冬のコミックマーケットという大戦場を無事に生き抜いた俺たちは、ゆりかもめと山手線を乗り継ぎ、オタクの聖地・秋葉原へと降り立った。
向かった先は、駅前の巨大なヨドバシカメラのレストラン街にある『しゃぶしゃぶ 但馬屋』。案内された落ち着いた雰囲気の半個室のテーブルには、中央に二つに仕切られた鍋が鎮座し、それぞれ『昆布だし』と『白湯(パイタン)スープ』が芳醇な湯気を立てていた。
「いやぁ、本当に部外者なのに、こんな立派な打ち上げに参加させてもらって申し訳ないですね」
「いえいえ! あの大混乱の囲み撮影、カメラマンさんの仕切りがなかったら完全にパンクしてましたから! 私たちにとっては命の恩人です!」
「……ええ。本当に、助かりました。ありがとうございます」
恐縮して頭を下げるカメラマンの男性に、サークル主のお姉さんと俺(かっふぇ)は、心からの感謝を伝えて謙遜し合った。テーブルを囲んでいるのは、俺とお姉さん、カメラマンさん、そして――もう一人、見知らぬ若い女性だ。
実はこの女性、カメラマンさんと一緒にコミケに参加していた知人で、界隈では名の知れた『大手コスプレイヤー』らしい。ただ、彼女が今、借りてきた猫のようにおしぼりを両手で握りしめ、ガチガチに緊張して硬直しているのには、海より深い理由があった。
■
――時間を一時間ほど巻き戻す。ビッグサイトのエントランスで、合流のためにやってきた彼女は、俺、つまりは私服のダボダボダウンに着替えたかっふぇ、の顔を見た瞬間、持っていた紙袋を取り落としたのだ。
『か、かっふぇさんだあぁぁああ!?』
『……あの?』
『あ、やばい、無理、あ、無理! 本当に顔面カフェだ! 映像のまんまだ! やば、あ、やばっ!』
完全に語彙力を失い、その場でガクガクと震え始めた彼女に、俺はどう接していいかわからず本気で戸惑ってしまった。
『あ、うん。私の事知らないですよね!? あの、一応コスプレイヤーしてます! かっふぇさんの大ファンで……ッ! まさか、一緒に打ち上げできるなんてぇええええ!』
彼女はそのままエントランスの柱にすがりつき、ボロボロと嬉し泣きで崩れ落ちてしまったのである。初対面の美少女を号泣させてしまった俺は周囲の視線に冷や汗をかきまくり、お姉さんとカメラマンさんが必死に彼女を宥めすかして、なんとか秋葉原まで連行してきた……というのが、事の顛末だった。
「……あ、あのっ。かっふぇさん、お肉、入れますねっ!」
大手レイヤーの彼女は、涙で少し赤くなった目元のまま、プルプルと震える手でトングを握り、黒毛和牛の美しい霜降り肉を白湯スープの中へと滑り込ませた。
「……ふふっ。ありがとう、ございます」
「ひゃいっ!」
俺が静かに微笑むと、彼女は変な声を出して顔を真っ赤にした。推しと同じテーブルで同じ鍋を囲むというのは、オタクにとって心臓に悪い過酷な試練なのだろう。
「(お肉! お肉!!)」
『四月一日さん、私のお肉も多めに茹でてくださいね』
俺の足元では、お友達の影がトングの動きに合わせてサンバを踊り狂い、空中のカフェも上品に涎を拭うような仕草を見せている。
「さぁさぁ、皆さんソフトドリンクは行き渡りましたね? それでは、今日の完売と、かっふぇさんのコスプレ初陣を祝して……乾杯!」
「「「乾杯!!」」」
ウーロン茶の入ったグラスを軽く打ち合わせ、俺たちは目の前で極上の色に染まっていく黒毛和牛へと一斉に箸を伸ばした。フォロワー32万人へと至るための情報戦を終え、ここからはウマ娘のブラックホール胃袋が容赦なく火を噴く『第二の戦い(食べ放題)』の開幕だった。
■
昆布だしと白湯スープが、グツグツと心地よい音を立てて煮え滾っている。秋葉原の喧騒を見下ろす半個室のテーブルには、美しい霜降りの黒毛和牛が山のように積まれていた。
