冬の太陽が、ゆっくりと東京湾の向こう側へと傾き始めていた。
肌を刺すような冷たい潮風が吹き抜けるビッグサイトの屋上展示場。しかし、俺(かっふぇ)を中心として形成された巨大な扇状の空間だけは、まるで真夏の熱帯夜のような異様な熱気に包まれ続けていた。
「はい、右側の列の方々、目線いきまーす!」
「そのまま数秒キープで! 後ろの方、通路確保、気をつけてくださいねー!」
視界を埋め尽くす何百というレンズの砲列。鼓膜を打ち据えるような、終わりのないシャッター音の豪雨。四方八方から容赦なく浴びせられるストロボの閃光は、すでに何千、何万回と瞬き、冬の青空の下に人工的な白昼夢を描き出し続けていた。
俺はウマ娘の強靭な体幹を活かし、微動だにせず、しかし呼吸をするように自然な滑らかさでポーズを切り替えていく。
最初はマネージャーを買って出てくれたサークル主のお姉さんだけが列を捌いていたが、気づけば、あの『一番最初に俺を撮影してくれた親切なカメラマン』の男性も、自発的に列の整理やタイムキーパーの役割を担ってくれていた。ベテランのオタク同士の阿吽の呼吸というやつだろうか、彼らの見事な連携によって、数百人規模の巨大な『囲み撮影』は、一つの暴動も起きることなく、奇跡的なまでの統制を保ったまま進行していた。
『四月一日さん、少しだけ顎を引いて。次は……視線をレンズではなく、その少し上の虚空へ。物憂げに、遠くを見つめるように……』
「(スッ……コテンッ!)」
空中に浮かぶ本物のマンハッタンカフェの的確すぎるディレクションと、足元で影絵のように見本を見せてくれる『お友達』のパーフェクトな連携。それに従って俺がふっと視線を外すだけで、囲みの中から、
「ひっ……」
「尊い……」
という悲鳴に似た感嘆が漏れ、また一段と激しいシャッターの嵐が巻き起こる。三十路前のおっさんの精神力としては、とっくに限界を迎えていてもおかしくない状況だ。だが、何百人もの人間が自分の(被っているガワの)一挙手一投足に熱狂し、ひざまずくようにしてレンズを向けてくるこの空間には、致死量の、ある意味で麻薬のような高揚感があった。
結果、俺は疲れよりもアドレナリンが勝り、上気した頬のまま、極上の『かっふぇ』を演じ続けていた。
しかし、永遠に続くかと思われたその狂騒にも、やがて終わりの時が訪れる。
「かっふぇさーん! そろそろ、一旦区切りましょうか!」
ふと、喧騒の隙間を縫うように、サークル主のお姉さんの声が届いた。時計を見れば、時刻はすでに午後3時前を指している。お姉さんと、サポートに入ってくれていた最初のカメラマンの男性が、群衆を押し留めるようにして俺のそばへと歩み寄ってきた。
「いやぁ、ものすごい熱気でしたね! でもかっふぇさん、初めてでこれだけぶっ通しは流石にキツイでしょう。そろそろ引き上げに、着替えに向かった方がいい時間帯ですよ」
カメラマンの男性が、労うような笑顔で提案してくる。俺は少しだけ首を傾げ、元の四月一日の素朴な疑問を口にした。
「……確か、17時まで、更衣室は使えるのでは、ないのでしょうか?」
俺の記憶が正しければ、イベント自体の終了時刻あたりまでは更衣室は解放されていたはずだ。ウマ娘の体力なら、まだまだ立ち続けることはできる。すると、お姉さんが苦笑いしながら首を横に振った。
「そうなんですけどね。終了間際になると、全員が一斉に更衣室に押し寄せるので、信じられないくらい混雑しちゃうんですよ。文字通り、息もできないくらいのすし詰め状態になります」
「そうなんですよね。それに、これだけの囲みを作ったかっふぇさんがギリギリまで残っていたら、帰り際まで人が群がってしまって、身動きが取れなくなります。今のうちにサッと撤収して、着替えておくのが吉ですよ」
ベテラン参加者たちの、実体験に基づく重みのある進言。日雇い時代から、現場のことは現場のベテランに従うのが一番の生存戦略だと骨の髄まで理解している俺は、素直に頷いた。
「……承知、しました。では、お言葉に甘えて」
俺が言うと、二人はホッとしたように笑い、カメラマンの男性が群衆に向かって大きく手を叩いた。
「皆さーん! 本日のかっふぇさんの撮影は、これにて終了とさせていただきます! スムーズな進行にご協力いただき、ありがとうございましたー!」
その宣言が響いた瞬間、周囲のカメラマンたちからは、
「ええーっ!」
「もっと撮りたい!」
という名残惜しそうな悲鳴が上がった。しかしながら、誰一人として無理に押し入ろうとする者はおらず、やがてそれは、この伝説的な撮影会を完走した俺と、仕切ってくれたスタッフ(有志)たちへの、割れんばかりの温かい拍手へと変わっていった。
