興奮冷めやらぬ六畳間。
先ほどの、スマートフォンが異世界と接続しかけたという超常的な出来事の余韻が、空気中にまだビリビリと漂っているようだった。
「……とりあえず、コーヒーでも淹れるか。落ち着こう」
『……はい。そう、ですね。少し、頭を冷やした方がよさそうです』
俺は小さく息を吐き、立ち上がってキッチンへと向かった。
やかんに水を張って火にかけ、戸棚からお気に入りのコーヒー豆を取り出す。手動のミルに豆を投入し、ゴリゴリとゆっくりとしたリズムでハンドルを回し始めた。この、豆が砕ける感触と、立ち上ってくる芳醇な香りは、中身が三十路前の男であろうとウマ娘であろうと、心を強制的にフラットな状態へと戻してくれる不思議な魔法だった。
「(スンスン……)」
足元では、お友達の影がミルからこぼれる香りを嗅ぐように、俺の足首にすり寄っている。
やがてお湯が沸き、ドリッパーにセットした粉に、細い弧を描くようにお湯を注ぐ。ぷっくりと粉が膨らみ、部屋中に深い焙煎の香りが充満していく。
マグカップを二つ(一つは俺の、もう一つはカフェが「香りを楽しむ」ためのもの)用意し、テーブルに置いた。
「……ふぅ。よし、これで少しは冷静に話ができるな」
俺はマグカップの縁に口をつけ、ブラックコーヒーの苦味を舌の上で転がしてから、喉の奥へと流し込んだ。温かい液体が胃の腑に落ちていくのを感じながら、俺は宙に浮かぶカフェに向き直った。
「さて、カフェさん。さっきの話の続きだが……」
『はい。ウマスタの起動条件と、あの通知についてですね』
「そうだ。『24万人突破、トップスターウマ娘に昇格』って通知が出てた。向こうの世界……トレセン学園のシステムじゃ、ファンの数ってのはそんなに重要な区切りがあるのか?」
俺の問いに、カフェはコーヒーの立ち上る湯気をそっと手で仰ぐような仕草をして、黄金の瞳を伏せた。どこか懐かしむような、静かな表情だった。
『……ええ。私たちの世界において、自分を応援してくれるファンの皆様の数というのは、単なる人気投票ではありません。それは、ウマ娘としての格や、出走できるレースのグレードを決定づける、非常に明確で絶対的な指標なんです』
「なるほどな。格付けシステムってわけか」
『はい。そして、先ほどの通知にあった通り……ファン数が24万人を突破したウマ娘には、『スターウマ娘』という称号が与えられます。学園内でも、一目置かれるトップアスリートの仲間入りを果たした証です』
スターウマ娘。俺のSNSのフォロワー24万人という数字が、向こうのシステムのその称号の条件と完全にリンクしてしまったというわけだ。
「じゃあ、その『スター』の上もあるのか?」
『もちろんです。次の大きな区切りは……ファン数【32万人】です。そこに到達すると、『レジェンドウマ娘』という称号に変わります。歴史に名を刻む、真の強者たちの領域ですね』
「32万、か……」
俺は腕を組み、マグカップを見つめた。あと8万人。決して少なくない数字だが、今の勢いなら全く手の届かない領域ではない。
「じゃあ、32万のさらに上は?」
『ウマ娘自身の称号としては、それが最高位の区切りになります。……ただ、少し違う形での栄誉なら、もう一つ上の段階が存在します』
「違う形?」
カフェはふわりと微笑み、俺の目を真っ直ぐに見つめ返した。
『はい。ウマ娘を指導し、二人三脚で歩む『トレーナー』側に与えられる称号です。一人の担当ウマ娘のファン数が【100万人】を超えた時……そのトレーナーには、『スーパープロデューサー』という最高の栄誉が与えられるのだと、聞いたことがあります』
「スーパー、プロデューサー……ひゃくまん、にん……」
あまりにも現実離れした数字と、大仰な肩書きに、俺は思わず気の抜けた声を出してしまった。100万人。それはもう、ちょっとした地方都市の人口を丸ごと抱え込むような規模だ。
『ふふっ。途方もない数字ですよね。ですが、今の四月一日さんの勢いなら……もしかして、なんて』