「……なるほど。五十万人、ですか」
箸先で器用に薄切りの肉をしゃぶしゃぶと泳がせながら、俺は目を丸くして向かいの席に座る女性を見つめた。自己紹介を交えて話を聞いてみれば、カメラマンさんの連れであるこの若い女性レイヤーは、界隈では知らぬ者がいないほどの超大手コスプレイヤーらしい。SNSのフォロワー数は、現在のかっふぇ(二十四万人)の倍以上である五十万人を優に超えているという。日雇い時代には絶対に交わることのなかった、雲の上のインフルエンサーだ。
「……私より、よっぽど素晴らしい方ですね。ご存じではなくて、本当に申し訳ありません」
俺が素直に頭を下げると、彼女は持っていたウーロン茶のグラスをガタッと揺らし、顔の前で猛烈な勢いで両手を振った。
「ととと、とんでもないですよ! 私は数だけ多いだけで、お化粧とガチガチの加工必須なんですから! でも、その。……かっふぇさんはもう、見た瞬間から虜になっちゃって……!」
彼女は熱に浮かされたような目で俺を見つめ、早口でまくし立てた。
「競馬場での大食いの動画も全部記録してありますし、SNSもずっと見てます! 本当に、本っ当に大ファンで! だから今日、エントランスで生のかっふぇさんを見た時、脳の処理が追いつかなくて……っ」
そこまで一気に言い切り、彼女は恥ずかしさで顔を真っ赤にして両手で顔を覆ってしまった。自分より遥かに格上のインフルエンサーからここまで熱烈な愛を向けられるというのは、なんとも不思議な気分だ。
『ふふっ。とても情熱的な方ですね』
空中に浮かぶ本物のマンハッタンカフェも、自分(のガワ)に向けられた純粋な好意が満更でもないらしく、機嫌良く目を細めている。さらに足元へと視線を落とせば、お友達の影が、大手レイヤーさんの隣にピタリとくっついて「わーい!」と楽しそうに揺れていた。
幽霊や悪霊の類(?)は、人間の負の感情や本質に敏感だ。お友達が初対面の彼女にこれほど懐いているということは、根は本当に純粋で、裏表のない良い人なのだろう。俺は内心で密かに安堵し、胡麻ダレにくぐらせた肉を口へと運んだ。
「……美味しい、です」
「あああっ! かっふぇさんがお肉食べてる! 咀嚼してる! 尊いっ!」
ただ肉を食っているだけで限界を迎えているレイヤーさんをサークル主のお姉さんが苦笑しながら宥めていると、ふと、横に座っていたカメラマンさんが、そういえば、とカバンから大きめのタブレット端末を取り出した。
「さっき屋上で撮らせていただいた写真、軽くデータを取り込んでみたんですよ。かっふぇさん、少し見てみませんか?」
「……ええ。ぜひ、拝見させてください」
カメラマンさんが画面をスワイプし、タブレットをテーブルの中央へと置いた。そこに映し出されていたのは、あの大混乱の『囲み撮影』が始まる直前――俺が看板の横に立ち、彼が最初にシャッターを切った、あの一枚だった。
「…………っ」
画面を見た瞬間、テーブルの空気がピタリと止まった。
冬の澄み切った青空を背景に、東京ビッグサイトの屋上に佇む漆黒の勝負服。
海風にふわりと煽られた黒髪と、本物のウマ娘だからこそ成し得る、生命力に満ちた艶やかな尻尾の躍動感。
そして何より、レンズ越しにこちらを見つめてくる、どこか物憂げで、すべてを見透かすような黄金の瞳。
そこに写っていたのは、コスプレという枠組みを完全に凌駕した、『現実に顕現したマンハッタンカフェそのもの』だった。日雇いのおっさんの魂が入っているなどとは微塵も感じさせない、圧倒的な美と神秘の結晶がそこにあった。
「うぁああ……っ」
隣で画面を覗き込んだ大手レイヤーさんが、声にならない悲鳴を上げてテーブルに突っ伏した。気づけばサークル主のお姉さんも、今日何度目かわからない過呼吸気味の様子で両手で口元を強く押さえている。
