冷たい海風が吹き抜ける、東京ビッグサイトの屋上展示場。
重い扉を押し開けて屋外エリアへと足を踏み入れた瞬間、俺の視界に飛び込んできたのは、屋内ホールとはまた質の違う、異様なほどの熱気と色彩の渦だった。
「うわあ……すげぇ」
そのあまりの現実離れした光景に、思わず『かっふぇ』のガワを被り忘れて、素の四月一日としての感想が漏れてしまった。
なにせ、見渡す限りの人、人、人だ。冬の澄み切った青空の下、広大な屋上エリアは文字通り所狭しと参加者で埋め尽くされている。色とりどりのウィッグや、趣向を凝らした衣装に身を包んだ無数のコスプレイヤーたち。そして、彼ら彼女らを囲むように、巨大な望遠レンズやストロボを備えたカメラマンたちが、まるで戦場カメラマンさながらにしのぎを削り合っている。フラッシュの瞬きが、あちこちで白昼の星のようにチカチカと弾けていた。
「ふっふっふっ。こういうことですよ、かっふぇさん。ここが冬コミ最大の激戦区……コスプレエリアです!」
先導してくれていたサークル主のお姉さんが、振り返って苦笑混じりにウインクをした。
「……理解、しました。これは確かに……一人では、身動きが取れませんね」
俺は圧倒されながらも、スッと『かっふぇ』の表情を作り直して頷いた。お姉さんが言っていた、ずっと撮影され続けてキツイ、という意味がここに来てようやく骨の髄まで理解できた。この剥き出しの欲望と情熱の海に、たった一人で放り込まれれば、波に飲まれて遭難するのは火を見るより明らかだ。
「でしょう? えーっと……あ! あの手すりの所、ちょうどスペースが空いてますね。あそこに陣取りましょう! かっふぇさん、はぐれないようについてきてくださいね!」
お姉さんが人混みの隙間を縫うように歩き出し、俺はバッグを抱え直して、その頼もしい背中を必死に追いかけた。
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「ふぅ、ここなら背景も抜けてるし、撮影しやすいはずです!」
案内されたのは、東京湾を見渡せる手すり沿いの絶好のポジションだった。荷物を置き、陣地を構築しようとしていると、すぐ隣で撮影の合間の休憩をしていた別のコスプレイヤーと目が合った。
こちらから軽く会釈をしようとした瞬間、相手の女性がハッとして目を見開いた。
「……あ、もしかして……かっふぇさん?」
「……はい。お隣、よろしい、でしょうか?」
「わあ! もちろんです、よろしくお願いします! 私、いつも配信見てます! 今日のサークル参加の告知も見て、会えないかなーって思ってたんです!」
「……ふふっ。ありがとう、ございます。こちらこそ、よろしくお願い、します」
俺が小首を傾げてウィスパーボイスで歓迎の挨拶を返すと、隣のコスプレイヤーは、
「生声やっば……」
と口元を押さえて小さくパニックになっていた。本当に、どこに行ってもこのガワの影響力は凄まじい。そんな交流をしている間に、サークル主のお姉さんが自らのボストンバッグからスケッチブックと太いマジックペンを取り出し、何やらサラサラと即席で描き始めた。
「ここがこうで……よしっ、できました!」
お姉さんが足元に立てかけたスケッチブックには、デフォルメされた可愛らしい『マンハッタンカフェ(かっふぇ)』のイラストと共に、かっふぇと大きく名前が書かれており、そしてSNSのURLがわかりやすく描かれていた。
同人作家としての画力とレイアウトセンスが光る、完璧な『看板』だ。
「これを足元に立てかけておきましょう!そうすれば、通りすがりのカメラマンさんたちも、かっふぇさんのアカウントを一発で認知できますからね!」
「……お姉さん、本当に、何から何まで……」
「マネージャーですから! さぁ、かっふぇさん、いつでもどうぞ!」
俺はお姉さんに深く頷き、手すりを背にして、スッと姿勢を正した。
漆黒の勝負服を今一度確認し、風に揺れるウマ耳と尻尾の毛並みを整える。そして、アンニュイでミステリアスな美少女の表情をすっと作る。
「カフェ、どうだろう?」
『………問題、ありません』
お友達もサムズアップをして見せてくれていた。つまりは、準備が整ったということだ。改めて息を吸って、気持ちを落ち着かせる。
まさにその数秒後だった。
「すみませーん! 撮影よろしくお願いしまーす!」
一人の男性カメラマンが、立派な一眼レフカメラを構えながら、真っ先にこちらへと歩み寄ってきた。俺の看板と姿を見て、即座に被写体としてのポテンシャルを見抜いたらしい。
「……あ。はい」
俺が緊張しつつ応じようとすると、横からスッとお姉さんが前に出て、カメラマンに向かって明るく声をかけた。
