普段の三話分だね。ハハッ。
女性更衣室という精神的修羅場をどうにか無傷(?)で切り抜けた俺は、ボストンバッグから出した指定のサークル通行証を首から下げ、いざ東京ビッグサイトの広大なホール内へと足を踏み入れた。
「……すごい熱気だな」
『ええ。まだ一般の参加者の方々は入っていないはずなのに、この活気……。まるでお祭りの準備のような、心地よい高揚感があります』
空中のカフェが、ホール内を見渡しながら感嘆の声を漏らした。
時刻はまだ開場前の午前9時前。それにもかかわらず、巨大なコンクリートの空間は、すでに各サークルの参加者たちやスタッフが行き交い、凄まじい熱量と独特の紙とインクの匂いに包まれていた。冬の冷え込んだ空気が、数万人の体温と情熱でじわじわと温められていくのが肌でわかる。
広すぎる会場のマップをスマホで確認しつつ、俺は指定された『島中(しまなか)』――つまり、通路の中央付近に配置されたサークルスペースを目指して歩き出した。
すると、どうだろう。漆黒の勝負服に身を包んだ『本物のマンハッタンカフェ』の姿は、良くも悪くもこのオタクの祭典において目立ちすぎているようで。
「あ、あっ……! か、かっふぇさんだ!」
「えっ!? うそ、本物!? 告知見てまさかと思ってたけど……!」
「すいません、いつも配信見てます! 後でぜひ、ご挨拶をさせてください!」
台車を押して通り過ぎる人や、ポスターの設営に向かっていたサークル参加者たちが、次々と足を止めて声をかけてくる。俺は内心でビクビクしつつも、都度立ち止まり、背筋を伸ばして、カフェ直伝の優雅なお辞儀を返した。
「……ありがとうございます。後ほど、よろしくお願い、いたします」
特有のウィスパーボイスで静かに答えると、声をかけた参加者たちは一様に目を見開き、口元を覆った。
「おおお……っ! 本当にマンハッタンカフェだぁ……!」
「声の再現度エグッ! 本物じゃん!」
「生きててよかった……今日のコミケもう満足……」
拝むようにして感動する彼ら・彼女らに小さく手を振りながら、俺は迷路のような長机の列を縫って進んだ。
■
「あーっ! かっふぇさん! こっちです、こっち!」
ようやく目的の配置番号の島に辿り着くと、今朝待ち合わせをしたサークル主の女性が、長机の上で手を振っていた。彼女の足元と机の上には、幾重にも積まれた段ボール箱と、まさに山積みといった表現がふさわしい新刊と既刊のタワーがそびえ立っていた。
「……おはよう、ございます。迷ってしまって、遅くなりました」
「いえいえ! 今ちょうど、宅配搬入の段ボールを開け終わったところなんです!」
俺はボストンバッグを机の下の邪魔にならない隅へ置き、すぐさま彼女の隣に立って陳列の手伝いを開始した。日雇い時代、重い資材の運搬や手元の細かい仕分け作業は腐るほどやってきた。俺はウマ娘の身体能力と、日雇いで培った効率的な手際をフル稼働させ、次々と本を並べていく。
「……すごい量、ですね」
「ええ! 今回は冬の新作でしたから、500部は出るよーって印刷所さんにお願いしちゃったんです!」
「ご、500部……」
俺は驚いて目を瞬かせた。同人の世界には詳しくないが、個人で500冊もの本をさばくというのは、かなりの人気サークルなのではないだろうか。
「いつもなら少し残って、あとでネット配布になるんですけど。でも、今日、かっふぇさんが売り子をしてくれるなら、あっという間に完売しちゃうかもしれませんね!」
サークル主はニコニコと笑いながら、机の上に小銭用のコイントレーと、お札を入れるための小さなアクリルケースを設置した。
「ええと、お会計のやり方なんですが。今回は新刊と既刊2冊の、合計『三つセットで1500円』になります」
「……はい」