「……素晴らしい、ですね。流石の腕前です、本当に綺麗に撮っていただいて」
俺が純粋な感嘆と共にカメラマンさんを褒め称えると、彼は力なく首を横に振り、深い、深いため息を吐き出した。
「……僕の腕じゃないですよ、これ。かっふぇさんの『素材』だよりの写真です。露出も構図もパパッと合わせただけの、文字通りただの一枚撮りですから」
プロ顔負けの機材と技術を持つ彼をして、そう言わしめるほどの被写体の力。それがまさにこの体、ウマ娘だ。そして、テーブルに突っ伏していたレイヤーさんが、怨嗟のような、それでいて幸福に満ちたうわ言を漏らす。
「私なんか、このレベルの奇跡の一枚を撮るために、千枚くらいシャッター切ってもらって、さらにそこから何時間も加工して……それでも届かないのに……。ああ、本当にカワイイ……。こうして目の前でしゃぶしゃぶ食べてるのもカワイイ……無理ィ……っ」
「ははは、まぁ、僕も今日お会いできたのは本当に幸運だなぁと思いますよ。ほら、無理も判るんですが食べましょう。お肉、硬くなっちゃいますよ」
半泣きで悶絶する彼女に、俺とサークル主のお姉さんは顔を見合わせて苦笑しつつ、和やかな雑談と食事を続けていった。そして、俺の胃袋に次々と消えていく圧倒的な肉の山を見て、カメラマンさんもレイヤーさんも、
「大食いのウワサは本当だったんだ……」
と呆然としながらも、ひたすらに肉を追加注文してくれた。
―――しかし、秋葉原のレストランで俺たちが平和な打ち上げを楽しんでいるまさにその頃。
現実世界のみならず、インターネットの広大な海でも、二つの巨大なうねりが衝突し、かつてない規模の『事件』が巻き起こり始めていた。
■
事の発端は、今日発売された全国区の競馬雑誌『週刊ギャロップ』の最新号だった。
今年一年の総括に染まる紙面。その中の特別企画『競馬場グルメ特集』のページに、あの日、東京競馬場でモツ煮込みやフライドチキンを無心で平らげていた俺(かっふぇ)のストリートスナップが、見開きでデカデカと掲載されていたのだ。
『……あれ、今日発売のギャロップの特集に載ってる子、かっふぇさんじゃね?』
『本当だ!「謎のウマ娘美少女、府中グルメを喰い尽くす!」って書いてあるww』
『ダボダボの私服なのに顔面偏差値エグすぎだろ……』
元々かっふぇの存在を知っていた競馬ファンたちがSNSでその誌面を拡散し始めたのと同時刻。今度は、コミックマーケットの帰りの電車内やホテルで休んでいるオタクたちから、別の情報が投下された。
『かっふぇさん、今日コミケの屋上に降臨してものすごい事になってたぞ!』
『サークル参加からの囲み撮影! 人多すぎてマジで地獄だったけど、生で見たら発光してるかと思うくらい美人だった』
『競馬界隈で有名なあの大食いの子か! コミケ行ってたのかよ!』
『っていうかこの子、本当に何者? 可愛すぎるだろ』
競馬ファン、同人オタク、そして、なんか可愛い子がいると嗅ぎつけた一般層。本来ならば交わることのない全く別々の界隈が、『かっふぇ』という一つの特異点を通じてSNS上で急速に融合し、凄まじい勢いでトレンドワードを駆け上がっていった。
そして、その爆発的な熱狂に、極め付けの燃料が投下される。
コミックマーケットのコスプレ撮影において、撮影した写真をSNS等のインターネット上にアップロードする際は、必ず被写体本人の許可を得る、あるいは後日データを送って本人の確認を取るという『暗黙のルール(マナー)』が存在する。
しかし、数百人が一斉にカメラを向けたあの異常な『囲み撮影』の熱狂の中で、一部のルールを知らない素人や、バズを狙う承認欲求に負けた参加者たちが、かっふぇの許可を取ることなく、一眼レフやスマホで撮った『完全無加工の撮って出しの写真』を、次々とSNSに無断アップロードしてしまったのだ。