「カメラマンさん、すいません! この子コミケに参加するのが初めてなので、どうかお手柔らかにお願いしまーす!」
「お、判りました」
「しかもカメラマンさんが初撮影なんですよ。なので、申し訳ないんですけど、ポーズの指定とかはなしで、そのままの立ち姿でお願いします!」
明るく、しかし毅然としたマネージャーのガードだ。それを受けたカメラマンの男性は、嫌な顔一つせず「おおっ、そうなんですね!」と快活に笑って頷いた。
「承知しました! そしたら、そのままの立ち姿で、目線だけこちらに……はい、一枚お願いします!」
カシャッ、と。心地よいシャッター音が鳴り響き、ストロボの光が焚かれる。
俺はカメラのレンズに向かって、ほんの少しだけ視線を流し、カフェ特有の『何かを見透かすような、静かな微笑み』を向けた。
「――――ッ!!」
ファインダーを覗き込んでいたカメラマンの動きが、一瞬ピタリと止まった。そして、カメラを下ろした彼の顔には、驚愕と、えも言われぬ感動の色が浮かんでいた。
「……いやぁ。かっふぇさん、ですか。ものすごいクオリティですね。息を呑むほど完璧なマンハッタンカフェでした。撮らせていただいてありがとうございます! あとでSNSの方に、バッチリ現像した写真送らせて頂きますよ!」
カメラマンは深々と頭を下げ、満足げな足取りで人混みの中へと戻っていった。
「お疲れ様です! 今みたいな感じでオッケーですからね、かっふぇさん」
お姉さんが、少し緊張の解けた俺に向かってニコリと笑いかけた。
「コスプレエリアのマナーですけど、多くても数枚、何なら今みたいにパッと一枚撮ったら、お礼を言って次の方に……という、流れ作業みたいな感じですね。これを繰り返していくのが、コミケのコスプレ撮影の基本スタイルです」
『……なるほど。非常に合理的で、統制の取れたシステムですね』
空中に浮かぶカフェが、ポンと手を打って感心したように頷く。足元のお友達の影も、「わかった!」とばかりにウンウンと首を縦に振っている。
(なるほど、こういう感じね。これなら、お姉さんの仕切りさえあれば、俺でもなんとか回していけそうだ)
そう俺が安堵しかけた、次の瞬間だった。
「うおっ……!?」
ふと視線を前に戻した俺は、思わず目を丸くした。先ほどの第一号のカメラマンが撮影を終えたほんの数十秒の間に。俺の足元のスケッチブックから伸びるようにして、あっという間に数十人規模のカメラマンの待機列が形成され始めていたのだ。
『本物のマンハッタンカフェがいる』『SNSでバズり散らかしてるあのかっふぇが屋上にいる』という情報が、オタクたちの凄まじいネットワークを通じて瞬時に伝播したらしい。列は今この瞬間も、生き物のようにみるみると長くなっていく。
「……ふふっ。さぁ、凄いことになってきましたよ。じゃあ、頑張りましょうかっふぇさん!」
お姉さんが、武者震いをするように拳を握りしめた。
「……はいっ」
俺も気を引き締め直し、勝負服のポケットの中でギュッと拳を握り込んだ。
そしていざ、怒涛の撮影ラッシュの幕開け――と、身構えたその時。先ほど立ち去ったはずの、あの『第一号のカメラマン』の男性が、長くなりつつある列の最後尾付近を歩きながら、並んでいる他のカメラマンたちに向かって大きな声で呼びかけているのが聞こえてきた。
「おーい皆さーん! かっふぇさん、今日が初コミケだそーですんで、お手柔らかに頼みますよ! テンポよく、一人一枚を意識して回していきましょうねー!」
その声に、並んでいたカメラマンたちが「了解!」「オッケー!」と次々に頷き、列全体に不思議な連帯感と、新人(かっふぇ)を気遣う優しい空気が広がっていくのがわかった。
『……親切な方ですね』
空中のカフェが、その光景を眩しそうに見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……だな」
俺は、先ほどの島中での殺伐としたトラブルを思い出し、ふっと口角を上げて苦笑した。
「さっきの、ふざけた500ウォン野郎に、あの人の爪の垢でも煎じて飲ませてやりてぇわ」
同じ空間にいるオタクでも、自分の欲望のために他人を騙す奴がいれば、こうして無償の善意で新参者をサポートしてくれる粋な奴もいる。
日雇い現場でもそうだったが、結局のところ、人の価値はどんな趣味を持っているかではなく、
「よし……。じゃあ、みんなの心意気に報いるためにも、最高の『かっふぇ』をお見舞いしてやるか!」
冬の空の下。
頼れるマネージャー(お姉さん)と、親切なカメラマンたちに支えられ、俺たち三人は、フォロワー32万人という未踏の頂きへ向けて。
無数のフラッシュの光が降り注ぐステージへと、最高の笑顔で踏み出していった。