻ってポツリと呟いた。全国の競馬ファンが愛読する雑誌に、俺たちの姿が載る。インフルエンサーとしての知名度が、ネットの世界から現実の紙媒体へと進出する第一歩だ。
『……ふふっ。あの時のお写真が、見れるのですね。どんな風に写っているのか、楽しみです』
カフェが、コーヒーの香りを深く吸い込むような仕草をして、心底楽しそうに微笑んだ。ウマ娘の世界でもメディアの取材には慣れている彼女だが、この世界での自分たちの軌跡が形に残ることは、純粋に嬉しいのだろうと思いたい。
足元では、お友達の影も「雑誌載る! 雑誌載る!」とばかりに、楽しげに左右に揺れ続けている。
「だな。年末は本屋に行って、自分たちの顔を拝んでやろうぜ。……さてと、モツ煮が冷めないうちに片付けちまうか!」
俺は再び箸を手に取り、残りの料理へと嬉々として向かっていった。
■
この時、俺たち三人は完全に満たされていた。
有馬記念の熱狂、見事な大穴馬券の的中、美味しい中山グルメ、そして雑誌掲載という吉報。インフルエンサー『かっふぇ』の活動は全てが順風満帆で、この奇妙な同居生活も、一つの完成された幸せな日常として回り始めていると、誰もが信じて疑わなかった。
俺のダウンジャケットのポケットの中で。
あの、無数に降り注ぐSNSの通知の底にひっそりと埋もれてしまった、『譛峨�險伜ソオ 繧サ繝ウ繧ソ繝シ繧ヲ繝槫ィ倥∵怙邨らオ先棡』という、異界からのメッセージの存在に、気づく者は誰もいなかったのだ。