「……ありがとう、ございました。皆さんも、風邪を引かないように……お気をつけて」
俺が全方位に向かって深く、優雅にお辞儀をすると、オタクたちは拝むようにして道を空けてくれた。俺はカメラマンの男性に、
「本当に、助かりました。ありがとうございます」
と心からの礼を言い、お姉さんの先導で、熱狂のコスプレエリアを後にしたのだった。
■
冷房が効いているかのように冷え切っていた屋上から、暖房の効いたホール内へと戻るコンコース。人混みを縫って歩きながら、サークル主のお姉さんが俺の隣にピタリと寄り添い、少しだけ声を潜めて提案をしてきた。
「あの、かっふぇさん。実はこの後、サークルの売り上げで、ささやかな打ち上げを予定していまして。……食べ放題のしゃぶしゃぶなんですけど」
「……しゃぶ、しゃぶ……!」
その魅惑的な単語を聞いた瞬間。俺の胃袋、というよりウマ娘のブラックホールが、キュルルンと可愛らしく、しかし獰猛な音を立てた。足元ではお友達の影が「お肉! お肉!」と狂喜乱舞のステップを踏み始めている。
「ふふっ。それでですね? もしよろしければ……あのカメラマンさんも、打ち上げに誘いませんか?」
「……え?」
「実はさっき、列の整理を手伝ってもらっている間に連絡先を交換してまして。あれだけ無償で手伝っていただいたのに、何もしないでお別れというのも、なんだか申し訳ないじゃないですか。かっふぇさんさえ嫌じゃなければ、ぜひ一緒にお肉を奢らせてあげたいなと」
オタクのネットワークと、義理堅さ。見ず知らずの他人のために汗を流してくれたあの親切な男に飯を奢る。これほど筋の通った気持ちのいい話はない。
「……確かに。素晴らしい提案、ですね。……そうしましょう」
俺が静かに、しかし力強く承諾すると、お姉さんは「やった!」とガッツポーズをし、
「じゃあ、かっふぇさんが着替えている間に連絡しておきますね!」
とスマホを取り出した。
■
そして、再びやってきた女性更衣室。朝のすいている時間帯とは違い、お姉さんたちが言っていた通り、すでにかなりの数の女性コスプレイヤーたちがひしめき合い、人口密度は跳ね上がっていた。充満する制汗スプレーと甘い香水の匂い。あちこちで布が擦れる音。疲労と達成感が入り混じる熱気。
(無だ。俺は石だ。心を持たないただの彫像だ……!)
俺は己の中の三十路男の煩悩に厳重な鍵をかけ、視線を完全に床の一点のみに固定したまま、空いているスペースにボストンバッグを置いた。
見事なまでの手際で、周囲の肌色を一切視界に入れないよう細心の注意を払いながら、漆黒の勝負服を脱ぎ、パラシュートパンツとダボダボのオーバーTシャツ、ダウンジャケットといういつものストリートスタイルへと着替えていく。勝負服のシワを丁寧に伸ばし、ボストンバッグの底へと優しく仕舞い込んでいた、その時だった。
「……あの、もしかして、かっふぇさん……ですか?」
不意に、すぐ背後から声をかけられた。
ビクッとして振り返ると、そこには、朝方俺の背後のサークルスペースにいて、俺の姿を見て限界を迎えていた『マンハッタンカフェのコスプレをしていた女性レイヤー』と、その友人とおぼしき数人のウマ娘レイヤーたちが立っていた。彼女たちもすでに着替えを終えているのか、私服姿だが、その目には明らかなリスペクトと熱がこもっている。
「……あ。朝の。……お疲れ様、でした」
俺がウィスパーボイスで労いの言葉をかけると、彼女たちは顔を見合わせ、もじもじと少し恥ずかしそうに口を開いた。
「お疲れ様です! あの……かっふぇさんの囲み、遠くから見てました。本当に、本当に凄かったです。……それで、その。もしよかったらなんですが……」
「……はい?」
「次、どこかのイベントかスタジオで……私たちと、『合わせ(グループでの合同コスプレ)』をしてくれませんか!?」
思いがけない申し出に、俺はパチクリと目を瞬かせた。彼女たちからすれば、俺は突如現れた神クオリティの新人レイヤーなのだろう。そんな相手と一緒に写真を撮りたい、交流したいと思うのは、コスプレイヤーとしての純粋な願いなのだろう。
だが、俺はあくまで『中身はおっさんの偽物』だ。おいそれと頷いていいものか。俺は少しだけ困って、空中に浮かぶ本物のカフェへと、確認するような視線を向けた。
『……ふふっ。かまいませんよ。皆さんに愛されて、私も嬉しいですから』
カフェは、純粋なウマ娘ファンである彼女たちを慈しむように、優しく微笑んでこくりと頷いてくれた。本人が許可を出したのなら、断る理由はない。
「……ええ。機会があれば、是非。よろしくお願い、します」