通常であれば「マナー違反だ」「無断転載だ」と炎上しかねない事態。しかし、そのアップロードされた写真の被写体があまりにも現実離れした完成度を誇っていたため、事態は全く予想外の方向へと延焼していった。
『おいこれ、今日のコミケの写真らしいけど……加工? それとも素?』
『いやいや、いくらなんでも素でこの肌とスタイルはあり得ないでしょ。AI生成じゃないの?』
『ウマ耳の生え際とか尻尾の毛並みもリアルすぎる。絶対にプロの業者が一枚一枚レタッチしてるって』
あまりの美しさに、ネット上では「加工か否か」という激しい論争が巻き起こり始めていた。だが、その疑念の火種は、今日実際にビッグサイトの屋上でその姿をファインダー越しに、あるいは肉眼で焼き付けた何百人もの『目撃者』たちによって、瞬く間に鎮火されていく。
『囲みの最前列にいた俺が断言する。これ、完全な無加工だぞ』
『私、更衣室で至近距離でお顔見ましたけど、ファンデーションすら塗ってないガチのすっぴんでした』
『加工アプリとかAIとか言ってる奴ら、現実舐めんな。本物は画面の100倍ヤバかったわ』
『ストロボの光を浴びて、ほんのり頬が赤くなってる無加工データ、マジで国宝級だから見ろ』
次々と投下される現場からの証言と、異なる角度から撮られた無数の「奇跡の一枚」。それが無加工の真実であると証明された瞬間、SNSのタイムラインは完全に崩壊した。
『素でこれなんだ……嘘だろ……』
『本当に、本当に実在するんだ……マンハッタンカフェが……!』
『大食いで、競馬好きで、この顔面で、すっぴんで、コスプレのクオリティも神とか、属性盛りすぎだろ!!』
『アカウントどこ!? フォローする!!』
秋葉原のレストランで、俺がポン酢と胡麻ダレの無限ループに舌鼓を打ち、レイヤーさんやお姉さんたちと談笑している間にも。スマートフォンの奥底に眠る『ウマスタ』のシステムが検知するファン数は、毎秒単位で凄まじい勢いで跳ね上がり続けていた。
■
ピコン。ピコン、ピコンッ。
最高級の黒毛和牛が、昆布だしと白湯スープの二色の鍋の中で美味そうに色を変えていく。秋葉原の喧騒を見下ろすレストランの半個室で、和やかな肉の奪い合い(俺の一人勝ちだが)が繰り広げられている最中、ダウンジャケットのポケットに突っ込んでいた俺のスマートフォンが、けたたましいバイブレーションと通知音を鳴らし始めた。
「……ん?」
箸を休め、何事かとスマホを取り出して画面を覗き込む。
ロック画面には、連動しているSNSアプリからの通知が、滝のような勢いで雪崩れ込んできていた。普段の配信後も通知は多いが、今の勢いは明らかに異常だ。画面をタップしてタイムラインを開くと、そこには先ほどまで俺たちがいたビッグサイトの屋上――無数のストロボに照らされ、冬の空の下で佇む『かっふぇ(俺)』の姿が、あらゆる角度からの写真と共にタイムラインを埋め尽くしていた。
『速報:かっふぇ無加工すっぴん確定』
『やばい、囲みで撮ったこの一枚見て。神々しすぎて震える』
『コミケの伝説になったな』
圧倒的な熱量で拡散されていく写真の数々。しかし、その絶賛の嵐の裏側で静かに、しかし確実に炎上しつつある界隈もあった。
『これ、本人のアップロード許可取ってない無断転載だろ! 消せよ!』
『囲みの時は暗黙の了解でしょ! これだけ可愛かったらみんなに見せたいじゃん!』
『いやルールはルールだ。かっふぇさんが可哀想!』
どうやら、俺の囲み撮影の写真を勝手にアップロードした一部の参加者に対し、マナーを重んじる層が噛みつき、「無許可か、許可済みか」という不毛な論争が過熱してしまっているらしい。
『……皆さん、私(四月一日さん)のことで随分と熱くなっているようですね』
「(オロオロ……)」
