マンハッタンカフェの奇妙な現実来訪   作:灯火011

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暮の配信

 中山競馬場での圧倒的な熱気と喧騒、そして特大の胃袋に詰め込んだジャンクフードの数々。一年の総決算である有馬記念の祭りを終え、アパートの六畳間に帰還した俺たちは、心地よい疲労感に包まれていた。

 

「ふぅ……。とりあえず、競馬場の砂埃と人混みの汚れを落としてくるわ」

 

 俺はダボダボのダウンジャケットとパラシュートパンツを脱ぎ捨て、風呂場へと向かった。三十路前のおっさんの精神がこの美しすぎるウマ娘の肉体を洗うことにも、当初の強烈な背徳感から徐々に「日常の作業」へとシフトしつつある。だが、それでも鏡に映る濡れた黒髪と透き通るような白い肌を見るたびに、その規格外の造形美に息を呑んでしまうのは変わらない。

 

『四月一日さん、髪の毛は決して乱暴に擦らないでくださいね。指の腹で、優しくマッサージするように……』

「わかってる、わかってるって。お前の髪は俺の命綱だからな」

 

 脱衣所の外から聞こえてくるカフェの小言(アドバイス)に苦笑しながら、俺はたっぷりの泡で全身を洗い流した。風呂から上がり、タオルで優しく水気を取る。ドライヤーの温風を当てながら丁寧にブラッシングしていくと、トリートメントもしていないというのに、マンハッタンカフェの漆黒の髪はシルクのように滑らかにまとまっていく。

 

「……ほんと、すげぇ肌艶だな」

 

 鏡の前で、俺は自分の(カフェの)頬を指でツンと突いた。競馬場であれだけのジャンクフードや脂っこいものを大量に平らげたというのに、ニキビ一つ、肌荒れ一つ見当たらない。毛穴すら見えない陶器のような肌は、内側から発光しているかのように艶やかだった。ウマ娘の基礎代謝と細胞の修復力は、完全に生物の限界を突破している。

 

『褒めていただき、ありがとう、ございます』

 

 そして、完璧に仕上がったコンディションのまま、俺はあの複雑怪奇な『勝負服』へと袖を通した。黒を基調としたシックなデザイン。所々に配されたイエローのアクセント。そして、美しい足のラインを際立たせるタイツ。もう手慣れた物だ。最後に、鏡の前で表情の筋肉をスッと緩め、あのミステリアスで儚げな『かっふぇ』の顔を作り上げる。

 

「よし。準備完了だ」

『ええ。今日も完璧ですね』

(完璧完璧!)

 

 空中のカフェが優雅に頷き、足元ではお友達が楽しそうに跳ね回る。それを見ながら俺は、新たに差し入れされたリングライトのスイッチを入れ、パソコンの前に座る。そして、深呼吸をしてから配信開始のボタンをタップした。

 

■

 

 有馬記念の熱狂も冷めやらぬ、日曜の夜。

 

 だからだろう。配信の待機枠が開いた瞬間から、凄まじい勢いで数字が跳ね上がり始めた。

 

 5千、8千、そして一瞬にして同時接続者数は『1万人』の大台を突破する。

 

『うおおおお始まった!』

『かっふぇさんこんばんわ!!』

『待ってた! 有馬記念お疲れ様!』

『今日も美しい……』

『競馬場での目撃情報見たぞ!』

 

 滝のように流れるコメント欄を見つめながら、俺はカメラに向かって静かに小首を傾げた。

 

「……こんばんわ。かっふぇ、です」

 

 吐息の混じるウィスパーボイス。その第一声だけで、コメント欄は『助かる』『耳が幸せ』といった歓喜の文字で埋め尽くされる。俺は小さく微笑み、今日のメインイベントについて切り出した。

 

「……今日は。有馬記念でしたね。……実は、私も。競馬を、やってみましたよ」

 

 その言葉に、コメント欄が一瞬ピタッと止まり、直後に爆発した。

 

『え!?』

『かっふぇさんもやるんだ!』

『競馬場いってるんだし、そりゃそうだよなー!』

『ウマ娘のコスプレ……しかも勝負服着てるくらいだし、馬好きなんだね』

『元々競馬やってたのー?』

 

 怒涛の質問に対し、俺は長い睫毛を伏せ、少しだけ恥ずかしそうに、という演技を意識しながら答える。

 

