それから数日。宣言通り、俺は毎日少しずつSNSへ写真を投稿し続けた。
「朝食を食べています」
「少し運動しています」
「洗濯をしています」
ダボダボの男物シャツを着たミステリアスな美少女(本物の耳と尻尾付き)が、築年数の古い安アパートで庶民的な生活を送るという、なんともアンバランスな日常風景。それを、なるべく自然体に見えるような画角で切り取ってアップしていく。
その結果、フォロワーは少しずつ、本当に少しずつだが増えていった。
『クオリティ高いな』
『マンハッタンカフェだよね』
『なんか自然体で落ち着くな』
『耳とかクオリティ地味にすごくないこれ?』
『服が生活感溢れすぎててなんか好き』
そんな好意的なコメントがちらほらと付くようにはなった。一部の熱心なファンやコスプレ好きの目に留まったらしい。しかし、ネットの海を席巻してニュースになるような「大バズり」には程遠く、あくまで細々とした反応に留まっていた。
スマホの画面に表示されたささやかな「いいね」の数を眺めながら、俺はポツリとこぼした。
「……地味だな」
『最初はこんなものでは、ないでしょうか』
空中でくつろぐような姿勢をとっていたカフェが、静かな声で答えた。
『何事も、地道、です。続けていれば、結果は付いてきます』
殊勝な考えに感心してしまう。確かによく考えれば、あちらの世界での「ウマ娘」というのは、ただレースを走るだけでなく、ファンの声援を受けてライブステージにも立つアイドル的な側面も持っている。当然、デビュー直後の下積みや、地道なファン獲得の苦労(とSNS運用の辛さ)は、彼女自身がよく知っているのだろう。
『何事も、いきなり結果が出るわけではありませんから』
「まぁ、そりゃそうなんだけどな。そうだよな、一朝一夕でどうにかなるもんでもないか」
俺が小さくため息をつくと、ぽんぽん、と冷たい何かが肩に触れた。
見れば、お友達の影が「どんまい」とでも言いたげな様子で、慰めるように俺の肩を叩いていた。
影に励まされる三十路前の男(外見は超絶美少女)。客観的に見ればますますもって奇妙な図だが、悪霊の失敗から始まったこの不思議な連帯感が、なんだか少しだけ心地よく感じ始めている自分がいた。
■
しかし、SNSのフォロワー数よりも先に、もっと切実で現実的な問題が目前に迫っていた。食料の備蓄である。
冷蔵庫を開け、すっかり寂しくなった庫内を眺めながら、俺はふうっと息を吐いた。
「うーん、いつもなら近所のスーパーにサクッと行くんだが……耳がなぁ」
振り返り、自分の頭の上の耳と、腰から垂れる立派な尻尾に目をやって再び深く溜息を吐く。
『……改めて、申し訳ありません』
俺の反応を見て、カフェがシュンと目を伏せて謝罪の言葉を口にした。お友達の影も、なんだか小さく縮こまっている。
「あ、いや。まあ仕方ねぇって。ついつい癖で耳に愚痴言っちゃうけど、本当に気にしないでくれ」
慌てて苦笑しながらフォローを入れ、俺はパンッと両頬を叩いて気合を入れた。
「よし。まぁ、さくっと買いに行くか」
意を決してクローゼット(という名の衣装ケース)を漁る。
窓の外は、すっかり高く澄んだ秋空だ。この季節なら、帽子を目深に被っていても不審には思われないだろう。
俺は厚手のニット帽を取り出すと、ピコピコと動く黒い耳を頭にピタリと沿わせるようにして、上からグッと被って隠した。少し窮屈だが我慢できないほどではない。
続いて、尻尾の処理だ。これは俺の私服の中でも一番ダボダボな、男物のパラシュートパンツのなかに押し込み、シルエットを誤魔化す。
上着はオーバーサイズのTシャツをすっぽりと被り、足元はあえて気取らない草履地のサンダルをつっかける。
洗面所の鏡の前に立つと、そこには「ちょっとワイルドでボーイッシュなストリート系の女の子」が出来上がっていた。元の顔立ちがミステリアスな美少女なだけに、妙なギャップがあって悪くない。
「……案外なんとかなるな」