「いやいやいや! 流石に100万人は無理だろ! どんだけハンバーガー食えばいいんだよ!」
「(バクバク!)」
俺が盛大にツッコミを入れると、足元のお友達の影が「ハンバーガー100万個!」とでも勘違いしたのか、見えないハンバーガーを貪り食うジェスチャーをして大はしゃぎし始めた。
「こら、お前はちょっと落ち着け」
俺はお友達の頭をポンポンと撫でて宥めつつ、改めて思考を整理した。
「……まぁ、100万人は夢物語として置いておくとして。まずは、次の区切りである【32万人】を目指そう。そうすれば、レジェンドウマ娘とやらへの昇格通知で、今回みたいにウマスタのシステムと再びリンクするはずだ。しかも、今度こそ再起動で落ちないくらい、強固に接続できるかもしれない」
『はい……! 私も、そう思います』
カフェも力強く頷いた。目標は明確になった。32万人のフォロワーを獲得し、再びウマスタへの扉を叩くこと。そして、カレンチャンやタキオン、あるいは元の世界の誰かと通信を確立し、帰還への手掛かりを掴むことだ。
だが。
「……実際、どうやってあと8万人も増やす? って話だよな」
俺の現実的な問いかけに、六畳間に再び沈黙が落ちた。
俺たちが現在やっていることといえば、
・夜間の雑談やゲーム配信。
・競馬場や街中への外出(そして異常な量の大食い)。
・身分証不要という奇跡的な条件で受けた、企業案件(大食い)。
これらをローテーションで回しているだけだ。もちろん、謎の美少女『かっふぇ』の圧倒的なビジュアルとウィスパーボイス、そしてブラックホールのような胃袋のギャップは、多くの人を惹きつけている。しかし、流石にここから爆発的に数字を伸ばすには、マンネリ感が否めない。
『そう、ですね……。何か、今までとは違う新しい層の方々に、かっふぇの存在を知っていただく機会があればよいのですが』
「だよなー。配信、お出かけ、身分不要の案件……。正直、これ以外に思いつく手がねぇ。ハンバーガーの案件だって、あんなホワイト企業からのオファーは奇跡みたいなもんだし、身分証の提示を求められたら俺たちは詰みだ。後は衣装チェンジも方法としてはあるが、どちらかと言うと既存ファン向けだしな。やっぱり、地道に今の活動を回して、ジワジワ伸ばしていくしかないか……?」
俺が頭を掻き毟りながら結論を急ごうとした、まさにその時だった。
――ピロンッ。
テーブルの上に置いてあったスマートフォンが、SNSのダイレクトメッセージの受信を知らせる通知音を鳴らした。
「ん? 案件の依頼か?」
俺はスマホを手に取り、ロックを解除してメッセージボックスを開いた。そこに届いていたのは、企業からの堅苦しい依頼ではなく、一般のファンからの何気ない、しかし熱の込もった一通のDMだった。
『こんにちはかっふぇさん! いつも配信楽しく見ています! 有馬記念の時の服も最高でした! ……あの、かっふぇさんは、この冬のコミケでコスプレ披露とかは、しないんでしょうか? かっふぇさんの美貌なら、絶対に伝説になると思うんですが!』
「……コミケ、で、コスプレ?」
俺はそのメッセージを読み上げ、思わず首を傾げた。
『四月一日さん? コミケ、とは何ですか?』
空中に浮かぶカフェが、耳慣れない単語に目を丸くして尋ねてくる。俺はスマホの画面から顔を上げ、カフェとお友達に向かって、俺の知る限りの『コミケ』というイベントについての知識を説明し始めた。
「コミックマーケット、略してコミケ。東京ビッグサイトっていうバカでかい会場で、夏と冬に開催される、日本最大……いや、世界最大規模の同人誌即売会だよ」
『同人誌……本のお祭り、ですか?』
「まぁ、基本はそうなんだけど。今のコミケはそれだけじゃないんだ」
俺は身振り手振りを交えながら、さらに言葉を続ける。
「会場には『コスプレエリア』っていうのがあってさ。そこに、アニメやゲームのキャラクターの衣装を着たコスプレイヤーたちが集まるんだよ。で、それを撮影するために、全国から数え切れないほどのカメラマンや一般参加者が殺到する」