空中に浮かぶカフェが、俺の肩越しに画面を覗き込んでクスリと笑う。足元のお友達の影は、SNSの険悪な空気を察してか、少しだけ心配そうに揺れていた。
「……みたいだな。でもまぁ、これに関しては俺たちが悪いわけじゃないし」
俺はウーロン茶を一口飲み、少しだけ思考を巡らせた。俺(中身)としては、顔を晒して困るような私生活もないし、元よりこの身体は異世界のウマ娘のものだ。それに、カフェ自身もトレセン学園やレース場で、何万という観客やメディアのカメラに晒されることにはとうの昔に慣れきっている。加えてカフェから見てこっちは異世界だ。
俺たち二人にとって、写真が世に出回ること自体は、全く痛くも痒くもないのだ。
むしろ。
「(この熱狂と拡散力、利用しない手はないだろ)」
俺は心の中でカフェに語りかけた。俺たちの現在の最大の目標は、SNSのフォロワー数を32万人まで引き上げ、『ウマスタ』のシステムを通じて元の世界への通信回線をこじ開けることだ。この無断アップロードの波は、倫理的にはグレーかもしれないが、かっふぇの知名度を爆発的に広げる起爆剤としては、これ以上ないほどの特大の燃料だった。
『ええ。私も、特に問題はありません。……せっかくの熱気ですし、この論争を終わらせて、皆さんに純粋に楽しんでいただきましょう』
「(コクコク!)」
カフェの同意を得て、お友達も力強く頷く。俺はスマートフォンの画面をタップし、SNSの投稿画面を開いた。鍋を囲む三人が談笑している隙を突き、極めて事務的に、しかしインフルエンサーとしての余裕を持たせた文章を打ち込んでいく。
『今日のコミケの写真は、SNSへのアップロードは可能です。楽しんでいただけて嬉しいです。ただ、私のID(アカウント)への紐付け(タグ付け)だけはお願いしますね』
文章を確認し、送信ボタンをタップ。ごちゃごちゃと燃え上がりかけていたタイムラインのド真ん中に、被写体本人からの『全面許可(ただし宣伝には協力しろよというちゃっかりした条件付き)』の公式声明が投下された瞬間だった。
その効果は、まさに劇的だった。
「――っぶふぉっ!?」
向かいの席で白湯スープを飲んでいた大手レイヤーの女性が、突如としてむせ返り、慌てて自分のスマートフォンを凝視した。
「えっ、ちょ、かっふぇさん!? 今のポスト、かっふぇさんがご自身で!? ええええっ!?」
「……はい。少し、ネットが騒がしかった、ので」
俺が涼しい顔で頷くと、レイヤーさんは信じられないものを見るような目で俺を見つめ、やがて深いため息をついてテーブルに突っ伏した。
「うん……。私なら絶対に、絶対に許可しないけど……。でも、かっふぇさんなら……問題ないもんなぁ……だって、どの角度から撮られても完璧だし、素のすっぴんだもん……」
彼女は自分の数十万人のフォロワーを抱えるアカウントの重圧と、それに伴う加工と修正の苦労を思い出したのか、完全に白旗を上げたような声を出した。そして、そのままテーブルの上でモゾモゾと身をよじらせ、熱っぽい瞳で俺の顔をじっと見つめてきた。
「嗚呼……カワイイ……。器がデカくてミステリアスで、でもしゃぶしゃぶ食べる姿はハムスターみたいで……ダメだ、お持ち帰りしたい……。私のアパートに監禁して一生養いたい……っ」
「おいおい、犯罪宣言が出てるぞ。気持ちは痛いほど判るけど、流石に諦めろって」
限界を迎えて危険な妄想を垂れ流し始めたレイヤーさんに、隣に座っていたカメラマンさんが苦笑しながら的確なツッコミを入れる。サークル主のお姉さんも、
「かっふぇさんの胃袋を養うには、同人誌で億稼がないと無理ですよ」
と笑って便乗した。
「……ふふっ」
三人の和やかな、そして少し狂気じみたやり取りを聞きながら、俺は再び手元のスマートフォンへと視線を落とした。