「……多少は、その。テレビで、やっていましたので、見たことは。……でも、本格的に馬券を買ってみたのは、今回が初めてですね」

 

『おおー! 初馬券!』

『ビギナーズラックあるか!?』

『どうだったどうだった!?』

 

 画面の向こう側の前のめりな熱気を感じ取りながら、俺はカメラをじっと見つめ、淡々と事実を告げた。

 

「……3連単、当てました」

 

『!?!?!?』

『おいマジか』

『は? 有馬の3連単!?』

『あの荒れたレースで!?』

『相当獲ったんじゃね!?』

『えぐいwww』

『いやはや凄いな本当。可愛くて競馬も強いとか無敵かよ』

『かっふぇさん、まさかのギャンブラー才能あり?』

 

 驚愕と賞賛のコメントが画面を埋め尽くす。しかし、俺の足元では、本日の立役者である『お友達』が、照れたように首をブルブルと横に振っていた。

 

 その意図を汲み取ったカフェが、少し苦笑しながら空中で静かに口を開く。

 

『……「偶然だから、強くないです」と。お友だちは言っていますよ』

「……あ」

 

 俺はカフェの言葉をそのままトレースするように、少しだけ視線を宙に彷徨わせた。

 

「……偶然、だったみたいで。だから、強くは、ないです。……お友達が、そう言っています」

 

 俺が部屋の一点を凝視しつつ、『一見すると見えない誰か』の言葉を通訳するように画面越しに伝えると、リスナーたちはさらに盛り上がった。

 

『お友だちキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!』

『イマジナリーフレンド有能すぎるだろww』

『偶然を獲れるのがすげーって!』

『かっふぇさん(とお友だち)凄いなぁ』

『やっぱり何か視えてるんじゃ……』

『オカルト馬券で3連単は草』

 

 いやまぁ実際はそこに2人いるわけだが、と苦笑しつつライブを続ける。そうしていると、話題は自然と「競馬場でのかっふぇ」へとシフトしていった。

 

『そういえば今日、中山で見たよー。凄い量食べてたよね』

『フードコートでまた無双してたらしいなww』

『写真回ってきたけど、机の上の空き容器の山がバグってたぞ』

 

「……はい。たくさん、食べました」

 

 俺はコクリと頷き、口元に手を当てて上品に微笑んだ。

 

「……馬券が、当たったので。遠慮なく、中山の美味しいものを、いただきました」

 

『相変わらずのブラックホール食欲』

『あんなに食って、それでそんなにマンハッタンカフェらしい細い体を維持してるとか……いや、頭が下がりますわ』

『本当すごいプロ根性。どんな生活してんだか』

『裏でめちゃくちゃトレーニングしてるんだろうな』

『食べたカロリーどこに消えてるの?』

 

(いや、普通の生活しかしてないんだよな……)

 

 リスナーたちの「かっふぇは裏で血の滲むような努力をして体型を維持している」という壮大な勘違いを眺めながら、俺は内心で盛大に苦笑した。

 

 俺がやっていることといえば、カフェ指導による毎日の風呂でのメンテナンスと、飯を大量に食って、あとはたまーに、カフェとお友達の『走りたい』ストレス発散程度に近所をジョギングするくらいのものだ。ただ単に、俺の魂が入り込んでしまった『マンハッタンカフェの肉体』のスペックが、基礎代謝から何から全てにおいて常軌を逸しているだけなのである。

 

 隣でふわりと漂うカフェに視線を送ると、彼女も『ウマ娘ですからね』と言わんばかりに、少し得意げに胸を張っていた。そんな中、コメント欄にひときわ目立つ質問が流れてきた。女性リスナーからだろうか、ピンク色のアイコンだ。

 

『ちなみにお化粧とかどうやってるんです? お肌ツヤツヤでめっちゃ綺麗なんですけど、使ってるファンデとか教えてほしいです!』

 

「……お化粧、ですか?」

 

 俺は思わず首を傾げた。正味、日雇いのおっさんがファンデーションの塗り方など知る由もない。そもそも、この顔に化粧など一度も施したことがなかった。カフェも特に化粧してくださいとも言わないし。カフェに視線を向けても。

 

『お化粧は、しませんね。走ると、崩れますから』

 

 と、首を傾げるだけだ。

 

