冷たい東京湾の潮風が吹き抜けるビッグサイトの屋上展示場。冬の刺すような寒さの中にあって、そこだけが異常な熱を帯びているかのようだった。
「……はい。ありがとう、ございます」
カシャッ、カシャッというリズミカルなシャッター音を浴びながら、俺は指定された立ち位置で静かに微笑みを浮かべていた。最初はガチガチに緊張していた俺だったが、サークル主のお姉さんという最強のマネージャーが列を完璧にコントロールしてくれているおかげで、徐々にこの異様な空間にも慣れ始めていた。
『四月一日さん、右肩を少しだけ引いて。視線は、レンズの少し下を見るようなイメージで……』
「(スッ……!)」
俺の耳元で、空中に浮かぶカフェが的確なポージングのアドバイスを囁く。同時に、足元のお友達の影が、まるで手本を見せるようにスッとモデル立ちのポーズ(影なのでシルエットだけだが)をとってくれる。
俺は二人の指示と動きを見様見真似でトレースし、静止した。漆黒の勝負服の裾が風に揺れ、それに合わせて頭のウマ耳がピクッと動き、腰の尻尾が艶かしく弧を描く。
「おおお……っ! 素晴らしいです!」
「ありがとうございます! 次の方、どうぞ!」
カメラマンが感嘆の声を漏らして去っていくと、お姉さんがすかさず次の人を誘導する。カフェの美貌とオーラ、そして俺たち三人の連携による完璧なポージング。それはまさに、生きた芸術品を展示しているかのような洗練された撮影会となっていた。
■
だが、順調に数十人を捌き、このペースならなんとか休憩まで乗り切れそうだと思っていた、その時だった。
「すいませーん、スタッフです! 通路の確保にご協力お願いしまーす!」
黄色い腕章をつけた準備会のスタッフが数名、少し慌てた様子で列の横に駆け寄ってきた。そして、列を仕切っていたお姉さんに何事か耳打ちをする。お姉さんは周囲を見渡し、列の最後尾……いや、もはや最後尾がどこにあるのかもわからないほどに膨れ上がった黒山の人だかりを見て、大きく頷いた。
「わかりました! 皆さーん!!」
お姉さんが、今日一番の大声を張り上げた。
「列が伸びすぎて通路を塞いでしまっているため、これより『囲み』に移行します! 並んでいる皆さん、スタッフさんの指示に従って、かっふぇさんを中心に扇状に広がってくださーい!!」
「囲みに移行しまーす! 前の方、しゃがんでください! 後ろの方、広がって!」
お姉さんとスタッフの掛け声に呼応し、整然と並んでいたはずのカメラマンたちが、まるで訓練された軍隊のように一斉に動き出した。
「えっ? ちょ、ちょっと待って」
俺は突然の事態に、ミステリアスなガワの下で猛烈に狼狽した。
(いや、囲みってなにすんの!? なんでみんな一斉に俺の周りを取り囲み始めてんの!?)
俺の困惑をよそに、目の前の光景は凄まじいスピードで変化していく。最前列のカメラマンたちが膝をついてしゃがみ込み、そのすぐ後ろに中腰の二列目、さらにその後ろに直立した三列目、そして最後方にはカメラを頭上に高く掲げたりする四列目、五列目……。
ものの数十秒で、俺の目の前には、百人規模の……いや、もっといるか? のカメラマンによる巨大な『扇状の壁』――無数のレンズがギラギラと光る、黒いコロッセオのような空間が完成してしまったのだ。
『……っ。な、なんですか、これは……!?』
空中のカフェも、自分を取り囲む数百のレンズの壁に圧倒され、目を見開いてきょろきょろと周囲を見渡している。足元のお友達の影に至っては、「囲まれた!?」と見えないシャドーボクシングを始めて臨戦態勢に入ってしまった。
すると、俺の焦りを察したお姉さんが、小走りで近寄ってきて、そっと耳打ちをしてくれた。
「大丈夫ですよかっふぇさん。……と、いうわけで。混雑対策で、急遽『囲み撮影』になりました。かっふぇさん、目の前を見てください。扇状にカメラマンさんが広がっていますよね?」
「……は、はい」
俺が小さく頷くと、お姉さんは小声で的確なアドバイスをくれた。
「いいですか。かっふぇさんはあの中心に立って、端から端まで……左から右、右から左へと、ゆっくり目線を配りながら、少しずつポーズを決めていってください」
「目線を……」