「お客様からお金をいただいたら、500円玉はこっちのケース、1000円札はこっちのケースに入れてください。もし5000円札とかでお釣りが出る場合は、受け取ったらお釣りと一緒に、このセット済みの本を笑顔で出してあげてくださいね」
非常にシンプルでわかりやすいレジ打ち(手動)の説明だった。日雇い時代にやった交通整理やイベントスタッフの業務に比べれば、全く複雑ではない。俺はカフェの表情を作り、安心させるように小首を傾げて静かに微笑んだ。
「……わかり、ました。お任せ、ください」
ウィスパーボイスと共に放たれた、その完璧な『マンハッタンカフェの微笑み』。それを見た瞬間だった。
「――っ……!!」
サークル主の女性が、突如としてビクゥッ!と肩を震わせ、胸のあたりを両手で強く押さえた。
「どっ……どう、しましたか?」
「ひゅっ……あ、あ、あああ……む、無理ぃ……っ!」
女性は顔を真っ赤にして何とも言えない声にならない叫びを上げ、パイプ椅子に崩れ落ちるように座り込んだ。肩で荒く息をしている。
「だ、大丈夫、ですか!?」
「う、うん。うんっ……! ご、ごめんなさい、あまりにも……間近で見る破壊力が、顔面国宝すぎて、心臓が……っ!」
サークル主は震える手でペットボトルの水を掴み、ゴクゴクと一気に喉に流し込んで、なんとか過呼吸気味の息を落ち着かせようとしていた。
(俺の顔……というかカフェの顔で過呼吸になるのか……オタクの情熱ってすげぇな)
俺が内心で盛大に苦笑していると、その異変はサークル主だけにとどまらなかった。
「……ねえ、隣のサークル……」
「嘘でしょ、あれってマンハッタンカフェ?」
「っていうか、事前告知してたかっふぇさんじゃん!?」
「うわ、生かっふぇヤバくね? 美人すぎん!?」
先ほどの悲鳴と、陳列を終えて静かに佇む俺の姿に気づいた隣接サークルや、周囲の通路を歩いていた他のサークル参加者たちが、ざわめきと共に一斉にこちらへ視線を向けていたのだ。
「え、どうしよう、目が合った……」
「やばい、微笑まれた。はあああぁぁぁぁぁ……無理ぃ……」
「尊い……同じ空間で息しててごめんなさい……」
俺がペコリと軽く会釈をするたびに、あちこちのサークルスペースで「無理」「しんどい」「尊い」というオタク特有のうわ言が連鎖し、次々と机に突っ伏して『沈む』人々が続出していった。
『……ふふっ。皆さん、とても楽しそうですね』
空中のカフェが、その阿鼻叫喚の光景を見渡して、どこか嬉しそうにクスクスと笑い声を漏らす。足元では、お友達の影が「みんな倒れた!なんでなんで!?」と不思議そうにしながらも、お祭りのような空気に当てられて、楽しそうにゆらゆらと揺れ踊っていた。
(楽しそうっていうか、みんな俺のガワのせいで瀕死状態なんだが……)
俺は心の中でそっとツッコミを入れつつ、パイプ椅子にちょこんと腰を下ろした。
時計の針は、9時半を過ぎたところだ。一般参加者の入場を告げる、コミックマーケットの開会を指し示そうとしている。
「……ふぅ。とりあえず、一日頑張るか」
俺はダボダボの袖の中で小さく拳を握り、密かに気合を入れた。
目指すはフォロワー32万人、『レジェンドウマ娘』への到達と、異世界への通信回線の確保が、何よりの最優先事項だ。
■
開場前の東京ビッグサイト。
一般参加者がなだれ込んでくる前の、嵐の前の静けさとでも言うべき独特の時間が流れている。
サークル主のお姉さんが過呼吸気味の興奮からなんとか立ち直り、再び本の陳列や釣銭の最終確認に奔走し始めた頃。俺はパイプ椅子に浅く腰掛けたまま、ふと周囲の長机――いわゆる「島」の様子をぐるりと見渡してみた。
そして、ある異変、というか共通点に気がついた。
右隣のサークルの長机に敷かれているのは、コーヒーカップと黒猫がデザインされたシックなテーブルクロス。
左隣のサークルが掲げているポスターには、巨大なビーカーとフラスコ、そして黒髪の美少女。
