キッチンに立ち、鬱陶しいほどの長さがある黒髪を、ひとまず輪ゴムで後ろに無造作に束ねる。
手早くトーストを焼き、フライパンで目玉焼きを作り、お湯を沸かしてマグカップに粉末のコーンスープを淹れる。ごくありふれた、質素な食事の完成だ。
「さて、頂きますか」
席につき、手を合わせて食べ始めると、ふと視界の端で、宙に浮くカフェとお友達がどこか楽しそうにしていることに気がついた。
「どうしたんだ?」
『ふふ。実は、四月一日さんと味覚が共有されているようなのです』
サクッとトーストを齧る俺の顔を見つめながら、カフェは嬉しそうに微笑んだ。
『美味しいですね』
彼女の言葉に同意するように、隣に立つお友達の影も、ゆらゆらと嬉しそうに揺れている。自分が食べたものを背後霊(?)に一緒に味わわれているというのはなんだか奇妙な感覚だが、不快ではない。
「……そういえば、さっき珈琲淹れたけど、そっちは楽しめないよな?」
『ああ、今は香りだけ、ですね。ただ、四月一日さんの味覚を通じて味を楽しんでいます』
「それならいいけど。なんかこう、直接飲めないもんかね?」
俺はテーブルの端に放置されたままになっている、もう一つのマグカップに視線を向けた。
『……可能性としては、お供え物? として祭っていただければ、あるいは』
「ほー?」
好奇心が湧いた俺は、早速少し冷えかけたブラックコーヒーの入ったマグカップを、カフェの目の前(の空間)へと差し出した。そして、仏壇にでも手を合わせるような真似をして、パンッと両手を合わせる。
「おあがりください」
すると、次の瞬間――。
シュッ、と。
まるで手品か何かのように、マグカップの中の黒い液体がきれいさっぱり消え失せたのだ。底には水滴ひとつ、コーヒーのシミひとつ残っていない。完全に空っぽである。
「……おいおい、こりゃなかなかオカルトだ」
『ええ、そうですね』
空になったマグカップを手に取ってまじまじと見つめる俺を見て、カフェは可笑しそうにクスクスと笑い声を上げた。俺もつられて笑う。お友達の影も、まるで小躍りするように楽しげに部屋の空気を揺らしていた。
■
食後のコーヒー(淹れ直した二杯目)で一息ついたところで、俺は束ねた自分の髪を指差した。
「で、ひとまずはこの長すぎる髪、切っていいか?」
俺の提案に、カフェは『うーん……?』と少し首を傾げて悩むそぶりを見せた。自身のトレードマークである美しい髪を切られることには、やはり抵抗があるのだろう。
しかし、やがて彼女は諦めたように静かに頷いた。
『まぁ、今は四月一日さんの体ですから。お任せします』
俺の意を汲んでくれたカフェに対し、隣にいる「お友達」の方は少し不満げにゆらゆらと揺れている。あの見事なロングヘアが失われるのが惜しいらしい。
「悪いな。流石にこの長さは動きにくくて仕方ないんだよ。じゃあ善は急げで、近所の床屋にでも……」
俺が立ち上がろうとした、その時だった。
『……少々、お待ちください』
「なんだよ」
制止するカフェの視線は、俺の顔ではなく、頭のてっぺんに向けられていた。
『……その耳で、床屋へ行くおつもりですか?』
「あ」
言われて、思わず自分の頭に手をやる。そこには当然のように、ピコピコと動く本物の黒い獣耳が存在していた。
「……駄目じゃん。これ、とてもじゃねーけど床屋なんて行けねーって」
『はい。おそらく、この世界では大問題になります』
困り顔で告げるカフェ。仮に「精巧なコスプレです」と強弁したところで、感情や物音に合わせて自在に動く本物の耳を、プロの理容師相手に誤魔化し通せるはずがない。
「うーん……どうすっか、これ。自分で切るのも難しいし、いやまぁ、今はそのままか……」
俺は一旦、髪を切ることを諦めてドカッと椅子に座り直した。のと同時に、さらに重大な、そして決定的な事実に気がついてしまった。
「……というか、そもそも外に出られなくね?」
『あ』
俺の言葉に、カフェが間の抜けた声を漏らす。傍らでは、お友達の影も「ああ……」という感じで、絶望したように天を仰ぐ仕草を見せていた。
■
「ウマ娘って、この世界には一人もおらんからなぁ……」
椅子の背もたれにぐったりと体重を預け、俺は天井の木目を数えながら天を仰いだ。
ごまかしの利かない本物の耳と尻尾。それに、引きずるほど長い髪。この姿で外に出れば、数分でSNSの格好の的になり、数十分後には警察か病院の厄介になるのがオチだ。
『……申し訳ありません』
カフェがふわりと視線を落として謝罪する。それに同調するように、お友達の影も縮こまって深々と頭を下げた。
「いや、うん。うーん。あんたらのせいじゃない。悪霊のせい、悪霊のせいだから」
落ち込ませてしまったかと慌ててフォローを入れる。それにしても、だ。
「しかし、本当に落ち着いているよな。俺なんか、外に出られないとわかってまだ全然落ち着かねぇんだけど」
『ふふ……。実際は焦っていますよ。ただ、どうしようもないので』
静かに微笑むカフェの横で、お友達も「仕方ない、仕方ない」とでも言うように何度か頷いている。
「……ま、そらそうか。どうしようもないもんな。ひとまずは……うん、相談できる相手でもいりゃあいいんだけどな」
『心当たりがあるのですか?』
カフェが、黄金の瞳にわずかに期待の色を浮かべて首を傾げる。