「はい。一箇所をずっと見るんじゃなくて、全体のカメラマンさんに目線が行き渡るように、ゆっくりと首を動かすんです。一人一人のレンズを見る必要はありません、大まかなブロックごとに視線を送るイメージで」
『囲み撮影』。
それは、超人気コスプレイヤーにのみ発生する、コミックマーケットの華であり、最大の試練でもあった。一対一の対面ではなく、数百人に対して同時にポーズを披露する、いわばゲリラライブのようなものだ。
「……しょ、承知、しました」
「急にこんなことになって、すごく緊張すると思いますけど……。これは、かっふぇさんが圧倒的に魅力的で、人気がある証拠です。誇ってくださいね」
お姉さんは、俺の震えそうな背中を、ポンッと優しく叩いてくれた。
「……もし、流石に大人数に見つめられるのが無理だったり、体調が悪くなりそうだったら、すぐに合図してください。一旦中止にして、休憩にしますから」
お姉さんの気遣いに、俺は深く息を吸い込み、冬の冷たい空気を肺の奥底まで送り込んだ。
日雇い労働で、泥に塗れて、誰からも見向きもされずに生きてきた人生。
それが今、何かの間違いで異世界の美少女の身体に入り込み、今この瞬間、数百人もの人間が、俺(かっふぇ)という存在をファインダー越しに見つめ、息を殺して待ちわびている。
逃げ出したいという恐怖よりも、誰かの心をここまで動かしているという事実が、俺の腹の底に、確かな熱を灯した。
「……いえ。大丈夫、です」
俺は、お姉さんを安心させるように、ふわりと、しかし力強い意志を込めて微笑んだ。
「わかりました!」
お姉さんは満面の笑みを見せ、
「頑張ってください! かっふぇさん、めちゃくちゃ可愛いので、何をしても絶対大丈夫ですからね!」
と最大の賛辞で背中を押し、カメラマンの壁の方へと振り返った。
「皆さーん! お待たせしました! では、ここから5分間です! どうぞ!!」
――その瞬間だった。
『バシャシャシャシャシャシャシャシャッ!!!』
合図と共に、数百台の一眼レフカメラのシャッターが、まるで土砂降りの雨音やマシンガンの掃射のように一斉に鳴り響いた。同時に、四方八方から焚かれるストロボの強烈な閃光。
冬の青空の下だというのに、目の前が真っ白に染まるほどの圧倒的な光の暴力。フラッシュの連続で、視界がチカチカと点滅する。冷たい風が吹いているはずなのに、何百人もの人間が発する熱気とストロボの熱で、まるで真夏のステージの中央に立たされているような錯覚に陥った。
『……四月一日さん! 圧倒されてはダメです!』
光の嵐の中で、カフェの凛とした声が響いた。
『まずは、左のブロックから! 9時の方向です。顎を少し引いて、右手を胸元に……!』
「(スッ、ピタッ!)」
お友達が、すぐさまそのポーズを実演する。
俺は強烈なフラッシュに目を細めそうになるのを気合で耐えつつ、左側に群がるカメラマンの集団へと視線を送った。右手を胸元に添え、少しだけ憂いを帯びたような、アンニュイな表情を作る。
『バシャシャシャシャシャッ!!』
左ブロックのシャッター音が、一際大きく爆発した。
『良い感じ、です! そのまま、数秒キープ。……はい、次は正面、12時の方向です。身体の向きは、そのままで、顔だけをこちらへ。少しだけ、小首を傾げてみてください』
「(コテンッ)」
お友達に合わせて、俺はゆっくりと、焦らすように顔の角度を変え、正面のカメラマンたちへと『かっふぇ』の視線を投下した。
『―――ウオオオオオオオッ!?』
正面の集団から、声にならない歓声のような、どよめきのような吐息が漏れる。
『良いペースです! 次は右、3時の方向! 両手を前で軽く組んで、少しだけ微笑んで……!』
カフェの的確なディレクションと、お友達の完璧なモデリング。
俺はそれに従って、ただウマ娘の身体を精密に動かすアクターに徹した。少しずつ、少しずつ。目線と体の角度を変えながら、広大な扇状の壁に向かって、マンハッタンカフェという奇跡の美貌を振り撒いていく。
(……いやこれ、なんか)
何百回、何千回と瞬くフラッシュの光を浴びながら。
俺の脳内で、とんでもない感情が渦巻き始めていた。
(すげー……変な気分だ!?)
