薄暗い六畳間に、スマートフォンの無機質なバックライトだけが煌々と点灯している。
俺は息を呑みながら、画面の中央に鎮座する見慣れないアイコン――馬の蹄鉄をあしらったポップなデザインの『ウマスタ』というアプリの画面を凝視していた。横では、空中に浮かぶカフェが祈るように両手を組み合わせ、足元ではお友達の影が「なになに?」と俺の膝にすがりつくようにして画面を覗き込んでいる。
「……よし。いくぞ」
俺は乾いた唇を舐め、震えそうになる指先をぐっと抑え込みながら、その画面をタップした。
――ピロン、と。
これまでの俺のスマートフォンからは一度も聞いたことのない、やけにクリアで軽快な起動音が響く。先ほどまでの三角形のゲージが弾け、画面がパッと白く切り替わった。
白と鮮やかなグリーンを基調とした、スポーティでありながらどこか可愛らしいインターフェース。上部には『ホーム』『検索』『通知』『メッセージ』といった、現代のSNSアプリと酷似したタブが並んでいる。
ついに、異世界――トレセン学園のネットワークへと繋がったのだ。俺の心臓は早鐘のように打ち始め、カフェも『ああっ……!』と感極まったような声を漏らした。
だが。
「……ん? なんだこれ」
俺は拍子抜けしたように声を上げてしまった。なぜなら、表示された『ホーム』画面。そこにあるべきはずのものが、何一つとして存在しなかったのだ。
文字通り、何もない。真っ白なのだ。
『……おかしい、ですね』
カフェが、すっと目を細めて画面に顔を近づけた。その黄金の瞳に、明らかな戸惑いと落胆の色が浮かぶ。
『ウマスタは、学園の生徒や関係者が日常的に利用している巨大なプラットフォームです。普段ならここに、レースの結果や学園のニュース、それに皆さんのアカウントの投稿――例えば、今日食べたスイーツの写真や、トレーニング風景の動画などが、絶え間なく表示されて、とても賑やかなはずなんですが……』
彼女の言う通り、もしこれが正常に機能しているSNSなら、何かしらのタイムラインが流れているはずだ。しかし、画面はまるで『アカウントを作りたての初期状態』か、あるいは『ネットワークから完全に遮断された陸の孤島』のように、一切の情報を読み込んでいなかった。
更新するために画面を下にスワイプしてみても、虚しくローディングのアイコンがくるくると回るだけで、何も表示されない。
「電波は……バリ3(死語)だな。Wi-Fiも繋がってる。でも、向こうのサーバーから弾かれてるのか? それとも、俺たちがいるこの世界との間に分厚い壁があって、データの送受信ができてないとか……」
俺はブツブツと呟きながら、『ホーム』から『検索』、『通知』と順番にタブをタップしていった。しかし、どれを押しても結果は同じ。真っ白な画面が広がるだけだ。
故郷への扉が開いたと思ったのに、その先は無音の空間だった。
空中に浮かぶカフェが、みるみると肩を落としていくのがわかった。彼女にとって、この『ウマスタ』は単なるアプリではなく、見知った友人たちや、元の自分の居場所を証明する唯一の繋がりだったはずなのだ。
「……ふーむ?」
俺はなんとか彼女を元気づけようと、
「まだ諦めるのは早いだろ」
と強がりながら、半ばヤケクソ気味に画面をタップし続けた。
その時だった。唯一、右端にあった『メッセージ』のタブをタップした瞬間。
――ピコンッ!