さらに向かいの島や、斜め後ろのサークルの値札スタンドにまで、どことなく勝負服のカラーリングや蹄鉄のモチーフがあしらわれている。
「……お姉さん」
「はいっ! 何でしょうかかっふぇさん!」
「この辺りのサークル……もしかして、全部マンハッタンカフェの、本ですか?」
俺が小首を傾げて尋ねると、サークル主のお姉さんは、
「あ、お気づきになりませんでしたか?」
とパッと顔を輝かせた。
「そうですよ! コミケは基本的に、同じジャンルや同じキャラクターを扱っているサークルが固まって配置されるんです。つまり、ここ一帯はすべてマンハッタンカフェ中心のサークルが集まった……通称『カフェ島』なんです!」
「カ、カフェ島……」
俺は思わず唖然とした。見渡す限りの長机、そこに積まれた数千、数万という同人誌。そのすべてが、今俺がそのガワを被っている『マンハッタンカフェ』という一人のウマ娘への巨大な愛(と情熱と欲望)で構成されている空間だというのだ。
『…………っ』
その事実を突きつけられた瞬間。俺のすぐ横に浮かんでいた本物のマンハッタンカフェは、ボンッ!と音が鳴りそうなほど顔を真っ赤に染め上げた。
『こ、ここ一帯の皆様が、すべて……私と、タキオンさんや、他の方々との……あ、あああ……』
自分の日常や、ファンが妄想した様々なシチュエーションが描かれた本が、見渡す限りの視界を埋め尽くしているのだ。いくら普段はクールでミステリアスな彼女でも、この状況は流石に羞恥心の限界を突破しているらしい。
『……これは、その。非常に……恥ずかしいですね、ええ……』
カフェは両手で顔を覆い、空中でのたうち回るように身をよじらせている。そんな彼女とは対照的に、足元のお友達の影はといえば。
「(えっへん!)」
周囲のポスターや表紙に描かれた自分たち(カフェ)の姿を見て、『みんなわかってるじゃん!カフェは最高だもんね!』とでも言わんばかりに、腕を組んでふんぞり返り、誇らしげに胸を張っていた。
「まぁ、愛されてるってことだ。喜べよ、カフェさん」
『四月一日さんは他人事だと思って……っ! 見てくださいあの右隣のポスター! 私がタキオンさんに壁ドン(?)をされていますよ!? あんなことされたら私、噛みつきますからね!?』
普段は見せないような慌てふためくカフェの様子に、俺は思わず吹き出しそうになったが、なんとか堪えて表情筋を「かっふぇ」のそれに固定し続けた。
■
そんなやり取りを脳内(と虚空)で繰り広げていると。不意に、右隣のサークルスペースから、尋常ではない熱を帯びた視線が突き刺さってくるのを感じた。
チラリと視線を向けると、先ほどカフェが『壁ドンされている』と指摘したポスターを掲げているサークル主の女性が、パイプ椅子に座った俺の姿を、穴の開くような勢いで凝視していたのだ。
俺とバチッと目が合う。
「あ……」
あからさまにビクッとするお隣さん。これから一日、隣同士で店を構えるのだ。挨拶くらいはしておいた方がいいだろう。俺は座ったままスッと背筋を伸ばし、上品な角度で頭を下げた。
「……おはよう、ございます」
ウィスパーボイスで静かに紡がれた挨拶。それを受け止めたお隣さんは、顔面を数秒で茹でダコのように真っ赤に染め上げ、手の中で新刊のサンプルをグシャッと握りつぶしてしまった。
「カ……カフェ……。カフェだ、カフェだよぉ……」
「……?」
「わたしもう、むりぃいいいいい……っ。本物……本物が隣にいる……。可愛い、可愛すぎるよぉ……」
お隣さんはそのまま机の上に突っ伏し、頭を抱えて謎の呪文を唱え始めてしまった。俺のサークル主のお姉さんが、
「あーあ、あの人もキャパオーバーしちゃったね」