『撮影、ですか』
「ああ。人気のコスプレイヤーになると、一人の周りに何重もの人だかり……『囲み』って呼ばれるカメラマンの壁ができるらしい。そして、そこで撮られた写真がSNSで一斉に拡散されて、一気に何万人もフォロワーが増える……なんていう、シンデレラストーリーが実際に起きる場所なんだよ」
日雇い労働者だった俺は、当然そんな華やかな場所に足を運んだことはない。しかし、年末のニュースやネットのまとめ記事で、その凄まじい熱気と『バズの震源地』としての威力は知っていた。
俺の説明を聞いたカフェは、少し驚いたように口元に手を当てた。
『……なるほど。数十万人の人々が、一つの場所に集まり、写真を撮り合って情報を拡散する……。それは確かに、私たちの世界における『G1レースのパドックとライブ会場』が合わさったような、途方もないエネルギーを持ったイベントですね』
「(ブンブン!)」
お友達の影も、カフェの言葉に同意するように激しく首を縦に振っている。
「あ、でもまてよ……。おい、これ、マジでいい案かもしれないぞ」
俺は、先ほどまでの閉塞感が嘘のように、興奮で胸が高鳴るのを感じた。
俺が今着ているこの『勝負服』。これを着て、コミケのコスプレエリアに立つ。『マンハッタンカフェのコスプレ(本物)』として。
その圧倒的なクオリティ――何せ中身は本物なのだ――、と、ウマ娘特有の神秘的なオーラ。それが数千、数万のカメラマンのレンズを通してネットの海に放たれれば……32万人への壁など、あっという間に粉砕できるのではないか?
「コミケのコスプレ広場……。これなら、普段俺たちの配信を見てない層にも、一撃で『かっふぇ』の存在を叩き込める。爆発的な数字を稼ぐなら、これ以上の舞台はないかもしれない」
俺が拳を握りしめて立ち上がると、カフェも、
『確かに……。素晴らしいアイデアだと思います。一気に、フォロワー数を増やせそうですね』
と目を輝かせた。だが、高揚するテンションの中で、俺の脳内に一つの『冷たい現実』が水を差した。
「……待てよ」
俺はピタリと動きを止め、再びスマホの画面に視線を落とした。
「まぁ、俺もコミケの参加条件とか、細かいルールは全然詳しくないんだが……。コスプレ参加って、事前にチケット買ったり、登録が必要だったりする、かもしれない」
『そうなんですか?』
「たぶん……。で、一番の問題は、身分証の確認だ」
俺の言葉に、カフェの表情もスッと真剣なものに変わった。
「こういう大規模イベントは、最近テロ対策とか転売対策で、入場時に厳格な『本人確認』をやるところが増えてる。もし、コスプレ参加の受付で……公的な身分証明書の提示を求められたら、どうなる?」
『……かっふぇとしての身分証はおろか、四月一日さんの身分証を提示しても、この容姿では確実に怪しまれますね』
「そういうことだ。『あの、中身は三十路の男なんです』なんて通用するわけがない。一発で不審者扱いされて、最悪警察沙汰だ」
せっかくの突破口に見えたコミケへの道が、またしても『身分証』という現代社会の強固な壁に阻まれようとしていた。
「いや、まだ諦めるのは早い。イベントによっては、チケットのQRコードさえあれば身分証の目視まではしない所もあるはずだ。あるいは、コスプレ登録だけならゆるいとか……」
俺はブツブツと呟きながら、ブラウザアプリを立ち上げ、検索窓に『コミケ コスプレ 参加方法 身分証』というキーワードを打ち込んだ。
「よし、カフェさん。まずは敵を知ることからだ。冬のコミケの参加ルール、徹底的に調べてみようぜ」
『はい。お手伝いします』
「(ガッツポーズ!)」
マグカップから立ち上るコーヒーの香りが、少しだけ冷めてきた六畳間。
俺たち三人は、32万人という未知の領域、レジェンドウマ娘へ至るため、そして元の世界への通信を確立するため、スマートフォンの小さな画面に顔を寄せ合い、日本最大のオタクの祭典の『分厚いルールブック』という名の公式サイトへと挑み始めたのだった。