冬コミに向けて準備しているかたは本当に気を付けてね?
碌でもねぇ、禄でもねぇ。
怒涛の勢いで新刊と既刊のセットが捌けていく中でふと、列の最前列にやってきた一人の男が、無言で硬貨をコイントレーに差し出した。
見たところ、ごく普通のオタクといった風貌だ。俺はいつものように、
「ありがとうございます」
と微笑みかけ、その五百円玉らしき硬貨をアクリルケースに仕舞おうと手を伸ばした。
『四月一日さん、待ってください。それ……』
その瞬間。空中に浮かんでいたカフェが、これまでにないほど鋭く、冷ややかな声で俺を制止した。
「……ん?」
俺はトレーの上の硬貨に視線を落とした。一見すると日本の五百円玉にそっくりなサイズと色合い。だが、そこに刻印されている模様と文字は、明らかに硬貨のそれとは異なっていた。
『……それは、日本円ではありません。韓国の、500ウォン硬貨です』
カフェの指摘に、俺はハッとして男の顔を見上げた。男は涼しい顔をして、何食わぬ態度で本を受け取ろうと手を伸ばしてきている。日本円の十分の一程度の価値しかない硬貨を紛れ込ませ、釣り銭や商品をだまし取る悪質な詐欺――いわゆる『500ウォン詐欺』だ。
(こいつ、こんな祭りのどさくさに紛れて、悪質な詐欺を働きやがったな……!)
日雇い時代、理不尽なピンハネや詐欺まがいの手口を嫌というほど見てきた俺の導火線に、静かに火がついた。こいつが騙そうとしている相手は、純粋な愛と情熱で本を作ったサークル主のお姉さんだ。それの愛と情熱を蔑ろにする行為、絶対に許せるはずがない。
「――っ」
俺はトレーに伸ばしかけていた手を瞬時に反転させ、本を受け取ろうとしていた男の手首を、ガシッ! と力強く掴み取った。
「なっ……!? なんだよ……!!」
驚いて目を丸くする男。俺は立ち上がり、周囲の喧騒を切り裂くような、はっきりと通る大きな声で告げた。
「……ダメ、ですね。これは、500ウォンです」
ウィスパーボイスの奥に、確かな凄みを乗せて。男の目を真っ直ぐに射抜きながら、はっきりと宣告する。
「……騙す気、ですね?」
周囲の空気が、一瞬にして凍りついた。男は顔面を蒼白にし、
「ち、ちげぇよ! 間違えただけだ!」
と叫びながら、無理やり腕を振りほどいて逃げようとした。だが、
「いっ……!? は、離せ……っ!」
当然、逃げられない。
俺が掴んだ男の手首は、まるで鋼鉄の万力で固定されたかのように、ピクリとも動かなかった。なにせ、今この身体は、凄まじい脚力と筋力を誇る『ウマ娘』のものなのだから。大の大人が全力で暴れたところで、小揺るぎもしない。
焦りと恐怖からか、男は逆上し、
「ふざけんな!」
ともう片方の拳を振り上げ、俺の顔面めがけて殴りかかってきた。
「ひっ!? かっふぇさん!!」
サークル主のお姉さんが悲鳴を上げる。だが、俺、というかウマ娘の動体視力からすれば、そのパンチはまるでスローモーションのように遅かった。
―――バシッ!!