「……特に、何も、していませんよ。……ああ、でも」

 

 俺はカフェの顔をチラリと見て、彼女から日々受けている指導(スパルタ)を思い出しながら口を開いた。

 

「……眉毛を整えたり。お風呂上がりの保湿とか……あとは、ムダ毛の処理とかは、丁寧に、していますけれど」

 

 その言葉に対する、リスナーたちの反応は劇的だった。

 

『え? うっそ!?』

『マジかよ』

『え、ノーメイクってこと!?』

『化粧してねぇの!? 基礎化粧品だけ!? それでその顔面偏差値!?』

『嘘だろ、じゃあ今画面に出てるのもすっぴん!?』

『おいおいおい、じゃあフィルター? 加工アプリ使ってる?』

 

 どうやら、この体のあまりの美しさに、誰もがプロのメイクか強力なデジタル加工を疑い始めたようだった。悪い気はしないね。俺は少しだけ困ったように眉を下げ、カメラに顔を近づけた。

 

「……フィルターも、ない、ですね。……SNSに上げているお写真も、今映っているこの姿も……すっぴん、ですが。……おかしい、でしょうか?」

 

 意識して不安げに、そして上目遣いで尋ねる。どうやらその破壊力は凄まじく、コメント欄は一時的に阿鼻叫喚の嵐となった。

 

『うおおおおおおおお!! 近い近い近い!!!』

『すっぴんでこれ!? 神かよ!!!』

『フィルターなしでこの完成度はバケモンだろ!!』

『はー!? いやマジ!? 信じられない……』

 

 しかし、疑念の声が上がるよりも早く、今日や以前に現地(競馬場)で俺の姿を見た『目撃者』たちが、こぞって援護射撃を開始した。

 

『ああ、でも、競馬場で生で見たかっふぇさん、マジでまんま「かっふぇ」だったもん……』

『判る。凄く判る。かっふぇさん、現実でも本当にかっふぇさんだった。写真詐欺とかフィルター詐欺一切無かった』

『俺も見た。ダウン着てたけど、顔の小ささと肌の白さが異次元だった』

『むしろ生で見た方がオーラあって綺麗だったレベル』

『現地組が言うならガチじゃん……』

『遺伝子どうなってんだよ。奇跡のバランスだろ』

『それで大食いで競馬好きとか、属性盛りすぎだろ好き』

 

「……ふふっ。ありがとうございます」

 

 現地組の力強い証言に支えられ、俺はホッと息を吐くように柔らかく微笑んだ。画面の向こう側のリスナーたちは、もはや「かっふぇ」という存在の規格外さに平伏すしかない様子だった。

 

 三十路前のおっさんが、ウマ娘の肉体という無敵のチート装甲を纏い、十万人以上の人間を魅了している。改めて考えるととんでもない状況だが、不思議と罪悪感は薄れてきていた。俺がこの身体を丁寧に扱い、カフェとお友達と共に生きることで、これだけの人が喜んでくれるのだから。

 

「……今日は、有馬記念で、少し疲れましたから。……もう少しだけお話ししたら、眠ろうかと、思います」

 

『ゆっくり休んで!!』

『今日も最高の配信ありがとう!』

『来年も推します!』

 

 温かいコメントのシャワーを浴びながら、俺は『かっふぇ』としての静かで穏やかな夜の時間を、心ゆくまで楽しんでいった。

 

■

 

 パチン、と。

 

 配信ソフトの終了ボタンをクリックし、カメラの電源を落とした瞬間、部屋を包んでいた『生放送の熱気』がスッと潮を引くように消え去った。

 

「……ふぅーっ。終わった終わった」

 

 俺はパソコン用の椅子から立ち上がり、凝り固まった背伸びをして大きく息を吐き出した。数万人の視聴者に見つめられていた『謎の美少女インフルエンサー・かっふぇ』から、ただの『三十路前のおっさん・四月一日』へと精神のスイッチを切り替える。この瞬間だけは、何度経験しても独特の疲労感と安堵感が入り混じるものだ。

 

『お疲れ様でした。……ふふっ。配信終了後のその見事な切り替え、本当にかっふぇとしての姿が板についてきていますね、四月一日さん』

 

 隣でふわりと宙に浮かぶカフェが、どこか面白そうに、そして感心したように口元を綻ばせた。

 