『そうですね。むしろ、これであれば外を出歩けるのでは?』
感心したように鏡を覗き込んでくるカフェ。影も「おおー」という身振りで拍手をしている。
「確かに。走ったり転んだりして帽子が飛ばなきゃ、意外とバレないかもな」
ひとまずこれで、餓死の危機は免れそうだ。俺はエコバッグをひっつかみ、苦笑しつつ安アパートのドアを開けて、近所のスーパーへと足を踏み出した。
■
アパートから少し歩いた先にある中規模のスーパー。自動ドアを抜けると、早速いくつかの視線がこちらに向くのを感じた。
ダボダボの男物で身を固め、帽子を目深に被っているとはいえ、隠しきれない透けるような白い肌や、隙間から覗く黄金の瞳がどうしても目を引くのだろう。中身は三十路前の日雇い労働者だというのに、すれ違う男たちの視線を集めてしまうのはなんとも気味が悪いが、ひとまずは徹底して無視を決め込む。
カートを引きながら、手際よく生鮮食品のコーナーを回っていく。朝食用の鮭の切り身、ほうれん草などの葉物野菜、それに特売の肉も少々。
「そういや、米も底をつきかけてたな……」
順調にカゴを満たしながら呟いていると、ふと横にいたはずのカフェの姿が見えなくなっていることに気づいた。
見回すと、彼女は少し離れたコーヒー豆のコーナーの前にふわりと浮遊し、陳列された商品を熱心に見つめている。どうやらあの空間だけは、彼女にとって引力が違うらしい。
さらに、足元ではお友達の影が野菜コーナーのキャベツを指差して、猛烈にアピールを始めていた。
「キャベツ? いや、キャベツなんて買う予定……わかった。わかったからそんなに揺れるな」
影の無言の圧力に負け、仕方なくずっしりと重いキャベツを一つカゴに放り込む。お友達は満足そうにピタッと揺れを止めた。やがて名残惜しそうにコーヒーコーナーから戻ってきたカフェと合流し、俺は最後にお米のコーナーへと向かった。
「ええと、とりあえずいつもの5キロでいいか」
棚に積まれた5キロ入りの米袋に手を伸ばそうとした、その時だった。
『……四月一日さん。恐れ入りますが、30キロを買った方がよろしいかと』
「……は?」
カフェの突然の提案に、俺は思わず動きを止めて彼女の顔をまじまじと見つめ返した。
「いやいや。30キロってあんた、俺一人だぜ? それに、いくら俺が元日雇い労働者とはいえ、今はこんな華奢な女の子の腕だぞ? 持って帰るだけで一苦労どころじゃないって」
俺がそう反論すると、カフェは少しだけ気まずそうに目を泳がせ、横にいるお友達も「うーん」と悩むように自身のお腹のあたりを撫でる仕草を見せた。
■
『まず、四月一日さん。30キロは持てますよ』
「おいおい、冗談だろ?」
いくらなんでも、俺の今の腕の太さはどう見ても成人男性の半分以下だ。こんな華奢な女の子の腕で米30キロなんて、腰をいわす未来しか見えない。
しかし、カフェは静かに微笑んだまま譲らない。
『騙されたと思って、まずは持ってみてください』
「……いや、ギックリ腰になっても知らないからな」
俺は渋々、棚の下段にどっしりと鎮座する30キロの米袋に手をかけた。持ち手が千切れないように注意しながら、グッと力を込めて持ち上げる――。
「……あれ?」
拍子抜けするほど、軽かった。
まるで綿の詰まった巨大なクッションでも持ち上げているかのようだ。試しに片手を離してみるが、なんと片手だけで軽々と宙に浮かせたままでいられる。
「おいマジか」
『ウマ娘は、パワーがありますから』
目を丸くする俺に対し、カフェはふふんと少し自慢げに胸を張った。足元では、お友達の影が謎の黒いモヤモヤとした腕で力こぶを作り、ドヤ顔(顔はないが)をキメている。
「ははっ、これなら確かに持って帰れるな。ただの怪力美少女じゃねーか」
俺が思わず声を出して笑うと、カフェはふと視線を泳がせ、どこか気まずそうにモジモジとし始めた。
『……それと大切なことを、ひとつ、お伝えし忘れていました。本来、その体は燃費がすこぶる悪いのです』