最初は、見世物になっているような羞恥心と恐怖があった。
しかし、俺が少し首を傾げるだけで。
指先を髪に這わせるだけで。
微笑みを向けるだけで。
目の前にいる百人を超える大人たちが、息を呑み、歓喜し、夢中になってシャッターを切り続けているのだ。自分の些細な挙動一つで、大衆が熱狂し、空間そのものを支配しているという全能感が体を駆け巡る。
何十人、何百人にも囲まれて、文字通り『ちやほやされる』という感覚。
それは、三十路の冴えないおっさんだった俺にとって、致死量のドーパミンを分泌させるには十分すぎるほどの、強烈な非日常だった。
(……悪く、ない……!)
胸の奥から湧き上がってくる、どうしようもない高揚感。俺の心臓は、有馬記念のターフを駆けるサラブレッドのように早鐘を打ち、全身の血流が急激に加速していくのを感じていた。
そして、当然の帰結として。その内面から溢れ出す『熱』は、隠しようもなく『かっふぇ』の表面へと滲み出していく。
冷たい冬の空気に晒されて抜けるように白かった肌に、ほんのりと桜色のような赤みが差す。興奮で少しだけ呼吸が浅くなり、ハスキーな吐息が白い息となって唇からこぼれ落ちる。普段の、どこか冷ややかでミステリアスなマンハッタンカフェの表情に思いがけず『熱』と『生気』、そして無自覚な『色香』が混ざり込んでしまったのだ。
「――――ッ!!」
その変化に気づいたカメラマンたちから、悲鳴に近い声が上がった。
「や、やばい……っ! 何今の表情、エグすぎる……!」
「頬が赤くなってる……! 寒いから!? それとも照れてるの!? どっちにしろ破壊力ヤバい!!」
「……いやー、カフェって、実在したわ……。画面から出てきたわ……」
「すごいな、カワイイとかそういう次元じゃない。神々しい……」
カシャッ、カシャッというシャッター音が、もはや祈りのような響きを帯びていく。最前列でカメラを構えていた若い男性は、ファインダー越しに俺の流し目を受けた瞬間、ガクッと膝から崩れ落ちそうになっていた。
「……駄目だ俺。あーほんと駄目だ俺。いやマジで、マジで無理だ……。これ以上直視したら頭おかしくなる……っ!」
彼はカメラを下げ、両手で顔を覆って阿鼻叫喚のうわ言を呟き始めた。周囲でも、
「ピントが合わない、手が震えてピントが合わせられない!」
「SDカードの容量が足りない! なんで64GBしか持ってこなかった俺のバカ!」
と、極限状態に陥ったオタクたちのパニックが次々と連鎖していく。
『……四月一日さん。貴方、今ものすごく……ズルいお顔を、されていますよ』
空中に浮かぶカフェが、ほんの少しだけ顔を赤らめながら、呆れたような、しかしどこか見惚れたような声で呟いた。彼女自身でさえ見たことのないような、マンハッタンカフェの肉体が引き出した新たな魅力だったのかもしれない。
足元のお友達も、自分のことのように自慢げに胸を張り、カメラマンたちに向かって見えないピースサインを連発している。
「……残り30秒です! かっふぇさん、最後、正面に視線お願いします!」
お姉さんの声が響く。俺は深く息を吸い込み、上気した頬のまま、レンズの壁のど真ん中――無数の視線が交差する中心点へと、まっすぐに黄金の瞳を向けた。
そして。
今日一番の、とびきり儚くて、少しだけ挑発的な、極上の微笑みを咲かせた。
『バシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャッ!!!!!』
ビッグサイトの屋上に、この日最大級の閃光とシャッターの豪雨が降り注ぐ。日雇い労働者の魂と、ウマ娘の身体。そして幽霊と悪霊の奇妙な連携プレイが生み出した、冬のコミックマーケットにおける伝説の五分間。
それは間違いなく、フォロワー32万人という『レジェンドウマ娘』への分厚い扉を、力ずくでこじ開けるための、決定的な一撃となったのだった。