と、まるで歴戦の勇者のような顔でウンウンと頷いている。オタクの愛の重さと、それに伴う奇行の数々。日雇い現場の荒くれたおっさんたちとは全く異なるベクトルの熱量に、俺はタジタジになりながらも、なんとか気を取り直した。
「そ、そういえば、後ろのサークルさんにも挨拶しとかないと」
島中(長机)の配置は、基本的に背中合わせになっている。つまり、俺の真後ろにも別のサークルスペースがあるのだ。俺はパイプ椅子の上でくるりと身体を反転させ、背後のサークルへと声をかけようとした。
「……あ」
振り返った先。そこにいたのは、俺と同じように黒を基調としたシックな衣装を身に纏い、頭にはウマ耳のウィッグ、腰には尻尾をつけた女性だった。
そう、後ろのサークルの売り子さんは、なんと『マンハッタンカフェのコスプレ』をしていたのだ。
向こうも、振り向いた俺の存在に気づいたらしい。自前の手鏡でウィッグの前髪を調整していた彼女の手が、ピタリと止まる。
同じキャラクターのコスプレ同士。いわゆるあわせのような状況だ。俺は相手に敬意を表するべく、スッと立ち上がり、これ以上ないほど可憐でミステリアスな笑みを浮かべて会釈をした。
「……どうも。今日は一日、よろしくお願い、します」
俺の挨拶に対し、カフェのレイヤーさんは、まるで石化魔法を食らったかのように数秒間硬直した。そして、ギギギ……と錆びた機械のように首を動かし、俺の顔、髪、耳、そして衣装の細部までを、プロの鑑識のような鋭い目つきでスキャンし始めた。
「よ、よろしく、ね……?」
彼女の声は震えていた。
「っていうか……えっ!? ク、クオリティはんぱな!?」
「……?」
「なにその耳! どこから生えてるの!? ウィッグの境目が全く見えない……っていうか、それ地毛!? 衣装の生地もなにそれ、設定画そのままの質感だし、え、ちょっと待って、顔ちっさ!! スタイル異次元!!」
レイヤーさんは、自分の頭に乗っているウィッグと、俺の頭から実際に生えている本物のウマ耳とを見比べ、絶望と感嘆が入り混じったようなため息を吐き出した。
コスプレイヤーとして、少しでも推し(カフェ)に近づこうと努力してきた彼女だからこそ、俺が纏っている本物の肉体の完成度の異常さが、誰よりも理解できてしまったのだろう。
「じ、自信無くなるー……」
彼女はガックリと肩を落とし、パイプ椅子にへたり込んだ。
「カフェだ。もう貴女、カフェそのものだよ。すっごい……なんかもう、同じコスプレしてるのが申し訳なくなるくらい、完璧……」
「……そんなこと、ありませんよ」
俺は彼女の努力を否定しないよう、首を横に振り、少しだけ前屈みになって相手の目を覗き込んだ。
「……あなたの衣装も、とても、素敵です。カフェへの愛が、伝わってきますから」
長い睫毛を伏せ、上目遣いで、静かに微笑む。が、忘れてはならない。
本物のマンハッタンカフェ(ガワ)による、至近距離での肯定と微笑みだ。
それが引き起こす結果は、火を見るより明らかだった。
「――っっっっっっっ!!!!(声にならない絶叫)」
レイヤーさんは胸を強く押さえ、パイプ椅子からズルリと崩れ落ちた。限界を迎えたのだ。しかも、その『カフェの微笑み』は、後方サークルだけでなく、周囲を通りかかった参加者たちにも広範囲の被弾(流れ弾)をもたらした。
「ぐふっ……」
「尊い……ここがエデンか……」
「眼福……コミケの神様ありがとう……」
バタバタと、誇張抜きで周囲のオタクたちが膝をつき、あるいは天を仰いで昇天していく。まるで俺が何か広範囲のデバフ魔法でもばら撒いたかのような、異様な光景がカフェ島の一部に広がってしまった。
『……四月一日さん、貴方という人は本当に……無自覚なタラシですね』
空中でカフェが呆れたようにため息をつき、お友達の影が「みんな倒れたー!」と大爆笑して転げ回っている。俺は、
(俺のせいじゃないだろ! お前の顔が良いせいだ!)