「正直無い。仕事先はまぁ仕事上の付き合いだし、親もこの姿じゃあな。友人も同じだ。説明したところで、新手の詐欺か頭がおかしくなったと思われるのが関の山だ。……と、なると」
俺は手元のスマホを手に取り、画面をタップして手慣れた手つきでフリック入力を始めた。
『おや、何か妙案が?』
「いやなに、ちょっと便利なAIさんに聞いてみようかと」
俺は、開いたチャットアプリの画面――最近世間で流行している、何でも答えてくれるという対話型AIの画面――を、宙に浮くカフェたちに向けて見せてやった。
異世界からの魂の憑依に、悪霊退治の失敗。
果たしてこの最先端のテクノロジーは、そんな超常現象に対してどんな最適解を弾き出してくれるのだろうか。
■
「さて、架空の話として。このマンハッタンカフェのキャラに実際になってしまった場合。現実世界で生き残るとしたら、何か手段はあるだろうか、と……」
画面上の送信ボタンをタップし、AIからの回答を待つ。ほんの数秒で、画面にはスルスルと理路整然とした長文が生成され始めた。
宙に浮くカフェが、興味深そうに俺の肩越しからスマホの画面を覗き込んでくる。
『便利な道具があるものですね』
「ああ、聞いたら会話形式で答えてくれるから聞きやすいんだ。ま、よく間違ってるけどな」
他愛のない雑談を交わしながら、画面に表示されたテキストを目で追う。
AIが提示してきた「現実世界での生存戦略」は、大きく分けて二つだった。
一つ目は『ウマ娘の超人的な身体能力を活かしたプロアスリート』。
二つ目は『その容姿を活かしたインフルエンサー(配信者など)』。
ただし、AIはご丁寧にも現実的なリスクについても言及していた。
【懸念点:当該キャラクターは現実の戸籍や身分証を持たないため、公的な手続きやプロ契約は困難です。また、本物の耳や尻尾は世間の過剰な注目を集め、場合によっては研究機関やメディアの標的になる危険性があります。おすすめは、配信者で日銭を稼ぎ、元に戻る手段を探すのが現実的です】
「……割と的は得てるな」
特にプロアスリートなんて、それこそ身体検査やドーピング検査の段階で「人間じゃない」とバレて大騒ぎになるのがオチだ。となると、残された道は後者しかない。
『そう、でしょうか?』
いまいちピンときていない様子のカフェに対し、俺は顎に手を当てて考え込んだ。
「まぁ、コスプレイヤーと名乗って配信でもすりゃあ……声はこれ、君そのものだろ? 姿も」
『ええ。確かに』
「『地毛で馬耳を作ってる』とか『特殊なアニマトロニクスで動く尻尾を自作した』とか適当な設定をでっち上げて……超絶クオリティのコスプレイヤーってことにすれば、ひとまず世には出れそうかなこれ」
俺は腕を組み、深く頭を悩ませた。
幸い、俺自身の銀行口座やネット回線はそのまま生きているし、身分証の提示が不要なプラットフォームなら活動はできる。部屋から一歩も出ずに、この「マンハッタンカフェ」の姿のまま社会と繋がり、あわよくば小銭を稼ぐ手段としては、これ以上ないほど現実的だ。
「いやしかし、これを真に受けると……。まさか三十路前の男が、美少女のガワを被ってネット配信することになるとはなぁ……」
俺のぼやきを聞いて、お友達の影が「面白そう!」と言わんばかりにブンブンと縦に揺れ、カフェもふわりと楽しげに微笑んでいた。
■
「髪を切るのは……まぁ、ひとまず置いておくか。社会的な地位というか、ある程度の足場を固めてからでも遅くないしな」
俺はそう結論づけ、ウルフカットへの未練をひとまず頭の隅へと追いやった。
とはいえ、現状を冷静に見直せば前途は多難だ。
「配信やSNS活動と言っても、手元にある機材はこの使い古したスマホ一つだけだしな。それに、それっぽい衣装とかがあるわけでもない」
俺が今着ているのは、元々俺の私服だった適当な無地のシャツだ。カフェの華奢な体格が着るとダボダボで、ウマ娘の勝負服のような華やかさは微塵もない。
「人気が出る以前の問題な気がするが……でもまぁ、何もしないで引きこもってるよりはいいだろ?」
俺がそう告げると、カフェは静かに目を伏せてから、小さく微笑んだ。
『ええ。ひとまず、やってみましょうか』
その言葉に合わせるように、お友達の影も「賛成!」とばかりに楽しそうに揺れている。
思い立ったが吉日。ということで、俺は早速スマホを操作し、新しいSNSアカウントを開設した。
アカウント名は、シンプルに『かっふぇの日常』。
そして記念すべき最初の投稿だ。
俺はスマホのインカメラを起動し、テーブルの上のコーヒーカップ越しに、自分の顔――長い黒髪に黄金の瞳、そしてピンと立った耳を画角に収めてシャッターを切った。あえて顔の半分は髪とカップで隠れるような構図にし、ミステリアスな雰囲気を演出する。
「コーヒーブレイク」とだけ短い一文を添えて、投稿ボタンを押した。
「幸い、仕事もキャンセルしたしな。俺は時間には余裕がある。まずは一日数枚ずつ投稿して、様子を見てみようと思うんだが、どう? カフェさん達は」
画面から顔を上げ、宙に浮く不思議な同居人たちに問いかける。
『ええ、かまいませんよ』
カフェは涼やかな声で快諾し、お友達の影もコクコクと大きく頷いた。
かくして、ガワだけは美少女、中身は日雇い労働の男と、ウマ娘の霊、そして得体の知れない影たちによる、奇妙な二人三脚(?)のインフルエンサー活動がひっそりと幕を開けたのだった。