俺は空いているもう片方の手で、男の拳をいともたやすく、赤子の手を捻るように空中で受け止めた。
「な……っ!?」
完全に動きを封じられ、絶望的な顔をする男。俺は冷ややかなウマ娘の瞳で男を見下ろし、極めて冷静なトーンで言い放った。
「……抵抗は、なさらない方がよろしいですよ。……お姉さん、スタッフを!」
「は、はいっ!!」
俺の指示にハッとしたサークル主のお姉さんが、猛ダッシュで通路の奥へと駆けていく。
スタッフを待つその間も、男は必死に腕をよじり、
「離せよ! 痛ぇ! ふざけんな、たかがコスプレイヤーが調子乗ってんじゃねぇぞ!!」
と口汚く罵りながら暴れ続けた。周囲の参加者たちも、突如として始まった捕物帳にザワザワとどよめき、遠巻きに事態を見守っている。
「……るさいですね」
俺は眉をひそめ、掴んでいる男の手首と拳に、ほんの少しだけ……ウマ娘としての『力』を込めた。
ミシリ、と。
骨が軋むような、嫌な音が男の腕から伝わる。
「ぎ、ぎゃああああっ!? い、痛い痛い痛い!!」
「……暴れるなら、折りますよ?」
「は、はいぃぃっ! すいません、やめます、やめますからぁっ!」
ウマ娘の圧倒的な膂力の前には、どんな悪党も無力である。痛みに顔を歪め、完全に戦意を喪失して膝から崩れ落ちる男。
「最初から、騙さなければ良い、話です」
阿呆を見下しながら、そう告げてやる。こいつはオタクでも何でもない。ただの、塵芥だ。……いや、塵芥に失礼か。
■
やがて、サークル主のお姉さんが数名の屈強な準備会スタッフを引き連れて戻ってきた。
事情を説明し、スタッフが男の荷物やポケットを改めると、案の定、ジャラジャラと大量の500ウォン硬貨が出てきた。最初から、この手口で会場中のサークルを荒らして回るつもりだったのだろう。
「ご協力ありがとうございました。コイツは我々が本部へ連行し、警察に引き渡します。……それにしても、かっふぇさん、お怪我がなくて本当に良かった。凄い腕力ですね……」
スタッフの男性が、感心したように、そして少し引き気味に頭を下げる。男は、
「腕が、腕がもげるぅ……」
と涙目でうわ言をこぼしながら、スタッフたちに両脇を抱えられて連行されていった。
『……やれやれ、ですね』
空中に浮かぶ本物のマンハッタンカフェが、溜息をつきながら呆れたように呟く。その足元では、お友達の影が連行されていく男の背中に向かって、「あっかんべー!」とばかりに、見えない舌を思い切り出しておどけていた。
嵐のようなトラブルが去り、再び静寂(といってもコミケの喧騒だが)が戻ったカフェ島。俺は服の皺をサッと直し、いつもの『ミステリアスで可憐なウマ娘』の表情を作り直すと、心配そうに見守ってくれていた列の参加者たちや、周囲のサークルの人々に向かって、深く、優雅にお辞儀をした。
「……お騒がせ、しました。……お会計、再開いたしますね」
その完璧な切り替えと、先ほどの『悪漢を片手で制圧する圧倒的な強さ』。
それらを目の当たりにした周囲のオタクたちは、数秒の静寂の後――。
「うおおおおおおおおっ!!」
「かっふぇさんかっけぇえええええ!!」
「一生ついていきます!!」
まるでヒーローショーのクライマックスのような、割れんばかりの大歓声と拍手を巻き起こしたのだった。
■
「……こちら、最後の一セットに、なります。ありがとう、ございました」
俺が手渡した新刊と既刊のセットを、列の最後に並んでいた参加者が押し戴くようにして受け取る。彼が去っていくのを見届けた後、サークル主のお姉さんが、感極まったような、そして信じられないものを見るような声で叫んだ。
「か、完売……。完売しましたーっ!! 新刊500部、午前中で完売です!!」
その声がカフェ島の一角に響き渡ると、周囲のサークル参加者たちから、
「おおーっ!」
「おめでとう!」
という温かい歓声と、割れんばかりの拍手が巻き起こった。
「やりましたね、かっふぇさん! 過去最速の記録です!!」
「……ふふっ。おめでとう、ございます」
お姉さんが、
「万歳! 万歳!」
と両手を上げて跳ね回るのに合わせ、俺も控えめに、袖口から少しだけ手を出して小さな万歳をした。それを見た周囲のオタクたちがまた「尊い……」とバタバタ倒れていくが、もはやそれはこの島の風物詩としてスルーするスキルを身につけつつあった。
『本当に、すごい熱気ですね。……お疲れ様でした、四月一日さん』
空中に浮かぶカフェも、どこか誇らしげに目を細めて拍手をしてくれている。足元のお友達に至っては、ブレイクダンスのようなアクロバティックな動きで全身(影だが)を使って喜びを表現していた。
あの500ウォン詐欺の撃退劇でさらに注目を集めてしまったこともあり、列の消化スピードは加速する一方だった。結果として、時計の針が正午を指す前に、机の上に山積みになっていた同人誌のタワーはすべて消え去ってしまったのだ。
■