と心の中で猛烈に言い訳をしながら、慌ててレイヤーさんを助け起こそうと手を伸ばした。
■
そんな、開場前だというのに妙なカオスに包まれていたカフェ島の一角に。
「はいはーい、見本誌の回収とチェックに回りまーす。ご準備お願いしまーす」
腕章をつけた、コミックマーケットの準備会スタッフ(男性)が、台車を押しながら近づいてきた。各サークルが頒布する本の内容が規約に違反していないか、開場前に見本誌をチェックして回る重要な巡回業務だ。
スタッフの男性は、俺の周辺のサークルスペースで数人が謎の悶絶を繰り返している異常事態を見て、苦笑いしながら立ち止まった。
「どうされたんですか皆さん。なんだか、開場前からずいぶん楽しそうに……」
と言いながら、スタッフは俺のいるサークルスペースの前に立ち、長机の上に置かれた新刊を手に取った。ペラペラとページをめくり、規約違反がないことを確認して、チェック完了のシールを貼る。
「よし、本はオッケーです。ご協力ありがとうござい……」
スタッフの男性が、本から視線を上げ。売り子としてパイプ椅子に座っている『俺』と、バチッと目が合った。
「……うおっ」
プロのスタッフとして、常に冷静沈着に立ち振る舞うべき彼だが。目の前に鎮座する、あまりにも現実離れした美貌とクオリティを誇る『マンハッタンカフェ』を直視した瞬間、見事に素っ頓狂な声を漏らしてしまった。
「あ……。おはよう、ございます。お疲れ様、です」
俺がスッと会釈をすると、スタッフの男性はハッとして姿勢を正し、だがその口元はどうしても緩んでしまうのを隠せないようだった。
「か、かっふぇさん……ですよね? SNSの告知、拝見してました。本当に、一般のサークルスペースにいらしてたんですねぇ」
どうやら、彼も『かっふぇ』の存在を知っていたらしい。コミケのスタッフをやるような人間だ。ネットのトレンドや、競馬場での伝説的な大食いバズの話題は当然耳に入っているのだろう。
「……はい。ご縁があって、少しだけ、お手伝いを」
「いやぁ……凄い。目の前で見ると、本当にSNSの写真そのままというか……」
スタッフの男性は、職務中であるというギリギリの理性を保ちながらも、感嘆の息を漏らした。そして、周囲で悶え苦しんでいるオタクたちを一瞥し、すべてを察したようにウンウンと深く頷いた。
「なるほど、周囲の皆さんが限界を迎えている理由がよくわかりました。これは仕方ない。……いや、すでにめちゃくちゃ可愛いです。イベントを盛り上げてくれる、最高のコスプレ……本当にありがとうございます!」
スタッフの男性は、仕事用の顔の奥に隠しきれない『オタクとしての特大の感謝』を滲ませて、深々と頭を下げてくれた。
「……ふふっ。ありがとうございます」
俺が微笑み返すと、スタッフは、
「よしっ、頑張るぞ!」
と謎の気合を入れ直し、元気よく次のサークルへと巡回に向かっていった。
時刻は、間もなく午前10時。開場の時間が、刻一刻と迫っている。
サークル主のお姉さんは、俺の集客力(というか破壊力)を目の当たりにして、
「これは500部じゃ全然足りないかも……!」
と嬉しい悲鳴を上げながら、段ボール箱の配置を微調整している。
『……ふぅ。なんだか、まだレースが始まってもいないのに、どっと疲れてしまいましたね』
「違いない。でも、ここからが本番だぜ、カフェさん」
俺はパイプ椅子の上で姿勢を正し、正面の巨大なシャッターの方角を見据えた。やがて、場内放送のスピーカーから、アナウンスの声が響き渡る。
数万人の欲望と情熱が渦巻く、コミックマーケットの開会を告げる合図。フォロワー32万人という『レジェンドウマ娘』への道を切り開くための、一日限りの無双劇が、今、始まろうとしていた。
「よし……。気合入れるか!」
俺の決意に応えるように、足元のお友達の影が、楽しそうにユラユラと揺れながら、見えない拳を高く突き上げたのだった。
■
午前10時。
「――それでは、冬のコミックマーケット、開会です!」
場内アナウンスと共に、東京ビッグサイトの広大なホール全体を、地鳴りのような拍手が包み込んだ。
何万人もの参加者とスタッフが、この祭典の無事と成功を祝って一斉に手を打ち鳴らす、コミケ特有の儀式だという。日雇い現場の朝礼とは全く違う、凄まじい熱量と一体感に、俺は思わず圧倒されて息を呑んだ。
そして拍手が鳴り止んだ次の瞬間、静かだった通路に、無数の足音がドドドドッ!と雪崩れ込んできた。走ってはいけないというルールの下、競歩の日本代表のような凄まじいスピードで歩く一般参加者たちが、それぞれの目当てのサークルへと散っていく。