先ほどの『紐付け(タグ付け)許可』のポストから、わずか数分。俺のSNSアカウントの通知欄は、もはや処理落ち寸前の凄まじい勢いで回転し続けていた。
「(……おい、マジかよ)」
俺は、プロフィール画面に表示されている『フォロワー数』のカウンターを見て、息を呑んだ。今日の朝、家を出た時点では24万人を少し超えたあたりだったはずだ。しかし今、目の前にある数字は――。
『293,401』
「(今日一日だけで、5万人も増えてる……。しかも、まだ現在進行形で……!)」
コミックマーケットという欲望の坩堝への電撃参戦。そこから500ウォン詐欺を制圧した武勇伝。伝説となった5分間の囲み撮影と、更衣室でのすっぴん無双。そして、競馬雑誌『週刊ギャロップ』での特集掲載。
それらすべての要因が奇跡的な噛み合いを見せ、かっふぇという存在は、文字通り『一夜にして』ネットの頂点付近へと駆け上がろうとしていた。この勢いなら、夢物語だと思っていた32万人という大台は、明日にでも突破できるかもしれない。
『……素晴らしい数字ですね。四月一日さん』
空中に浮かぶカフェの黄金の瞳が、静かに、しかし確かな熱を帯びて光った。元の世界への扉を開くための、圧倒的なファンの数。それが今、俺たちの手の中へと怒涛の勢いで流れ込んできているのだ。
「……こいつぁ、行けるかもしれねぇな。カフェさん」
『そうですね。私たちの目的まで……あと少しです』
俺はダウンのポケットの中でギュッと拳を握りしめ、カフェと、足元で跳ね回るお友達の影と共に、誰にも気づかれないように内心で力強くガッツポーズを決めた。しゃぶしゃぶの湯気の向こうで、新たな世界(ウマスタ)への扉が、もう半開きになっているのが見えるような気がした。
■
――そして、この日。
秋葉原のレストランで彼らが祝杯を上げ、ネットの海が『かっふぇ』の話題で一色に染まっていた、その同じ頃。
とある都内の高層ビルの一室。
煌々と明かりが灯るオフィスの中で、一つのモニターを囲む数人のスーツ姿の男女がいた。彼らの視線の先にあるのは、凄まじい勢いでインプレッションを稼ぎ出し、トレンドの一位に君臨し続けている『冬コミの囲み撮影動画』と、机の上に広げられた『週刊ギャロップ』の特集ページ。
「……驚きましたね。完全にダークホースです。既存のどの事務所にも所属していない、完全なフリーランスのアカウントが、たった一日でここまで跳ねるとは」
「容姿のクオリティもさることながら、この『本物感』は異常です。それに、競馬場での大食い配信で既存の競馬ファンからの好感度もすでに獲得している……」
リーダー格とおぼしき壮年の男性が、腕を組んで深く頷いた。
彼らは、ウマ娘や競馬に関連する一大コンテンツを束ねる、某巨大企業のプロモーション担当チームだった。
「現在、我々が進めている新規プロジェクトの目玉……『リアルイベント』のゲスト枠が、一つ空いていますよね」
「ええ。本来なら大御所のタレントを呼ぶ予定でしたが、スケジュールの都合で白紙になっていました」
壮年の男性は、モニターに映る『かっふぇ』のアンニュイな微笑みをじっと見つめ、やがて不敵な笑みを浮かべた。
「……この子なら、我々のコンテンツのファン層のド真ん中を撃ち抜けるかもしれない。いや、それ以上の起爆剤になる」
男性は傍らに立つ部下に視線を向け、静かに、しかし決定的な指示を下した。
「……この『かっふぇ』というインフルエンサーに、公式イベントへの出演の打診でもしてみるか。至急、コンタクトを取ってくれ」
三十路のおっさんと、幽霊のウマ娘が始めた奇妙な同居生活。それはついに、個人のSNSの枠を完全に飛び出し、巨大な企業(公式)の目をも引き寄せる、未知の領域へと足を踏み入れようとしていた。
次から普通の長さ(4000字ぐらい)に戻ります。
コミケの熱。多少は、伝わったでしょうか。コミケは良いもんだ。