「え?」
『今は、その……四月一日さんの精神が抑えていてくれるのかもしれませんが……その、もし、食欲が爆発した時のために、お米は、あったほうが』
ウマ娘の凄まじい運動量を支える、規格外の胃袋と消費カロリー。
すまなさそうに言葉を濁すカフェの横で、お友達の影が「ウンウンウンウン!」と残像が見えるほどの高速で首を縦に振っていた。
■
レジ台に三十キロの米袋をドンッと乗せた瞬間、レジ打ちのパートのおばちゃんはピタリと動きを止め、目を限界まで見開いて硬直した。
「ち、力持ちだね、お嬢ちゃん……!?」
「ええ、まぁ。実家が農家なもので」
適当な嘘で誤魔化しつつ会計を済ませる。エコバッグに買ったばかりの野菜や肉を詰め込み、三十キロの米袋を小脇に抱え上げてスーパーを出た。
しかし、本当の試練はそこからだった。
目深に被ったニット帽やダボダボの服で「ウマ娘であること」自体は隠せても、華奢なストリート系の少女が、成人男性でも顔をしかめるような質量の米袋を片手で軽々と持ち運んでいるという異常な光景は、どうやったって隠蔽できない。
すれ違うサラリーマンが二度見し、買い物帰りの主婦がギョッとして道を譲り、小学生が口をポカンと開けてこちらを指差す。
突き刺さる無数の視線と好奇の目を物理的に肌で感じながら、俺はひたすら下を向き、
「無心、無心……俺はただの背景、ただの石ころ……」
と念仏のように心の中で唱え続けながらアパートへの帰路を急いだ。
精神的には大いに削られたものの、肉体的には息一つ切れていないし、腕の筋肉が張る感覚すら皆無だ。改めて、ウマ娘という種族の恐るべきフィジカルに戦慄させられる。
「……はぁ、疲れた」
アパートの玄関のドアを閉め、土間にドサリと米袋を下ろす。床板が重量に負けてミシリと悲鳴を上げた。ニット帽を脱ぎ捨て、窮屈だった黒い耳をパタパタと解放してやりながら、ふと視線をスマホへ落としたとき。
俺の脳裏に、ある天啓のような閃きが走った。
「……なぁ、カフェ」
『はい?』
「さっきの通行人の異常なリアクションを見て思ったんだが。この見た目でこういう規格外の『ギャップ』を見せたら、SNSで結構な注目を集められるのでは?」
『と言いますと?』
首を傾げるカフェをよそに、俺は手早く部屋の隅にあった段ボール箱を台座代わりにしてスマホをセットし、動画撮影モードを起動した。
画角を細かく調整する。ミステリアスな美少女の顔の下半分、オーバーサイズの服から覗く真っ白で細い腕、そして足元に鎮座する『国産米 30kg』とデカデカと印字された米袋が、しっかりと一枚の画面に収まるように。
「ちょっと、静かにしててくれよ」
俺は録画ボタンをタップすると、カメラの前に立ち、米袋の持ち手を片手でひょいっと掴んだ。
ウマ娘の筋力をもってすれば、息を吸うのと同じくらい造作もないことだ。肩の高さまで三十キロの塊を一切のブレなく軽々と持ち上げ、そのままカメラに向かって、感情の読めない淡々とした平坦な声で一言。
「……軽いですね」
数秒静止したのち、録画を停止。
キャプションには『お米買ってきました』とだけ簡潔に打ち込み、無加工のまま先ほどの『かっふぇの日常』アカウントへと投稿ボタンを押した。
あえて大袈裟なリアクションを取らず、日常のワンシーンとして異常な筋力を見せつける。かつてAIが提示した「インフルエンサーとしての生存戦略」と、俺の元日雇い労働者としての図太さが、ここに来て奇妙な化学反応を起こし始めていた。
その一連の流れるような作業を空中から眺めていたカフェは、黄金の瞳を面白そうに細め、ふわりと上品な笑みを浮かべた。
『ふふ。面白そうなことを、されますね』
「使えるものはなんだって使うさ。背に腹は代えられないしな」
俺の言葉に同意するように、足元ではお友達の影が「その意気だ!」とばかりに謎のガッツポーズを決め、ゆらゆらと楽しげに揺れていた。
明日からは一日一話、夜10時ごろ更新予定です。