「そりゃあ、流石に数ヶ月もこの生活を過ごしてればね。人間、慣れってのは怖いもんだよ」

 

 俺は苦笑しながら、身にまとっていた黒と黄色を基調とする勝負服のフックやボタンを、手慣れた手つきで外していく。最初の頃は一人で着脱するのすら一苦労だったこの複雑な衣装も、今ではすっかり身体の一部のように馴染んでいた。

 

 脱いだ勝負服をハンガーにかけ、俺は引き出しから洋服用の馬毛ブラシを取り出した。

 

 そして、生地の目に沿って、シャッ、シャッと丁寧にブラッシングをしていく。日雇い時代には自分の作業着の手入れなどロクにしたこともなかったが、この服だけは別だ。カフェの大切な勝負服であり、俺たちの現在の生活を支えてくれる商売道具でもあるのだから。

 

「えーっと、ここんとこのシワを伸ばして……と」

 

 俺が真剣な顔でブラシをかけていると、足元から「シャッ、シャッ!」というリズミカルな気配が伝わってきた。視線を落とすと、お友達の影が、俺の見様見真似で見えないブラシを握りしめ、自分の身体(影)を一生懸命にブラッシングしているではないか。

 

「お前は服着てないだろ」

「(シャッ! シャッ!)」

『ふふっ。お友だちも、四月一日さんの真似をしてお手入れがしたいみたいですね』

 

 なんともまぁ、穏やかな時間だこと。有馬記念の熱狂と、配信のプレッシャーを乗り越えた後の六畳間での穏やかな時間。俺は勝負服の手入れを終えると、ドサリと畳の上に座り込み、傍らに置いてあったスマホの画面を立ち上げた。

 

「さてと。今日の配信の反響はどうなってるかな……おっ」

 

 SNSのマイページを開いた俺は、そこに表示されている数字を見て思わず目を丸くした。

 

「……すごいな。フォロワー数、24万人だってよ」

 

 有馬記念での『大食い目撃情報』の拡散と、先ほどの『すっぴん&馬券的中配信』の相乗効果だろう。暮れのこのタイミングで、かっふぇのアカウントは凄まじい爆発力を見せ、ついに24万人という大台を突破していた。

 

『すごい、ですね。……30万人という数字も、いよいよ見えてきました』

「ああ。ここまでくると、企業案件も選び放題だろうし、当分の生活費どころか、税金を払ってもお釣りがくるレベルで色々と安泰だ」

 

 俺はスマホの画面を見つめたまま、ポツリと呟いた。日雇いでその日暮らしをしていた頃からは、想像もつかないほどの成功と安定。このウマ娘の身体と、カフェたちのサポートさえあれば、俺は一生食いっぱぐれることはないだろう。

 

 だが。

 

「……なんか、こうして基盤が盤石になればなるほど、逆に『元に戻った後』が怖いな」

 

 俺は自嘲気味に笑い、天井を見上げた。

 

「いつか次元の歪みが直って、俺が元の冴えない三十路男の身体に戻った時。この24万人のフォロワーも、インフルエンサーとしての影響力も、全部『かっふぇ』の魔法と一緒に消えて無くなる。……いや、当然、カフェは元の世界、そして俺は元の体に戻ったほうが良いに決まってるんだけどさ。なんか、夢から覚めるのが惜しくなってる自分がいて、ちょっと嫌になるよ」

 

 贅沢な悩みだとはわかっている。だが、この奇妙で温かい共同生活が終わってしまうことに対する寂しさが、確実に俺の中で芽生え始めていたのだ。

 

 そんな俺の胸中を察したのか、天井付近で漂っていたカフェはゆっくりと高度を下げ、俺の目の前まで降りてきた。そして、その透き通るような黄金の瞳で俺をじっと見つめ、優しく微笑みかけてくれた。

 

『……ふふっ。そう、ですね。少しだけ、怖いかもしれません』

 

 それは、まぎれもなく、俺の気持ちに対する肯定の言葉だった。カフェにとっても、自分の身体を他人に明け渡しているこの異常事態が早く解決するに越したことはないはずだ。それでも彼女は、俺が抱いた『この時間を終わらせたくない』という微かな未練を、否定せずに受け入れてくれた。

 

「(スリスリ……)」

 

 足元では、お友達が俺の膝にすり寄り、「大丈夫、大丈夫!」と慰めるように撫でてくれている。

 

「……ははっ。お前ら、ほんと優しいな。ありがとよ」

 

 俺はスマホを畳に置き、二人の気遣いに感謝しながら、温かいお茶でも淹れようと腰を浮かせかけた。

 

 ――と、その瞬間だった。

 

ピロリンッ!!