部屋の空気を震わせるほど、はっきりとした通知音が鳴り響いた。同時に、真っ白だった画面が切り替わり、メッセージの受信ボックスのような画面が現れた。そこには、たった一つだけ、つい先ほど受信したばかりを示す『新着』の吹き出しが表示されていたのだ。
「お? おおっ!? カフェ! ここは見れるみたいだぞ!」
俺が叫ぶと同時に、沈みかけていたカフェが弾かれたように顔を上げ、俺の肩越しに画面を食い入るように覗き込んできた。お友達の影も「見えた! 見えた!」とばかりに、バンザイをしてピョンピョンと跳ね回る。
俺とカフェは、息を殺してその『新着メッセージ』の一行目に焦点を合わせ、そこに表示されていた送信者の名前を見て、俺たちは同時に目を丸くした。
送信者:『カレンチャン』
「……カレン、チャン?」
『……カレンさん、から……?』
カフェが、信じられないものを見るような声を出した。ウマ娘の事情に疎い俺にはピンとこなかったが、どうやらカフェにとっては、その名前はあまりにも予想外だったらしい。
『タキオンさん……同室のアグネスタキオンさんからなら、まだわかるんです。彼女は天才的な科学者ですし、次元の歪みや通信の異常といった超常的な現象にいち早く気づいて、ハッキングでも何でもしてコンタクトを取ってくる可能性は十分にありましたから。……でも、なぜ、カレンさんが……?』
カレンチャン。カフェから以前聞いたことがある。トレセン学園において、類まれなる『カワイイ』の才能を持ち、ウマスタを含むSNSで絶大な人気と影響力を誇る、トップインフルエンサーたるウマ娘だ。
「なんで科学者じゃなくて、インフルエンサーからメッセージが届くんだ? まぁいい、とにかく中身を確認しよう」
理由はわからないが、向こうの世界からの初めての、そして明確なコンタクトであることには間違いない。俺は震える指先で、カレンチャンの名前をタップした。画面が遷移し、トークルームが開かれる。
そこに書かれていたメッセージは、どこか事務的で、切迫感のある短いものだった。
『届いたら返信お願いします』
「……これだけか。何か異常に気づいて、安否確認か通信テストをしてきてるのかな?」
『そうかも、しれません……! 四月一日さん、早く! 早く、お返事を!』
カフェが急かすように俺の肩を叩く。彼女の透き通るような肌が、興奮と期待で微かに紅潮している。足元のお友達も、「早く早く!」と俺の足首をポカポカと叩いていた。
「わかってる! えーっと、『無事です、ここにいます』っと……」
俺は急いで画面下部のメッセージ入力欄をタップした。スマートフォンのキーボードが下からせり上がってくる――はずだった。
「……あれ?」
タップしても、キーボードが現れない。もう一度タップする。反応がない。
「おいおい、嘘だろ。入力欄がアクティブにならないぞ」
『そんな……。送信ボタンは押せませんか? スタンプでも何でもいいですから!』
「ダメだ、送信ボタンもグレーアウトしてる! くそっ、文字が打てなきゃ返信のしようが……!」
俺は半狂乱になりながら、親指で画面を何度も連打した。なんとかして、この細い蜘蛛の糸のような繋がりを維持しなければならない。
「じゃ、じゃあ文字がダメなら音声入力は? 画像添付は?」
しかし、俺の焦りとは裏腹に、スマートフォンの画面は突如として奇妙な挙動を示し始めた。入力欄の周辺に、ノイズのようなブロック状の乱れが走り始めたのだ。ジジジ……という、スピーカーからの異音も混じり始める。
「な、なんだ!? バグったか!?」
『四月一日さん! 画面が……!』
次の瞬間。
ウマスタの画面が、まるでブラウン管テレビの電源を落とした時のように、中央に向かってギュンッと収縮し――完全にブラックアウトした。
「あ……」
沈黙。そして数秒後。画面の中央に、いつもの見慣れたスマートフォンOSの起動ロゴが、ぼんやりと浮かび上がった。
……再起動だ。理由は判らないが、俺のスマートフォンが強制的に再起動を行ってしまったのだ。
やがて、いつも通りのロック画面が表示される。壁紙は、俺が適当に設定した風景画のままだ。ロックを解除してホーム画面を見ても、先ほどまで確かに存在していた『ウマスタ』のアイコンは、どこにも見当たらなかった。
元の状態。元の、ただのスマートフォン。
「……今のは」
カフェが、呆然とした声で呟いた。彼女は空中に浮かんだまま、すーっと力が抜けたようにへたり込みそうになっている。お友達の影も、ピタリと動きを止めて静まり返っていた。