「さぁ、来ますよかっふぇさん! 気合入れていきましょう!」
「……はい。よろしくお願い、します」
サークル主のお姉さんがハチマキを締めるような勢いで立ち上がり、俺もパイプ椅子の上で居住まいを正した。
すると、開場から数分も経たないうちに、俺たちのスペース(カフェ島の一角)の前には、スルスルと人の列が形成され始めたのだ。
島中(通路の真ん中)の配置であるにもかかわらず、列はあっという間に十数人に膨れ上がり、通路の通行の邪魔にならないよう、お姉さんが慌てて、
「最後尾はこちらでーす!」
と札を掲げて列を整理する事態となった。
「……すごい数、ですね」
「ええ! でも、外に列を作らなきゃいけない『壁サークル』ほどの大行列じゃないですから、これなら私たち二人で十分に捌ききれます! よかったぁ、一時はどうなるかと思いましたけど、ほっと一息です!」
お姉さんは胸を撫で下ろしながら、俺の隣に座り直した。並んでいる人たちの顔ぶれを見ると、純粋にお姉さんの描く『同人誌(カフェとタキオンの日常本)』を目当てに来たファンたちの層と、SNSの告知を見て『かっふぇ(俺)』を一目見ようと駆けつけた層が、半々といったところだろうか。
「ええと、改めて確認ですが。新刊と既刊2種、それぞれ単品だと各500円になります。三つセットだと1500円ですね」
「……はい。各500円。セットで1500円」
俺は脳内で軽くシミュレーションを行った。1000円札を出されたら、500円玉を一つ返す。5000円札を出されたら……という具合に、日雇いの交通量調査などで培った単純作業の脳内回路をオンにする。
「お待たせしました! 新刊セットですね、ありがとうございます!」
お姉さんの元気な声と共に、いよいよ販売がスタートした。列の先頭にいた青年が、緊張した面持ちで1000円札を差し出しながら、
「あ、あの、新刊を一冊……」
と声をかけてきた。俺はスッと手を伸ばし、両手で丁寧にその千円札を受け取る。そして、コイントレーから500円玉を一枚つまみ上げ、用意してあった新刊に添えて、彼へと差し出した。
「……ありがとうございます。500円の、お返しです」
吐息が混じるような、カフェ特有のハスキーなウィスパーボイス。至近距離でその声と『本物のマンハッタンカフェの微笑み』を浴びた青年は、「ひゅっ」と息を呑み、顔を真っ赤にして本と小銭を受け取った。
「か、かっふぇさん……! いつも配信見てます! 今日は、その、頑張ってください!」
「……ふふっ。ありがとうございます。あなたも、風邪を引かないように、気をつけて」
俺が少しだけ小首を傾げて答えると、青年は、
「一生ついていきます!!」
と謎の宣誓を残して、幸せそうに人混みの中へと消えていった。
「……よし。このペースならいけるな」
『ええ。とてもスムーズな対応です、四月一日さん』
空中に浮かぶカフェが、ニコニコと微笑みながら太鼓判を押してくれる。そこからは、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。
「セットで一つ、お願いします!」
「……はい。ありがとうございます。ちょうど、いただきますね」
「かっふぇさん! 競馬場での大食い見ました! 胃腸に気をつけてくださいね!」
「……ふふっ。お気遣い、感謝します」
同人誌の受け渡しと、ファンとの短い交流。次々と目の前に現れる参加者たちに、俺は一切の表情を崩すことなく、完璧な『ミステリアス美少女』としての接客を続けていった。
ただ、こういうイベントだ。時折、列の中には、特有の尋常ではない熱量を帯びたオタクが混ざっていることもあった。
「あのっ! 今回の新刊のサンプル拝見したんですけど、カフェちゃんが淹れてるコーヒーの豆って、史実のマンハッタンカフェの血統背景になぞらえたブレンドになってたりするんですか!? あとタキオンとの距離感が絶妙すぎて――」
息継ぎすら忘れたような、ものすごい早口と情報量で捲し立ててくる熱狂的なファン。ウマ娘の知識が乏しい俺が対応に困りかけた、その瞬間。
「ああっ! そこ気づいてくれました!? そうなんですよ、実はあのコマの背景に描いてあるビンがですね……!」
横からスッと、サークル主のお姉さんがカットインし、見事な話術でその早口オタクの情熱を受け止め、巻き取ってくれたのだ。
同人誌の深い設定やキャラクターの解釈についてはお姉さんが熱く語り合い、俺はその横でウンウンと頷きながら、ただひたすらに『存在(コンパニオン)』としての役割に徹する。まさに、完璧なフォーメーションだった。