 

 畳の上に置いていたスマホが、聞いたことのない、やけに澄んだ電子音を鳴らして激しく発光した。

 

「……ん? なんだ?」

 

 俺は腰を下ろし直し、画面を覗き込んだ。そこには、いつものSNSの通知やメールのポップアップとは明らかに異なる、見たこともないデザインの通知ウィンドウが表示されていた。

 

 黄緑色と白を基調とした、どこかスポーティで洗練されたインターフェース。そこに、こんな文字列が浮かび上がっていた。

 

『【ファン数】24万人突破。トップスターウマ娘に昇格!』

 

「……なんだこれ? トップスター……ウマ娘?」

 

 俺は首を傾げた。ウマ娘という単語が入っている以上、競馬関係のスパムか何かだろうか。しかし、俺のスマホにはそんなゲームアプリは一切インストールされていないし、そもそも、こんな通知を発するアプリなんて存在しないはずだ。一体、なんだろうか?

 

「カフェさん、これ見てみろよ。なんか変な通――」

 

 俺が画面を指差して振り返ろうとした、その時。

 

『――ッ!? 四月一日さん!!』

 

 普段は常に冷静で、声を荒らげることなど一度もなかったカフェが、まるで弾かれたように空中で身を乗り出し、切迫した声を上げた。その黄金の瞳は限界まで見開かれ、信じられないものを見るようにスマホの画面を凝視している。

 

「お、おい、どうしたんだよカフェさん。そんな慌てて……」

『そのポップ……消える前に、急いでタップしてください!! 早く!!』

「お? おおっ!」

 

 ただならぬ彼女の剣幕に押され、俺は反射的に指を伸ばし、その奇妙なポップアップ通知を強くタップした。

 

 ――直後。スマホの画面が、フッとブラックアウトした。

 

「電源、落ちたか……?」

 

 俺が固唾を飲んで見守っていると、数秒の沈黙の後、画面の中央から眩い光が放たれた。それは、通常のスマートフォンのOSの起動画面を完全に無視した、独自のブートシークエンスだった。

 

 画面上に、スタイリッシュな『三角形』のグラフのような表示が浮かび上がる。底辺から頂点に向かって、光のゲージがギュイン! と凄まじい勢いで伸びていく。そして、ゲージが特定のラインを突破した瞬間、三角形の横に力強いフォントで『UP』という矢印が刻み込まれた。

 

 パラメーターの上昇を示すようなそのアニメーションが終わると、画面の中央に、一つのロゴがデカデカと表示された。

 

 馬の蹄鉄をあしらったポップなアイコン。

 

 そして、その下に書かれた文字列。

 

『ウマスタ』

 

「ウマ……スタ?」

 

 俺がその見慣れない単語を口にした瞬間。背後のカフェが、震える声で、祈るように両手を組み合わせながら呟いた。

 

『……信じられ、ません。そんなこと……あるはずが……』

「カフェさん? これ、一体なんなんだよ」

 

 俺が振り返ると、カフェは呆然とした表情のまま、スマホの画面に釘付けになっていた。

 

『それは……私たちの世界で、ウマ娘とトレーナーだけが使用を許されている、専用のポータル・アプリケーションです』

「は……?」

『レースの成績、ファン数の管理、そしてウマ娘同士のSNS機能……そのすべてを集約したシステム。……それが、『ウマスタ』です』

 

 その言葉の意味を理解した瞬間、俺の全身に鳥肌が立った。

 

 この世界には存在しないはずの、異世界のアプリケーション。それが今、なぜか『四月一日のスマートフォン』の中に起動している。

 

『……四月一日さん』

 

 カフェが、ごくりと息を呑んで俺を見た。

 

『その画面の、さらに奥へ……進んでみてください。もしかしたら、私たちの世界と……通信が、繋がっているかもしれません』

 

 俺たちの奇妙な同居生活は、フォロワー24万人という数字をトリガーにして、ついに『世界の境界線』そのものへと触れようとしていた。

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