俺が柔らかく微笑みながら承諾すると、レイヤーさんたちは「やったぁぁっ!!」と更衣室内だというのに小さな悲鳴を上げて抱き合い、飛び跳ねて喜んだ。
「じゃ、じゃあ、かっふぇさん! 私たちと相互フォローになってもらってもいいですか!?」
「……はい。構い、ませんよ」
俺はダボダボのダウンのポケットからスマホを取り出し、自分のアカウント画面を表示させた。彼女たちの画面を見ながら、フォローをしていく。
「ありがとうございます! ……あ、かっふぇさん、すいませんお時間とらせちゃって」
「……いいえ、大丈夫ですよ。ただ、これから、打ち上げですので。そろそろ、出ようかとは」
「えっ?」
俺の言葉を聞いたレイヤーさんの一人が、ふと不思議そうな顔をした。そして、俺の顔と、周囲に並んでいるメイク落とし用の洗面台のスペースを交互に見比べた。
「あの……かっふぇさん。メイク、落とさなくていいんですか?」
「……メイク?」
「はい。この後打ち上げに行くなら、その、今付けてらっしゃるつけまつげとか、ファンデーションとか……」
俺はきょとんとしてしまった。そりゃ当然だ。俺は今日の朝、起きてから顔を洗い、化粧水(カフェに言われた通りの保湿)を塗っただけで、ファンデーションはおろかリップクリームすら塗っていないのだから。
「……ああ。私、今日は……いえ、今日も、ですが。何も、お化粧は、していませんので。……このまま、帰りますよ?」
俺が、何の衒いもなく、さらりとそう告げた瞬間。更衣室のその一角に、時間が止まったかのような恐ろしい静寂が落ちた。レイヤーさんたちが、全員、目を限界まで見開き、俺の顔を……顔面の皮膚の表面を、文字通り至近距離で覗き込んできた。
「ちょっ……えっ? は?」
「……あの?」
あまりの距離の近さと、獲物を狙う鷹のような鋭い眼光に、俺(中身おっさん)は思わずビビッて一歩後ずさった。しかし、彼女たちはズンッと一歩踏み出し、俺の顔面にさらに顔を近づけてくる。
「マ、マジ……? すっぴん?」
「……は、はい。何も、塗って、いませんが」
俺が戸惑いながら肯定すると。
「――――ッ!!!」
レイヤーさんたちは、まるで致死量の毒を盛られたかのように、その場で全員が力なく膝から崩れ落ちた。
「嘘でしょ……。毛穴どこ……?」
「ファンデなしでこの陶器肌……? アイメイクなしでこの目力とまつ毛の長さ……?」
「……可愛すぎる……。可愛すぎるって、ズルいよぉ……っ」
彼女たちは床にへたり込んだまま、信じられないものを見るような、それでいて完全に敗北を認めたようなうわ言を繰り返し始めた。周囲で着替えていた他のコスプレイヤーたちも、その騒ぎと俺の完全なるすっぴんの事実に気づき、次々と、
「無理……」
「次元が違う……」
「可愛すぎでしょぉ………」
と轟沈していく。
更衣室内に、朝方以上の阿鼻叫喚の嵐が吹き荒れ始めていた。
『……四月一日さん。貴方のその天然な受け答え、同性の皆さんにとっては非常に残酷な事実を突きつける凶器になっている自覚を持ちなさい』
空中でカフェが呆れ半分、呆れ半分……つまりは呆れ全開でため息をつき、お友達の影は周囲でバタバタと倒れていくお姉さんたちを見て腹を抱えて笑い転げている。
(な、なんで俺が怒られてるんだよ……!)
俺は心の中で理不尽なツッコミを入れながらも、これ以上被害(?)を拡大させないよう、そっとスマホをポケットにしまった。
「……そ、それでは。私は、これで……! 次の機会を、楽しみにしていますね」
床に突っ伏しているレイヤーさんたちに慌てて一礼し、俺は逃げるようにしてボストンバッグをひったくり、女性更衣室という恐ろしい魔窟から飛び出したのだった。
待ち合わせ場所へと急ぎながら、俺はふとスマホを開き、先ほど相互フォローになったばかりの彼女たちのSNSアカウントの通知を見た。そこには、早くも狂気に満ちた叫びがポストされていた。
『速報:かっふぇさん、あの顔面とオーラで完全なるすっぴん。私服のダボダボダウンすらハイブランドのモデルに見える。同じ人類としてもう息ができない』
「……オタクの言語化能力、すげぇな」
俺はクスリと笑い、スマホの画面を閉じた。
伝説になるであろう囲み撮影と、更衣室でのすっぴん騒動。
フォロワー32万人へと至るための特大のバズの種は、間違いなく、冬のビッグサイトの至る所に撒き散らされたのだった。
あとは、約束された『肉(しゃぶしゃぶ)』という至高のご褒美に向かって、ウマ娘の胃袋を満腹にするだけだ。俺は弾むような足取りで、サークル主のお姉さんが待つエントランスへと駆け出していった。