一方その頃。
ところ変わって、こちらは別次元――トレセン学園の理科準備室。
フラスコの中でコポコポと沸騰する液体の音だけが、やけに広く感じる室内に響いていた。白衣を纏ったアグネスタキオンは、ふと実験の手を止め、部屋の片隅へと視線をやった。本来ならば、そこには同室であるマンハッタンカフェが静かに座り、コーヒーを淹れているはずの定位置だ。
しかし、そこに彼女の姿はない。
「……どこに行ったんだい? カフェ」
ぽつりと零した独り言は、誰の耳にも届かない。
タキオンの知る限り、現在このトレセン学園において『マンハッタンカフェ』というウマ娘の存在は、まるで最初からいなかったかのように、大半の者の記憶からすっぽりと消え失せているらしかった。
彼女の存在を明確に覚えているのは、タキオン自身を除けば、カレンチャン、ステイゴールド、ネオユニヴァース……せいぜい、その程度の限られた数名だけだ。
カフェが愛用していた黒を基調とした家具や、こだわりのコーヒーセットはそのまま部屋に残されている。だが、記憶を失った外の生徒たちからすれば、それらは「すべてアグネスタキオンの奇抜な趣味」という認識にすり替わっているようだった。
最後に顔を合わせた時のことを思い出す。あの日、ミステリアスな同室者は、静かな決意を秘めた瞳でタキオンにこう告げていた。
『もしかすると……お友だち関係で、私の行方がわからなくなるかもしれません。ですがタキオンさん。その時は、のんびりと待っていてください。私は、必ず戻ります』
失踪を予期していたかのような、不思議な言葉。
「まったく……。どうにも張り合いが無いぞ」
タキオンは寂しげに肩をすくめた。新しい実験の成果を見せて渋い顔をさせたり、怪しげな薬を飲ませようとして躱されたり。そんな日常のやり取りが失われた理科準備室は、彼女にとって少しだけ退屈で、静かすぎた。
と、その時だ。
コンコン、と無遠慮なノックと共に、理科準備室の扉が開いた。
「ごみはありませんか」
顔を出したのは、首にタオルを巻き、作業着に身を包んだ中年の男性だった。手にはゴミ袋を持っている。学園に出入りする用務員だ。
「ご苦労様。いつもすまないねぇ」
タキオンは普段通りの、人を食ったような笑みを浮かべて応じた。
「いやいや、おれはうまむすめをさぽーとするのがやくめだからね。で、あるかい? なにか」
「大丈夫だとも。ありがとう。四月一日用務員」
「はいよー。じゃ、またてきとうにまわるよ」
『四月一日(わたぬき)』と呼ばれたその用務員の男性は、飄々とした態度のまま手をひらひらと振り、理科準備室を後にした。パタン、と扉が閉まる。
再び静寂が戻った室内で。
タキオンは、フラスコの底で揺らめく発光体を見つめながら、フッと目を細めた。その瞳に、狂気と理性が入り混じる研究者としての鋭い光が宿る。
「……記憶の限り、四月一日という用務員は、私の脳内には存在しないのだがね……」
タキオンの明晰な頭脳は、学園に出入りする教職員の顔と名前など、とうの昔にすべてインプットしている。あのような特徴の男は、つい先日までこのトレセン学園のどこにもいなかったはずなのだ。
「なぜ、皆、違和感なく接しているのか……。秋川理事長、あの駿川たづなさんに至っても、だ」
タキオンは思考を巡らせる。
カフェの存在が大半の者の記憶から消え去ったこと。それと入れ替わるように、突如として『昔からそこにいた用務員』として世界に組み込まれた、四月一日という謎の男。
それはまるで、世界のシステムそのものが、何らかのバグを修正するために『つじつま合わせ』を行っているかのようではないか。
「……くくっ。これはいよいよ興味深い」
常人ならば発狂しかねない認識のズレと超常的な事象。しかし、稀代のマッドサイエンティストである彼女にとって、それは退屈を打ち破る極上の謎に他ならなかった。
失われた同室者の行方と、急に現れた男。
その因果関係を解き明かすべく、タキオンは口元に不敵な笑みを浮かべ、猛烈な勢いで新たな研究の数式を黒板に書き殴り始めた。
もうちぃっと続くんじゃ