俺は接客と笑顔の提供に全力を注ぎ、お姉さんは作品への愛を語る。互いの長所を最大限に活かした役割分担により、一人一人の満足度を高めながら列は滞ることなく進んでいった。
■
そしてそんな中、俺の意図しない『ある現象』が、参加者たちの間で大きな話題を呼んでいた。
「……ねえ、見た? 今、かっふぇさんの耳、動いたよね?」
「うん……! 壁の列の整理の声が聞こえた時にさ、ピクッてそっちの方向に耳が向いてた!」
「あと尻尾! なんかお客さんと話してて嬉しそうに笑った時、ゆらゆらって揺れてたよ!」
俺がファンからの温かい言葉に内心で(ありがたいなぁ)と喜んだり、会場の喧騒に無意識に反応したりするたびに、ウマ娘の肉体についている『耳』や『尻尾』が、俺の感情や周囲の状況に連動して、非常に滑らかに、かつ自然に動いてしまっていたようなのだ。
「すげーなおい……。あの耳と尻尾、どういうギミックになってんだ?」
「カッフェさん、本当に本物のウマ娘みたいじゃん……」
「脳波コントロールで動くネコミミの超進化版みたいなやつかな。にしても、毛並みの質感がリアルすぎる……」
並んでいる人たちや、周囲を通りすがるカメラマンたちが、驚愕の声を上げながらヒソヒソと噂している。コスプレの造形技術の極致だと勘違いしている彼らの言葉に、俺は心の中でニヤリと笑った。
(そりゃあ本物だからな。モーターもセンサーも入ってねぇ、正真正銘の生身の耳と尻尾だ。驚け驚け)
三十路前のおっさんとしては、自分の身体のパーツ(?)を褒められて悪い気は全くしない。むしろ、ウマ娘という無敵の肉体のポテンシャルを見せつけているようで、密かな優越感すら覚えていた。
「(ふりふり、ゆらゆら……)」
俺が上機嫌になっていると、それがダイレクトに尻尾の動きに反映され、さらにそれを見たオタクたちが、生きてる……!と尊さに打ち震えるという、謎の好循環による永久機関が完成しつつあった。
■
そして、俺がここまで全く疲れを見せず、完璧な笑顔と対応を維持できているのには、もう一つ『決定的な理由』があった。
「かっふぇさん、新刊と既刊一つずつで!」
「はーい、1000円のお預かりでーす!」
サークル主のお姉さんが金額を読み上げる。
コミケという戦場において、一番神経をすり減らすのは『お金の勘定(暗算)』だ。次々と飛び交う千円札、五百円玉、たまに出される一万円札。小銭の計算を間違えれば、サークルの売上に直結してしまう。
だが、現在の俺は、その『計算』という脳の処理を一切放棄していた。
『四月一日さん。1000円のお預かりですから、お釣りは無し。本を二冊お渡ししてください』
視界の端、空中に浮かぶカフェが、受け取った金額と渡すべきお釣りを、瞬時に、かつ正確に俺の耳元でアナウンスしてくれるのだ。
さらに、足元を見れば。
「(パッ!)」
お友達が、一般人には見えない手を大きく広げて「お釣りはゼロ!」というジェスチャーをしてくれている。もし500円のお釣りが必要な時は、指で『5』の形を作って教えてくれるという、視覚的なダブルチェック機能まで完備されていた。
「……はい。ちょうど、いただきますね。ありがとうございます」
俺は、カフェのアナウンスとお友達のサインに従って、言われた通りの金額を小銭ケースからつまみ出し(今回はゼロだが)、笑顔で本を手渡すだけでいい。
ウマ娘の天才的な頭脳(カフェ)と、野生の直感(お友達)による、最強の『生体POSレジシステム』。
お金の計算という一番のストレスからある意味解放された俺は、ただひたすらに『本を渡し、微笑み、ハスキーボイスで感謝を告げる』というマシーンになりきることができていた。
「かっふぇさん、全然計算間違えないし、テンポも完璧ですね! まるで熟練の売り子さんみたいです!」
「……ふふっ。昔、少しだけ、こういう作業を……やっていたので」
お姉さんの絶賛に、俺は少しだけ申し訳なく思いながらも、涼しい顔で謙遜した。
『ふふっ。私たち、とても良いチームワークですね』
「(ガッツポーズ!)」
空中のカフェと足元のお友達が、誇らしげに笑う。俺も、心の中で「お前ら最高だぜ」と親指を立てた。
目の前に積まれていた500冊の同人誌の山は、瞬く間に高さを減らしていく。
列に並ぶ人々の熱気、飛び交う小銭の音、そしてSNSで『カフェ島に本物のマンハッタンカフェがいる』という噂が拡散され、さらに増え続ける見物客の数。
フォロワー32万人、『レジェンドウマ娘』という未踏の領域への道は、この熱狂の渦の中で、確かな手応えと共に開かれようとしていた。