俺もまた、しばらくの間、手の中のスマートフォンを見つめたまま固まっていた。たった数十秒の出来事。幻だったのではないか。連日の疲れが見せた白昼夢だったのではないか。そんな考えが脳裏をよぎる。
だが。
「……っはは! ははははっ! おい!」
俺はスマートフォンを力強く握りしめ、顔を上げて天井のシミを見つめながら、腹の底から湧き上がるような声を張り上げた。
「おいおいおいおい!! カフェ! 手掛かりじゃん、今の!!」
その大声に、カフェとお友達がビクッと肩を揺らした。
「見たか!? 『カレンチャン』からのメッセージ! 文字は打てなかったが、確かに届いた! 繋がったんだよ、向こうの世界と!!」
『四月一日、さん……』
「幻なんかじゃない! 俺のスマホがフリーズして再起動したのが何よりの証拠だ! 異世界のシステムに無理やり繋いだから、処理落ちしたんだ!」
俺の興奮が伝染したのか、足元で固まっていたお友達の影が、ハッとしたように跳ね上がり、「万歳! 万歳!」と猛烈な勢いで万歳三唱を始めた。
『……はい!』
カフェも、大きく深呼吸をしてから、その黄金の瞳に力強い光を宿して頷いた。
『はい……間違いなく、あちら側の……私の世界のものでした。カレンチャンさんは、私たちが無事であることを確認しようとしてくれたんです!』
「そうだ! カレンチャンだった理由はわからねぇが、ともかく向こうもこっちを探してるってことだ!」
俺たちは、興奮のあまり互いにハイタッチを交わしそうになった。もちろんカフェは実体がないので空振りになったが、お友達が代わりに俺の手にタックルしてきた。結構重い。
ともかくとして、ようやく。完全な暗闇の中に一筋の光が差し込んだのだ。ただ漫然とインフルエンサーとしての日々を過ごすのではなく、『帰還』に向けた明確なアプローチの糸口を掴んだ。
だが、冷静にならなければならない。俺は深呼吸をして、再びスマートフォンを見つめた。
「よし、落ち着こう。問題は『なぜ今まで全く反応がなかったのに、今日、この瞬間に急に繋がったのか』だ。……何か原因があるはずだ」
『原因……』
「そうだ。再起動する前、最初にあのポップアップ通知が出たよな。何て書いてあったか覚えてるか?」
俺が問いかけると、カフェはハッとしたように目を見開いた。彼女の明晰な頭脳が、点と点を瞬時に結びつける。
『……【ファン数、24万人突破。トップスターウマ娘に昇格】……』
「そうだ」
俺はニヤリと笑い、人差し指を立てた。
「じゃあ、何が原因だったのか。つったら」
俺の言葉を継ぐように、カフェが確信に満ちた声で力強く頷いた。
『――フォロワー数、ですね!』
「ご名答!」
俺は指を鳴らした。有馬記念の熱狂。そして、先ほどの生配信での反響。それらが爆発的なバズを生み出し、俺の(かっふぇの)SNSアカウントのフォロワー数が『24万人』という節目を突破したのが、まさに切っ掛け。
『この世界でのフォロワー数=ウマスタにおけるファン数として、あちらのシステムが誤認、あるいは同期した……。そして、インフルエンサーであるカレンチャンさんなら、SNSの海で発生した巨大な「波(バズ)」や、特定のファン数を超えたアカウントの異常なトラフィックを検知できたのかもしれません』
「なるほどな。だから科学者のタキオンじゃなくて、SNSのプロであるカレンチャンが見つけてくれたってわけか。筋は通ってる」
つまり、結論は一つだ。
「24万人で、ギリギリ数秒間だけ通信が繋がった。なら、もっとだ」
俺はスマートフォンを握りしめ、静かに、しかし熱く燃えるような決意を込めて宣言した。
「30万、50万……いや、100万フォロワーだ。この世界で誰も無視できないくらいに『かっふぇ』の存在をデカくしてやれば、向こうのシステムへの繋がりも強固になる。再起動なんかで落ちないくらい、太くて確実な通信ケーブルを開通させてやる!」
『……はい!』
カフェも、研ぎ澄まされた勝負師の顔になって頷いた。お友達の影も「やるぞ! やるぞ!」とファイティングポーズをとっている。
目的は定まった。もはや、ただ生活費を稼ぐためのインフルエンサー活動ではない。これは、俺が元の身体を取り戻し、彼女たちを元の世界へ帰すための『戦い』なのだ。
「よし……。明日から、さらに気合入れて食って、走って、配信していくぞ! 目指せ、トップインフルエンサーだ!!」
六畳間のアパート。
三十路前のおっさんと、美しいウマ娘の魂と、その友達。
奇妙な三人の共同生活は、24万人のフォロワーという数字を足掛かりにして、次元の壁をぶち破るための次なるステージへと確かに歩みを進めたのだった。