怒涛の頒布作業を終え、サークルスペースには平和な時間が訪れた。机の上を片付け、「完売御礼」のポップを掲げた後、俺たちはパイプ椅子に座って昼食をとることにした。
「ふぅーっ。かっふぇさん、本当にお疲れ様でした。はい、これお茶です」
「……ありがとう、ございます。いただきます」
俺は朝のコンビニで買い込んでおいた大きめのおにぎり(明太子、ツナマヨ、昆布、鮭、そして唐揚げマヨの5個)をボストンバッグから取り出し、一つ目の包みを開けた。
「相変わらず、すごい食べるんですねぇ……。でも、食べ方がすごく綺麗だから、見てて全然不快じゃないというか、むしろずっと見ていたくなります」
お姉さんが、自分のカロリーメイトを齧りながら、俺の食事風景を不思議そうに観察してくる。
「……そうです、か? 恥ずかしい、ですね」
俺はウマ娘の可憐な仕草で口元を隠しつつ、内心では、そりゃカフェのガワのおかげだよ、と苦笑していた。
「ええ。……えっと、かっふぇさんは、そもそもこういう同人イベントに参加されるのは初めてなんですか?」
「……そう、ですね。はい」
俺が小さく頷くと、お姉さんは、
「そうなんですね!?」
と驚いていた。そりゃまぁ、カフェも競技者だからそんなにこういう場所は来ないだろうし、俺も日雇いのただのおっさんだ。そんな人がまず来る場所ではないしな。パチンコ屋や競馬場ならともかく。
「そーでしたかぁ……」
しかし、俺の返答を聞いたお姉さんは、なぜか急に「うーん」と深刻そうな顔をして腕を組み、唸り始めてしまった。
「……どうか、しましたか?」
「いえ……多分、これから向かう『コスプレエリア』って、すごく混むんですよ」
「……はあ」
「初めてだとびっくりすると思うんですけど、多分ものすごく混乱しますし、ずーっと撮影され続けることになると思うので……かっふぇさん一人だと、多分キツイかな、と」
お姉さんの言葉に、俺はパチクリと目を瞬かせた。ずーっと撮影される? いくらなんでも大げさじゃないか。
「……ずっと、ですか?」
「はい。だって、かっふぇさん……完全に『本物のマンハッタンカフェ』ですもん」
お姉さんは、真面目な顔のまま、しかしどこかオタクとしての確信に満ちた笑みを浮かべて断言した。
「さっきの売り子をしてる時でさえ、通路が軽いパニックになってましたから。もしコスプレエリアなんていう無法地帯に出たら、カメラマンが群がってきて、文字通り身動きが取れなくなると思います」
その説明を聞いて、俺の脳裏に、かつてニュースで見た『有名コスプレイヤーの周りにできる、黒山の人だかり(カメラマンの壁)』の映像がフラッシュバックした。なるほど。もしあの中心に放り込まれて、四方八方からフラッシュを焚かれ続けたら。
ウマ娘の体力なら耐えられるかもしれないが、精神的には間違いなくすり減るし、何より『引き際』がわからずに帰れなくなる可能性がある。俺が言葉に詰まっていると、お姉さんが身を乗り出して、一つの提案をしてくれた。
「で、ご提案なんですけど。……私が、かっふぇさんの『サポート(付き添い)』としてつかせていただいてもいいですか?」
「……え?」
「いえ、その。ずっと撮影されてると疲れちゃうと思うので、『そろそろ休憩です!』ってストップをかけたり。あと、カメラマンの数が多くなってきたら、『囲み(円陣になっての一斉撮影)でお願いします!』って誘導したり。……ご迷惑じゃなければ、私が現場を仕切りますよ!」
お姉さんのその申し出は、右も左もわからない、コミケ初心者(中身はおっさん)の俺にとって。
(……ね、願ったり叶ったりだ……!! マジで助かる!!)
まさに地獄に仏、砂漠のオアシスだった。ルールも専門用語もわからないままカメラマンの群れに放り込まれる恐怖を、この歴戦のオタクお姉さんがマネージャーとして防波堤になってくれるというのだ。これほど心強いことはない。
俺は内心で狂喜乱舞し、しかし表面上はあくまでミステリアスな美少女のまま、少しだけ申し訳なさそうに眉を下げた。
「……本当に、よろしいん、ですか? せっかくのイベント、なのに……私のために、お時間を」
「とんでもない! 自分の本も完売しましたし、何より……本物のカフェの伝説が生まれる瞬間を、一番特等席で見届けたいんです!」
お姉さんは鼻息を荒くして、力強くサムズアップをして見せた。足元のお友達の影は大喜びでなんか回ってたが。
『ふふっ。頼もしい味方ができましたね、四月一日さん』
空中でカフェが優しく微笑みかける。俺は小さく息を吐き、改めてお姉さんに向かって深々とお辞儀をした。
「……では。お言葉に甘えて。……よろしく、お願いいたします」
「はいっ! お任せください!」
こうして、心優しき……、そして強火のカフェファンであるサークル主のお姉さんという最強のマネージャーを獲得した俺たちは。
フォロワー32万人という未知の領域を目指し、冬のビッグサイト最大の激戦区――『コスプレエリア』へと、足を踏み入れる準備を整えたのだった。